映画評論 PART T


目  次

1.戦争のはらわた     1977年 イギリス、ユーゴスラビア

2.コーリャ愛のプラハ   1996年 チェコ、イギリス

3.遥かなる戦場      1968年 イギリス

4.少女へジャル      2001年 トルコ

5.ローレライ       2005年 日本

6.グッバイレーニン    2003年 ドイツ

7.ヒトラー最期の十二日間 2005年 ドイツ

8.遠すぎた橋       1977年 アメリカ、イギリス

9.この素晴らしき世界   2002年 チェコ

10.スターリングラード   2001年 米、独、英、アイルランド

11.アラビアのロレンス   1962年 アメリカ

12.スパイゾルゲ      2003年 日本

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戦争のはらわた

     Cross of Iron

 

制作;イギリス、ユーゴスラビア

制作年度;1977年

監督;サム・ペキンパー

 

(1)あらすじ

1943年夏の東部戦線。南ウクライナのクリミア地方でも、ソ連軍の猛反撃が開始されていた。

ドイツ軍前衛部隊に属するシュタイナー軍曹(ジェームズ・コバーン)は、歴戦の勇士であり、最高の勲章である鉄十字章(Cross of Iron)の保持者でもあった。そんな彼の上官として赴任してきたのは、貴族出身のストランスキー大尉(マクシミリアン・シェル)である。ストランスキーの目的は、銃後で待つ父母の名誉のため、鉄十字章を手に入れることにあった。

そんな時、ソ連軍の総攻撃が始まった。実戦経験のないストランスキーは、塹壕の中に閉じこもって役に立たない。代わって指揮を執ったのは、ベテランのマイヤー少尉である。激闘の末、ソ連軍は撃退されたが、マイヤーは戦死し、シュタイナーも重傷を負って後送される。だが、野戦病院での看護婦とのロマンスを振り切って前線に復帰したシュタイナーを待っていたのは、意外な事態であった。

 ストランスキーは、先の戦闘での活躍を盾に鉄十字章の入手を画策しており、シュタイナーに偽証を迫ったのである。しかし、マイヤーの親友でもあった彼は、偽証を拒否する。そのため、ストランスキーはシュタイナーに殺意を抱き、彼の部隊だけを前線に置き去りにして全軍を後退させてしまうのだった。

 ソ連軍の中に取り残されたシュタイナー小隊は、艱難辛苦の末に敵中突破を果たし、味方の前線にたどり着くが、彼らを待ち受けていたのはストランスキー部隊の銃口であった。

 凄惨な同士討ちの末、ついにシュタイナーはストランスキーと対峙する。しかし、ソ連軍の総攻撃が始まった。敵同士だった二人は手を握り、共に迫り来る敵に立ち向かうのであった。

 

(2)解説

本作品は、サム・ペキンパー監督の代表作であると同時に、戦争映画の最高峰である。これ以降制作された戦争映画の大部分が、この作品に強く影響されている事は言うを待たない。「プラトーン」と「プライベート・ライアン」が、この作品のパクリだと感じた人は、きっと私だけではないはずだ。

また、この作品は、私が出会った最高の映画なのである。ありとあらゆる点で最高に素晴らしく、文句を付けるべき点が一カ所もないのだ。

 まず印象的なのが、深緑に彩られた戦場の光景である。通常、東部戦線といえば厳冬の白のイメージが付きまとうのだが、この映画は、あえて逆手を打っている。場所はウクライナ南部で、しかも季節は夏である。美しい緑に覆われた情景の中で、これでもかと言わぬばかりの残虐な戦闘シーンが連続する有様は、鬼気迫るものがある。また、独ソ両軍のコスチュームや兵器類、さらには戦術の細部に至るまで、恐ろしく史実に忠実である。ソ連軍の長距離迫撃砲の発射音が連続して鳴り響く冒頭は、ドイツ軍将兵が直面した恐怖の本質を鋭くえぐっているのである。

 また、バイオレンスの巨匠ペキンパーの演出力は、ほとんど神業とも言うべきである。「プライベート・ライアン」が裸足で逃げ出すような凄惨な流血が続出し、兵士たちのあげる悲鳴は救いがないくらい恐怖に彩られている。少年兵の命も、物を取り出すがごとく無造作に奪われる。それでいて、決して後味は悪くないのである。これは、ペキンパー監督の優れた作家性によるものなのだろう。アクションシーンに効果的に取り入れられるスローモーションの、特筆すべき効果も忘れてはならない。

 主人公のシュタイナーは、ペキンパーの描く典型的なヒーロー像である。強く優しく、人情にもろく包容力に溢れ、自分に正直で不器用である。「ワイルド・バンチ」のパイク(ウイリアム・ホールデン)とそっくり同じキャラクターなのには、思わずのけぞってしまった。シュタイナー(そしてパイク)は、戦争の大義も勝利も信じてはいない。彼の正義とは、自分の信念を貫き通すことだけなのである。

 そして、彼の信念に真っ向から対立する人物として登場するのが、ストランスキー大尉である。しかし、ペキンパー監督のストランスキーを描く目は、決して冷たくはない。シュタイナーとストランスキーの対立は、ドイツ社会の階級闘争に起因しており、善悪の問題で論ずるべきではないのであるが、監督はその事情を十分に勘案しているのである。

ドイツの民主化は、ようやく第一次世界大戦後に始まった。それ以前のドイツは、皇帝と貴族によって支配された封建国家だったのである。当時の西欧で一般的であったはずの民主主義は、ドイツでは先進的な思想だったのだ。民主主義の前提として、貴族と大衆間の階級闘争が不可避である。そして、大衆出身のナチス党は、貴族の権利を制限し大衆を階級闘争の勝者に押し上げる上で最大の貢献者であった。ドイツの大衆は、ナチスのお陰で貴族のくびきから脱することができたのだ。ただし、ナチスによって押し進められた階級制度の廃止は、実施されてからまだ日が浅いため、貴族の多くは面従腹背の状態であったらしい。映画は、このような実状を的確に反映している。

劇中で、貴族出身のストランスキーはヒトラーに批判的である。彼は、ナチスが押し進めた大衆化は一過性の事象だと考えており、ナチス崩壊後は貴族の世の中が戻ってくると思い込んでいる。彼は大衆の能力を軽蔑しており、歴史上の偉人は貴族からしか現れないと信じているのだ。

二人の対立は、住んでいる世界があまりにも違いすぎる事から生じている。貴族のストランスキーにとって鉄十字章は必須のアイテムであるが、平民のシュタイナーにとっては鉄の塊にしか過ぎない。

そして、シュタイナーは貴族の心情を見誤った。貴族は、己の栄達のためには手段を選ばない。ストランスキーの執念を見誤ったシュタイナーは、こうして小隊もろとも窮地に追いやられるのだ。善悪の問題ではない。貴族と平民の階級差が引き起こす埋めようのない隔壁だ。

しかし、最後のシーンでは二人は共闘する。ソ連軍の圧力が厳しいためであることはもちろんだが、それ以上のメッセージをここに感じる。これは和解なのだ。二人を隔てた厚い壁は、人間の生存本能という共通項でくびり倒されたのだ。戦争という異常事態を背景にしているが、人間存在に対する希望の光が、ここには燦然と瞬いている。理解し合えない人間はいない。そういう明るいメッセージがここにはある。

「戦争のはらわた」が、残酷な内容であるにもかかわらず、さわやかな後味を残すのは、二人のライバルを見つめる監督の視線が暖かいからだろう。

 


 

コーリャ愛のプラハ

           Kolya

 

制作;チェコ、イギリス

制作年度;1996年

監督;ヤン・スビエラーク

 

(1)あらすじ

 物語の舞台は、1989年のチェコスロバキア。

 かつて優秀なチェロ奏者だったフランチシェク・ロウカ(ズデニェク・スビエラーク)は、秘密警察に憎まれたため交響楽団を追われ、今では葬式で演奏したり墓石の修復をしたりして生計を立てている。彼は、50歳になるのに独身で、プラハ小地区の借家で気ままな一人暮らしだ。しかし、多額の借金が悩みの種でもある。  

 そんな彼は、あるときロシア人亡命女性のナジェジュダとの偽装結婚を強行する。彼女にチェコ国籍を与える対価として、巨額の謝礼を頂いたのだった。しかし ナジェジュダは、5歳になる一粒種のコーリャ少年(アンドレイ・ハリモン)をプラハに残して、愛人の待つ西ドイツへ2度目の亡命をしてしまった。最初から、そのつもりだったのだ。

 ロウカは、ロシア人も子供も大嫌いだったのだが、身寄りのないコーリャ少年を引き取って共同生活をする羽目になる。最初は敵意を抱き喧嘩ばかりしていた二人だが、やがて互いの言葉を覚え、心を通わせ、本当の親子のようになって行く。

 やがて革命が起きて、チェコの社会主義政権は崩壊した。東西を隔てる壁が消滅したことにより、ドイツの母親がコーリャを迎えにプラハにやって来た。ロウカは、コーリャとの悲しい別れを乗り越えて、再び交響楽団の演台に立つのであった。

 

(2)解説

 1997年度のアカデミー外国語賞に輝く傑作である。

 初老の老人と幼い少年の友情というテーマは、映画の世界では比較的使い古されたもの。しかしこの映画は、チェコ人監督の演出によって、かなりユニークな印象を観客の心に与えるはずである。

 チェコ文化の特徴は「性悪説」である。チェコの物語は、人間の悪徳や愚かさを前提にする。そんな「悪」でも、優しさや愛を抱く瞬間がある。その瞬間の美しさを描写するのがチェコ流なのである。

 「コーリャ」でも、冒頭の30分で、延々と主人公ロウカの悪徳が紹介される。同僚の女性のスカートをめくろうとしたり、家賃を平気で滞納していたり、人妻をとっかえひっかえ家に招き寄せて享楽にふけり、そして母親に嘘をつきまくる。そして、借金に首が回らなくなったために、友人の紹介でカネ目当ての偽装結婚をする。

 しかし、こんな男が、ロシア人少年との交流によって少しずつ優しさを回復していく有り様が、観客の感動を呼ぶのである。これが、チェコの物語の特徴である。

 だが、せっかく親密になった二人なのに、冷戦構造の崩壊と「自由化」によって引き裂かれてしまうラストが切ない。自由化は、必ずしも絶対的な善を意味するものではないというメッセージであろうか。

 この映画は、歴史ファンの視点からも、冷戦末期のチェコスロバキアの様子が克明に描写されているので興味深い。政府や秘密警察は、必死に国威を高揚させたり人民を統御したがるものの、どことなく白けている。人民も、平気な顔でラジオで外国放送を聞いているし、「もうすぐ政府は倒れるらしいぞ」とか、「反政府活動に参加したいなあ」などと言い合っている有り様だ。

 なるほど、無血の「ビロード革命(1989年)」は、こういう土壌があるから可能だったのだな。革命下のヴァーツラフ広場で、ロウカと、かつて彼を尋問した秘密警察の役人が笑顔で会釈を交わす場面は、特に印象的である。

 こういった視点を抜きにしても、コーリャ少年の可愛らしさは出色である。私はこの映画をいろいろな友人に紹介したのだが、特に女性の友人から好意的な感想を頂くことが多いのは、女性はこの少年の可愛らしさに心を直撃されるからだろう。

 私は、本当に優れた映画とは「交響曲」のようなものだと考えている。すなわち、主旋律と従旋律がいくつも折り重なって一つの実体を形成するために、一本の映画の中で何通りもの楽しみ方が出来るのである。映画に限らず、小説もアニメであっても、創作というものは本来は常にこうあるべきだと私は思う 。

 「コーリャ」は、主人公の心の成長、少年の可愛らしさ、そして歴史の雄大なうねりを同時に堪能できることから、抜群の交響曲であり、出色の名画であると断言できるのである。

 


 

遥かなる戦場

         The charge of the light brigade

 

制作;イギリス

制作年度;1968年

監督;トニー・リチャードソン

 

 「歴史群像」という雑誌で薦められていたので、わざわざDVDを購入して見ちゃいました。

 1968年の映画・・・ってことは、私の生まれた年かいな。古っ!

クリミア戦争(1854)をテーマにした戦争映画です。イギリス軍の活躍を、イギリス人監督とイギリス資本が描く。原題を直訳すると、「軽騎兵の突撃」という勇ましさ。

しかし、ヨーロッパ映画はアメリカ映画とは一味もふた味も違います。そこにあるのは「諧謔精神」。

冒頭から「大英帝国ばんざい!」が謳われ、勇ましい軽騎兵が登場し、しかしそこで描かれるのは老化して腐敗しきった貴族出身の将軍たちと、下層階級出身の士官や新兵に加えられる虐待や差別です。

しかし、劇のタッチは妙に明るい。将軍たちのボケぶりと俗物ぶりが、コメディタッチで描かれるからです。

中盤から、いよいよクリミア戦争が始まりますが、そこでは「正義のイギリス対悪魔のロシア」といった単純化がなされ、ろくな検討もなされずに戦争が始まる様子が描かれます。現代と同じですな。

そして、年功序列で選ばれたボケ老人将軍たちは、前線でも美食や女あさりにふけり、まともに仕事をしません。そのたびに、若い兵士が無駄に死んでいくのです。

最後は、世界最強と言われたイギリス軽騎兵旅団が、拙劣な指揮によって、無謀な突撃を試みて全滅する様子が壮大なスケールで描かれます。若手の登場人物は、ここで「皆殺し」になります!

私が知る限り、クライマックスに「負け戦」を用意し、しかもここまでカネをかけた映画はこれだけです。

ラストシーンは、原型を留めぬまでに損壊された人と馬の死骸の前で、ボケ将軍たちが責任のなすり合いを始めてTHE END

いやあ、ものすごく暗い戦争映画です。それでいて、後味が少しも悪くないのがヨーロッパ流のブラックユーモアというか諧謔精神の産物でしょう。

アメリカや日本で、こういった深い味のあるドラマは作れないのかといえば、まあ無理でしょうな。アメリカ文化は皮相的だし、それの猿真似を繰り返す日本文化は、もっと薄っぺらだもの。

 


少女へジャル

                  Hejar

制作;トルコ

制作年度;2001年

監督;ハンダン・イペクチ

 

2001年アカデミー外国語賞受賞作です。DVDで観たのですが、これがむちゃくちゃに良かった。

映画でこんなに涙腺が緩んだのは、生まれて初めて。

ストーリーは、割合と良くある異文化コミュニケーション物で、異民族の老人と子供の間に通う交感がテーマです。トルコ人のルファト判事(60代かな?)が、ひょんなことからクルド人の少女へジャル(5歳くらいかな?)を引き取って共同生活をしてしまう。

観ているうちに、「チェコ映画『コーリャ』のパクリじゃんか!」と思える場面が多いのですが、こっちはかなりハードです。なぜなら、トルコ人とクルド人は同じ国に住みながら、慢性的に殺し合っているからです。

哀しいのは、クルド人の少女は、外見はトルコ人と同じなのに、言葉がまったく通じないという点。老人と少女は、物語の終盤まで、言語によるコミュニケーションが全く出来ないのです。トルコ語は、ウラルアルタイ系で、モンゴル語の親戚です。クルド 語はセム語系で、ペルシャ語(イラン語)の親戚です。両者は、まったく別物なので、よほど心して勉強しないと互いに理解できないのです。

ルファト老人は、「ママに会いたい」と泣き叫ぶ少女へジャルのために、クルド人の難民キャンプを訪ね歩きます。その過程で、クルド難民がいかにひどい生活を強いられているかが赤裸々に語られます。 ルファトが、「我々の世代が不甲斐ないから、祖国は堕落してしまったのだ!」と義憤の涙を流すところがとても印象的です。トルコ本国で、上映禁止処分を食らった理由が分かるなあ。

結局、少女の家族は皆殺しにされていることが判明。そのことを、老人が少女に理解できないようトルコ語で伝える場面が泣かせます。

 最後は、難民キャンプの老人が迎えに来て、ルファトとへジャルは涙の別れを迎えます。

・・・ほんとに、チェコ映画「コーリャ」に似てますが、受ける印象がまったく違います。そういうところに、民族の違いが感じられて楽しい。

チェコ映画は、ドライだけど楽天的。トルコ映画だと、すごくウェットで浪花節的です。むしろ、トルコ人の感性は日本人に近いかも。やはり、先祖が同じなんでしょうか?

ハードな民族問題を、こういう形でメディア化して世界に訴えるとは、トルコ人はなかなか侮れませんなあ。

 


 

ローレライ

 

制作;日本

制作年度;2005年

監督;樋口真嗣

 

DVDで見ました。

福井晴敏原作、樋口真嗣監督という、若手が総力を結集して作った特撮映画なので、今後の日本文化を占う内容なのだろうな、と気合を入れて見たのですが。

いろいろな意味で衝撃を受けました。

まず、この映画の主な作り手が、私の少し上の年代で、いわゆる「80年代ポップカルチャー」の真っ只中で青春を送った人たちです。そのため、映画の内容も、まるっきり「80年代ポップ」そのものでした。

そういう私も、このムーブメントの中にいたので、ある意味「懐かしいなあ」と感じる場面も多かったです。ぶっちゃけ、「機動戦士ガンダム」と「超時空要塞マクロス」と「ルパン三世カリオストロの城(を中心とする80年代宮崎アニメ)」を足しっぱなしにしたような映画でした。

いちおうは、昭和20年8月の原爆投下を背景にした映画です。日本海軍の新型潜水艦に乗り込む主人公たちは、同胞の命をアメリカ軍から護るため、命がけの出撃をしたはずが・・・。艦内は妙にフヤケていて、まるで大学のテニスサークルみたい(笑)。おそらく、今の海上自衛隊の艦内だって、もう少し緊張感があるだろう!しかも、美少女が登場すると、みんな「少女を護る」ことに夢中になってしまい、国事そっちのけ。最期に少女が助かると、みんなで「良い娘だったよなあ。でへへへ」と言い合ったりして。

・・・なんじゃあ、こりゃああ!!!

いや、樋口監督をはじめとするスタッフの気持ちは良く分かる。宮崎駿を神のように信仰して青春を生きてきたのだね、君たちは。その気持ちは分かるぞ。

しかあし!

「昭和20年8月の原爆」を舞台背景にして「良い娘だったなあ、でへへへ」は無いだろうがあ!

明らかに、犠牲者たちに対する侮辱であり、冒涜ではあるまいか!

「自己嫌悪」もあるのですが、「80年代ポップカルチャー」世代には、哲学も思索もなく、大義も公もありません。「馴れ合い」と「萌え」が全てなのです。それが当然なのです。

・・・こういう連中が、これから日本の中心になるのですぜ。

この国の未来は真っ暗だな。

そう感じて、絶望に浸ることが出来たので、「勉強」になる良い映画でした。はい!

 


 

グッバイレーニン

        Goodbye Lenin

 

制作;ドイツ

制作年度;2003年

監督;ヴォルフガング・ベッガー

 

  最近のドイツ映画は、すごくハイレベルです。不景気の国では映画が発達すると言われていますが、まさにその通りなのかも。

 我が日本も、不景気ゆえか、アニメ映画やホラー映画が全世界で大絶賛。でも、ドラマや文芸作品の評価は大したことないから、ドイツに比べるとあまり自慢できることじゃないな。

 さて、「グッバイレーニン」は、1989年の冷戦の崩壊をテーマにしています。

 主人公は、東ドイツのアレックス青年。彼の母親は、狂信的な社会主義活動家です。しかし、彼女は不慮のことから心臓発作を起こして病院で昏睡状態になってしまいます。その間に、ホーネッカー議長が辞任してベルリンの壁が崩壊。東ドイツは西ドイツに吸収合併されて、急激な自由化と資本主義化に見舞われるのでした。

 そんな中、母親の意識が回復しました。しかし、心臓が非常に弱っているために「ショックを与えてはならない」と医者は言います。アレックスは、熱狂的な社会主義者の母親は、祖国が崩壊したことを知ったら死んでしまうと考えて、自宅の一室に軟禁して社会から隔離します。そして、東ドイツ時代のニュース放送をビデオで流すなどして、体制の崩壊を母親の目から隠し通そうとするのです。

 構造的には、コメディ映画ですね。しかし、あまり笑える箇所は多くありません。これは、ドイツ人のリアル志向の産物なのでしょうか?

 私が強い印象を受けたのは、東ドイツ人を主人公にすることで、資本主義の悪い面を観客に見せた点です。

 かつての東ドイツのエリートは、能力基準で選別されて急速に没落します。大学教授はアル中になり、労務者はプータローになります。彼らは、母親の病室に集まって「東ドイツごっこ」をすることで、失われたアイデンティティを懐かしみ、せめてもの幸せを見出そうとするのです。

 また、資本主義化は、モノとカネの価値を追求するばかりで、人間が生きるうえで本当に大切な「夢」を持ちません。東ドイツ人が、そうした渦中で葛藤する様子も、この映画は見せてくれます。

 そんな中でも、主人公アレックスは、賢く要領の良い人物なので、新たな体制にもすんなり順応し、恋人も得て元気に人生を歩んでいきます。そして、最期まで母親の「夢」を壊さないように懸命な努力を続けるのです。

 この映画は、「若者」の強さを賛美し、同時に、時代の激流の中でも決して色あせることのない「親子の情愛」を示すことで、極めて健康的で正統的な「人間賛歌」を謳っています。

 どんなに時代が変わっても、どんなに環境が異常でも、人間にとって本当に大切なのは「愛」なのだ。この映画を観た人は、きっと幸せに満ちた優しい心を抱きながら家路につくことでしょう。

 「グッバイレーニン」は、人の心を優しくさせる映画なのです。 最近、こういう映画が減っているので、実に貴重な作品だと思いました。

 どうして日本では、こういう映画が作られないのだろうか?

 


 

ヒトラー最期の十二日間

                                 DER  UNTERGANG

制作;ドイツ

制作年度;2005年

監督;オリヴァー・ヒルシュビーゲル

 

  ヒトラーの秘書だったトラウドル・ユンゲの証言をもとに、「es」の鬼才監督ヒルシュビーゲルがヒトラーの最期の日々を描く。

 最近のドイツ映画は、すごくレベルが高くて、どれもお勧めです。

 でも、この映画は微妙です。ヒトラーとナチスについて、ある程度の予備知識がないと、話がまったくワカランちんだからです。

 ただ、マニアの人(俺もその一人だが)にとっては感涙ものでしょうね。登場人物に、本物そっくりの俳優を多用している(名前を紹介されなくれも、誰の役なのかひと目で分かっちゃう!)し、ヒトラー役のブルーノ・ガンツなんか、本物としか思えない!

 しかし、この映画はドイツ国内でかなり非難されているようです。なぜなら、「ヒトラーを人間的に描いているから」です。ドイツの歴史常識では、「ヒトラー=悪魔」であるから、彼を人間的に描くことはタブーなのでした。

 劇中のヒトラーは、公人、私人の両面から描写されます。公人としては残忍非道な暴君ですが、私人としては謙虚で優しいのです。実際のヒトラーが、そういう人物だったことは、様々な証言によって裏付けられているので、すごくリアルな映画だと感じました。下手なドキュメンタリーを見るよりも、歴史の勉強になるって感じ。

 でも、普通にこの映画を見ちゃうと、「末期パーキンソン病の可哀想な老人を、みんなで苛めて自殺に追い込む映画」って雰囲気です(笑)。それが、ドイツ国内の「ヒトラー=絶対悪」派から非難されるんでしょうね。

 しかし、ドイツにおける平均的なヒトラー観というのは、現在の中国における反日感情と同様に、政府によって巧妙に操作された結果生まれたもので、かなり歴史を歪曲したものです。

 こういう閉塞的な偏った状況を打破するための初めての試みとして、とても価値がある「歴史的な映画」が作られたと思います。さすがは、ドイツ!自ら、歴史観を必死に修正しようと努力しているわけですな。

 日本も、少しは見習わないと!

 


 

遠すぎた橋

             A bridge too far

 

制作;アメリカ、イギリス

制作年度;1977年

監督;リチャード・アッテンボロー

 

(1)あらすじ

 1944年9月の西部戦線。ノルマンディーの戦いに完全勝利した連合軍は、しかしその後の補給不足に悩まされ、ドイツ本国への突入を見合わせていた。

 しかし、功名心にはやるイギリスのモントゴメリー将軍は、自らが担当するオランダ戦線で、起死回生の奇襲攻撃を加えようとする。すなわち、大規模な空挺攻撃でオランダ各地の橋梁を押さえ、そこを戦車部隊が電撃突破して、一気にライン川を越えようというのだ。いわゆる「マーケットガーデン作戦」である。

 作戦は、ろくな情報収集も情勢分析もなされぬまま、ノリと勢いだけで遂行される。しかし、落下傘部隊をオランダで待ち受けていたのは、たまたま再編成中だったドイツ最強のSS機甲師団であった。各地で孤立して、各個撃破されていく落下傘兵たち。これを救援すべくベルギーから進撃したイギリス戦車部隊は、作戦を読み切ったドイツ軍の待ち伏せ攻撃を受けて苦戦に陥る。

 結局、戦線の最深部に降下したアルンヘム橋のイギリス空挺部隊は、壊滅状態になって投降した。大勢の部下を犠牲にしてイギリスに帰還したアーカート少将(ショーン・コネリー)は、作戦計画の無謀さについて上司を難詰する。しかし、ブラウニング中将(ダーク・ボガード)は、冷たくこう言い放った。「君、あれは最初から遠すぎた橋だったのだよ」。

 その間、戦場になったオランダの街や村では、罪のない住民たちが廃墟の中で苦しみ続けるのであった。

 

(2)解説

 史実を下敷きにした戦記映画としては、私が知る中では最高傑作です。

 本作品は、「マーケットガーデン作戦」という、失敗に終わった大作戦をテーマにすることで、軍隊という名の官僚機構の無情さと愚かさを克明に描き出します。また、戦争に巻き込まれて犠牲になる多くの住人の苦衷も描きます。

 音楽は勇ましいし、スター俳優は大勢登場する(ショーン・コネリー、ロバート・レッドフォード、ダーク・ボガード、ライアン・オニール、ジーン・ハックマン、マイケル・ケイン、アンソニー・ホプキンス、マクシミリアン・シェル、ジェームズ・カーン、エドワード・フォックス、リヴ・ウルマンといった物凄さ!)のですが、物語は終盤に向けて次第に哀調を帯びます。ラストシーンは、住居を戦災で奪われた家族が、手押し車に家財を積んで歩み去る場面です。

 言葉に出さずに「反戦」を訴えかけるこの映画は、ハリウッド作品では最高の戦争映画ではないかと思います。

 また、イギリス軍の将兵はイギリス人俳優が、アメリカ軍の将兵はアメリカ人俳優が、ドイツ軍の将兵はドイツ人俳優が演じることで、民族ごとの個性や文化の違いがちゃんと描けていて興味深かったです。

 言語も、英語、米語、独語が飛び交います。これは、当然といえば当然のようですが、ハリウッド映画や日本映画は、こういった配慮をしないものが意外と多いのです。 たとえば『スパイゾルゲ』という映画は、日本映画だというのに、ソ連のスターリンが側近と英語で会話したりして気味悪かったです。篠田正浩監督は、ロシア語という言語の存在を知らないのだろうか?

 リアル志向の『遠すぎた橋』ですが、欠点もあります。劇中で使用される戦車などは、明らかに映画撮影用の改造車なので、リアリティに欠けています。

 また、この映画では、広大な戦場に散らばった各部隊の戦況が次々に語られるのですが、観客に地図がまったく提示されないので、途中で、どこの部隊がどこで戦っているのだか訳が分からなくなります。この映画を観るときは、事前に地図を片手に予習をして行ったほうが良いかもしれません。というより、スクリーンの片隅に、簡単でいいから地図を定期的に表示するなどの配慮をして欲しかった。日本でテレビ放送されたときは、さすがに局側がそういう配慮をしたようですが。

 こういうことを差し引いても、ハリウッド製だけにお金も十分にかけてあって素晴らしいです。空挺部隊の出撃シーンなんて、「どうやって撮ったんだろう!」と嘆息をあげてしまう大迫力です。最近は、デジタル技術の発展によって、かえってこういう興奮を味わえなくなってしまいましたからね。

 第二次大戦の西部戦線を描いた映画は、これ一本あれば十分だと思います。

 


 

この素晴らしき世界

                        MUSIME  SI  POMAHAT

制作;チェコ

制作年度;2002年

監督;ヤン・フジェベイク

 

(1)あらすじ

 舞台は、ナチスドイツ占領下のチェコスロバキア。

 田舎町に住む、子供のいない平凡な夫婦ヨゼフとマリエは、ひょんなことから旧知のユダヤ人青年ダビドを屋根裏に匿うことになる。

 ユダヤ人を匿ったことが、占領当局に知られたら夫婦は死刑だ。しかし、マリエに横恋慕するドイツ系チェコ人のホルストは、足しげく家に出入りしてスパイのように目を光らせる。この関係に、ホルストのドイツ人上司や詮索好きな隣人がからんで、事態はますます紛糾する。

 やがて、ホルストの上司が、ヨゼフの家に同居したいと言い出した。夫婦はとっさに、「生まれてくる子供のために部屋を空けておきたい」と嘘をついて断ってしまう。彼らは、自分自身とダビドの命を守るために、どうしても子供を作らなければならない状況に追い詰められてしまったのだ。しかし、ヨゼフに子種が無いことは身体検査で明らかになっている。この絶望の中で夫婦が生き延びるためには、たった一つの手段しかない。ヨゼフは、涙ながらに愛妻とダビドを同衾させるのであった。

 やがてマリエが妊娠したため、最悪の危機は回避できた。しかし、ソ連軍の侵攻が始まり、ドイツ軍は住民を略奪しながら退却を開始。ドイツ軍の厳しい家宅捜査から夫婦を救ったのは、ドイツ市民籍を持つホルストの友情の力だった。

 やがて、この田舎町も戦火に包まれた。陣痛を始めた妻を救うために、医者を求めて街を走り回るヨゼフは、その渦中で「対独協力者」としてソ連軍に殺されかけたホルストを救出する。恩を感じたホルストは、妻を出産させた経験の持ち主だったため、医者と偽ってヨゼフの家に駆けつけ、マリエを無事に出産させるのだった。その間、ヨゼフは隣人の密告によって「対独協力者」と誤解されて処刑されかけるのだが、その疑いを晴らしてくれたのが、屋根裏から出てきたダビドだった。

 こうして、「無償の助け合い」によって、みんなが生き延びることが出来た。

 ヨゼフは、生まれたばかりの赤ん坊を乳母車に乗せて廃墟の町を歩く。すると、犠牲になった人々の霊魂が現れて、赤ちゃんに向かって笑顔で手を振ってくれた。ヨゼフは、赤ちゃんを抱え上げて、満面の笑顔で青空を仰ぐのであった。

 

(2)解説

 原題は、「みんなで助け合おう」。「情けは人のためならず」という日本の格言がしっくり来る人間ドラマである。

 登場人物の個性が実に良く描けているし、伏線の張り方も実にうまい。ユダヤ人を匿うために、お人よしの夫婦が不器用に右往左往する様子は、良質なコメディタッチで描かれているから、見ていて笑いが絶えない。

 しかも、ラストで登場人物みんなが何らかの形で嘘をついて、その嘘の力でみんなが助かって幸せになるという展開が、「性悪説」のチェコ文化らしくて実に楽しい。

 また、この作品は良質の反戦ドラマでもある。

 戦場から遠く離れたチェコの田舎町であっても、いたるところに死の臭いが漂っている。お人よしの夫婦に危機また危機が襲い掛かるのだが、どれか一つでも対応を間違えると即座に死に繋がるのであるのだから、戦争の、いやナチスの恐ろしさが肌身に感じられる。また、生き延びるために必死になる人々の姿を生々しく描くことで、人生の困難さと大切さが、スクリーンからひしひしと伝わって来る。

 私が「うまいなあ」と感じたのは、ストーリーが途中から新約聖書のモジりになる点である。夫婦の名前がヨゼフとマリエなのが、まず意味深である。そして、聖女のような心を持つマリエは、夫と同衾せずに妊娠するわけだが、これは明らかに「処女懐胎」のモジりであろう。こうして生まれた赤ちゃんは、元気な産声を上げることで、その場に居合わせたチェコ人の市民、パルチザンのリーダー、ユダヤ人、ソ連軍の兵士の顔をいっせいに喜びに包み、険悪なムードを一掃する。そして、街に出た赤ちゃんは、死んだ人々の霊魂ですら慰めてくれる。この赤ちゃんは、イエス・キリストの象徴なのだ。

 人々が互いに助け合い生き抜くことで神が生まれ、神のもとでの真の和解と平和が訪れる。なんと、前向きで明るいメッセージだろうか?

 チェコ映画の世界は、まったくもって侮ることが出来ない。そう感じた瞬間であった。

 


 

スターリングラード

        Enemy at the Gate

 

制作;アメリカ

制作年度;2001年

監督;ジャン・ジャック・アノー

 

(1)あらすじ

 実在した伝説のスナイパー、ヴァシーリー・ザイチェフの活躍を描いた戦争巨編。

 1942年のスターリングラード。ドイツ軍の猛攻にさらされたソ連軍は、市街戦に狙撃兵部隊を投入することで頽勢の挽回を図る。そのリーダーとなったのが、シベリアの猟師出身のザイチェフ(ジュード・ロウ)であった。

 ザイチェフが敵の士官を次々に倒したため、戦況はソ連側に有利となる。業を煮やしたドイツ軍は、狙撃の名手ケーニッヒ少佐(エド・ハリス)をスターリングラードに送り込み、ザイチェフと対決させる。

 虚虚実実の駆け引きの後、ザイチェフは多くの戦友の犠牲の上に、ついにケーニッヒを打ち倒した。そして、スターリングラードの戦いもソ連軍の勝利として終結するのであった。

 

(2)解説

 スターリングラード戦は、第二次大戦の独ソ戦争のハイライトであり、過去に何度も映画化されている。しかし、実在の狙撃手を主人公に据えて狙撃兵同士の死闘を描いたのは、この映画が初めてではないだろうか?その意気を高く評価したい。

 しかしながら、アノー監督の演出は、あまり褒められたものではない。

 まず、ザイチェフの個人的な武勇と人生に焦点を絞りすぎるため、戦争の全体状況がまったく語られないのである。そのため、予備知識を持たずにこの映画を観た観客は、劇の背景が最後まで良く理解できないはずだ。

 私が呆れたのは、ザイチェフとケーニッヒの最後の対決がソ連軍の敗走の最中に行われ、そして決闘がザイチェフの勝利に終わった次のシーンで、いきなりソ連軍が逆転勝利したことになっている点である。この唐突な展開には驚いた。まるで、ザイチェフがケーニッヒを倒したことで、数十万人規模の戦局全体が大逆転したかのように見えてしまうのだ。

 史実では、ジューコフ元帥率いるソ連の主力部隊がドイツ軍の手薄な横腹を突き破り、その背後に回り込んで補給を断ったため、ソ連は勝利できたのだ。しかし、この状況説明が劇中でまったくなされないので、予備知識の無い観客は何が起きたのか分からずに、さぞかし途方に暮れたことだろう。せめてソ連戦車の大軍が雪原を突き進むシーンを挿入するなどして、状況説明を行うべきだったと思う。2人の狙撃兵の撃ち合いで戦局全体がひっくり返るほど、あの戦いは甘いものではなかったはずだからだ。

 また、ラヴシーンの汚らしさには閉口した。アノー監督に限らず、フランス人監督は性愛の描き方が独特で、国民性の違いを強く感じてしまう。確かに、戦時下のラヴシーンが美しくなるはずはない。それは確かにそうである。しかし、陰惨なシーンが連続する戦争ドラマでは、せめてラヴシーンくらい美しく演出できないものだろうか?無意味なリアル志向には、私は批判的である。

 また、言語の問題も気になった。主人公ザイチェフとその仲間たちは、ロシア人であるにもかかわらず英語で会話をする。まあ、これはアメリカ映画なのだから仕方ない。しかし、対するドイツ軍もみな英語で会話するのには閉口した。この映画は、異文化の対決を背景にしているのだから、言語の違いは明確にするべきだと思う。たとえば、ドイツ軍将校であるケーニッヒがロシア人少年とスムーズに英語で会話するシーンには違和感を感じた。いったい、劇中で彼らは何語で会話を交わしたことになっているのだろうか?幼い少年がドイツ語ペラペラとは考えにくいし、ケーニッヒがロシア語に堪能であるという状況説明は、少なくとも劇中ではなされていなかった。

 私は、そういうことに非常にこだわるのである。逆に、『戦争のはらわた』や『遠すぎた橋』を高く評価する理由は、言語の問題がきちんと解決されているからである(敵陣営は、ちゃんと異なる言語を話していた)。

 性愛はリアルに汚く描くくせに、言語や文化の問題は出鱈目。こういうところに、近年のハリウッド映画の幼稚さを感じてしまう。

 それでも、一見の価値はある映画だとは思う。少なくとも、『ローレライ』や『スパイゾルゲ』よりは百倍はマシである。


 

アラビアのロレンス

             Lawrence of Arabia

 

制作;アメリカ

制作年度;1962年

監督;デヴィッド・リーン

 

(1)あらすじ

 舞台は、第一次大戦下のアラビア半島。アラブ人たちは、オスマントルコ帝国の臣民として服従を余儀なくされていた。

 アラブ人の不満を知ったイギリス軍の変わり者の連絡将校トーマス・E・ロレンス(ピーター・オトゥール)は、敵国トルコを弱めるため、アラブの諸部族を団結させて反乱を起こさせようと画策する。

 やがて、ファイサル王子(アレック・ギネス)率いるアラブの反乱軍を先導したロレンスは、アカバ港の攻略など次々に殊勲を打ち立て、母国の英雄となった。彼は、ファイサルや盟友アリー(オマー・シャリフ)とともに、戦後のアラブ独立国の樹立を夢見るようになる。

 しかしロレンスは、母国イギリスが、アラブの領土をフランスとの間に分割する秘密協定(サイクス=ピコ協定)を結んだことを知ってしまう。母国の利益とアラブの夢の間に板ばさみになった彼は、大いに悩み苦しむ。しかし、シリアの首都ダマスカス占領時に明らかとなったアラブ人酋長たちの無知蒙昧さと野蛮さに絶望し、そのまま母国へ帰還してしまうのであった。

 やがて、無名の退役将校となった彼は、オートバイ事故で命を落としてしまう。

 

(2)解説

 アカデミー賞に輝く歴史超大作である。

 壮麗な音楽と見事なまでの砂漠の遠景は、観客を大いに圧倒する。黄色い海を背景に、ラクダや馬にまたがったアラブ軍団が行進する姿は、いつまでも忘れがたい印象を残す。「これぞ、大作映画」といった感じである。映画は、こうでなくちゃと思わせる。

 しかし、演出や脚本には、歴史ファンの立場からは大いに疑問がある。

 まず、全体的に感じたのは、アラブ人に対する「差別意識」である。

 劇中に登場するアラブ人は、科学的知識をまったく持たない未開の野蛮人として描かれる。唯一の例外が、アラブの指導者であるファイサル王子だが、その彼でさえ、上空を舞うトルコ軍の飛行機に向かって刀を振り上げて切りかかろうとするシーンがある。

 また、アラブの騎兵隊が突撃をかけるシーンは、必ず「あわわわわわ」と甲高い奇声を伴うのだが、これはまるでアメリカインディアンと混同しているとしか思えない。

 そしてアラブ人は、占領地域では略奪することしか考えない。

 映画の最後のほうで、ロレンスはトルコから奪い取ったダマスカスの街において、アラブ人の臨時政府を主宰しようとする。しかし、参集したアラブの酋長たちは、互いに罵りあうばかりで具体的な統治をまったく行おうとしないため、街の火災は一向に鎮火できないし、略奪や暴行も止む気配を見せない。そこでロレンスは、全てを諦めて母国へ帰ってしまうのである。この物語の流れだと、アラブが独立国を持てなかった理由は、彼ら自身の愚かさと後進性のためだと思えてくる。

 しかし、これは歴史的には間違いである。実際のアラブ人は、もっと賢かったはずである。また、史実のロレンスは一介の連絡将校だったのだから、彼自身が軍隊を率いたはずはない。アラブ騎馬軍団を勝利に導いた戦略戦術は、すべてファイサル王子の才能の賜物であったはずである。

 それなのに、第一次大戦後、アラブが独立国を持てなかった本当の理由は、イギリスやフランスといった帝国主義列強のエゴのためである。彼らは、石油などの利権目当てに、アラブ人の居住地域を情け容赦なく奪い取ったというのが歴史の真相なのである。アラブの後進性とは、まったく関係ない。

 つまり、『アラビアのロレンス』というのは、はっきり言わせて貰えば、白人優位主義に凝り固まった人種差別映画なのである。ファイサルを演じたのが、イギリス人俳優のアレック・ギネスであることが、その象徴である。

 しかし、こういった歴史の歪曲、そしてイスラム教徒や有色人種に対する人種差別は、現在のアメリカにも色濃く残る深刻な病根である。彼らの夜郎自大な傲慢さこそが、アフガニスタンやイラクに住む罪のない人々を苦境のどん底に叩き込んだのだ。

 そう考えながらこの映画を観ると、様々な感興を味わえるのである。


 

スパイゾルゲ

 

制作;日本

制作年度;2003年

監督;篠田正浩

 

 ひどい映画でした。

 これほど詰まらない映画を観たのは、本当に久しぶり。

 もっとも、私が日本映画を観て満足を感じたのは、ここ10年くらいありませんね。標準レベルの満足を感じたのは、『踊る大捜査線』の1作目くらいだったかな。『たそがれ清兵衛』も『半落ち』も『リング』も、何が面白いんだか全く分からなかったです。客観的に見て、日本映画はレベル低すぎ!

 そんな中でも、篠田正浩監督の引退作品(?)と言われる『スパイゾルゲ』は、酷評するに足りるだけの超絶的駄作だったので、ここで採り上げます。この映画の評論をすることによって、最近の日本映画が詰まらない理由の一端に迫りたいと考えています。

 さて、この映画の主人公は、実在のスパイであったリヒャルト・ゾルゲ博士(イアン・グレン)です。彼はドイツの特派員という肩書きで東京に赴任するのですが、その正体はソ連の息がかかった「国際的共産主義者」でした。彼は、日本やドイツのファシズムを打倒することが全世界の平和に繋がると考えて、カネだけでなく自らのポリシーでソ連のためにスパイ活動をするのです。

 ゾルゲの活躍のうち、歴史を変える決め手となったのは、独ソ戦争(1941年6月〜)において日本が中立を保ち、逆にアメリカやイギリスに攻撃をしかけるだろうことを探知した点です。この情報を得たスターリンは、極東の兵力を引き抜いてモスクワ前面に迫ったドイツ軍を食い止め、そして戦局を逆転させることに成功したのでした。

 しかし、やがてゾルゲは日本の特高警察に逮捕され、終戦間際に処刑されてしまいます。そして彼が信じたソ連も、その信頼に値するだけの正義の国ではなかったのでした。

 テーマ的には、非常に面白いですね。私が、過去に数知れないくらい何度も何度も日本映画に騙されたにもかかわらず、わざわざ映画館に足を運んだのは、まさにそのためでした。

 この映画の売りの一つは、CGで昔の上海や東京の町並みを再現していること。確かに綺麗ではあったけど、一瞬しか映らないし、しょせんはCGだから立体感が無くて薄っぺらでした。がっ かりだ。

 それ以上に問題を感じたのは、ストーリーの焦点がまったく定まらずにボケている点です。つまり、いったい何を語りたいのかが見えてこないのです。226事件の全貌や近衛文麿(榎木孝明)内閣の成立の過程や農村の疲弊ぶりが丁寧に語られるのですが、別に、そんなのゾルゲの活動には関係ないじゃん。篠田監督は、主人公であるはずのゾルゲを狂言回しに据えて、昭和の日本を書きたかっただけなのでしょうか。実際問題、ゾルゲが世界史に成し遂げた重要な仕事については、おざなりな説明と簡単な演出でスルーされていました。そのため、彼の活躍の重要さが、まったく観客に伝わらないのです。

 ゾルゲの本質は「国際的共産主義者」です。世界を共産主義の理想で包むことによって、完全平和を達成するのが彼の生涯の理想だったのです。だからこそ、彼は命がけでスパイ活動をしたのです。この考えが夢想に過ぎなかったことは、現在に住む我々は良く知っています。しかし、あの狂気の時代に「世界の完全平和」という壮大な夢を描いて活躍したゾルゲは、もっとそのヒーロー性を強調されて良いと思うのです。しかし、この映画では、ゾルゲのそういう側面についてほとんど語られません。通り一遍の説明があるだけなので、予備知識のない観客には何のことだか理解できないでしょう。

 また、キャスティングも悪い。ゾルゲの盟友であった尾崎秀実は「国際的共産主義者」の一人でした。彼は、思想を共有する同志として、ゾルゲに協力したのです。しかし、尾崎を演じた本木雅弘からは、そういった思想性がまったく感じられません。モッくんがバカっぽいとか、そういうことを言いたいわけじゃなく、彼からは「思想かぶれのインテリゲンチャー」の持つ独特の臭いがまったくしないのです。だからこそ、「国際的共産主義」の大義に説得力を持たせることが出来ず、ゾルゲ一派が単なる昭和の「狂言回し」としか見えなくなってしまう。

 言語の問題も気になりました。この映画では、日本人以外の人物は、みな「英語」だけを話します。ゾルゲも常に英語を使います。演じたイアン・グレンが、イギリス人だからでしょうか?しかし、実際のゾルゲはドイツ語とロシア語の使い手だったはずなのです。歴史上のゾルゲは、全世界を視野に入れた国際的な人物だったのだから、数ヶ国語を流暢に話す場面をぜひとも設定するべきでした。そうじゃないと、この人物の国際的な理想を上手に表現できないことになります。せめて、ドイツ人俳優にゾルゲを演じさせるべきでした。

 また、ドイツの大使館員同士、それにソ連のスターリンと側近も、劇中で英会話をしていましたが、これもとても奇妙に感じました。篠田監督は、どうしてドイツ語やロシア語を用いようとしなかったのでしょうか?

 以上のことから分かるのは、篠田監督が、ゾルゲという国際的な人物を主人公に据えたにもかかわらず、その理想にまったく共鳴しておらず理解もしていないという点です。篠田監督は、残念ながら「国際人」ではないのです。あくまでも、島国に精神世界を拘束された「日本人」に過ぎないのです。そのような人物が、国際的な映画を撮ろうとしたこと自体が間違いだったのです。日本語以外の言語を、すべて「英語」に統一してしまったことからも、彼の国際的な視野の狭さが窺えます。

 映画のテンポも非常に悪かった。焦点の定まらない退屈な話がダラダラと続くので、2時間もしないうちに欠伸が出てきます。周囲の観客の反応を窺うと、みんなそうでした。居眠りを始めたり生あくびを始めたり。

 ただでさえ退屈なのに、余計なシーンも多かったですね。近衛文麿が自殺する場面を延々と描く必要がどこにあるのか?ゾルゲが処刑される場面や、戦後にその遺骨が発掘される場面とか、本当に必要だったでしょうか?しかも、その場面の BGMがジョン・レノンの「イマジン」だったりする。ゾルゲの「完全平和」の理想について、それまでまったく語ろうとしなかったくせに、死んだ後になって世界平和の歌を流すとは、なんという出鱈目さでしょうか?ビートルズファンの立場からも、本当に腹が立ちました。

  映画というものは、良質の交響曲でなければなりません。主旋律と従旋律が交互に折り重なって深みを持っていなければなりません。しかし、最近の日本映画はそれがまったく出来ていません。たとえるなら、シンセサイザーを単音で鳴らしているようなものなのです。

 どうしてなんでしょうね?