東京急行電鉄 二子新地前・二子玉川園・大岡山 -1972年-


今回は、前々回に取り上げた「東京急行電鉄 自由が丘駅 -1972年-」の続きです。自由が丘で田園都市線に乗り換えたのですが、向った先は二子新地前駅(現二子新地駅)。この日は、ぼくの高校の冬の恒例行事だった「ロードレース大会」の日だったのです。だから、平日の朝に自由が丘に降り立つ、ということができました。おまけに、当時は卒業アルバムの担当でもあったので(旅行担当と、卒業アルバム担当は、「鉄ちゃん」の指定席であった)、カメラを持って参上したという次第。さすがに全員出場制でぼくも出るので、走っている最中は撮っていませんが(笑)。ということで、同じ日ですし、時間的にも続いているので、自由が丘の巻と合わせてお楽しみください。



さて、目的地の二子新地前につきました。そこから多摩川の河原におりたところが、ロードレースのスタート地点です。ロードレースは、田園都市線の多摩川橋梁の下をスタート、堤防の上の遊歩道を走り、東横線の多摩川橋梁を越えて丸子橋付近で折り返し、再びスタート地点まで戻る、約10kmのコースです。スタート地点付近では、ウォーミング・アップしている生徒が見えます。その向こうを通過しているのは、試作車的存在であった6000系の4連です。鋼体・ステンレス張りという構造から、極めて特徴的なスタイルをしているので、遠目でも6000系ということはわかりますが、さすがに車番はわかりません。よく見ると向こう岸には、先ごろ解体されてマンションに建て替えられた「富士観会館」が異様に目立っています。


さて、ロードレース大会が終わったら、恒例のお楽しみ。二子橋を歩いて渡り、仲間と「いさみや」へ攻め込みます。たしかこの時は、16番のデハ3450のペーパーキットを4人で1輌づつ組み立て、4輌編成を作ろうという趣向になったはずです。探せばボディーだけは、まだどこかに残っていると思います。その後、電車に乗るべく二子玉川園駅(現二子玉川駅)のホームに昇ります。この時は、まだ新玉川線開通前ですから、ここは「大井町に行く田園都市線」しか通っていません。ということで、新玉川線用ホームの予定地は、このようにデッドスペースのまま。柵もなにもないというのは、今では考えられない大らかさですね。向こうに見えているのは、デハ7200系の4連。なんと、当時は2編成8輌しかなかった冷房車です。拡大して見ると、ナンバーの最後は「4」と読めますから、資料と突き合せるとクハ7554号と判明します。となると、この車輛は豊橋鉄道のク2807として、現存しています。ちなみに、相方のデハ7254号は上田交通に譲渡され、生き別れの兄弟となってしまいました。


上りホームの端で待っていると、大井町行きがやってきました。朝も出会った、デハ3600型3607号を先頭とする編成です。デハ3607号は80年代初頭に弘南電鉄に譲渡され、同社でもデハ3607号として活躍しました。眼を二子橋に転じると、平日の真昼間というのに、ほとんど渋滞もなく、スラスラと流れている様子がうかがえます。実はこのときはまだ、新二子橋は開通前なんですけどね(この翌年に開通)。オマケに走っているのも商用車ばっかり。もう、玉川高島屋はあったんですけど(下写真参照)。今からでは信じられませんね。昭和41年に架設された田園都市線の多摩川橋梁には、当時の新玉川線計画(地下鉄銀座線が乗り入れ、二子玉川園が終点)を反映して、引き上げ線用のスペースが橋脚上に確保されていました。これも、結局は複々線化という形で活用されることになったのだから、世の中何がどう役に立つのかわからないものです。



さて、マラソン大会の帰りの恒例は、先ほどの二子玉川の「いさみや」と並んで、当時高校で鉄道趣味のクラブを作っていた仲間の家になだれ込む、というモノがありました。ということで、この日は目蒲線沿いの友人のうちにいったのでしょう。大岡山で乗り換えの間に、ワンショット。やってきたのは、何とも無骨でマニア心をそそるクハ3670型を先頭とする蒲田行き。クハ3670・3770型は、戦後の混乱期に戦災復旧車として生まれたため、その素性は闇鍋状態。電車から客車から、はては名義だけの新製車まであるようですが、このクハ3679号は、どこからみても戦災国電の復旧車という感じ。ガイコツ型の尾灯が、いかにも似合います。その後クハ3679号もまた、70年代の半ばに弘南鉄道に譲渡され、クハ3779として活躍していました。そちらを撮影された方も多いかと思います。


(c)2005 FUJII Yoshihiko


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