復活! 田川線のC11 -1974年7月17日-


かつて筑豊地区に存在した多くの炭鉱を結ぶかのように、この地域には網目のように国鉄の路線が敷かれ、そこから炭鉱への引込線や専用鉄道のネットワークが広がっていた。それらの線区では、もともと筑豊本線として敷設された上山田線など一部を除いて、貨物列車は9600形式、旅客列車はC11形式というのが定番で、この組み合わせがある意味筑豊地区の象徴とも言えるゴールデンコンビだったといえるだろう。斜陽化したとはいえある程度の出炭量があった1970年頃までは、ほとんどの線区がこのような姿を示していた。タイミングとしては充分間に合っていたのだが、当時はまだ筑豊本線でD50形式やC55形式が現役で活躍していたので、限られた撮影日程はより希少なカマの撮影に充てようと、支線区に足を運ぶことは(筑豊本線と並行して撮れる一部の区間は除き)なかった。本線筋のC55が消えた1973年からは、北九州というと田川線をはじめ後藤寺を中心とした線区を中心に撮影するようになった。しかし、この時にはすでにC11の姿はなく、残っていた蒸機牽引旅客列車も9600形式が牽引するようになっていた。このエリアも当初は1974年の4月から無煙化されることになっていたが、当時の組合との劣悪な関係から交渉がまとまらず、日程は後倒しとなった。このため9600形式に全検切れの機関車が出るようになり、全国的な9600形式の不足から、この年の5月から7月までの間、旅客列車と一部補機の運用にC11形式が復活することとなった。このため佐々機関区と熊本機関区から無煙化で余剰となった全検期限の残るC11形式4輛が集められ、運用につくこととなったのだ。撮っていなかった田川線のC11が撮影できるとあって、丁度夏休みに観光旅行を兼ねた九州旅行を企画していたので、その合間に田川線を訪ねることとした。



田川線自体は、1973年の春に2日、1974年の春に1日撮影に来ているので、けっこういろいろなカットを撮っていた。この夏の旅行では1日を撮影に充てることにしたが、撮影中心の旅行でない分、北九州は博多をベースとしていたので、そうシャカリキに撮りまるプランも立てられない。ということで、2本の内1本は安易に油須原駅で駅撮りということとなった。その代わり交換する列車に乗ってきて、到着シーンと発車シーンが撮れるというオマケがある。やってきたのは行橋機関区のC11260号。関氏のK-7タイプの小工デフに、角形のサンドドーム、丸型のスチームドームという、極めて特徴的な外観のカマだ。行橋で最期を迎えたことが功を奏したのか、今もかつて撮影地だった垣生公園で保存されている。青15号のアコモデーション改良のスハフ42が編成にいるのも、蒸機終焉直前の旅客列車らしい。



続いて同列車の発車シーン。この時代はもはや何も考えずに、カラーポジを入れたブロニカでの手持ち一発撮りなので、逆にこういうバッタ撮りでも煙をメインにした、ぼくがあまりやらない構図のカットになっているのが面白い。この時行橋にいたのは、熊本から来た48号機と191号機、佐々から来た257号機と260号機の4輛。257号機と260号機は九州生え抜きのカマで、どちらもほぼ佐々機関区一筋で過ごし、最後に行橋に移動したという履歴のまさに兄弟ガマ。おまけに、どちらも福岡県内で保存されているというのだから奇縁といえば奇縁だろう。ちなみにこの両機は日本車両製の4次形最初のロットで、蒸機ドームが丸型なのは、見込み生産のパーツが残っていたのを逐次使用したためである。交換で停車中のキハ45も、今となっては懐かしい。



さて、C11の走行中の写真は、山深い感じではなくいかにも里っぽいところで撮りたいと思っていたので、撮影のお立ち台としてもちょっと有名だった、清酒「九州菊」の林龍平酒造場を入れて撮れる、崎山のところで撮ることにした。「九州菊」の酒蔵は、同社のWebを見ると今もこのままの姿で残り営業中。これは嬉しい限りだ。やってきたカマは2次形なので48号機と一発で比定できる。ぼくはC11はより力強い3・4次形が支線の貨物を引っ張る姿の方が好きだが、小編成の旅客となると2次形もレトロな雰囲気が出て悪くない。同機の熊本機関区時代の姿は、<南の庫から 熊本機関区'70夏 -1970年8月2日->で公開しているので、再会ということになる。穂が出始める前の繁茂した稲は、模型のジオラマで人工芝を使った感じを思わせて、意外と使えることを再認識。季節を限れば素材としては使えるなあ。




(c)2020 FUJII Yoshihiko よろず表現屋


「記憶の中の鉄道風景」にもどる

はじめにもどる