映画評論  PARTU


目 次

1.存在の耐えられない軽さ     1988年 アメリカ

2.暗い日曜日           2002年 ドイツ、ハンガリー

3.モーターサイクル・ダイアリーズ 2004年 イギリス、アメリカ 

4.グラディエーター        2001年 アメリカ

5.キング・アーサー        2004年 アメリカ

6.エクスカリバー         1981年 イギリス

7.キングダム・オブ・ヘブン    2005年 アメリカ

8.アレキサンダー         2005年 アメリカ

9.ウインドトーカーズ       2001年 アメリカ 

10.プライベートライアン      1998年 アメリカ

11.シンドラーのリスト       1993年 アメリカ

12.戦場のピアニスト        2002年 ポーランド、フランス

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存在の耐えられない軽さ

            The Unbearable Lightness Of Being

 

制作;アメリカ

制作年度;1988年

監督;フィリップ・カウフマン

 

(1)あらすじ

  舞台は、1968年のチェコスロバキア。

 プラハの病院に勤務する優秀な脳外科医トマーシュ(ダニエル・デイ・ルイス)は、享楽主義のプレイボーイである。彼の最も親しい愛人は、画家のサビナ(レナ・オリン)だ 。

 しかし、地方の温泉町に出張に出かけたトマーシュは、そこでトルストイの著作を愛するウエイトレスのテレザ(ジュリエット・ビノシュ)と出会う。惹かれあった二人は、やがてプラハで同棲を始め、ついには結婚する。それでもトマーシュは、サビナら過去の愛人との関係を清算できず、ズルズルと浮気を続けるのであった。

 この当時のチェコスロバキアは、社会主義体制であるにもかかわらず「プラハの春」という民主化運動に覆われていた。トマーシュも、社会主義を非難する言説を雑誌に投稿した。しかし8月、ソ連軍を中核としたワルシャワ条約機構軍50万がチェコに侵攻を始め、民主化運動を容赦なく叩き潰すのだった。

 ソ連占領軍の横暴に失望したサビナは、スイスに亡命する。トマーシュとテレザ夫婦も、その後を追う。しかし、夫が亡命先でもサビナとの爛れた関係を続けるのを見たテレザは、悲しみのあまり単身プラハに引き返してしまった。「人生は、あたしにとっては重過ぎるのに、あなたにとっては存在が耐えられないほど軽いのね」との置手紙を残して。

 トマーシュは、結局、妻を追ってプラハに戻った。しかし、社会主義を非難する言説の撤回を拒否したことから、当局の圧力で病院を追われ清掃夫に転落してしまった。テレザも、家計を支えるために場末のバーで働くが、秘密警察に付きまとわれる。

 これが、ソ連介入後に凶悪な社会主義政権が推し進めた「正常化」の実態なのだった。

 ノイローゼになった妻を守るため、トマーシュはかつて彼が命を救った患者の縁で、地方の農村に転居して農夫となった。しかし、夫婦はパーティーの帰り道、自動車事故で最期を迎えるのであった。

 この悲しい知らせを、サビナは亡命先のアメリカで受ける。

 

(2)解説

  原作は、チェコスロバキアが生んだ偉大な文学者ミラン・クンデラの同名の小説である。チェコ文学の特徴として性愛描写は露骨で過激、映画でも女優たちのヌードが乱舞していた。しかし、逆説的ではあるが、私の知る限り、これは世界最高の「純愛文学」であり「純愛映画」なのである。

 私が、原作で不覚にも涙した場面は2つ。夫婦の愛犬カレーニンが老衰で死に至る場面と、夫婦が事故に遭う直前に踊る最後のスローダンスの場面だ。「僕が君を愛していることが、どうして分からないの?」というトマーシュの言葉を読んだ瞬間、涙が止まらなくなった。映画でも、これらのシーンがきちんと表現されていて見事だった。カウフマン監督は「良く分かっているなあ」と感じた。

 アメリカ資本による映画だから、物語の舞台がチェコであるにもかかわらず、登場人物がみんな英語を喋るのだが、まあこれくらいは許してあげよう。同じ国の中で、みんなが英語を喋るのであれば、異文化に対する侮辱に繋がらないと思うからである。

 俳優たちの演技も、実に見事だった。ダニエル・デイ・ルイスは、軽薄なドンファンでありながら優秀な脳外科医であり、そして愛妻家でもあるという複雑なトマーシュの内面を見事に演じきった。ジュリエット・ビノシュも、純真なテレザの魅力を余すところ無く表現した。サビナ役のレナ・オリンも、原作の知的で男勝りなイメージを上手に捉えていたと思う。

 ビノシュとオリンは、最近になって『ショコラ』という映画で共演を果たした。しかし、二人ともすっかりオバサンになってしまって、往年の色香が無くなっていたのが悲しい。ダニエル・デイも、『ギャング・オブ・ニューヨーク』で久しぶりに見たが、演じたのがつまらない悪役だったので、彼の優れた技量が発揮できていなかったように思う。

 歴史ファン兼チェコファンの立場からも、この映画は実際の記録フィルムを用いて「プラハの春」の崩壊と「チェコ事件」の悲惨さを克明に描いていたので価値がある。そして、その後の「正常化」の恐ろしさも肌身に感じることが出来る。

 ぜひ、原作と映画の両方に触れることをお勧めしたい。

 


暗い日曜日

               Gloomy Sunday

 

制作;ドイツ、ハンガリー

制作年度;2002年

監督;ロルフ・シューベル

 

(1)あらすじ

 第二次大戦前に世界中で流行したシャンソン「暗い日曜日」は、これを聴いた者が次々に自殺を遂げることから「自殺の聖歌」と呼ばれた。この歌の製作秘話とからめて、ハンガリーの悲惨な時代を描いた名画である。

 舞台は、1930年代末のハンガリーの首都ブタペスト。ユダヤ人ラズロー(ヨアヒム・クロール)は、レストラン経営でその商才を発揮していた。彼の恋人は、店の専属歌手兼 ウエイトレスのイロナ(マロジャーン・エリカ)だ。しかし、ピアノ奏者として店に雇われた若者アンドラーシュ(ステファノ・ディオニジ)の登場が、三角関係の始まりだった。ラズローは煩悶するも、やがてこの三角関係を受け入れて、イロナをアンドラーシュと共有する。

 こうして、三人の奇妙な生活が始まった。やがてアンドラーシュは、イロナの誕生日に自ら作った曲をプレゼントする。その名は「暗い日曜日」。この曲に惚れこんだラズローは、レコード会社やラジオ局とのコネを用いて大々的に売り出した。レコードは世界中で爆発的に売れ、お陰で店も大繁盛だ。

 しかし、大不況とナチスの猛威が世界を覆う中、「暗い日曜日」を聴いた直後に自殺する者が続出した。「君のせいではない」とラズローは慰めるが、深く思い悩むアンドラーシュ。

 やがて、ハンガリーはナチスドイツの影響下に置かれた。ブダペストに駐留した行政担当官は、かつて店の常連だったドイツ青年ヴィーク(ベン・ベッカー)であった。彼は当初、命の恩人であるラズローをユダヤ人でありながら優遇するが、戦局の悪化に連れて次第になりふり構わなくなって行く。祖国の敗北を予期した彼は、富裕なユダヤ人から財産を巻き上げて、戦後に一旗あげようと目論むのだった。

 そんな中、アンドラーシュは、封印していた「暗い日曜日」を演奏するようにヴィークに強要されたため、ピアノを弾き終えた直後に拳銃自殺してしまう。そしてラズローも、ヴィークの野望の犠牲となってアウシュビッツに送られてしまう。そしてヴィークは、ラズローを救うからと嘘をついて、その見返りにイロナの肉体を弄ぶのだった。

 それから60年後、目論見どおりに大富豪となったヴィークは、懐かしさに惹かれてブダペストのあのレストランを訪れるが、料理を口にしたとたん突然の心臓発作に斃れる。喧騒の中、レストランの厨房では、老いたイロナがラズローの遺した毒薬の瓶を洗っているのだった。「暗い日曜日」を口ずさみながら。

 

(2)解説

 映画館に見に行って感動し、DVDが出てからもレンタルで二度続けて見た。

 私は、チェコに限らず中東欧の旧ハプスブルク帝国圏が大好きで、強い郷愁を感じてしまう人なのだ。ハンガリーを訪れたこともあるので、ブダペストの名所が画面に登場するだけで胸がワクワクしてしまう。

 もちろん、この映画の魅力はそれだけではない。登場人物の個性が本当に良く磨かれているし、脚本が本当に良く練られていた。俳優も日本では比較的無名な人ばかりだが、みんな演技達者なので感心した。ヒロインの見事なヌードシーンも多いし(笑)。

 劇中でもっとも印象的な人物は、ドイツ人のハンス・ヴィークだろう。彼は最初は、気弱な写真家志望の若者として登場する。イロナに恋心を打ち明けて振られると、鎖橋の上からドナウ川に身投げして、危ういところをラズローに救われるような小さな存在だった。それが、ナチスの将校になったとたんに権高になり、かつて恩を受けた人々に対しても命令口調になる。それなのに、彼はナチスの大義などまったく信じておらず、私欲を満たす手段として権力を悪用するのである。ついには、カネのために命の恩人であるラズローをアウシュビッツ行きの貨車へと送り込み、イロナに対する邪悪な欲望を成就するのだった。ベン・ベッカーは、実に見事な演技で、この複雑な人物を表現していた。

 ナチス将校の「悪」を描いた映画は数知れずあるが、この映画は最もリアルだと感じた。ヴィークのような人物は、ナチスに限らず、古今東西を問わず、世界中のあらゆるところに存在すると感じられるからだ。現在の日本にも、権力や名誉を手に入れて堕落する人間は大勢いる。

 「悪」とはいったい何か?私は、しばし思考の海に沈んでしまった。

 ストーリーは、タイトルのとおりに暗い。しかし、劇のテンポが非常に良いし、シューベル監督の技量は圧倒的な説得力でラストまで観客の興味を引っ張って行く。

 これは、万人にお勧めできる必見の映画である。

 


モーターサイクル・ダイアリーズ

                                    The Motorcycle Diaries

 

制作;イギリス、アメリカ

制作年度;2004年

監督;ウォルター・サレス

 

 DVDで見た。

 キューバ革命の英雄チェ・ゲバラの自伝を元にしたロードムービーである。

 舞台は、1952年のアルゼンチン。大学の医学部卒業を間近に迎えた23歳のエルネスト・ゲバラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、喘息持ちの体を家族に心配されながら、友人アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)のバイクに同乗して南米大陸縦断の旅に出る。

 無茶な運転がたたって、オンボロバイクは途中で大破。しかし、陽気な二人は、時には喧嘩をしながらも、ヒッチハイクで初志を貫徹しようとする。

 『モーターサイクル・ダイアリーズ』という映画なのに、バイクに乗っているのは冒頭だけかよ(笑)。

 様々な出会いと別れの中、二人は次第にこの世の実情に気づいていく。アルベルトは自らが志す医療の重大さを再認識する。そしてエルネストは、もっと大きな社会や政治の矛盾に目を向けていくのだった。

 ストーリーは、いたって単純である。ロードムービーだけに、南米の雄大な自然が豊かに広がるし、インカのマチュピチュ遺跡も描かれる。こういうのは、本当は映画館の大画面で見たほうが良かったんだろうね。

 印象的だったのは、二人の俳優の演技だ。最初は、世間知らずのお坊ちゃんで女のことしか考えていなかった二人が、次第に鋭い眼光を持つ背筋の張った人物に変貌していく様子が丹念に表現されるのだ。彼らは、苦しい冒険を経て子供から男へと成長したのである。

 長期のしかも困難を伴う旅行は、人間の心と視野を大きく成長させる。まさに「可愛い子には旅をさせろ」だ。私の場合は、せいぜい一人でハンガリーの辺境を放浪した経験がある程度だが、それでもその旅行のおかげで随分と見識が広がったように思う。

 若い人たちがこの映画に感動し「よし、自分も」と思ってくれたら嬉しい。

 なお、この映画で若き日のゲバラを演じたガエル・ガルシアは、テレビドラマで壮年期のゲバラも演じているらしい。でも、あまりこちらは見たくないな。ガエルは、顔は確かに似ているけれど、どこか線が細い感じがして、実物のゲバラとは程遠い感じがするのだ。下手に実像が知られすぎているカリスマ的な人物は、そこら辺の若手俳優には演じるのに荷が重いのじゃないかと思う。

 


グラディエーター

                         GLADIATOR

 

制作;アメリカ

制作年度;2001年

監督;リドリー・スコット

 

(1)あらすじ

 舞台は紀元2世紀のローマ帝国。ドナウ防衛線では、マルコマンニ族とローマ軍団の死闘が続けられていた。

 戦場に立つ老いた皇帝マルクス・アウレリウス(リチャード・ハリス)は、自らの後継者として高潔な戦場の名将マキシムス(ラッセル・クロウ)を指名しようとする。しかし、それを知ったマルクスの子コモドゥス(ホアキン・フェニックス)は、父を暗殺すると同時にマキシムスに謀反の罪を着せて処刑しようとした。命からがら脱出したマキシムスは、故郷で妻子が皆殺しにされているのを知って復讐を誓う。スペインに移った彼は、そこで剣闘士に身をやつし、時節の到来を待った。

 やがて、ローマに国中の剣闘士が集められ、大競技会が開催されることとなった。ローマ皇帝となったコモドゥスは、その暗愚さが元老院に嫌われたため、帝位を保つために民衆の歓心を必要としていた。その手段として、莫大な国費を費やす大競技会を開催したのである。

 競技場に立った剣闘士マキシムスは、卓越した技量で名声を獲得していった。その正体に気づいた皇帝は、彼を亡き者にしようと画策するが、マキシムスの強さの前にどうしてもうまく行かない。

 やがて、皇帝を憎む元老院がマキシムスと手を握ろうとする。皇帝の姉も、密かに旧知の彼を支援する。

 ついに追い詰められた皇帝は、自らが剣闘士となってマキシムスに挑む。マキシムスは、私怨のためではなく、みんなのために最後の決闘に臨むのであった。

 

(2)解説

 2001年のアカデミー賞受賞作。

 私は、リドリー・スコット監督のファンである。『エイリアン』と『ブレードランナー』でその独特の様式美に魅了され、それ以来注目し続けている。

 この監督は、美術家出身のためか映像の様式美に非常にこだわる人なのだが、それ以上にストーリーを重視するから偉い。原作付きの場合は原作を、歴史物の場合は歴史を最大限にリスペクトするのである。だから、私のような歴史マニアでも、安心して彼の映画を観ることが出来るのだ。

 最後の五賢帝マルクス・アウレリウスが前線で病死した後、その暗愚な子コモドゥスが後を承継したことについては、歴史家の間で物議がある。場所が戦場に近く情報統制が利きやすいだけに、なんらかの陰謀が疑われると言うのだ。塩野七生氏は、名著『ローマ人の物語』の中で「陰謀説」に対して丁寧に反証しているが、スコット監督はこの「陰謀説」を巧みに利用して、剣闘士が活躍する冒険ロマンに深みと厚みを与えたのだ。

 しかも、この映画では、ローマ帝国における皇帝と市民と元老院の微妙な力関係や駆け引きの様子が、史実通りに組み上げられていて、歴史ファンの立場からは本当に素晴らしいと思った。

 俳優について言えば、マキシムスを演じたラッセル・クロウは見事だが、それ以上にコモドゥスを演じたホアキン・フェニックスが良かった。父に愛されない息子の悲哀、日増しに深まり行く権力者の孤独を、実に繊細に、しかし力強く演じていたと思う。

 難点を言えば、猛獣との剣闘シーンでのCG合成の使い方は今一つだった。CGの欠点は、本質的にアニメと同じ原理であるため、質感や立体感が保てないことだ。CG技術の発展は、確かに派手なアクションを可能にしたかもしれないが、使いどころが難しいと思う。そういう意味で、デジタル技術の進歩によって往年の名作史劇(『ベン・ハー』など)を真似ることは出来ても、越えることは難しいだろう。

 また、主人公マキシムスを「善人」に描きすぎているのが、物足りないといえば言える。彼は、勇猛無比な名将であるにもかかわらず、無欲恬淡で、いつも妻子や田園のことばかり考える優しい男という設定になっていた。なんか、嘘っぽい。もうちょっとピカレスクな感じで、欠点もある人物として描いたほうが、せっかく歴史背景が緻密に描けているのだから、むしろ主人公の魅力が引き立ったのではないかと思われる。

 ハリウッド映画を観ていていつも思うことは、「人間の描き方が甘い」という点である。「この程度の演出でアカデミー賞をもらえるのか!」と、いつも疑問を感じてしまう。

 それでも、最近の日本映画よりは随分とマシなのだが。

 


キング・アーサー

                      KING ARTHUR

 

制作;アメリカ

制作年度;2004年

監督;アントワン・フークワ

 

(1)あらすじ

 舞台は、紀元415年のイギリス。

 衰退期のローマ帝国は、ダキア(ルーマニア地方)の異民族の子弟を傭兵に仕立て、彼らにイングランドの防衛を委ねていた。兵役期間の満了を間近に控えた6人の傭兵を束ねるのは、ローマ人の血を引くアルトリウス将軍(クライヴ・オーウェン)である。

 イングランド在住のローマ人たちは、高まり行く異民族の圧力に脅え、次々に大陸へと撤退していく。アルトリウスと6人の戦士たちは、反抗的な原住民ウォード族や、海を渡って攻め込んでくるサクソン族の猛威から必死に同胞を守ろうとするが、ローマ貴族や聖職者の傲慢さと腐敗ぶりを前にして、自分たちの大義に疑問を感じ始めていた。

 ついにローマ貴族と対立したアルトリウスたちは、ローマのためではなくイギリスのために、侵略者サクソンと戦う決意をする。ウォード族と手を組んでサクソンを迎え撃ったアルトリウスは、多くの犠牲を払いながらも勝利し、ついにアーサー王として君臨するのだった。

 

(2)解説

 アーサー王伝説を、史実に忠実に映画化した初めての試みである。その意気を高く評価したい。

 歴史上のアーサーは、ローマ領ブリタニア(イギリス南部)に駐屯する騎兵将軍アルトリウスだったと言われている。彼は、侵入を繰り返す異民族との戦いに連戦連勝し、40年以上にわたってこの島に平和をもたらした英雄であった。その思い出が、後に中世の吟遊詩人の手によって、アーサー王と円卓の騎士、そしてキャメロット城の栄光や聖杯伝説へと姿を変えていったのだと言われている。

 映画のストーリーも、比較的良く練られていたと思う。アーサーを補佐した魔法使いのマーリンを原住民ウォードの族長という設定にして、グイネビアをその娘ということにして、彼女とアーサーの結婚を種族間の政略結婚だったことにするなど、「なかなか上手だな」と思った。ランスロットとグイネビアの不倫が描かれなかったのが物足りないが、まあ仕方ないだろう。

 映画に登場する「円卓の騎士」は6人。ランスロット、ガーウェン、トリスタン、ボールス、ダゴネット、ガラハッドである。それぞれ、なかなか個性豊かに描けていたと思う。伝説上の同名の人物とは、随分とキャラが変わってしまっていたが(笑)。

 ただ、非常に違和感を覚えたのは、アルトリウスの率いる人数がこの6名だけだという点である。6名は、士官であると同時に雑兵なのだ。つまりこの映画は、主人公を含めてわずか7名の戦士が敵の大軍と戦う物語なのである。いくらなんでも、それは有り得ないだろう!

 フークワ監督は、「黒澤明の『七人の侍』に憧れたから7名の騎士の活躍を描いたのだ」などとコメントしたらしいが、本気で言っているなら正気を疑う。『七人の侍』と『キング・アーサー』では、ストーリーの規模も戦場の大きさも段違いだからだ。戦闘シーンなどは、そういうわけで、非常に変てこなものとなっていた。

 どうやらこの映画は、ストーリーの規模の割には予算不足だったようだ。雑兵役のエキストラを十分に確保できなかった理由も、ここにあるのかもしれない。考えてみたら、主役クラスの俳優も無名の人ばかりだった。プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーは、「史実ベースのアーサー」が興業的に成功するという確信が持てなかったのだろうか。

 文化よりもカネを最優先するハリウッドシステムの問題点を、ここに垣間見たように思った。

 


エクスカリバー

       EXCALIBUR

 

制作;イギリス

制作年度;1981年

監督;ジョン・ブアマン

 

(1)あらすじ

 舞台は、混沌とした中世戦乱期のブリテン。

 魔法使いマーリン(ニコル・ウイリアムソン)は、最強の豪族ウーサー王の望むままに、魔法を用いて、彼をコーンウォール候の后イグレーヌと同衾させる。こうして生まれた不義の子がアーサーだ。しかし、その後の戦いでウーサーは戦死し、マーリンは赤子のアーサーを民間に隠した。

 成長したアーサー(ナイジェル・テリー)は、ふとしたことから王の証である聖剣エクスカリバーを突き立った岩から引き抜くことで、自分の素性を知る。マーリンの補佐を得た彼は、敵対勢力を次々に打ち破り、ランスロット(ニコラス・クレイ)ら勇敢な騎士たちを味方につけ、ついにイギリス全土を統一して平和をもたらすのだった。王はマーリンの助けを借りて、騎士たちのために彼らの座る円卓を設け、キャメロットの地に壮麗な城を築く。

 しかし、平和が続くうちに、次第に堕落と陰謀がキャメロット王国に忍び寄る。イグレーヌの娘モーガナ(ヘレン・ミレン)は、邪悪な魔女に成長していた。彼女は、異父弟アーサーの没落を画策し、手始めにマーリンを罠にはめて幽閉してしまう。その間、ランスロット卿とグイネビア后が不倫を始め、それに気づいたガーウェン卿(リーアム・ニーソン)とランスロットが不和となり、キャメロットは暗黒時代を迎えるのだった。

 この窮地を救えるのは、キリストが最後の晩餐に用いた「聖杯」の力しかない。パーシバルら勇敢な騎士たちは、モーガナの妨害を乗り越えて、ついに聖杯を手に入れる。パーシバルが聖杯に汲んだ水をアーサーに飲ませると、老いた王は生気を回復し、そしてモーガナとその子モードレッドに最後の戦いを挑むのであった。

 

(2)解説

 私は、ジョン・ブアマン監督が大好きだった時期がある。リドリー・スコット監督も好きなのだが、この人もイギリス出身だ。どうやら、私の感性はイギリス人に近いらしい。そういえば、軽音楽もブリティッシュ・ロック&ポップスの世界が大好きだ 。

 さて、『エクスカリバー』は、アーサー王伝説を最も忠実に描いた映画である。

 この映画は、『キング・アーサー』と違って「歴史」にはこだわっていない。劇中で、きちんと(?)魔法や聖杯が描かれる。つまり、トーマス・マロリーの著した『アーサーの死』に忠実に物語が進められるのだ。

 印象的なのは、画面の異様な暗さである。剣と魔法のファンタジー映画なのに、戦闘シーンは妙にリアルで生臭い。首は飛び腕はちぎれ、血しぶきがあがる。そのため、「子供向け」の印象はまったく無い。逆に、ヌードやセックスのシーンが露骨なので、子供は見るべきでないだろう。純粋な大人のための映画なのである。

 ただし、長大な物語を2時間台の映画に纏めるために、原作を改変した箇所も多い。原作では、マーリンを迷いの森に幽閉するのは、モーガナではなくて妖精のヴィヴィアンである。また、聖杯を発見するのはパーシバルではなくてガラハッドである。モードレッドは、映画のように最初から敵対していたわけではなく、原作ではラスト近くまでアーサーの忠臣を演じていた。

 残念に思ったのは、最後の円卓の騎士の破局シーンが中途半端だったことだ。原作では、ランスロットとガーウェンの派閥対立に、妻を寝取られたアーサーの嫉妬がからんで内部抗争が始まり、それに付け込んだモードレッドが謀反を起こすという派手なストーリーだった。

 これに対して、映画では、あくまでもアーサーとモードレッド(とモーガナ)の二項対立しか語られない。それでも、最後の円卓の騎士の行軍シーンで舞い散る花びらとワーグナーの音楽のコンビネーションには感涙を浮かべてしまったのだが。

 また原作では、アーサーと和睦したランスロットが、最後の戦いで王のために援軍を発するものの惜しくも間に合わなかったことになっている。これが映画だと、ランスロットが単身で戦場に斬り込んで、アーサーの窮地を救って息絶えるという落ちになっていた。これには少々、違和感を感じた。

 個人的な話だが、筆者は原作のガーウェン卿が大好きなので、もっとガーウェンを活躍させて欲しかった。この映画の中では、単なる狂言回しないし汚れ役だったから。

 あまりにも見事な原作を、完全に映画化するのは不可能なのだろうか?『指輪物語』のように、三部作に出来るなら、もしかすると可能になるかもしれないが。

 それでも、『エクスカリバー』は、私が知る中で最高のアーサー王映画である。これを越える作品は、二度と作られることはないだろう。

 なお、この映画でアーサーを演じたナイジェル・テリーは、『トロイ』に神官役で出演していた。また、ガーウェン役でデビューしたリーアム・ニーソンは、今では押しも押されぬ大俳優だ。好きな映画の俳優が、今でも元気に頑張っているのを見ると、とても嬉しくなる。

 


キングダム・オブ・ヘブン

                            KINGDOM  OF  HEAVEN

 

制作;アメリカ

制作年度;2005年

監督;リドリー・スコット

 

(1)あらすじ

 時は12世紀、十字軍の時代。

 エルサレム郊外のイブリンに領土を持つ騎士ゴッドフリー卿(リーアム・ニーソン)は、フランスの寒村を訪れる。そこでは、彼の忘れ形見バリアン(オーランド・ブルーム)が、父親の名も知らずに鍛冶屋として生活していた。ゴッドフリーは、バリアンにその素性を打ち明けると、一緒にイタリアからパレスチナに渡航しようとした。

 この当時、パレスチナの地には、十字軍の騎士たちが築いたエルサレム王国があった。しかし、この王国はイスラム世界の英雄サラディンの勢力に包囲され、非常に不安定な状況にあった。

 王国を支える騎士であったゴッドフリーは、旅の途中で負傷して息絶える。バリアンは、父の名跡を継いで、エルサレムに彼の信じる理想の神の王国を築き上げるべく尽力するのであった。

 しかし、エルサレム王国にはタカ派の勢力があり、彼らの策謀によってイスラム勢力との戦争が始まった。名将サラディンの前に大敗を喫したキリスト教勢力は、ついにエルサレム城に追い詰められてしまう。

 しかし、エルサレムの守将となったバリアンは、必死の努力で城を守り抜き、ついにサラディンとの間に休戦協定を締結することに成功する。バリアンは、城の住民とともに、安全にヨーロッパに退去するのだった。

 

(2)解説

 リドリー・スコット監督が、『グラディエーター』に続いて放った歴史巨編。今回は、第二次十字軍の崩壊をテーマに選んでいる。

 バリアン・オブ・イブリンもサラディンも、実在の人物である。

 物語の冒頭で、キリスト教勢力とイスラム教勢力は、極めて不安定な状態で平和を保っている。両陣営に好戦的な者や狂信者がいて、エルサレム国王ボードワン4世 (エドワード・ノートン)とサラディン(ハッサン・マスード)は、必死に彼らを宥め抑えている状態だ。しかし、エルサレム国王の病死によって、キリスト教陣営のタカ派勢力が暴れ出し、とうとう均衡が崩れてしまうのだった。

 私が感心したのは、スコット監督の視点が、全体的にイスラム勢力に好意的だという点である。キリスト教勢力は中東に対する侵略者であり、戦争を仕掛けるのも粗暴で貪欲な彼らの側である。これに対して、サラディンは理性的な名君として描かれている。おそらく、スコット監督は「イラク戦争」にインスパイアされて、昨今のアメリカの暴走を揶揄しようと考えたのではないだろうか。

 劇中では、平和を守ることの難しさ、そして戦争を起こす事の容易さが生々しく語られる。主人公バリアンは、この壮大なメインテーマの中で単なる狂言回しである。しかし、純粋に民衆のことを思う彼の至誠がサラディンに通じ、それがハッピーエンドとなるラストは、極めて希望に溢れるものだ。

 難点を言えば、主人公の人間性が美化されすぎている点である。スコット監督に限らず、ハリウッド映画は常に主人公を善人に描く。私には、そこが気に入らない。この世には、完全な善人など存在しないというのが私の考えだ。したがって、主人公の悪の面も描かなければ、結局、人物造形が出鱈目で薄っぺらということになる。皮相的ということになる。

 私がハリウッド映画を、たとえばチェコ映画やドイツ映画に比べて低レベルだと感じる理由は、まさにそこである。

 もっとも、バリアン役のオーランド・ブルームに、そのような複雑な演技が出来るのかどうかは微妙であるが(笑)。

 


アレキサンダー

      Alexander

 

制作;アメリカ

制作年度;2005年

監督;オリバー・ストーン

 

 リドリー・スコット監督が『グラディエーター』で成功して以来、ハリウッドでは歴史大作が次々に作られている。最新のデジタル技術を用いれば、派手なコスプレ戦闘シーンも簡単に撮影できるからだ。

 しかし、皮肉なことに、最も迫力に溢れるコスプレ戦闘を実現させたのは、ニュージーランドの新鋭監督ピーター・ジャクソンのファンタジー映画『ロード・オブ・ザ・リング』3部作である。客観的に見て、この映画の迫力を凌駕できる史劇は有り得ないだろう。そのため、この映画以降に制作された史劇は、ドラマ部分を厚くしてコスプレ戦闘の迫力不足を補おうと苦闘している。

 オリバー・ストーン監督のアレキサンダーは、まさにこうした流れの中で制作された作品である。アレキサンダー大王(コリン・ファレル)の生涯を、彼の部将であったプトレマイオス(アンソニー・ホプキンス)を狂言回しに据えて描いたこの映画では、英雄アレキサンダーの実像を、マザコン の同性愛者で狂騒な破滅型人間として逆説的に描写し、従来の英雄史観に一石を投じようと試みている。ストーン監督のこの野心的な試みは、高く評価したい。

 しかし、残念ながら演出力不足である。

 私は、ストーン監督の能力を高く評価したことは一度もない。アカデミー賞を受賞した『プラトーン』は『戦争のはらわた』のパクリ映画としか思えなかったし、『JFK』も演出のテンポが悪すぎてまったく面白いと思わなかった。素直に面白いと感じられたのは『ウォール街』くらいかな。はっきり言って、ストーン監督は能力が低いと思う。

 それに加えて、アレキサンダーを演じたコリン・ファレルもミス・キャストである。彼は、カリスマ的な君主を演じられる柄ではない。彼が演じたアレキサンダーは、戦略戦術や政治に長けているようにはまったく見えず、最初から最後までその辺のチンピラ同然としか思えなかった。それが監督の狙いだとしたら、そもそもその時点で大失敗である。アレキサンダーのような偉業を達成した人物が、そこらのチンピラ同然の若僧であったはずはないからだ。これでは、たいていの観客は納得しないだろう。

 問題は、それだけではない。ストーリーが、老いたプトレマイオスの回想をぶつ切りにして語られる形式なので、歴史の予備知識がない人は何が何だか分からないだろう。また、アレキサンダーとその母親(アンジェリーナ・ジョリー)との確執がストーリーの核であるはずなのだが、あまり十分に書き込まれていなかったように思う。

 戦闘シーンも良くなかった。劇中で描かれるのは、ガウガメラの戦い(VSペルシャ)とインダス川の戦い(VSインド諸侯)程度である。史実では、どちらもアレキサンダーの誉となる戦いだったはずなのだが、前者は迫力不足だし、後者はアレキサンダーが負けたようにしか見えなかった。ここでインダス川の戦いをわざわざ出した理由は、インドの戦象部隊をデジタル技術で描写したかったのだろう。しかし、戦象部隊の迫力は『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』の足元にも及んでいないので、逆効果だったと思う。

 要するに、何もかも中途半端なのである。

 いずれにしても、劇中でアレキサンダーの精神病理性ばかりが強調されるので、彼の人間的魅力が観客にまったく伝わらない。これでは、主人公のことが少しも好きになれないから、物語全体が途中で詰まらなくなってしまう。その結果、最後のアレキサンダーの病死の場面も、まったく感動が湧かなかった。「気が狂った変態が死んでくれて良かったね、周囲のみなさん」って感じである。そういうわけで、アレキサンダーの死が実は、部将たちの共謀による毒殺だったのだというプトレマイオスの衝撃の(?)独白も、まったくインパクトが無かった。「ああ、やっぱりね」と思っただけのことである。

 何度も言うことだが、ハリウッド映画の人間描写は皮相的に過ぎる。ある人物を、徹底的に善人に描くか徹底的に悪人に描くか、どちらか一方なのである。善悪二元論なのである。アメリカ人の精神世界と文化レベルが、意外と大したものじゃないということが、それだけで明らかだ。もう少し、アレキサンダーの善の部分(たとえば人種問題や異文化に対してリベラルな面)を描いても良かったと思う。

 この映画は、発想と着眼点は良かったのに、監督と俳優の能力不足によって駄作となった作品の好例であろうか。

 


ウインドトーカーズ

        Windtalkers

 

制作;アメリカ

制作年度;2001年

監督;ジョン・ウー

 

(1)あらすじ

 舞台は、1944年の太平洋戦線。アメリカ軍は、ナバホ族の言語を前線で暗号化することで情報戦の優位に立っていた。

  暗号通信兵(コードトーカーズ)として前線に出動したナバホ族ヤージー(アダム・ビーチ)を護衛するのはエンダース伍長(ニコラス・ケイジ)だ。しかし、エンダースは上官から、暗号が敵手に落ちそうな時は、機密保持のために暗号通信兵を殺害せよとの極秘命令を受けていた。

 そのためエンダースは、ヤージーから距離を置こうと努力するのだが、そんな二人の間にいつしか友情が芽生えて行く。

 やがて、サイパン島の戦いが始まった。ナバホの暗号のお陰で戦局を優位に進めるアメリカ軍は、日本軍を島の北端へと追い詰めて行った。

 しかし、最後の奮闘を見せる日本軍の前に、エンダースの属する偵察部隊は壊滅の危機に瀕する。エンダースは、自らを犠牲にしてヤージーを守ることで、戦局を逆転させるのだった。

 

(2)解説

 バイオレンスの名匠と言われるジョン・ウー監督が、初めて挑戦した戦争大作である。この映画では、ウー監督お約束の白い鳩が、クライマックスで飛ばないのが印象的だ。新境地ってところだろうか。

 だが、戦争映画としての構造は、別にどうってことはない。主人公の部隊が苦戦しながらも前進し、その過程で仲間同士の友情が深まるという、典型的なパターンである。ドラマを盛り上げる都合上、例によって例のごとく敵軍(日本軍)の実力が過大評価されている。ハリウッド映画のお得意のワンパターン作劇術だ。

 しかし、私が興味を惹かれたのは、アメリカ軍兵士の描き方である。エンダース伍長の部隊は、ほとんどが移民によって構成されている。エンダースはイタリア系だし、オランダ系やギリシャ系、アイリッシュ、もちろん黒人がいる。そして、ヤージーはナバホ族だ。彼らは必ずしも仲が良いわけではなく、むしろ互いに差別意識を持っている。劇中で、ヤージーたちナバホが「肌が黄色いから」という理由で仲間に虐められる場面が印象的だ。

 しかし、彼らは星条旗があがるとピシっと敬礼し、団結して喜んで危険な任務に就くのである。ヤージーは「自分だって立派なアメリカ人なんだ!」と叫びつつ奮戦するのである。

 こうした描写の中に、寄り合い所帯の異民族集団であるアメリカ社会の奇妙な特徴が、実に上手に表現されていると感じた。これは、ウー監督自身が中国系の移民なので、第三者的な視点からアメリカ社会を風刺できたのだろう。そういう意味で、なかなか一風変わった面白い戦争映画だと思う。

 ハリウッド映画の強さは、アメリカ社会自体が移民の寄り合いであるため、外部の新風を喜んで受け入れて自由に創作させる土壌にある。これは、未だに島国根性から脱却できずに閉鎖的な創作を繰り返す日本社会が、ぜひとも見習うべき点であろう。

 


プライベートライアン

           Saving Private Ryan

 

制作;アメリカ

制作年度;1998年

監督;スティーブン・スピルバーグ

 

(1)あらすじ

 1944年6月、米英連合軍は、ドイツ占領下のフランスに上陸作戦を敢行した。世に名高いノルマンディー上陸作戦である。アメリカ軍レンジャー部隊のミラー大尉(トム・ハンクス)は、オマハ・ビーチの凄惨な死闘を乗り越えてフランスの大地に立った。

 そのとき、アイオワ州のライアン一家から出征した兄弟4人のうち、3人までが戦死してしまったとの知らせが入った。しかも、最後に残った4人目、ジェームズ・ライアン二等兵は、ここノルマンディー戦線で落下傘部隊として敵中深くに降下したというのだ。

 祖国で待つ母親のために、この二等兵を死なせるわけにはいかない。そう判断した軍の上層部は、ミラー大尉のレンジャー部隊8名にライアンの捜索を命じた。一人の命を救うために8人の命を危険にさらすという理不尽な任務に不満を抱きつつも、ミラーたちはフランスの奥地へと進む。

 多くの犠牲を払いつつ、ようやくライアン(マット・デイモン)との邂逅に成功したミラーたちだったが、そこへドイツの戦車部隊が猛攻撃を仕掛けて来た。ミラーたちは、ライアンを守るべく必死の奮闘を繰り広げるのだった。

 

(2)解説

 原題は「ライアン二等兵の救出」。

 これは、実話を基にした戦争映画である。アメリカは志願兵制度を採用しているから、一家の男子全員が同時に出征してしまうことが常に有り得る。そこでアメリカ軍では、一家の血筋が絶えないように、兄弟を別々の部隊に所属させることで、兄弟が一挙に全滅することだけは避ける方針を採っていた。たまたま、ライアン一家は兄弟4人のうち3人まで戦死したから、最後の一人を救出しようというのが、この映画の基本ストーリーである。

 私は、アメリカ社会の抱える本質的な矛盾をここに感じた。自由の国と言いながら、他国に対しては好戦的。そして、国民に戦争への参加を奨励しておきながら、中途半端な形で恩情を振りかざすのである。

 私はこの映画に、こういったアメリカ社会の根本的矛盾に対する批判を求めたのだが、それについては、まったく書き込まれていなかった。いちおうはミラーの部下が、押し付けられた任務に対して毒づいたり反抗する場面があるが、兵士たちの口を通して語られるのは、むしろ類型的で陳腐な反戦談話だ。その談話がストーリーとの整合性に少々欠ける内容だったため、かえって違和感を覚え、説得力にも欠けていたように感じた。反戦映画としては、駄作の部類であろうか。

 もっとも、スピルバーグ監督が反戦映画を撮ったつもりかどうかも汲み取れなかったのだが。

 ただ、カメラワークやフィルムの使い方は、意識的に昔の記録映像を真似ることで、高い臨場感とリアリティを創出することに成功していた。その点は非常に高く評価できる。

 ところで、この映画は「R指定」になったことで話題を呼んだ。冒頭30分の戦闘シーンが残酷だったからだ。兵士の腕はもげ内臓は飛び散り脳漿がぶちまけられる。オマハ・ビーチの戦闘は、確かにすごい迫力だった。水中を機関銃弾が走る場面などは、久しぶりに深いオリジナリティを感じた。

 ラストの戦闘シーンも、当時の部隊戦術や部隊行動を忠実に再現していたし、タイガーT戦車も本物っぽく見えて、素直に「凄いな」と思った。

 ドイツ人はちゃんとドイツ語を、フランス人はちゃんとフランス語を話していたし(笑)。

 しかし、物語自体からは「反戦」の主張が来ないので、何のために戦闘シーンをリアルで残酷にしたのか、良く分からなかった。映像のリアリティが、物語と遊離して勝手に一人歩きしている感じであった。

 以前から思うのだが、スピルバーグ監督の能力は市場で過大評価されているように思う。彼は、平気で穴だらけのストーリーを作るし、人間描写は常に薄っぺらだ。どうして、彼の作品があんなに巷間で持てはやされるのか理解に苦しむ。

 冒頭のシーンが、そもそも駄目である。老いた退役軍人が登場し、彼の回想シーンという形で物語が始まる。しかし、この老人の回想がオマハ・ビーチの死闘から始まったのは間違いであろう。なぜなら、後に明らかにされる老人の正体は、ジェームズ・ライアンだからである。ライアンは空挺部隊の兵士で、空からフランスに降下しているのだから、オマハの戦いを経験していたはずはない。それなのに、ライアンの回想としてオマハを描くのは明らかに間違っている。おそらくスピルバーグは、最初のうちは、老人の正体がミラーなのだと観客に思い込ませていたかったのだろうが、この撮り方は邪道に他ならない。

 登場人物の個性の描き方も、全体的に中途半端だった。もしかすると、戦場のリアリティを重視した結果そうなったのかもしれないが、これは「物語」なのだから、それなりの書き方をしなければ駄目だと思う。

 一例を出せば、物語の重要なアイコンであるはずのライアン二等兵が、まったく無個性な「平凡な青年」に描かれていたのが詰まらなかった。あるいは、敢えてそう描くことでミラーの任務の虚しさを観客に訴えたかったのかもしれないが、もう少し「何か」を表現しなければ、物語そのものが起承転結に欠けることになる。実際、後半の物語部分がすごく退屈になったので、ドイツ戦車部隊を登場させて派手な戦闘シーンで誤魔化すしか、映画を生かす手段が無くなってしまっていた。

 どうせなら、ライアンを「どうしようもない駄目人間」に描くか、あるいは「物凄い優秀な人間だったのだが、ラストで戦死(または事故死)する」ことにした方が、戦争の虚しさが良く表現できて物語が締まったのではないかと思う。もっとも、そんな救いの無い物語が、アメリカの大衆社会で歓迎されるかどうかは微妙であるが。

 スピルバーグの映画の最大の弱点が、そこにある。彼は結局、「商業的な成功」を最優先する思考様式から抜け出せないのだ。彼はすでに億万長者なんだろうから、そろそろ純粋な芸術を志して冒険しても良い時期だと思う。せっかく豊かな才能を持っているのに、残念なことだと思う。

 そういうわけで、『プライベートライアン』は、映像のリアリティだけは凄かったけど、物語自体は空虚だと感じた。観終わった後で心にまったく何も残らなかったし、ストーリーそのものを忘れてしまった。

 


シンドラーのリスト

                         Schindler's List

 

制作;アメリカ

制作年度;1993年

監督;スティーブン・スピルバーグ

 

 アカデミー賞に輝くこの大作は、第二次大戦中のポーランドを舞台に、ナチスドイツのユダヤ人虐待の惨禍を描いた映画です。

 主人公オスカー・シンドラー(リーアム・ニーソン)は、実在のドイツ人の企業経営者(軍隊用のホウロウ容器を製造していた)です。彼は、低コストの工場労働力を得るためにゲットーや強制収容所のユダヤ人を雇用し、最後まで彼らをナチス当局の虐待から庇ったことで知られています。映画は、この人物と、残忍な強制収容所所長アーモン・ゲイト(レイフ・ファインズ)の人間性を対比させる形で進んでいきます。

 スピルバーグ監督は、彼自身がユダヤ系なので、命の大切さや、かつて同胞に加えられた差別の恐ろしさを、映像という形で世界に訴えたかったのでしょう。

 映画はモノクロフィルムで撮られ、あたかも実際の記録映像のような雰囲気が出ていて、すごくリアリティを感じました。こうした技法が、後に『プライベートライアン』に引き継がれたというわけですね。そんなリアルな映像の中、罪の無いユダヤ人が無造作に殺戮されていく描写には、迫真の恐怖を感じました。やはり、スピルバーグは卓越した映像作家なのですね。

 しかし、とにかく長尺(3時間15分)の映画なので、途中で疲れます。

 また、シンドラーの人間性の描き方にも疑問を感じました。スピルバーグに限らず、ハリウッド映画はいつもそうですが、人間の描き方が「薄っぺら」です。

 この映画のシンドラーは、もともと酷薄で因業な資本家だったのに、工場勤務のユダヤ人と交流しているうちに次第に同情心と優しさを獲得し、ついには資本家としての立場を忘却してまでユダヤ人救出に邁進することになっています。つまり、悪から善へと心がシフトしたというわけです。シンドラーは「悪人」から「正義の味方」に生まれ変わったというわけ。

 しかし、実在のシンドラーは、あくまでも企業利益の追求のためユダヤ人を庇った人物だったようです。大勢のユダヤ人の命を救ったのは、多分に「結果論」だったようです。

 我々が住んでいる社会は、単純に善悪を割り切れるようなものではありません。善意が悪を招来することもあるし、悪意が善を生むことだってあるのです。

 私は、『シンドラーのリスト』に「悪意が善を生む物語」を期待しました。すなわち、打算的で悪辣な企業家シンドラーが、「企業利益追求」のために、結果的にユダヤ人の命を救ってしまうという皮肉な物語を期待したのです。しかし、その期待は完全に裏切られたのでした。

 ああ、残忍で凶悪なカネの亡者のシンドラーが見たかったな。

 もっとも、スピルバーグに、いや、アメリカ映画にそういう人間描写の「深さ」を期待する方が間違いだったのでしょうけど。彼らにとって、主人公というものは、あくまでも善人か悪人のどちらかで無ければならないのでしょうから。

 私としては、『E・T』とか『インディージョーンズ』のような子供向けの寓話ならともかく、いやしくも「歴史」を題材にする以上は、人間をそんな風に幼稚に描いて欲しくないんですけどね。

 


戦場のピアニスト

       The Pianist

 

制作;ポーランド、フランス

制作年度;2002年

監督;ロマン・ポランスキー

 

 (1)あらすじ  

 ユダヤ系ポーランド人のヴワディスワフ・シュピルマン(エイドリアン・ブロディ)は、ワルシャワで働くピアニストである。彼は政治に興味を持たず、家族のために黙々と仕事をこなす愚直な男だった。

 しかし、ナチスドイツの侵略(1939年9月)によって、彼と家族の生活は破壊される。仕事を奪われ困窮状態に追いやられ、ついにはゲットーに隔離されるシュピルマンとその家族。

 そこでの悲惨極まりない生活の後、希望を捨てずに頑張っていた家族を待っていたのは、無情にもアウシュビッツ行きの列車なのであった。偶然の成り行きから、ただ一人列車に乗ることを免れたシュピルマンは、ワルシャワ市内でレジスタンスに匿われる。

 しかし、ワルシャワ蜂起(1944年9月)によって、ポーランド義勇軍はドイツ軍に再び完敗し、この美しい都市は焦土と化してしまった。生き残ったシュピルマンは、ただ一人、獣のように廃墟を彷徨う。そんな彼を助けたのは、紳士的な一人のドイツ軍将校(トマス・クレッチマン)であった。

 やがて戦争は終わり、シュピルマンは再びピアノの前に座るのだった。

 

(2)解説

 巨匠ポランスキーが、実在のピアニストの手記を元に、第二次大戦下のユダヤ人の悲劇を描く。

 『シンドラーのリスト』と同じテーマであるが、この映画では、主人公を被害者たるユダヤ人に据えて、彼を次々に襲う危難を記録フィルムのように淡々と書き連ねて行く技法が取られている。そのため、中途半端にカメラワークに凝ったりするより、遥かに臨場感とリアリティがある。

  物語は、ほとんど常にシュピルマンの視点で語られるので、劇の時代背景の説明がほとんど行われない。そのため、歴史の予備知識を持たない観客は、劇中で何が起きているのか分からなかっただろう。これは、この映画の欠点といえばそう言えるのだが、あくまでも「シュピルマンの視点」にこだわって解説部分を切り捨てたポランスキー監督の勇気は賞賛されるべきだろう。

 「シュピルマンの視点」にこだわり続けることで、観客は、情報飢餓から来る閉塞感を主人公と分かち合うことが出来る。そして、ナチスによる弾圧と差別の残酷さと理不尽さを肌身に感じることが出来るのだ。

 主人公は、次第に「人間らしさ」を失っていく。家族と友人を全て失って、ボロボロの服をまとって廃墟を彷徨う彼は、泣くことと叫ぶことしか出来なくなっていく。食糧のことしか考えられなくなっていく。しかし、彼がそんな理不尽な運命に陥った理由は、彼が「ユダヤ人だ」という、ただそれだけなのだ。

 そんな彼に、食糧と冬の衣料を与えてくれたのが、ドイツ軍の将校だというのが皮肉である。

 しかし、平和が回復すると、シュピルマンは元通りの「人間」に戻り、再びピアノの前に座るのだった。逆に、彼を救ったドイツ軍将校は、シベリアに送られて命を落とすのである。

 「歴史」あるいは「人間」について深く考える上で、とても良い映画だと感じた。