映画評論 PART 8


目 次

1.セデック・バレ         2011年 台湾

2.ディクテーター 身元不明でNY  2012年 アメリカ

3.アイアン・スカイ        2012年 フィンランド、ドイツ、オーストラリア

4.ゾンビ革命           2011年 キューバ

5.ゼロ・ダーク・サーティー    2012年 アメリカ

6.リンカーン               2012年 アメリカ

7.のぼうの城           2012年 日本

8.聯合艦隊司令長官 山本五十六  2011年 日本      

9. 宇宙戦艦ヤマト2199       2012年 日本

10.ガールズ&パンツアー      2012年 日本

11. 終戦のエンペラー        2012年 アメリカ

12. レ・ミゼラブル         2012年 アメリカ

 

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セデック・バレ

             賽徳克・巴萊

 

制作;台湾

制作年度;2011年

監督;魏徳聖(ウェイ・ダーション)

 

(1)あらすじ

  物語の舞台は、「日清戦争」(1895年)の結果、日本の領土となった台湾。

 この島の先住民セデック族は、狩猟採集を生業とし、隣接部族同士でしきりに抗争を行う首狩り族であった。彼らはやがて、日本軍の討伐を受けて屈服し、農業や水道、電信、学校教育などの先進文化を受け入れるようになる。

 ところが、日本人による差別や搾取は日増しに募るばかり。セデック族の族長モーナ・ルダオ(林慶台)は、30年の隠忍の後、ついに挙兵を決意する。日本軍と戦って勝ち目は無いと知りつつも、祖法を守って華々しく散ることこそが大義だと固く信じて。

 1930年(昭和5年 )、「霧社事件」の勃発である。セデック族と日本軍は、台湾の山々を血に染める。

 

(2)解説

 「渋谷ユーロスペース」での単館上映で、しかも前後篇で総計4時間半(!)の長尺映画なので、観に行く時間を確保するのがなかなかたいへんだったけれど、まったく素晴らしい、そして凄まじい映画でした。

 魏監督は、自腹を切って採算度外視でこれを作ったとか。そういうわけで、構想開始から完成まで10年もかかったとか。まあ、時間半の戦争アクション付きの超大作で、しかも「霧社事件」などというマイナーで陰惨な事件の映画化なので、なかなかスポンサーは付きませんわな。でも、『七人の侍』を作ったころの黒澤明、『スターウォーズ』一作目を撮った時のジョージ・ルーカスを髣髴とさせる在り方なので、台湾には、まだまだ立派な映画作家が生き残っているんだなあ、と素直に感心しました。日本やアメリカでは、そういう作家は20世紀の時点でとっくに死滅していますからねー。

  さて、「霧社事件」とは、1930年(昭和年)、日本統治下の台湾で実際に起きた先住民の大暴動です。先住民の人たちは、要するに「首狩り族」です。「日本人は邪魔っけだー。死ね死ね死ね。死ね死ね死ね!」みたいなことを言いまくりながら、日本人住民の首をスパスパとチョンパして行きます!

 首を切られる立場の日本人としては、「ふざけんな!我々のお陰で、お前ら野蛮人は電気水道電信電話の恩恵を受け、教育も農耕も覚えたじゃないか!首狩りなどという野蛮な風習からも、おさらば出来たんじゃないか!ちょっとくらい差別したり搾取したからって、何が悪いんだよー!」

 この言い分は、まったく正しい(笑)。だけど、首狩り族の側からすれば、首狩りこそが大切な祖法なのであって(苦笑)、どんな正当な理由があろうとも、それを邪魔する側は敵なのです。

 今まさに問題になっている「日韓問題」も、根っこにあるのは、つまりそういうことなので、これはなかなか根深い問題なのです。

 主人公を「首狩り族」に設定した時点で(逆転の発想!)、この映画の成功は約束されたようなもの。そして、「首狩り族にだって、大義や正義があるのだ!」という主張を説得力豊かに描いた時点で、大成功は確定です。

 さらに感心したのは、首狩り族側の俳優の多くを「原住民出身者」に限定したこと。つまり、スカウトした素人に演技指導をやることから始めたので、その一見すると無駄でハイコストな拘りには感心します。だけど、この手の映画は、下手に有名俳優を使ったら、かえって「首狩り族」にリアリティが無くなりますから賢い選択ですね。映画作りというのは、本来、そうあるべきなのです。

 我々が知っている台湾人俳優は、唯一、ビビアン・スー(徐若瑄)が出ていたのですが、この人って実は、母親が先住民なんですね。そういうわけで、本人はノーギャラでも出たがったとか。あの娘、「そーれが君のー、タイミング♪」とか、明るく元気に歌いながら、実は心の中で日本に対する鬱屈した思いを隠していたのでしょうか?

 ともあれ、最近の日本映画は、カネ儲けしか考えていないので、大手芸能事務所にコビを売りたいあまり、俳優をアイドル系の大根役者でそろえる傾向があって、キャスティングの段階でコケています。少しは、台湾映画を見習ったらどうでしょうか?

 さて、『セデック・バレ』は、間違いなく名作なのですが、ここで敢えて難癖をつけたいのが、戦闘シーン。無駄にカネがかかっていて、無駄に派手だった。これは、企画の最終段階でジョン・ウーが入り込んだせいじゃないかと疑っています。ウー監督って、『レッドクリフ』が好例だけど、無駄で大味でリアリティ皆無の戦闘シーンをダラダラ流すのが大好きでしょう?

 だいたい、日本軍が「ひー」「きゃー」とか悲鳴を上げながら、数百人単位で逃げまくって、背中から撃たれたり斬られたりするシーンがあまりにも多いのはどうかと思いますな。今の「ゆとり世代」ならともかく(失笑)、1930年代の日本男子がそんな軟弱だったはずがないでしょう。あの当時の日本軍の統率と士気は、誇張抜きで世界最高峰だったはずなので。

 もちろん、セデック族の強さを強調して映画全体を盛り上げたという制作サイドの意図は、痛いほどよく分かります。だけど、史実では、わずか数日の戦闘でセデック族は壊滅し、日本軍の損害は事故や病気を含めてわずか数十人だったわけだから、あまり映画を史実と乖離させるのはどうかと思いますぞ。かえって嘘っぽくなって、 物語に説得力が無くなりますからね。むしろ、史実通りに、あっというまにセデック族が壊滅するストーリー展開にした方が、悲劇性とドラマ性が強調されて良かったのではないでしょうか?

 このような問題点を感じつつも、世界中が絶賛したこの名画が、ミニシアターでの単館かつ短期間上映なのは、本当にもったいない!

 もっとも、時間半の上映時間のかなりの部分が、日本人の首が「すっぽんすっぽんすぽぽぽぽーん!」と吹っ飛ばされる場面なので、生首とか好きな人(like me)じゃないと、観ていてキツいかもねー(笑)。

 


 

ディクテーター 身元不明でNY

                              The Dictator

 

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;ラリー・チャールズ

 

(1)あらすじ

 砂漠の国ワディア王国のアラジーン将軍(サシャ・バロン・コーエン)は、絵に描いたような独裁者。気に入らない奴は、即刻死刑。ベッドには毎晩、美女がてんこ盛り。

 ところが、国際社会から核開発疑惑を騒がれて、ニューヨークに釈明に出かけたところで腹心タミール(ベン・キングスレー)の裏切りに遭い、トレードマークの髭を剃られた上で幽閉されてしまう。命からがら脱出したものの、すでに替え玉がアラジーンに入れ替わっていたため独裁者に復帰できず、ニューヨークの市井で平凡な雑貨店員として新生活を始める。

 アメリカ下層社会の移民たちから見たこの世界の実情は、想像を超えた過酷なものだった。

 

(2)解説

 新宿「武蔵野館」で観た。

 あらすじだけ読むと、真面目な社会風刺映画のように見えるだろうけど、実際は超絶的におバカな下ネタ映画である。

 下ネタも、妥協せずに徹底的にやり込めば、「神」の領域に到達できる。そういうわけで、私はこの映画の中に「神」を見た。人間の下半身の全ての器官と穴(誇張ではない!)を徹底的に使いぬく根性には、心から敬服する。まさか、妊婦の胎内を、あんな風にイジるとは!ウ●コも、ボトボト落ちるとは!そして、主演男優のチン●ンまで見せるとは!(爆)

 日本のドリフや吉本新喜劇は、決して嫌いではないけれど、やっぱり「中途半端」だと痛感した。これは、アメリカと日本の「本気度」の違いであって、ダイナミズムという点で、日本がアメリカに絶対に追いつけない理由が実によく分かった。物事は何でもそうだが、「中途半端」が一番よくない。やるなら、メーターが振り切れるまで突き抜ける覚悟が必要だ。それなのに、日本人の気質として、やることなすことが全部中途半端なので、だから最近のテレビや邦画は詰まらないのだろう。

 それはともあれ、『ディクテーター』は、まともな観客なら呆れて身動き不能になるくらいに下品な映画なのだが、ストーリーの中核は、かなりシビアな社会風刺でありアメリカ批判なのである。このギャップが、また面白い。そして、英語版のタイトルから分かる通り、この映画は実は、チャップリンの 『独裁者』のパロディであり、オマージュなのである。

 思えば、『独裁者』を撮ったころのチャップリンは幸せだった。あの当時の世界は、独裁国家全盛であって、民主主義の国はアメリカと西欧の一部くらいだった。だからこそ、チャップリンは民主主義を純粋に信奉して、民主主義に夢を見ていられた。世界中に民主主義が広がれば、人類は幸福になれると無邪気に信じていられた。アメリカのことを大好きでいられた。

 ところが、21世紀の世界を見よ。民主主義の牙城であるはずのアメリカは、貧困製造搾取マシーンと化し、しかも大義名分のない戦争を仕掛けまくって世界を荒廃させているではないか?中東の独裁国家の方が、民主主義のアメリカより、遥かに人道的で立派なのではないだろうか?

 アラジーン将軍の最後の演説は、『独裁者』のチャップリン演説へのオマージュでもあると同時に、今日のアメリカを痛烈に非難する悲しい知性に溢れている。

 サシャ・バロン・コーエンという作家は、この映画で初めて知ったのだが、素晴らしい逸材だと痛感した。彼のことを知っただけでも、この超絶おバカな下ネタ映画を観に行った甲斐は十分にあった。 

 


 

アイアン・スカイ     

                                  Iron sky

 

制作;フィンランド、ドイツ、オーストラリア

制作年度;2012年

監督;ティモ・ヴォレンゾラ

 

(1)あらすじ

  ナチスドイツは生き延びていた!1945年の敗戦直前に、UFOで月の裏側に逃れて秘密基地を作っていたのだ。

 そして今、地球人類に対する反撃が始まる。

 
(2)解説

 新宿「武蔵野館」で観た。

 「ナチスが月の裏側で生きている」というのは、大昔から伝わるトンデモ系の都市伝説だ。当然、ハリウッド辺りでとっくに映画化されていると思いきや、実はこれまで存在しなかったんだね、意外なことに。

 さらに意外なことに、今回名乗りを上げたのがフィンランド。フィンランド産のSFコメディ映画なんて、本当に大丈夫か?と心配したのだが、制作者はインターネットを利用して制作資金のカンパを募り、また、最終的にドイツ資本が味方に付いたせいなのか、やや荒削りな部分を感じさせつつも、なかなか楽しく観ることが出来る映画に仕上がった。

 さらに、ストーリーの内容に完全に意表を衝かれた。物語の骨子は実は、『ディクテーター』以上に痛切で深刻な「アメリカ批判」なのである。むしろ、スペース・ナチスは、アメリカの凶悪さをアピールするための狂言回しに過ぎない。もちろん、劇中のナチスは それなりに凶悪なのだが、アメリカの凶悪さに比べると遥かに可愛く見える。それが制作者の真の狙いだとすると、実に知的な仕掛けである。

 この映画の主人公は、事実上、アメリカ大統領である。サラ・ペイリンに瓜二つの(笑)、超絶的に頭と性格が悪い女性大統領である。そもそもの事件の発端は、このバカ大統領が、再選のための宣伝活動で月の裏側に宇宙飛行士を送り込み、それがスペース・ナチスの領土を侵したことである。そして、スペース・ナチスが宇宙艦隊で地球に攻め込むと、このアホ大統領はむしろ、「戦争勃発で再選の可能性が高まった」と大喜びするのである。

 そして、スペース・ナチスの地球侵攻軍は、満を持して(?)迎え撃ったアメリカ軍の前に秒殺される。勢いに乗ったアメリカ宇宙軍は、領土と資源を増やすために「女子供も皆殺しじゃー」とか叫びつつ月の裏側に侵攻するのだが、その後ろには利権狙いの世界各国の宇宙艦隊が追随する。最後は、敗北したナチスの利権を巡って、世界の政府首脳たちが殴り合いの大喧嘩!

 と、これほどまでにブラックなテイストの社会風刺映画を観るのは、なかなか久しぶりだった。名作『博士の奇妙な愛情』をモチーフにしつつ、さらにその上を行っている。

 ギャグの切れがやや緩慢だったことと、CGの質がイマイチだったことだけが残念である。

 なお、ヒロイン・レナーテ役のユリア・ディーチェは、なかなか可愛くて美人だったのだが、なんとドイツ人の女優さんなんだね!ドイツ人って、ブスしかいないものだと思い込んでいたので、謹んでお詫びと訂正を申し上げます(笑)。

  


 

ゾンビ革命〜フアン・オブ・ザ・デッド        

                                 JUAN DE LOS MUERTOS

 

制作;キューバ

制作年度;2011年

監督;アレハンドロ・ブルゲス

 

(1)あらすじ

 キューバ発&初のゾンビ映画。

  ハバナに住む40歳のフアン(アレクシス・ビジェガス)は、仕事もしないで友人と遊び歩く怠け者。しかし、突然起こったゾンビ・パニックと政府の無為無策を見ているうちに、金儲けの奇策を思いつく。それは、仲間を集めて自警団を結成し、ゾンビを始末する見返りに依頼者から金銭を受け取る「殺人代行会社」の設立であった。

 しかし、ゾンビ・パニックは一向に終息の気配を見せず、事態は次第にフアンたちの手に負えなくなって行く。

 

(2)解説

 新宿「武蔵野館」で観た。夜9時からしか上映しない、マイナー無比の扱いの映画だったが(苦笑)。

 いわゆる、ゾンビ・コメディーの傑作である。

 ゾンビ映画は、「のろのろと動く群衆」がそのままモンスターになるため、社会風刺の色を付けやすい。だから、知性に優れた映像作家がこれを撮ると、極上の政治批判映画になり得る。さらに、これにコメディの要素を強化したゾンビ・コメディの場合、上質なブラックジョークの映画にもなる。『ゾンビ革命』とは、まさにそういった作品なのである。

 主人公フアンは、仕事をしないでブラブラと遊び歩いているわけだが、キューバという国は「配給制」がある社会主義国なので、飢え死にする心配は無い。彼の前妻はスペインに亡命しているので、気兼ねなく、目に付いた女と取りあえずエッチする。彼の義務はといえば、「革命防衛委員会」(実質は町内会)の会合に顔を出すだけである。このように、フアンの行動を見ているだけで、キューバという国の実情というか問題点が見えて来るから、紀行映画としてもなかなか楽しい。

 そんな中、突如としてゾンビの大発生が起きるのだが、キューバ政府は当初、これを「アメリカ帝国主義の陰謀」と説明する。キューバは実際に、アメリカによる爆破テロや細菌兵器による攻撃をしょっちゅう受けて来た国柄ゆえ、政府がそういう反応を見せるのは自然であるわけだが、それでは何の対策にも解決にもならない。そこでフアンは、仲間を集めて自衛を図ると同時に「金儲け」を企てる。この異様な楽天性こそが、キューバ人独特の個性である(笑)。

 さて、ゾンビ映画が持つ特有のジレンマは、そのパニックが市中で恒常的に発生するため、主人公の人物設定に苦労する点である。軍人や超人を主人公にするのが一番簡単なのだが、それではコメディに成りにくい。かといって、平凡な市民を主人公にしてしまうと、普段は武装していないし(アメリカ人は例外だが)軍事訓練も受けていないはずだから、サバイバルに説得力が欠けてしまう。その点、『ゾンビ革命』は主人公フアンを「アンゴラ内戦の生き残り」に設定することで、このジレンマを上手くクリアしている。つまり、フアンは単なる怠け者ではなくて、過酷な戦場の経験者だったのである。

 「アンゴラ内戦」とは、アフリカ西岸の国アンゴラを巡る長期紛争である。この国は、1975年に宗主国ポルトガルからの独立に成功したのだが、時の政権が社会主義を奉じていたこと、この国が石油やダイアモンドなど豊富な資源を産出することから、周辺諸国の侵略の対象となった。キューバは、アンゴラ政府と親しかったことから、実際に軍隊を送り込んで侵略者たちと戦った。この紛争は悲惨な戦闘の連続となり、キューバ軍の戦死者は5万人とも言われている。そして、この過酷な戦いの生き残りという設定から、フアンがゲリラ戦の戦闘技術やサバイバルの技術に長けている理由が納得できるのだ。

 さて、『ゾンビ革命』は純然たるキューバ映画なのだが、政治批判や風刺がなかなか辛辣なので笑ってしまう。たとえば劇中で、一般人がゾンビと間違われて殺されてしまう場面が何度も出てくるのだが、これは「キューバ人が貧乏で、いつもボロボロの服を着ているせいで、ゾンビと見分けが付かない」という風刺の一種であろう。もちろん、ラテン系のブラックジョークでもあるわけだが、他にもかなり露骨なカストロ体制への批判が出て来る。

 キューバは、言論の自由が制限された統制国家だと言われるし、一般の日本人の中にもそういう風に思いこんでいる人が多いけれど、こういう映画を見ると、そういった議論が的外れであることが良く分かる。

  最後は、主人公たちは海外脱出を図るのだが、これもキューバ人の個性を良く顕している。大きな問題が起きた場合、最初は機転を利かせて対応するが、どうしても対応できなくなったら海外に亡命する。これがキューバ人である。それでも、フアンは結局逃げない。この国を愛しているから。これもまた、キューバ人の姿なのである。

 『ゾンビ革命』は、ゾンビ映画としては既製品の焼き直しだが、キューバとラテンの香気が全体からプンプンと匂っていて、そこが楽しい。ぜひ、他の国々のローカルな個性丸出しのゾンビ映画も見てみたいものである。

 なお、この映画でのCGの出来は非常に良かった。上で紹介した『アイアン・スカイ』はもちろん、最近の日本映画のレベルを遥かに凌駕していた。キューバ、侮りがたし!

 


 

ゼロ・ダーク・サーティー

              ZERO DARK THIRTY

 

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;キャスリン・ビグロー

 

(1)あらすじ

 「9.11同時多発テロ」以来、イスラム原理主義者の猛攻に苦しむアメリカ社会。

 CIAの女性職員マヤ(ジェシカ・チャステイン)は、卓越した調査能力で敵の中枢に迫っていく。そして、アメリカが最終的に下した決断は、アルカイダの首魁ウサマ・ビン・ラディンの暗殺であった。

 

(2)解説

 横浜みなとみらいのワーナーマイカルで観た。

 実話を基にした、ドキュメンタリータッチのサスペンス映画。

 タイトルの「ゼロ・ダーク・サーティー」は、午前030分を意味する軍事用語である。これは、ビン・ラディン暗殺チームの作戦開始時間であった。

 この物語の構造は、完全に『ジョーズ』などの「動物パニック映画」そのものである。

 すなわち、「平和な社会を脅かす謎の敵が現れた。対策チームが活動を開始する。優秀な主人公が、アホな上司に悩まされたり友人を失ったりしつつも、ついに敵の正体を暴いてこれを退治する」。そういうお話なのだ。

 しかし、この物語の中で退治するべき相手は、動物でも怪獣でもなくて、生身の人間なのである。「人間狩り」なのである。これを、動物パニックものの演出技法で淡々と撮っているのが凄い。

 実際、この映画に登場するCIA局員たちは、アルカイダの構成員を人間だと思っていない。完全に動物扱いである。おそらく、ビグロー監督がそういう演技指導をしたためだろうけど、肉食獣の目をしたCIAが、捕虜にしたアルカイダを無情に拷問するシーンは、鬼気迫る冷酷さと残酷さである(このシーンは、アメリカ上院でも問題になったらしい)。

 クライマックスの襲撃シーンも、アメリカ兵が、「殺さないで」と泣き叫ぶ女性たちを殴り倒しながら、ほとんど無抵抗のビン・ラディンとその親族を無表情に虐殺して行く場面には戦慄を禁じ得ない。本当に怖い。

 このように、「陰惨」としか形容の仕様がない映画なのだが、後味は決して悪くない。なぜなら、画面全体からビグロー監督の女性作家ならではの悲しみや痛みが込み上げてくるからである。観客は、人間性を完全に喪失したCIAやアメリカ軍の残酷さや愚かさを、監督と一緒に悲しんで憐れむことが出来るのだ。

 ビグロー監督はおそらく、このようになってしまった世界を心から悲しんでいて、その慟哭こそが物語を紡ぐ原動力になっている。このように、作家の純粋な心がストレートに物語を紡ぐハリウッド映画を観たのは本当に久しぶりだったので、「アメリカ映画やアメリカの映像作家も、まだまだ捨てたものじゃないんだな」と、少し嬉しくなった。

 イスラム原理主義の方々は、あるいはこの映画を見て立腹するかもしれないけれど、どうか冷静になって欲しいものだ。『ゼロ・ダーク・サーティー』は、アルカイダへの憎しみではなく、こんな風に残酷に変質してしまったアメリカ社会への悲しみと愚かさを描いた映画なのだから。

 


 

リンカーン

         LINCOLN

 

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;スティーブン・スピルバーグ

 

 高校の仲間たちと、新百合が丘のワーナーマイカルで観た。

 あまりの詰まらなさに、友人ともども、途中で寝た。

 よく、こんなものを撮ったね。名声に甘える往年の名監督(私自身は、スピルバーグを名監督と思ったことは一度も無いけど)ほど情けないものはない。

 時代背景の説明が全く無いので、予備知識が無い人はストーリーをまったく理解できないだろう。仮に理解できたとしても、コスプレしたオジサンたちが暗い顔で延々と議論するだけの内容ゆえ、とにかく眠くなる。しかも、その議論の内容も、リアル志向な絵造りのの割には、史実に正確なわけじゃない。

 主役のダニエル・デイ・ルイスの名演技が無ければ、「金返せ!」と叫んで暴れていたところだ。

 スピルバーグは、最近何かのインタビューで、「近頃は、ブロックバスターの派手な映画か低予算映画にしかスポンサーが付かないので、真面目な映画を撮りにくくなった」などと愚痴っていたけど、「お前が詰まらない映画しか造らないのが悪いんだろう?」とか、思わず突っ込んでしまった(笑)。

 


 

のぼうの城

              

制作;日本

制作年度;2011年

監督;犬童一心、樋口真嗣

 

(1)あらすじ

 戦国末期、小田原北条氏を滅ぼすために来襲した豊臣秀吉軍。武蔵国の忍城は、城主・成田長親(野村萬歳)を中心にして防ぎ切るのだった。

 

(2)解説

 映画版は、原作小説よりは面白かったような気がする。なにしろ、和田竜さんの原作小説は、あまりの詰まらなさに、上巻を読み終えた直後に「ブックオフ送りの刑」に処したくらいだ(笑)。映画版は、寝ないで最後まで観られただけ、少なくとも 『リンカーン』よりはマシだった。

 原作小説を詰まらないと感じた理由は山ほどあるけれど、最大のポイントは「現代人の価値観を、歴史にそのまま押し付けている」部分があまりにも多くて、嘘っぽかった事にある。もちろん、小説の読者は現代人であるのだから、彼らの感情移入を誘う上で、作品にある程度は現代っぽいところがあるのは構わないし仕方ない(言葉づかいとか)。往年の名作家(吉川英治や山本周五郎など)だって、多少はそうしている。しかし、それには限度というものがある。超えてはならない一線というものがある。

 たとえば、主人公の「のぼう様(成田長親)」は、領内の農民から非常に慕われ愛されているという設定なのだが、その根拠は、彼が「分け隔てなく農民と接して、お祭りに参加したり農作業まで手伝ってくれるから」。

 でも、それは、身分制度が消滅した現代人の感覚での仁徳であろう。たとえば、大企業の社長が現場にやって来て、派遣社員の仕事を手伝ってくれたら、派遣社員はとても嬉しいだろうし、そんな社長のことを慕うだろう。

 だけど、戦国時代は違ったはずだ。何しろ「身分社会」である。城主の一門が農民の真似ごとなどしたら、農民は慕うどころか、彼を露骨に軽蔑して嫌ったはずである。それどころか、城主一族を「軟弱で無能だ」とバカにして反乱を起こすかもしれない。身分社会とは、そして戦国時代とは本質的にそういうものなのだが、和田竜さんはそれが全く分かっていないらしい。

 私は、それと同じ理由で『永遠のゼロ』も嫌いである。百田尚樹さんも、腕の良い作家だとは思うけど、歴史における人間の価値観の変遷が分かっていないらしい。

 ところが、『のぼうの城』も『永遠のゼロ』もベストセラーだったりする。商業ベースで考えるなら、「現代人の価値観そのままに歴史を描いた」作品の方が、不勉強な読者も、あまり頭や心を使わずに読めるのだから売れるんだろうけど、それはそもそも歴史小説ではないね。「歴史を道具に使った現代小説」でしかないよね。最近は、NHKの大河ドラマもそんな感じだけど 。

 さて、百万歩譲って、そういった時代感覚の違和感を「無かったこと」にしてみよう。それでも『のぼうの城』は、ストーリーの構造が矛盾だらけである。

 忍城が、当初は降伏する予定だったのに、圧倒的な豊臣軍に立ち向かうことになった理由は、「のぼう様」が寄せ手の侮辱や挑発に耐えきれなかったためである。つまり、彼が 忍耐心に欠けるアホだったためである。そしてこれは、領内に住む農民たちの生活と生命を犠牲にする行為である。それなのに、「のぼう様」が最終的に勝利できたのは、彼の「護民意識」が農民たちの心を動かしたゆえである・・・ と、いうことになっていた。

 ・・・これって、矛盾ではないか?

 そもそも、戦国時代の身分社会に、現代的な感覚での「護民概念」があったのか?しかも、それが城主と農民の間にしっかり共有されていたのか?

 小田原北条家は、比較的領民に優しい領主だったという研究もあるけれど(税率40%だったし)、今風な「護民」の概念は無かったと思う。

 映画版は、残念ながら、こういった原作小説が持つ矛盾や違和感を解消できておらず(製作スタッフは、そもそも違和感すら持たなかったようだが)、俳優陣もおおむねミスキャストだった。それでも、最近の日本映画の中では、マシな方ではないだろうか?私にとっては、途中で寝なかっただけマシであった 。

 


 

聯合艦隊司令長官 山本五十六

 

制作;日本

制作年度;2011年

監督;成島出

 

 「太平洋戦争70年めの真実」と銘打って、半藤一利監修のもと、鳴り物入りで公開された映画。

 主役の役所広司は、なかなか頑張っていたような気がする。家族の食卓シーンの描き方なども好きだったな。しかし、他がみんなミスキャストな上に、CGがショボくて、全てを台無しにしていた。

 私は、最初から何も期待しないで観に行ったので(友人の付き合いだった)、心のハードルを低くしていたせいで、最後まで寝ずに観られた。結果的に、詰まらなかったけど。

 だいたい史実の山本五十六が、「最後の最後まで戦争の早期終結を模索していた人物で、彼の立案した作戦は全て、戦争を終わらせるためだった」って本当かね?

 客観的に観て、「真珠湾」以降の彼の作戦って、勝敗を無視した危険際まりないギャンブルとしか思えない。あのアメリカに、正面から航空決戦と称して「物量戦」で挑もうとした時点でアホウの匂いがする。どうしてもアメリカに勝ちたいのであれば、朝鮮戦争の中国軍か、ベトナム戦争の北ベトナム軍のように、ゲリラ戦で挑むしか無かったはずだ。結果論かもしれないけれど、その事実に死ぬまで気付けなかった時点で、山本は愚将である。

 だいたい、最前線で作戦を指導し続けた山本に、具体的に戦争を終わらせる方法など皆無であるわけだから(外交官じゃないし)、本人にその気があったとは思えないし、その証拠もない。全てが半藤さんその他の過大評価としか思えない。

 カエサルでも信長でも竜馬でもケネディでも同じだが、道半ばで散った人って、後世から異常に過大評価される傾向にある。山本五十六も、それと同じことではないだろうか?

 


 

宇宙戦艦ヤマト2199

 

制作;日本

制作年度;2012年

監督;出淵裕

 

(1)あらすじ

 西暦2199年、ガミラス帝国の攻撃にさらされた地球は、遊星爆弾による放射能の影響によって、滅亡まで残り1年となっていた。

 最後の地球軍は「宇宙戦艦ヤマト」を建造。イスカンダル星にある放射能除去装置を受け取るため、過酷な宇宙への旅に出発するのだった。

 

(2)解説

 往年の名作アニメのリメイク。

 映画館ではなく、テレビ放送で観たので、「映画評論」コーナーに書くのはどうなのよ?という気もする。そもそも「宇宙戦艦ヤマト」は歴史ものじゃないわけだが(笑)。

 1974年のオリジナル版は、SFというよりむしろファンタジーであった。出渕総監督をはじめ、21世紀のアニメ制作者たちは、そこが不満であったらしく、リメイク版はかなりSF色が強くなっている。「エヴァンゲリオン」の影響が濃厚すぎる気もするが、SFファンは大喜びだろう。それだけでなく、ストーリーも良く練られているし、深い知性すら感じる。

 やはり、本当に頭が良い作家さんは、みんなアニメや漫画の現場にいるのだろうか?『のぼうの城』や『山本五十六』で感じた作劇上の違和感や矛盾は、『ヤマト2199』からは一切受けなかった。もちろん、キムタク主演の実写版より、遥かにレベルが上だった。

 でも、この作品は「ヤマト」では無い。

 オリジナルのファンとしては、むしろまったく別の新作として創って欲しかった。なぜなら、オリジナルのファンタジー色(すなわち寓話性)を奪い取ったことから、オリジナル版が本当に視聴者に伝えたかった重要なメッセージが消失してしまったからである。

 私見だが、1974年版ヤマトが伝えたかったメッセージは2つある。@戦争の恐ろしさ、A生命の大切さ。

 1974年版は、松本零士さんの作家性が随分と濃厚なのだが、スタッフ全員に共有された強固な価値観があり、それがストーリー全体を支配している。私は数年前に、1974年版のDVDセットを大人買いして一気に観たのだが、最終回で涙が滂沱として止まらなくなった。その理由について考察したところ、@とAがストーリー全体に首尾一貫していることに気付いたのだった。

 @戦争の恐ろしさ、について。

 1974年版ヤマトは、スタッフのほぼ全員が、戦争末期から終戦直後の悲惨な時代の経験者である。彼らは少年時代に、「日本人は一人残らずアメリカ軍によって皆殺しにされてしまう。仮に生き延びたとしても、いずれ餓死してしまう」という深刻極まりない絶望を経験し共有している。その絶望感が、作品全体を首尾一貫して覆っているのだ。「地球滅亡まであと365日」というナレーションは、まさに「日本滅亡まであと○○日」という、時代の絶望感の反映である。この絶望感があるからこそ、地球最後の希望である宇宙戦艦ヤマトのヒーロー性が際立つのだし、ストーリーも盛り上がるのである。

 1974年版では、主人公・古代進の人物造形も、「特攻くずれ」のようなネガティブなメンタリティが非常に強い。彼は、血気盛んで好戦的な若者として描かれているのだが、その深層にあるのは、家族や友人のほとんどを戦争で失った孤独と絶望である。彼は、自分が何のために生きているのか分からなくなることがあり、それで死に急いで無暗に好戦的な態度を取るのだ。それを見守る沖田艦長は、古代とまったく同じ境遇なのだが、老人ゆえ心の出来栄えが違う。そんな沖田が古代の心を思いやって諭し成長させてあげるエピソードこそが、1974年版の重要な伏線になっている。森雪と古代の恋愛関係も、その背景にあるのは、戦後日本が自らの傷を少しずつ癒していく過程とシンクロしている。ここが泣けるのだ。

 ・・・ところが、『ヤマト2199』からは、これらが完全に抜け落ちている。「地球滅亡寸前」という状況も、なんだか他人事みたいな描き方だし、ヤマトの乗員たちはみんな陽気でふやけた顔をしていて、まるで「合コン合宿」に出かけるおバカ大学のテニスサークルみたいである。なにしろ女性キャラは、一人の例外もなくアニメ美少女なのである。一人くらい、デブのオバちゃんがいたって良いんじゃないの?しょせん、「バブル」と「ゆとり」世代の連中には、戦争のリアリティも恐ろしさも理解できないのであろうか?頭は間違いなく良い人たちなんだけどなあ。

 A生命の大切さ、について。@より、むしろこっちの方が1974年版を語る上で重要じゃないかと思う。

 そもそも、単艦航海の宇宙戦艦ヤマトが、どうして圧倒的優勢なガミラス帝国軍を突破して、しかもこの国を滅亡させる展開になったのか?「子供向けの幼稚なファンタジー系アニメだったから」と、決めつける人が圧倒的多数だろうし、おそらく 『ヤマト2199』の制作スタッフも、そう考えているだろう。だからこそ、SF色を強くして矛盾や不合理を排除しようと頑張ったのだろう。だけど、それは違うのである。1974年版には、全体を通じて、首尾一貫した伏線が敷かれているのである。

 それは、「ガミラス帝国軍は、へっぴり腰の軍隊である」という事実だ。

 嘘だと思う人は、もう一度1974年版を見直してください。ガミラス帝国は、宇宙征服を目指すとか言いながら、異常なまでに自軍の人命を尊重する軍隊で、まるで最近のアメリカ軍みたいである。どんな戦況であっても、なるべく自軍の損害を最小限にする戦略を優先するので、そこをヤマトに付け込まれて敗北するのである。

 そもそも、「遊星爆弾の遠距離攻撃で、一年がかりで地球を滅ぼす」という戦略が異常である。一年などという猶予を気長に与えたからこそ、ヤマトの活躍を招いてしまったのだ。大艦隊を持っているんだから、さっさと直接攻撃で止めを刺せば良かったのにね。そうしていれば、ヤマトとの戦い自体が有り得なかったのだが。

 そして、その後のヤマトとの戦いも、おおむね「へっぴり腰」である。正面から艦隊決戦を挑むのではなく、反射衛星砲による遠距離射撃とか、宇宙生命体に襲わせるとか、人工太陽をリモコン操作でぶつけようとか、ガミラス軍はとにかく「自軍の人命の損失が大嫌い」なのだ。危険な仕事はみんな、遠くから石を投げたり(笑)、あるいは他人にやらせたりするのだ。だから、ヤマトに簡単に逃げられたり突破されちゃうのである。

 ドメル将軍の「七色星団の決戦」も、まさにガミラス軍の「へっぴり腰」が目立つ戦いであった。戦闘機のみをワープさせて、チマチマとヤマトの武装を破壊してから、ようやく艦隊が姿を現す。正面から艦隊決戦をやるのが怖かったのだ。そんな退嬰的な戦法だから、結局、敗北したのである。

 なんでガミラス軍が、そんなにヤマトを恐れたかと言えば、ヤマトが持つ「波動砲」が、宇宙最強の破壊兵器だからである。ガミラスは、この兵器を正面から食らうことは何としても避けたくて、それでセコい戦術をチマチマと採用して自ら墓穴を掘るのである。

 ところが、ヤマトの側では、波動砲の使用を制限しているのだ。木星での試射でその威力を知った沖田艦長が、「大量破壊兵器は人を不幸にする」と考えたからである。したがって1974年版では、試射以降は、波動砲を対人攻撃に用いたことは一度も無い。嘘だと思う人は、1974年版を見直してください。しかし、ガミラス側は、ヤマトのそんな決意は知らない。当然、ヤマトは波動砲を撃ってくるだろうと考えて、それで「へっぴり腰」になる。それで墓穴を掘る。この皮肉なストーリー展開が本当に面白い。

 ここで気付くのは、ヤマト側もガミラス側も、どちらも「生命の尊さ」を熟知している人々だという点だ。そんな両者が相争って殺し合い、ついにはガミラス滅亡にまで行きついてしまう。そのことの悲劇性が、この物語の重要なテーマになっている。このテーマを理解しながら、最終回の森雪の死と復活、沖田艦長の死を噛みしめると、涙が滂沱として止まらなくなるのだ。

 やはり、戦争を経験している1974年版の制作者たちは、「生命」への思いが桁外れに強いのだろう。

 ところが、ファンタジー色を排してしまったSF『ヤマト2199』には、こういった思想性や文学的な味わいは全く存在しない。当たり前のように人が死にまくるし、ヤマト側もガミラス側も、全く生命に対して躊躇することがない。人間の命がゴミのようだ。

 それはやはり、戦争や飢餓を経験していない「バブル」や「ゆとり」が製作しているためだろうね。子供のころにヤマトが大好きだった人たちが、玩具を弄るような感覚で創っているんだろうね。遊び感覚で、人殺しを楽しんでいるんだろうね。キムタク主演の実写映画版も、まさにそんな感じだったけどね。

 『ヤマト2199』は、傑作SFアニメだと思うし、確かに面白い。沖田艦長も、オリジナル版よりカッコいい!

 だけど、1974年版を愛する者にとっては、強いストレスとフラストレーションが残る作品であることも間違いない。

 その事実は、現代の日本社会の心の堕落ぶりと、非常に密接に関係しているように思われる。

 


 

ガールズ&パンツァー

 

制作;日本

制作年度;2012年

監督;水島努

 

(1)あらすじ

 「戦車道」という競技が盛んに行われている架空世界の日本。

 大洗女子学園の戦車道チームを率いる西住みほ(渕上舞)は、仲間たちとの友情を温めつつ、全国大会の優勝を目指して奮闘するのだった。

 

(2)解説

 「美少女アニメ」+「歴史ミリタリー」という、オタクジャンルに属する快作。

 原作なしの完全オリジナルTVアニメとしては、稀にみる大ヒット作だ。2014年には、映画化もされるらしい。というわけで、私はこれを映画館で観たわけではない。友人に勧められて、テレビシリーズ全12話をDVDで観たのである。ってことは、映画評論コーナーで解説するのってどうなのよ?(Again)。

 もっとも、前述のように、私は「アニメ美少女」が大嫌いなのである。あのウーパールーパー(アホロートル)みたいな顔を見ると、それだけで気持ち悪くなる。そういうわけで、もともとこの作品にはまったく興味無かったし知りもしなかったのだが、ミリタリーオタクの知人から強く勧められて気持ちが動いた。なんでも、作中で「38(t)軽戦車」が強くフィーチャーされていると言うではないか?そういえば最近、ヨドバシカメラで、美少女のアニメ絵が箱に描かれた38(t)のプラモを見かけたなあ。あれが、そうか!

 私は、昔からチェコ製軽戦車38(t)が大好きなのである。だけど、この戦車は一般的にはマイナーな存在だし、まさか日本のアニメで取り上げられる日が来るとは夢にも思わなかった。その事実だけで、このアニメを観る価値がある。そして、期待にそぐわず、38(t)ファンを感動の涙で滂沱させる作品に仕上がっていた。

 でも、まずは「戦車道」について解説する必要があるだろう。

 いちおう、「弓道」みたいなノリの競技で、作中で「女子の嗜み」とか言われている。しかしその内容は、第二次大戦以前の戦車を用いた、学校対抗型の団体戦闘なのである。実際の戦車と実弾(!)を用いて、5〜20台のチームを結成して戦う。各戦車は、特殊カーボンでコーティングされているので、競技参加者の身の安全は保証される設定になっているのだが、第二次大戦以前の戦車は視界が極端に悪いので、当然、乗員は戦闘中に車外に顔を出すので、実弾が飛んで来る中では危ないことこの上ない。おまけに、防護服の着用は認められていないらしく、競技参加者はみんな、AKBみたいな制服とミニスカート姿なのである(苦笑)。普通に考えたら死傷者続出なのだが、そうはならないところが「美少女アニメ」のクオリティであろう。ウーパールーパーみたいなアニメ顔がキャピキャピしていると、「しょうがないなあ」という気分にさせられて、設定矛盾などあまり気にならなくなるから、そこは製作スタッフの計算づくの知性であろうか。そういうわけで、この作品では、ミリタリーものにも関わらず死傷者ゼロである。

 知性といえば、このアニメの特徴は、タイアップが上手なことだ。茨城県の大洗町やサンクス(コンビニ)と連携し、制作資金の調達を有利にしている。実際、物語の舞台は大洗町だし、サンクスのようなコンビニがやたらに出て来る。そのお陰で、特に大洗町の観光客は激増したらしいので、まさにWIN-WINである。これぞ、もっとも正しく賢い「製作委員会システム」の使用法であろうか。

 ストーリーもよく出来ていて、「スポ根もの」の王道である、「努力、友情、勝利、家族愛」について、衒うことなく真正面から豪速球ストレートで描き切っていた。最近、こういう「まっすぐ」な物語を見なくなって久しいので、何だか嬉しくなってしまった。

 さて、38(t)である。「歴史ぱびりよん」的に、久しぶりに真面目な歴史ウンチクをしようか。

 あまり知られていない事実だが、38(t)は、「世界の歴史を変えた戦車」である。そして、これほど数奇な来歴を持つ戦車は史上稀である。

 1934年、チェコスロバキア政府が、自国のメーカーであるCKD社とショコダ社に新型戦車を発注したのは、隣国ナチスドイツの脅威に対抗するためであった。意外に思う人が多いだろうけど、当時のチェコスロバキアは、世界で最も発達した民主主義国であり資本主義国であり、重工業国の一つであった。そんな彼らが総力を結集して造り上げた戦車こそ、Ltvz.35Ltvz.38である。造ったチェコスロバキア人がどこまで自覚していたか分からないが、これらは3名乗り想定の軽戦車でありながら、攻守走の全ての面でバランスが取れており、世界最高峰の性能を誇っていた。

 ところが、チェコスロバキアは、憎むべき敵手であったナチスドイツによって無血併合されてしまうのである。それは、チェコと同盟関係にあったはずのイギリスやフランスが、「ミュンヘン協定」(1938年)の席上で、将来のヨーロッパの安全保障と引き換えに(要するに、我が身可愛さに)、チェコをナチスの毒牙に進呈したからである。なんとも酷い、愚かな話だ。愚かというのは、英仏のこの決断によって、チェコスロバキアが誇る重工業と、何よりも強力無比な戦車部隊が、無傷でドイツの手に入ったことである。

 実は、この当時のナチスの再軍備はほとんど進んでおらず、最前線で活躍すべき戦車は、機関銃を装備した「T号」と「U号」戦車がせいぜいで、とても大規模な戦争を始められる状態ではなかったのである。そこに、「棚から牡丹餅」式に、チェコの世界最高峰の高性能戦車が、数百台単位で手に入ったのだから、ヒトラーとその取り巻きの領土欲にますます拍車がかかってしまった。

 「第二次世界大戦」が勃発したのは、チェコ戦車のせいであり、それを招いた「ミュンヘン協定」のせいだと言っても過言ではあるまい。

 そして1940年の夏、フランスがわずか一週間の戦闘で陥落したのは、チェコ戦車、中でもドイツ軍によって「38(t)」と改名されたチェコ製軽戦車Ltvz.38の活躍のせいだった。これは、重さ10tに満たない軽戦車にもかかわらず、時速42キロ、航続距離250キロ、しかも中戦車に匹敵する37ミリ主砲を装備。おまけに、滅多に故障しない上に、整備が容易。初心者でも簡単に扱えるという、驚異的な性能を持っていた。こいつが大軍で高速で背後に回り込み、英仏連合軍の補給路と通信網をズタズタにしてしまったために、英仏連合軍は瞬時に壊滅したのであった。

 すなわち、いわゆる「電撃戦」の立役者は38(t)だったのである。この戦車がなければ、ドイツは1940年にフランスを下すことが出来ず、おそらく第二次大戦があれほど長期の大激戦に発展することもなかっただろう。そして、ドイツの勝利に幻惑された日本が、東アジアでアメリカに挑戦するような事態も起こらなかったことだろう。私が、38(t)のことを「世界の歴史を変えた戦車」と呼ぶのはそういう理由による。

 さて38(t)は、事実上の「電撃戦」の主役として、その後の戦場でも常に最前線で戦い続けた。1941年のソ連侵攻にも大挙投入されたのだが(全ドイツ軍戦車の18%)、ロシアの土地は広大すぎて、フランスの時のように高速で敵の心臓を一気に抉るような作戦は取れなかった。やがて、ソ連軍が繰り出した新型戦車T-34の前に大苦戦。相棒の35(t)Ltvz.35)は、モスクワ前面の戦闘にて、最後の一両が失われてしまう。

 それでも、ヒトラーとドイツ軍上層部は、38(t)に様々な改造を加えながら、この車体を終戦まで造り続ける。最後の改良型と言えるヘッツァー(ヤークトパンツァー38(t))は、ベルリン陥落とヒトラーの自殺の後までプラハの工場で生産され続けていた。つまり38(t)は、チェコスロバキアの戦車でありながら、いつのまにか高名なドイツ機甲軍団のシンボル的存在になっていたのである。そして、事実上、第二次大戦で最も長期にわたって第一線で活躍した戦車だと言えるだろう。

 しかし、こんな凄い戦車なのに、ミリタリーマニアの間ではあまり評判が良くない。その理由は、38(t)が、小さくて弱そうで、なんだか滑稽な外見をしているせいである。あえて、こいつのプラモデルを造りたい人は、相当なマニアである(like me)。

 逆に考えれば、「ガルパン(ガールズ&パンツァー)」の制作スタッフが、38(t)を主人公チームの中核として強烈に推している理由は、まさにそこにあるのだろう。主人公みほが率いる大洗女子学園チームは、少人数で経験不足で、見るからに弱そうな滑稽感の漂うチームである。だけど、実際には外見に似合わない戦術能力とガッツを奮って、敵の弱点を的確に衝いて、高速機動で勝利を重ねていく。ここが、特に1940年における38(t)の活躍ぶりと絶妙にシンクロしているのだ。

 制作スタッフは、おそらくそこまで計算して38(t)(改造後はヘッツァー)を使っているので、これはやはり「高い知性の持ち主はアニメの世界にいる」という事実の証明だろうか?

 いずれにせよ「ガルパン」は、私のような38(t)マニアにとっては、涙が出るくらいに素晴らしいアニメ作品であった。

 


 

終戦のエンペラー

                          EMPEROR

 

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;ピーター・ウェーバー

 

(1)あらすじ

 終戦直後、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥(トミー・リー・ジョーンズ)が最も頭を悩ませた問題は、昭和天皇の処遇であった。戦犯として裁くべきか、あるいは占領政策の協力者とするべきか。

 マッカーサーは、知日派のフェラーズ准将(マシュー・フォックス)に命じて、天皇についての調査を行わせる。昭和天皇は、本当にこの戦争の首謀者だったのか?そもそも、天皇(EMPEROR)とは一体何なのか?

 

(2)解説

 アメリカ人の視点から描いた終戦直後の日本と昭和天皇。それだけで、一見の価値がある作品である。しかも、史実にかなり忠実で真面目な映画であった。私は、かなり気に入った。

  アメリカ人はその短い歴史の中で、王も皇帝も持ったことがない。だから、そもそも天皇のことがまったく分からない。だから、昭和天皇があの戦争において果たした役割も理解できない。

 このころアメリカ本国では、昭和天皇を「戦犯」だと決めつけてその処刑を要請しており、これが有力世論を形成していた。だが、その世論誘導の本当の目的は「天皇を裁いた方が、本国の政治家が、正義のイメージを国民にアピールできて票集めがしやすい」からだ。しかし、そのような間違ったポピュリズムに流されてしまったら、マッカーサーの日本占領行政は、日本人全部の好意を失うことにより破たんするのである。それでも、マッカーサーは悩む。彼は将来、政治家に転身する野心を持っていたからだ。それで彼は、アメリカ世論を納得させた上で、天皇を活かして存続させる方策を見つけなければならない。ここに、フェラーズ准将の出番となる。

 こういったエピソードの中に、愚者が形成した間違った世論を絶対視してしまう「民主主義」の抜本的欠陥が露呈されていて興味深い。すなわち、『終戦のエンペラー』は、アメリカ映画のくせに、アメリカの民主主義を絶対視しない映画なのだ。この事実からも分かるように、この映画は、日米どちらかの価値観を絶対視するのではなく、双方の価値観を理解しあい、学びあう精神に溢れた優しい作品なのである。

 そういうわけで、この映画はハリウッド製にも関わらず、アメリカ人特有の「上から目線」や「知ったかぶり」が排除されている。おそらく監督がイギリス人だということ、そしてプロデューサーの奈良橋陽子が深く関与したことが原因なのだろう。

 逆に、そのことが「日本って、変な国だなあ」と、当の日本人に思わせる結果になっているのが興味深かった。劇中のフェラーズ准将は、妙に物わかりの良い人物で(苦笑)、日本文化のヘンテコな部分もそのまま素直に受け入れてくれる。そういうわけで結局、「天皇って何なのか?」は分からず仕舞い。「太平洋戦争の首謀者は誰なのか?」も分からず仕舞い。何しろ、文書などの物的証拠が皆無なのだ。フェラーズは「侘び寂びの日本文化だから仕方ない」と諦めモードだが、それでマッカーサーに怒られちゃう。物的証拠を絶対視するのが、欧米の流儀だから当然だ。まあ、確かに日本文化って、そういう感じだよね。欧米から見たら、実にいい加減である。

 それでも、そういった日本流の訳の分からない部分を、一刀両断に否定したり非難しないところが、アメリカ映画とも思えぬこの作品の優しさなのである。あるいは、「日米同盟を強化したい」という米政府の意向が、企画の中に反映されているのだろうか?とか、いろいろ勘ぐってしまった。

 ただし、「歴史ぱびりよん」的には、補足説明をすべきだろう。

 私がこの映画に違和感を覚えたのは、日本側が「常に受け身」である点だ。国家存続の一大事だというのに、劇中の日本人は柔和な態度で悠然と構えていて、アメリカ側の行動をただ待っているのである。しかし実際には、そうでは無かったはずだ。戦時中に軍部から弾圧されていた親欧米派の政治家や官僚(牧野伸顕、幣原喜重郎、吉田茂や白洲次郎ら)が急激に復権し台頭し、GHQに積極的な政治工作を仕掛けていたはずなのだ。マッカーサーの占領政策は間違いなく、彼らに相当以上に影響されていたのである。物的証拠は乏しいけれど(笑)。

 もちろん、これは「映画」なのだから、ストーリーを分かりやすくするための取捨選択は必要だろう。架空の恋愛エピソードも大切だろう。しかし、今のアメリカ人が日本人のことを「自分の意思を積極的に示さない常に受け身の人々だ。そして、日本文化とはそういうことだ」と解釈しているのであれば、それはそれで大きな問題だと思う。でも、実際にそう思われても仕方ないよね、今の日本人。これは、『終戦のエンペラー』から日本人が学んで反省するべき最大のポイントかもしれない。

 なお、以前に別の稿で紹介したロシア映画の『太陽』は、この映画と対になる作品である。この両者を見比べてみるのも一興であろう。

 


 

レ・ミゼラブル

                            Les Miserables

 

制作;アメリカ

制作年度;2012年

監督;トム・フーパー

 

 ビクトル・ユゴーが上梓したかの高名な世界的文学の、ミュージカル版の、そのまた映画化作品。

 私は原作小説が大好きで、2回通読したほどである。

 そして、『レ・ミゼラブル』は、これだけ高名な小説ゆえ、過去に何度も映画化されている。私はもちろん、これら映画作品を一通り見たことがある。しかし、原作のストーリーが異常に長い上、登場人物やエピソードが多いので、2〜3時間の映画の中にきっちり収まるはずがないから、どうしても舌足らずになる。その中では、ジャン・ギャバン主演の1957年版が最も原作に忠実だったけど、かえって退屈で面白くなかった。

 優れた文学は、人間心理の内面描写に優れているので、そこに物語の面白さの源があるのだが、映像化作品は心の内面まで表現できないから本質的に無理が生じる。だから、どんなに頑張っても原作を超えることは出来ない。むしろ、原作をある程度改変して、映像美を際立たせるような別作品として再構成した方が上手く行くケースが多い。そして、ミュージカル版は、この知的作業に最も成功した例である。このミュージカル版をそのまま映画化したのが2012年版で、だからこそ映画も成功し大ヒットとなった。

 ただし、原作ファンの視点からは、首をかしげざるを得ない部分もまた多かった。そこで、この稿では、原作小説とミュージカル版(+2012年映画版)の本質的相違点について検証してみよう。

 (1)神と人との対決;

 19世紀のヨーロッパ文学全体に流れる主題は、「神VS人」である。どういうことかと言うと、人間は科学技術などの進歩によって、どんどん英知を身につけて神を超越しつつある。しかし、そのことは、人類に利便的な幸福をもたらす反面で、神の愛を忘れさせて精神面での堕落を招くのではないだろうか?人の智恵と神の愛。この両者が織り成す深刻な対立こそが、19世紀ヨーロッパ文学の、そして小説『レ・ミゼラブル』の基本命題なのである。

 ここで、「神」の代表はミリエル神父であり、その薫陶を受けた主人公ジャン・バルジャンである。そして、「人」の代表は、ジャン・バルジャンを罪人と決めつけて、彼を執拗に追い続けるジャベール警視である。

 ジャベールが、バルジャンを敵視する理由は、バルジャンが「人の法に背いた」という一事のみだ。つまり、この警視の精神世界には、「人の法を上回る上位概念があるのではないか?」あるいは「人の法が間違っているのではないか?」という想念はまったく存在しない。つまり、「法」のためなら神を踏みにじっても構わないという思想の持ち主なのだ。しかし、そんな彼も、最後にはバルジャンの持つ「神の愛」に屈服する。でも、今さら神の側に寝返ることは出来ないので、自ら死を選ぶのだ。

 ところが、ミュージカル&映画版では、こういった対立図式は棄却されている。むしろジャベールが、神の命令を受けて行動する狂信者として描かれているから矛盾である。だから、彼の最後の自殺の動機も、今ひとつ分かりにくいのだ。

(2)マリユス・ポンメルシー;

 原作小説は、とにかく人物の内面描写が濃厚で、「ビジュアル的に動きが乏しい静かな人物の方が魅力的」だったりする。その代表が、ジャン・バルジャンでありマリユス ・ポンメルシー青年である。逆に、この静かで無口な人たちは、映像作品の中ではまったく映えないし、それどころか本質を誤解されがちの演出がなされてしまう。この矛盾というかギャップは、おそらく映像作品では解決不能である。

 マリユスについて言えば、彼の人物説明を表面的にするなら、

 「もともと金持ちのボンボンで、反抗期で家を飛び出して革命運動に参加するけど、恋に溺れて仲間を裏切ろうとして、それでも最終的には革命に参加するけど、自分だけ命が助かって、実家に帰って美人の嫁さん貰って幸せになる奴」。

 なんだか、無節操でスケベで薄情で嫌な感じである。後ろから、飛び蹴りを食わせたくなるような奴である。あらすじだけ紹介すれば、マリユスはそんな人物である。だけど、彼の家庭環境や生い立ちを知った上で、内面描写をじっくり噛みしめれば、皮相的な説明が木っ端みじんに吹き飛ぶくらい魅力的な人物だと分かるはずだ。これを表現出来ないのが、映像作品に共通の弱点なのである。

 それに加えて(1)に即して言えば、原作小説でのマリユスは、著者に最も近い立場で、「神VS人」の中間点に立って物語のバランスを取る重要な役目を持っている。しかし映像作品は、「神VS人」のテーマを棄却した時点で、マリユスの立場をも根っこから消し飛ばしているのだった。ああ、マリユス。不憫な奴よのお。

(3)ABCの友;

 原作と映像作品の最も大きな違いは、「革命運動の扱い」ではないか?

 「ABCの友」とは、劇中に登場する革命集団である。簡単に言えば「連合赤軍」みたいな手合いであるが、構成員のほとんどが学生で、しかもリーダーのアンジョルラスが超絶的イケメンという設定なので、ビジュアル的に魅力的である。だから、ミュージカル&最近の映画版では、彼らこそが主人公のような扱いになっていて、彼らの散華こそがクライマックスである。つまり、その後のジャベールやジャン・バルジャンの死は蛇足みたいになっている。

 しかしながら、原作小説では、学生たちはむしろ否定的な存在として描かれている。彼らはジャベール同様、「人の法に偏って、神の道に背いた悪い例」として扱われているのだ。もっとも、「ABCの友」が奉じる「人の法」とは、ジャベールとは逆に、現行政体であるブルボン王制を否定する共和制であったわけだが、王制、共和制どちらも「人の法」であって、「神の愛では無い」という点では共通だ。

 そして、この学生たちは血気盛んなだけで、戦略や戦術もロクに持っていない。なんとなく政治情勢の転機に付け込んで挙兵すれば、民衆どころか政府要人まで仲間に加わってくれて、革命が成就するだろうと無邪気に信じている奴らなのだ。だから、挙兵してわずか数日のうちに、罪の無い善良な人々(マブーフやガブローシュ)を巻き添えにして、政府軍によって皆殺しにされてしまうのである。

 「暴力は、より強い暴力によって報復されるだけ」。それは、「神の愛」に背く行為なのだ。だからユゴーは、強い同情心を抱きつつも、彼らの散華を残酷に無情に描く。

 また、メンバーのアンジョルラスとグランテールの関係など、同性愛というか、すごく不健康で不道徳な匂いがプンプンする。アンジョルラスは「俺の恋人はフランスだ!」などと呟いて、死ぬまで童貞だったっぽい人だが、何だか偏っていて性格が変である。キリスト教的には背教である。こういう描写で、「人の法」によって「神の愛」を忘れた心の堕落を描いたのが『レ・ミゼラブル』の原作なのだ。

 そして、ジャン・バルジャンは、徹頭徹尾、イエス・キリストの理想の「神の愛」の体現者として描かれ続け、その通りの最期を迎える。だから、原作小説を読み終えると、涙が溢れて止まらなくなるのだ。私はキリスト教信者ではないけれど、こういった首尾一貫した正しい生き様を提示できるのなら、「宗教も悪くないな」と考えさせられる。

 それなのに、ミュージカル&最新映画だと、「ABCの友」のイケメン青年たちが物語の中心になってしまうので、バルジャンの死は「こいつ、まだ生きてたの?」という感じで蛇足感じがプンプンしちゃう。映画館で観客の反応をうかがうと、みんなそういった違和感を抱いたようだった。

 本来の文学的(キリスト教的)主題をブチ壊されて、おそらくユゴーは草葉の陰で激怒しているのではないだろうか?

 それでも、ミュージカル&最新映画は、まったく別の作品だとして見るなら、それなりに楽しめる。でも、未読の方には、ぜひ原作小説を一読していただきたいと思う。そして、両者を比較考察することをお勧めします。人類が、ここ200年で何を失ったのかが、きっと見えて来るだろう・・・。