「まっすぐな道」を訪ねて(その1) -1972年7月15日-
「あそこ」の立体交差こと植苗-沼ノ端間のオーバークロスのところを撮影した一日で7回、次の日の午前中の苫小牧操車場で3回と、北海道に渡ってからの一日半で10カ月も引っ張ってしまいました。こうなれば毒を喰らわば皿まで。二日目の午後は白老-社台間に移動して撮影したので、そこでのカットも総出しにして1972年7月15日についても全記録を追うことにします。こうなりゃ室蘭本線全カットをシリーズ化してしまおうか。となると、一体どこまで引っ張ることになるやら。それはさておき、7月15日は全部見せます。とはいえ白老-社台間も狙いがあって行ったわけではなく、単に国鉄最長直線区間の始まりのところが見たくてここに来てしまっただけなので、大して変わった風景があるわけではなく本当に変り映えのしないカットばかりです。とにかくこの時は「飽きと満腹感」を味わえた唯一の撮影旅行でした。言い方を変えれば、なんとか「蒸機幹線」の醍醐味に触れられたということもできます。皆様にもこの満腹感の片鱗を味わって頂けたらと存じます。

苫小牧からローカル列車で白老駅に着くと、鷲別機関区のC58425号機が牽引する下りローカル貨物列車の入換をしている最中。425号機は前日も登場した北海道でのC58ラストナンバーですが、鷲別に配属された2輌のC58型式は、この区間の駅で発着するローカルの貨物列車を担当していました。それにしても汚いカマですね。鷲別は手入れが悪いんですが、それに輪をかけた汚れ方です。それでも走っちゃうんですが。この時は次位に無火で廃車回送中のの二種休車の9600形式が連結されています。この次のカットを<線路端で見かけた変なモノ その7 -ホームでお駄賃(北海道編)1972年7月->で公開した時調べたように、このカマは7月19日付で廃車になった49674号機です。

とにかく「最長直線区間」が始まるところのカーブがお目当てなので、線路に沿ってそこまで歩きます。その間も次々と列車がやってきてしまうのが、この区間のスゴいところ。「あそこ」で出会う千歳線系統と室蘭本線系統に加えて、苫小牧着発の列車もあったので、この区間が一番列車密度が高いのです。それもほとんど圧倒的に貨物中心。まずやってきたのは鷲別機関区のD51896号機の牽引する上り貨物列車。室蘭行きと思われ、返空のタンク車と、中小炭鉱からの石炭を積み込んだセキの混成編成となっています。この列車は「来ちゃったので撮った」カットで、カラーやサブカメラでは撮っていません。まさに行き当たりばったりの「純正バッタ撮り」。こういうのもこの当時の室蘭本線ならではのものでしょう。

もうちょっと先へ進みますが、またまた続行で上り貨物列車がやってきました。牽引機は鷲別機関区のD51165号機。このカマも決してキレイではありませんが、ナンバープレートと架線注意表示だけは珍しく磨いてありますね。165号機は関東で長く使われた後、常磐線の電化により昭和39年に水戸機関区から北海道入りし、なんと1975年末の蒸機終焉の時まで活躍した運のいいカマです。最末期まで現役だったこともあり、あまり縁はないのですが富山県南砺市で保存されているようです。編成はワキ5000ばかり5輌という、ちょっと異色のもの。多分、苫小牧発で新聞用紙輸送の専用列車と思われ、このまあ本土に直送されるのでしょう。

今度は先程入換をしていた鷲別機関区のC58425号機の牽引する下り貨物列車が、白老駅を出発しました。跨線橋が遠くに見えるようにすでに駅から距離はあるのですが、爆煙で力行しています。カマの上りが悪いんでしょうかね。見栄えが汚いと、つい余計なことを気にしてしまいます。トラの積荷は塀に使うセメントブロックのようです。あと大量の返空トラ90000が連結されています。製紙工場にチップを運んで行ったのでしょう。専用貨車は必ず片道が返空になってしまいます。どうやら後ろの方にはホキ2200も1輌連結されているようですが、やはり目立ちますね。

さてお目当てのカーブが視野に入るところまでやってきました。まずは複線間隔が開いていることを利用して、上り線・下り線の真ん中のスペースから撮影です。岩見沢第一機関区のD51467号機の牽引する、上り貨物列車。467号機は昭和40年代になってから渡道したカマです。コキとワムを連ねた編成なので、これも内地向けの直送でしょう。これはカラーでもサブカメラでも撮っているので、三脚を立てています。当時は、犬走りの外側なら鉄道用地内でも三脚は自由でした。サブカメラの望遠でこの列車を撮影したカットは、<無意味に望遠 その3 -1972年7月15日->で公開しています。

次に現われたのは、岩見沢第一機関区のC57135号機が牽引する下り旅客列車です。この頃の135号機は、まだ踏段改造も、テンダ振替も行なわれていません。おまけに岩見沢のC57の中では、決して人気No1のカマではなかったんですよ。密閉キャブへの改造こそ行われていたものの、当時の北海道のC57型式は、意外と原型に近かったことがわかります。とはいえ、苗穂工場スタイルの、独特の字体と字間を持ったナンバープレートは、この頃から変わっていません。これまた望遠のサブカメラで撮影したカットは、<無意味に望遠 その3 -1972年7月15日->で公開しています。

そう、このカーブこそが「日本最長直線区間」の始まりです。もっというと、このカーブの反対側も虎杖浜まで18qの直線区間。大したカーブじゃないのですが、その存在感は大きすぎます。列車は岩見沢第一機関区のギースルエジェクターを装着したD511037号機の上り単機回送。岩見沢のカマの方が手入れがいいことがよくわかります。煙室扉ハンドルは鋳物製のもの。このカマはなんと熊本電化まで熊本機関区に配置されていたので、九州時代に取り換えられたものが残っていたのでしょう。確かにナンバーも小倉工場タイプです。この前のまだ直線区間に載っているところを望遠で撮影したカットは<無意味に望遠 その3 -1972年7月15日->で公開しています。

とにかく上り貨物ばかりが続々とやってきますが、今度は追分機関区のD51711号機が牽引しています。711号機は新製以来北海道一筋、それも函館本線・室蘭本線系統と道南の幹線中心に活躍してきたカマです。末期には「セブンイレブン」と呼ばれて親しまれていました(セブンイレブンの開業は1971年)。道内での活躍が長い分、密閉キャブに改造された上にギースルエジェクタを装着しています。小樽築港配置の時踏段改造されましたが、これはかなり初期の改造例です。その後1975年まで現役で活躍しましたが、検査期限の関係か、最末期を迎えることなく、75年の6月に廃車になりました。
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