四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間カラー版 1971年4月1日(その9)-


今回も前回の続きで、1971年4月の春休み、まだ高校の入学式前という状況の中、二度目の九州撮影旅行でのブローニーでのカラー撮影から、筑豊本線でのカットをお届けします。オートコードでの撮影は、基本的にネガカラーでフィルムはコダカラーを使用しました。前回も書いたように、この時は二眼レフのミノルタ・オートコードの中古を購入したばかり。試写もしないままのぶっつけ本番での撮影です。ネガカラー時代は、35oのモノクロがメインで、カラーはサブの押さえという位置付けでしたので、三脚を立てる場所や時間がない時には、カラーは撮影していません。そんなこともあってあまりカット数を撮っていないですので、一部筑前垣生-筑前内野間で撮影したカットも入れ込んでしまいました。



今回のはじめは、若松からの下り線にやってきた若松機関区のC5557号機の牽引する下り貨物列車。若松埠頭からのセラの返空列車です。空車ではあるもののかなりの輌数。この頃はまだ筑豊の炭鉱も現役で掘り出していた証です。ライトパシフィックの貨物というのも、九州ならではの趣があります。ここは行き先別から方向別に線路が入れ替わる立体交差のサミットで、セラが活躍する若松-飯塚間では一番勾配がキツいところです。この列車を35oのカメラ撮ったモノクロのカットは<四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その4)->の中で公開しています。実はこのカットとモノクロのファーストカットはほぼ続けての撮影で、絵柄にはレンズの画角の違いが大きく影響しています。あと足元の三脚と立ち位置での撮影で、視線の高さの違いも面白いですね。


続いて若松方面への上り線に、若松機関区のC5553号機が牽引する若松行きの上り旅客列車がやってきました。この列車を35oのカメラ撮ったモノクロのカットも<四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その4)->の中で続けて公開しています。そちらは引きで撮っていますが、カラーのこちらはグッと寄せて撮っています。シャッターのタイミングは外していませんので、多分これはモノクロを撮った後、二眼レフのファインダーを覗いて手押しでシャッターを切ったものと思われます。朝日がサイドに当たっている分、正面はツブれ気味ですがカラーが強く発色して、半世紀以上たった今でもしっかり色が残っています。ネガカラーの方が褪色が少ないのですが、それでも露出がビシッと決まっている方が、色の残りはしっかりしています。


今度は、中間駅に続く大カーブのところから現れてきた直方機関区のD6026号機の牽引する黒崎方面への上り貨物列車。セラが続く石炭を満載した列車です。朝日とカーブとの関係で完全に逆光になっていますが、シルエットで化粧煙突と小工デフが引き立っています。わずかにナンバープレートが光を反射して読めるのもいい感じ。これは九州ならではで、北海道のそれも鷲別機関区のカマとかなると、とても読めません。この列車を35oのカメラ撮ったモノクロのカットは<四条の煙が行き交う路 -筑豊本線 折尾-中間間 1971年4月1日(その5)->の中で公開しています。これはメインの35oは望遠をつかって撮影し、そのあとカラーで近づいたところを撮影したようです。


さてここからは、折尾-中間間で撮影したカットが出尽くしてしまったので、その日次に筑前垣生-鞍手間に移動して撮影したカットをお届けします。まずは若松機関区のC5557号機が牽引する上り旅客列車。垣生公園の脇のところでの撮影です。先程の返空セラ列車を牽引した戻りの運用ということになりますので、直方か飯塚発の列車と思われます。客車が4輛なので、若松行きでしょうか。57号機は、リンゲルマンが煙突の脇に付けられた特徴的なシルエットなので、番号が読めなくてもすぐにわかります。もちろん、この時もモノクロで撮影しているのですが、そちらはこのコーナーではまだ発表していません。こういう引きのカットは、地面派モデラーにはけっこう感じるところが多いですね。


最後はもう少し鞍手寄り進んで垣生公園を外れた辺りでの撮影です。D60型式が牽引するセラを連ねた石炭列車です。機関車はは直方機関区のD6033号機。33号機は長野工場仕様の、前端をD51のようにカットしたデフが特徴です。取り換えられたパイプ煙突とも相まって、オリジナルのD50よりはもうちょっと新しい機関車のように見えて、これはこれで魅力です。昔、16番で作ったことがありました。同様の理由から、これも初見参のカットです。かつてこの区間は三線区間でしたが、その中線の跡のところから三脚を立てて撮影しています。今ならありえませんが、当時はこれが普通で、線路敷内でも犬走りより外側で撮るのは「マナーがいい撮り方」とされていました。





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