一瞬の邂逅 -カメラが捉えた離合の瞬間-


秋の企画モノシリーズ、その第二弾は、蒸気牽引列車がすれ違う瞬間を捉えたカットの特集です。もともとは、黒岩氏の8mmムービーに触発されたものですが、日記にも書いたように、こればかりは撮ろうとして撮れるモノではありません。まず、最低限、複線区間でなくては、すれ違いがありません。鹿児島本線の門司港-黒崎間のように、電化された幹線に蒸気機関車が乗り入れてくる区間はありますが、地元在住とかでなければ、わざわざそこに撮影に行く機会はありません。未電化複線区間というと、おいおい、筑豊本線、室蘭本線等、路線が限られてしまいます。確かに、それらの線区は、当時としては蒸気牽引列車が多く設定されていたので、理論的なチャンスはかなりあります。しかし、蒸気機関車が現役だった線区は、都会の通勤区間ではないので、駅の発着時刻こそ15秒単位で決められていましたが、途中の区間など、数秒のゆらぎは当たり前。しかし、45km/h同士でのすれ違いでも、10秒違えば、250mズレてしまいます。したがって、どこですれ違うかというのは、まさに時の運。運がよくなければ、撮れないというのがこの瞬間です。ぼくも、数回しかカメラに収めてません。その中から、それぞれ特徴的な4カットをお届けします。



まず最初は、ホームグラウンドともいえる九州から。九州で、未電化複線区間といえば、なんといっても筑豊本線ですが、その中でも折尾-中間間は、若松方面と小倉方面という路線別に複々線になっていました。複々線ということで、効率よく狙える区間ですが、なかなかすれ違いには出会えません。それどころか、複々線ということで、逆に列車がカブってシャッターチャンスを逃してしまうリスクもありました。そんな中での、9600形式の牽く上り貨物列車と、D60形式の牽く下り貨物列車の交換シーンです。場所は、折尾-中間間でも有名な、複々線が上下線別から、行先別にかわる立体交差の付近。撮影日時は、1971年12月15日です。


やはり、すれ違いといえば、当時でも室蘭本線。ぼくが撮影したすれ違いシーンも、圧倒的に室蘭本線が多く、このあとの3カット全てそうです。まずは、沼ノ端-遠浅間。ここでのすれちがいは、すでに室蘭本線・千歳線 沼ノ端-植苗・遠浅間 -1972年7月14日-の中で、「団結号」のすれ違いをご紹介していますが、今回は、C57の牽く旅客列車同士の交換です。当時撮影に行った方はご存知ですが、この区間、旅客列車は90Km/hぐらい出すので、それこそ、どこですれ違うかは、神のみぞ知る世界。まあ、直線区間なので、多少ズレてもそれなりに撮影は出来るのですが。ところで、オハ62でその速度を出すと、イコライザ台車の乗り心地には、筆舌につくしがたいモノがあります。しかし、あれって最高速度85km/hじゃなかったっけ。上り列車の「貧者の展望台」の人影が、旅情をそそりますねえ。撮影日時は、1972年7月14日です。

すれ違いシーンがもやっていて、よく見えないので、その前後のカットもオマケとして掲載します。まずは、室蘭行きの上り列車。C57104号機の牽引です。うっすらと、団結号の団の字のあとが残っています。

すれ違ったあとの、岩見沢行きの下り列車。C5744号機の牽引です。こうやって望遠撮影してみると、軟弱地盤だけに、線路が相当にウネっていることがわかります。この時代でも、蒸気牽引の旅客列車同士の交換というのは、相当にインパクトがありました。


続いて、同じく室蘭本線でも、白老-社台間。D51牽引の貨物列車と、キハ22形式の3連との交換風景です。元来、これを写そうと思って撮ったのではなく、振り返ったら、ちょうどすれ違っていたというだけなので、ハエタタキを支えているケーブルがモロに写りこんでいます。こうやって、ギースルエジェクタ装備のカマを、正面から望遠撮影すると、イギリスの王室の顔立ちではないですが、幅の狭さが目立ちます。この辺は、樽前山や恵庭岳の山裾にあたるので、元が勇払原野の泥炭地帯という沼ノ端とは違い、植生がしっかりした景色らしい景色になっています。撮影日時は、1972年7月15日です。


最後は、平坦な室蘭本線では、珍しくアップダウンのあるサミットである、栗山-栗丘間での撮影。このアタりの景色は、北海道らしからぬ、本土の幹線のような雰囲気ですが、折からの雨が、ますますそういうムードを高めています。よく、北海道には梅雨がないといわれますが、本州での梅雨の末期、7月の20日前後には、梅雨前線が北上して、北海道にかかることもけっこうあります。それを「梅雨」と呼ばないだけで、短いながら雨季はあります。このときは、5日中2日が雨、または曇りでした。さて、追分より北側では、追分線からの石炭列車がなくなる分、列車密度が減りますが、それでも中々の本数。ここでのすれ違いは、珍しく回送のD51を前位に連結し、重連となったC57牽引の旅客列車と、D5115号機の牽引する貨物列車の交換です。D5115号機にとっては、かつてちょうどこのアタりで脱線転覆事故を起こしたものの、修復されて現役復帰したという、曰く因縁のある場所です。ちょうど交換地点のところには、撮影者がいます。タイミングは大ラッキーですが、多分、この角度だと、折角の重連がカブってしまい、2台には見えないでしょう。もし、ご当人やご友人がごらんになっていらしたら、mailをください。撮影日時は、1972年7月16日です。そういえば、この直後に、脇の国道で軽トラックと大型トラックの正面衝突という交通事故があり、軽トラックの運転手は即死でした。そのスクープ写真もありますが、余程「出会いがしら」に縁のあった日だったのでしょう。



(c)2008 FUJII Yoshihiko


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