映画評論 PART  7


目 次

1.七人の侍          1954年 日本

2.ゴジラ           1954年 日本

3.東京物語          1953年 日本

4.砂の器           1974年 日本

5.戦国自衛隊         1979年 日本

6.203高地           1980年 日本

7.NHKの歴史ドラマ          日本

8.おろしや国酔夢譚       1992年 日本      

9. バブルへGO!        2007年 日本

10.おくりびと         2008年 日本

11. プリンセストヨトミ     2011年 日本

12. 魔法少女まどか☆マギカ    2012年 日本

 

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七人の侍

 

制作;日本

制作年度;1954年

監督;黒澤明

 

(1)あらすじ

  戦国時代の日本。

 関東の貧しい村は、野武士の群れに毎年略奪に遭って苦しんでいた。村人は、野武士に対抗するために、七人の侍を傭兵として雇い入れることにする。

 勘兵衛(志村喬)をリーダーとした七人の侍は、たまたま浪人中だったことから、生活のために傭兵になることを承諾し、村人と力を合わせて作戦を練り防衛手段を構築した。やがて野武士との最終決戦に勝利するも、仲間のほとんどを失ってしまう。

 最後に勝ったのは、武士ではなく農民なのだった。

 

(2)解説

 今さら解説なんて、する必要あるのか?

 言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、世界映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。歴史をテーマにしたエンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

 黒澤明監督は、当時流行していたハリウッドの歴史大作などに感銘を受け、「日本でも満漢全席のフルコースのような映画を作ってみたかった」などと述べたそうだが、その意図は完璧に成功している。そして、この映画はハリウッドに巨大な影響を与え、フランシス・コッポラのみならずスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスを動かすことになる。のみならず、『荒野の七人』をはじめ、様々なリメイク作品を生み出すことになる。

 この映画の素晴らしさについて語り始めたら止まらなくなるので、あえてやらない。インターネットを見れば、世界中の山ほどの絶賛に触れられることだろう。

 ただ、いちおう『歴史ぱびりよん』的には歴史ウンチクをする必要があるだろう。

 すでに多くの論者が突っ込みを入れているところだが、この映画は、時代考証の基本が間違っている。「農民=非武装、武士(侍+野武士)=武装」という単純化された図式がそれである。

 実は、日本の庶民が武装しなくなったのは 、豊臣秀吉の「刀狩り」からであり、それが定着したのは江戸時代からである。つまり、戦国時代の農民はみんな武装していて、しかも、かなり戦場慣れしていたはずなのだ。それはたとえば、あの織田信長が、武士ではない者たちから構成される一向一揆と10年間戦って苦戦の連続だったことからも明らかである。戦国時代の農民は、下手な武士よりも強かったのである。

 したがって、野武士に怯えた農民たちが、「わずか七人の武士を雇い入れて教えを請う」などという事態は、実際には有り得なかったと断言できる。というよりも、野武士が「非武装の村」を襲うなどという事態そのものが有り得なかったことだろう。

 また、「最後に勝つのは農民だ」という無理やりなメッセージは、当時全盛期だった左翼思想のバイアスが垣間見られて、いろいろと興味深い。

 もちろん、以上の事を差し引いても、『七人の侍』が超絶的傑作であることは言うも待たない。

 


 

ゴジラ

     

制作;日本

制作年度;1954年

監督;本多猪四郎

 

(1)あらすじ

 ビキニ岩礁におけるアメリカの水爆実験によって、古代恐竜の生き残りであるゴジラが、突然変異を起こして暴れ出した。

 東京に上陸した全長50メートルの怪獣ゴジラは、防衛隊の必死の抵抗を一蹴して、首都を火の海にする。

 孤高の科学者芹沢(平田明彦)は、化学兵器オキシジェン・デストロイヤーとともにゴジラに挑むのだった。

 

(2)解説

 今さら解説なんて、する必要あるのか?

 言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、怪獣映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。歴史をテーマに「していない」エンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

 っていうか、歴史と関係ない映画なのに、どうして『歴史ぱびりよん』で取り上げるのかって? それは、この怪獣映画の背景に隠されたメッセージが、当時の時代性を大きく反映させており、まさにそれこそが、この荒唐無稽な怪獣映画を大人の鑑賞に堪える世界的名画に押し上げているからである。

 怪獣映画というのは、基本的に幼稚なものである。なぜなら、科学的に有り得ないからである。柳田理科雄さんの『空想科学読本』などを見てもらえば分かる通り、そもそも全長50メートルの生物が陸上で直立すると、自らの重さに耐えきれずに圧死してしまうはずなのである。もっとも、鯨やある種の恐竜は確かに大きい(大きかった)わけだが、彼らは水中で生活するか、あるいは四足や尾の構造を工夫することで、自重を大幅に軽減することが出来ている(出来ていた)からこそ、科学的に生物として問題なく生活できる(た)のだ。しかし、ゴジラみたいなのは無理なのである。

 もっと突っ込んで言えば、「口から放射能火炎を吐く」のが物理的に無茶である。なんで、本人は火傷しないのだろうか?

 このように、怪獣映画はそもそも科学的に荒唐無稽なので、ある程度の常識を身につけた大人にとっては、失笑の対象にしかなり得ない。ところが、怪獣映画の背景に置かれたストーリーが、人間社会における大きな問題提起を内包している場合、ここでの「怪獣」は、深刻な問題の寓意(メタファー)としての新たな価値と意味を持ち、独特の魅力を放つようになる。

 アメリカ映画で言えば、『ソンビ』や『遊星からの物体X』がその例に当たる。これらの怪物は、増殖する人間のエゴないしウイルスのメタファーとして機能したからこそ、ゴジラ以上に荒唐無稽な存在にもかかわらず(笑)、大人の鑑賞に堪える独特の魅力を発揮するに到ったのである。

 それでは、怪獣ゴジラは何のメタファーかと言えば、もちろん「核兵器とB29」である。

 この映画の製作の契機となったのは、「第五福竜丸事件」であった。これは、ビキニ岩礁で操業中だった日本の漁船が、アメリカの水爆実験に巻き込まれて船員が被爆した事件である。つまり日本人は、この十年に満たない間に、ヒロシマ、ナガサキに続いて核爆弾の犠牲になったということだ。この恨みと悲しみこそが、『ゴジラ』で語られる本当のストーリーなのだ。

 劇中のゴジラは、なぜか夜しか行動しない。こいつは、人間を捕食するわけでもないのに南の海から東京に上陸し、そして空襲警報のサイレンの中、都市を破壊し放射能を撒き散らす。この恐怖描写は非常に説得力があり、見ていて身体が震えるほどである。もちろん、「東京大空襲」などの経験者が、自らの恐怖体験をそのままリアルに映像にぶちまけたから、こうなったのだろう。

 このゴジラを殺せる唯一の兵器は、科学者芹沢が独自開発した秘密兵器「オキシジェン・デストロイヤー」だ。しかし芹沢は、この超兵器の存在が世界平和の脅威になるのではないかと恐れ、その行使を躊躇する。この辺りの心理描写も、「戦争に懲り懲り」だった当時の日本人の価値観がストレートに反映されていて素直に共感できる。彼を巡る恋愛物語もよく出来ている。

 このように、『ゴジラ』は、当時の日本人の戦争や放射能への恐怖がストレートに反映された作品となっており、だからこそ荒唐無稽なはずの怪獣ゴジラに強烈な説得力が付与されたのだ。

 それが、続編が進むにつれて「金儲け主義」の幼稚な内容へと変貌していき、語るべきテーマさえ背景から抜け落ちていく過程は、惨めとしか言いようがない。ゴジラ映画の変遷とは、すなわち日本社会の堕落の寓話なのである。

 今回の福島原発事故の始末などを見ていても、「これが、本当に『ゴジラ』を制作したのと同じ民族なのか?」と首をかしげたくなる。

 日本人いや人間は、歯止めなく、どこまでもどこまでも堕落できる生物なのかもしれない。

  


 

東京物語         

 

制作;日本

制作年度;1953年

監督;小津安二郎

 

(1)あらすじ

  尾道で暮らす老夫婦、周吉(笠智衆)と妻とみ(東山千栄子)は、東京で暮らす子供たち夫婦に会うために上京する。

 しかし、長男も長女も、仕事と育児といった東京生活の忙しさゆえ、田舎の両親の来訪を迷惑がる。そんな彼らは、戦死した次男の未亡人・紀子(原節子)に両親の世話を押し付けた。しかし、心の優しい紀子は、老夫婦の東京滞在の面倒を懸命にみるのだった。

 
(2)解説

 今さら解説なんて、する必要あるのか?

 言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、人情映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。歴史をテーマに「していない」エンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

 っていうか、歴史と関係ない映画なのに、どうして『歴史ぱびりよん』で取り上げるのかって? それは、この映画が放つメッセージが、当時の時代性を大きく反映させており、まさにそれこそが、『東京物語』を日本史上に轟く永遠の名画に押し上げているからである。

 物語のモチーフは、シェークスピアの『リア王』である。黒澤明も、後に『乱』で同じモチーフを取り上げることになるが、『東京物語』の方が、そのテーマ性を前面に出す上で成功している。

 尾道に住む老夫婦は、東京で生活している子供たち一家に会うのを楽しみにしていたのだが、子供たちや孫たちはそうでもない。東京と尾道では、生活のリズムがあまりにも違いすぎるからである。そこで、独身OLの紀子だけが、「どうせ暇だろう」ということで老夫婦の面倒を押し付けられるのだが、 いつも天女のように優しい紀子は、古き良き日本の最後の生き残りとして描かれる。

 この映画は、単なる人情映画ではない。ここに描かれるのは、古き良き日本の家族が、戦後復興や経済成長という美名の元に破壊されて行く恐怖の縮図なのだ。もはや人々は、カネ儲けや成功のためなら、道徳も人情も犠牲にすることだろう。親の葬儀でさえ、損得勘定で考えるようになることだろう。

 小津安二郎が1953年に危惧したことは、21世紀に入ってますます本格化している。非婚化晩婚化少子化などといった生易しい問題ではない。孤立死や孤独死はもちろん、家族内での虐待や殺し合いさえ当たり前の世の中に堕落してしまった。

 1953年という早い時点で、日本の未来に警鐘を鳴らした小津安二郎の先見の明の素晴らしさには脱帽する思いだが、その警鐘にまったく応えることが出来なかった我々の愚かさと不甲斐無さには断腸の思いである。

  


 

砂の器         

 

制作;日本

制作年度;1974年

監督;野村芳太郎

 

(1)あらすじ

  昭和46年の夏、蒲田操車場で、身元不明の初老男性の他殺死体が見つかった。

 今西刑事(丹波哲郎)と吉村刑事(森田健作)は、被害者が事件直前にトリス・バーにて、重要容疑者との会話の中で洩らしたとされる、東北弁の「かめだ」という言葉一つを頼りに捜査を開始する。

 やがて、捜査線上に浮かびあがったのは、新進気鋭の作曲家・和賀英良(加藤剛)の姿だった。彼の秘められた過去、そして殺害動機、被害者との関係は、刑事たちでさえ慟哭を禁じ得ないほど過酷で激烈なものだった。

 

(2)解説

 今さら解説なんて、する必要あるのか?

 言わずと知れた日本映画の最高傑作の一つであり、ミステリー映画の至宝である。未見の人は、今すぐにでもDVDレンタルの店に行った方がよい。歴史をテーマに「していない」エンターテイメントとしては、文句のつけどころがない超絶的名作である。もはや、「神が宿っている」としか言いようがない。

 っていうか、歴史と関係ない映画なのに、どうして『歴史ぱびりよん』で取り上げるのかって? それは、このミステリー映画が放つメッセージが、当時の時代性を大きく反映させており、まさにそれこそが、『砂の器』を日本史上に轟く永遠の名画に押し上げているからである。

 ・・・・え?4回連続でほとんど同じ文章を書いているって?いやあ、コピー&貼り付けは楽チンだなあ。てへぺろっ♪

 さて、この映画の原作は、松本清張の同名の推理小説である。映画に感動したので読んでみたところ、小説の方はあんまり面白くなかった。犯行動機や犯行手段の書き込みが弱かったり非合理的だったりして、ミステリーとしては三流だと思った。しかしながら映画版は、こうした原作の問題点を全て改変し、あるいは弱いところを強調することで、数段優れた作品へと進化させているのだ。脚本家の橋本忍の知性の高さには脱帽である。

 また、この映画の重要な主題の一つに「音楽」がある。犯人役の設定が有名音楽家ということなので、芥川也寸志ら有名作曲家を大動員してオーケストラの名曲「宿命」を仕立て、その全曲をクライマックスに延々と流すと言う冒険的な作劇に果敢にチャレンジし、しかもその冒険に大成功しているのである。これをやるために、原作小説ではシンセサイザーを用いる前衛音楽家だった和賀英良を、映画版ではオーケストラの作曲家兼指揮者へと設定変更しているのだった。

 私はこの映画を10回以上見ているのだが、見るたびに新たな発見と感動を得られて飽きるということがない。しかも、クライマックスではいつでも感涙を禁じ得ないのだ。すでに、すべてのシーンとセリフを暗記しているというのに。そして、俳優陣の豪華さも、それだけでため息が出るほどの素晴らしさだ。

 これほど見事なミステリー映画は、古今東西を見回しても存在しないだろう。日本映画というよりは、もはや世界のミステリー映画の王者だと言いきってしまって良いだろう。

 推理もの(ミステリー)というのは、要するに謎々遊びでありゲームである。だからこそ、犯人や謎の正体が分かってしまうと物語への興味が消滅するのが普通なので、「もう一回読みたい、見たい」と思わせる作品は極めて稀である。ところが、例外的に「何度も読みたい、見たい」と思わせる作品が存在する。それは、ストーリーのリズム、探偵役の魅力、犯人の人間像、背景に流れる詩情や時代性などが、全ての面で優れている作品である。映画版『砂の器』は、この条件を満たしているからこそ、10回以上見ても飽きが来ないのである。

 また、この映画は「古き良き時代の日本人」の価値観をストレートに描いていて、その意味でも深い感銘を受ける。

 主人公の刑事たちは、生粋のワークホリックで、休日を返上までして犯人探しに血眼になる。もともと、松本清張作品に出て来る刑事像は、「天才肌ではない朴訥な公務員が、持ち前の忍耐心でコツコツと足で証拠集めをしていく」リアルさに特徴がある。そして、『砂の器』の刑事たちには、こういった清張作品の刑事の価値観がストレートに反映されているのだった。そんな彼らの執念は、完全犯罪と思われた事件の真相に肉薄していく。

 これに対する犯人は、煎じつめて考えれば「仕事を邪魔されたくないから」こそ、己の過去を知る恩人を殺害してしまった。

 高度成長期の日本人は、「己の仕事」に深い誇りを抱き、それに邁進することこそ人生だと考えていた。『砂の器』の登場人物たちは、この価値観を何の疑問も抱かずに共有しているのだった。つまり、刑事たちと犯人の対決も、結局は異なるベクトルを向いた同じ価値観のぶつかり合いなのであって、だからこそ、そこに深いドラマ性が生まれるのだ。日本経済の成功は、まさにそういった人たちによって支えられて来た。翻って、昨今の日本社会を俯瞰的に見回せば、深い絶望のため息を禁じ得ないのである。

 なお、『砂の器』は、後に何度かドラマ化されているのだが、あまりの出来の酷さに、最初の数分で気分が悪くなってチャンネルを切り替えることの繰り返しである。そういえば、なぜか最近、清張ブームが再燃して、いくつもの清張原作の映画やドラマが制作されたのだが、どれもこれも酷い出来で見るに堪えないものばかりだ。

 そもそも、清張作品が訴える昭和時代の価値観は、平成日本のそれとは相容れない部分が多い。それを、何も考えずに平成のスタッフとキャストを使って映像化しようなんて、考えるだけムダで愚かな行為である。それでも、平成のスタッフとキャストの技量が上がっているのなら多少の救いはあるかもしれないが、実際には昭和に比べて激しく劣化しているのだから、まったくお話にならない。

 日本映画(+ドラマ)は、そもそもの企画レベルの見識からして、どうしてこんなに経年劣化してしまったのか?その秘密は、この稿を読んでいるうちに、おいおい明らかになることだろう。

 


 

戦国自衛隊

 

制作;日本

制作年度;1979年

監督;斉藤光正

 

(1)あらすじ

 新潟県で演習中だった自衛隊一個小隊は、時空のはざまに取り込まれて戦国時代にタイムスリップしてしまった。

 伊庭三尉(千葉真一)ら21名の隊員たちは、思わぬ事態に戸惑いつつも、長尾景虎(夏木勲)と出会って意気投合したことから、彼とともに戦国時代の覇者になる野望を抱くようになる。

 武田信玄(田中浩)との「川中島の戦い」に勝利した自衛隊だったが、激戦の中、隊員たちの多くや、ヘリや戦車といった兵器のほとんどを失ってしまう。

 そんな彼らを京で出迎えたのは、長尾景虎とその背後にいる貴族たちの冷酷な打算であった。

 

(2)解説

 いよいよ、悪名高き(?)角川映画の登場だ。

 角川書店を率いる角川春樹の、膨大な製作費とメディアミックスの広告宣伝を重視するアメリカナイズされた姿勢については、この当時からいろいろな物議を醸して来た。

 もっとも、これは時代性の問題だとも言える。このころの映画制作環境は、黒澤明や野村芳太郎といった「名監督」の職人芸の時代が黄昏を迎えつつあり、それに取って代わった敏腕プロデューサーによる「売り方」重視の時代であった。だから、角川春樹の行動は時代の流れに忠実に即していただけだと言えなくもない。同時期に大ブームとなった『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの西崎義展も、まさにこの仲間である。

 膨大な製作費はともかく、メディアミックスという点では、いわゆる角川映画は、テレビ局が主体となった今日の映画制作環境の原型と言える。しかし、異なる点も多い。それは、角川映画の中には、今日の単なる「金儲け第一主義」とは一線を画したテーマ性と、一定の知性が宿っていたことである。

 『戦国自衛隊』の原作は、半村良の中編SF小説である。これは、もともとは「自衛隊と戦国武将が戦ったら、いったいどちらが強いだろう?」という小学生レベルの子供じみた問題提起から生まれた作品だったらしい。確かに、自衛隊はアメリカ製の最新鋭兵器を装備してはいるのだが、実戦経験が無いし、そもそも自衛以外の戦闘行為を認められていない中途半端な武力主体である。「もしかすると、武田信玄や上杉謙信の方が強いのではないか?」と思われても仕方ない存在であるから、そこにユニークな興味が生まれるわけだ。ただし、原作小説は、そこにタイムパラドックスの問題を巧みに織り込んだ知的なSFに仕上がっていた。

 角川春樹プロデューサーは、この名編を映画化するに当たって、「青春映画を作る」という基本方針を抱いたらしい。だからこそ、監督に青春映画が得意だった斉藤光正を抜擢したのだし、劇中の音楽にも、当時流行していたフォークソングの要素を大量に持ち込んだのである。

 現代の若者感覚からすると、「なんで青春映画なのに自衛隊でタイムスリップだ?」と思うかもしれない。しかし、70年代の若者にとって、青春とは「挫折」を意味する熟語なのだった。時代の流れに翻弄され、精一杯頑張った結果、惨めに裏切られて殺害されていくこの映画の自衛官たちの姿は、「全共闘」の夢に破れた若者たちの姿に奇妙にシンクロしている。

 わずか21名の兵員で、しかも 自前の近代兵器に補給も付かないくせに「天下を取る」と公言する伊庭三尉は、はっきり言ってアホウに見える。しかし、その姿を連合赤軍などに重ね合わせ、「よど号ハイジャック」や「あさま山荘事件」のことを想起するなら、それなりに共感できる部分も出て来る。70年代の青春というのは、基本的にそういうものであった。当時『あしたのジョー』が流行したのも、そういうことである。現代の若者の感覚とは、まったく異なるのである。

 この映画のクライマックスは、莫大な予算を投じた「川中島の戦い」である。人海戦術で攻めて来る武田軍を相手に、少人数の自衛隊が近代火器で奮闘するのが見せ場である。千葉真一や真田広之(武田勝頼役)のスタントを使わない見事なアクションを筆頭に、JAC(ジャパン・アクション・クラブ)の面々が大活躍する。薬師丸ひろ子扮する少年兵が、竜雷太と刺し違える有名なシーン。真田昌幸に扮した角川春樹が、機関銃で撃たれて悶死するシーン(演じたご本人は楽しかっただろうな(笑))など、豪華な見せ場がてんこ盛りなので、「実際の戦国武将は、自殺的な人海戦術なんか使わなかっただろう」という正しい突っ込みを入れることも忘れてしまう。

 人海戦術といえば、当時の日本人が想像する「最も恐ろしい戦場の敵」が、この戦術を得意とする中国軍(朝鮮戦争)や北ベトナム軍(ベトナム戦争)であった事実が窺い知れて興味深い。もっとも、実際の中共軍やべトコンは、地形を巧みに利用したり、あるいは夜間のみ行動するなど、もっと合理的で賢い戦い方をしていたはずなので、「白昼堂々、撃たれても撃たれても平野の中を無表情に進み続ける雲霞のごとき武田軍」みたいなのは実際の戦場には存在しなかったことだろう。もちろん、歴史上の武田信玄も、こんなアホウな戦い方はしなかったことだろう。しかし、ここにも70年代の日本人の時代性のメンタリティが忠実に反映されているようで興味深いのだ。

 『戦国自衛隊』は、確かに変てこな映画である。しかしながら、70年代日本人の心象風景の断面をヴィヴィットに切り取った幻想風刺映画だと考えた場合、なかなか深い感慨にふけることが出来るのも確かだ。

 なお、『戦国自衛隊』にはいくつもの続編があるらしい。テレビでやっているのをチラっと見たが、駄作オーラが漲っていたのですぐにチャンネルを変えてしまった。実際に映画館に続編映画を見に行った人に感想を聞いたところ、「詰まらなかった」と口々に言う。やっぱりね。

 ウィキペディアなどをチェックしたところ、続編群は、タイムスリップやタイムパラドックスについての科学的考察をストーリーの中心にしているとか。それが本当だとしたら、

 ・・・バカじゃないの?

 タイムスリップやらタイムトラベルやらは、物理的に「有り得ない」。すなわち、科学的に「有り得ない」。そんなものを、ウンチクすることに何の意味が有るのだろう?何が面白いというのだろう?

 『ゴジラ』の項で書いたことだが、科学的に有り得ない概念を、大人の鑑賞に堪えるようにするには、そこに高度に知的な諧謔や風刺の要素が入っていることが必須である。それなのに、物語の中に諧謔や風刺を入れずして、しかも科学面の説得力不足を無理に説明して補おうとするのは、物語の作り方として完全に本末転倒なのである。要するに、最近の物語の作り手は、確実に頭が悪くなっているのである。

 悪名高きかつての角川映画は、時代性を映す鏡になるに足るだけの深い知性と諧謔精神を抱いていた。だからこそ、平成の映画やドラマに比べると、数段マシだったと断言せざるを得ない。

 


 

203高地

 

制作;日本

制作年度;1980年

監督;舛田利雄

 

(1)あらすじ

 1904年冬、日露戦争が始まった。

 トルストイを愛好する文学青年・古賀(あおい輝彦)は、徴兵に応じて満州に出征する。乃木第三軍の一翼として旅順要塞攻略に出陣した彼の前に広がるのは、想像を絶する地獄のような戦場であった。

 

(2)解説

 日本最高の戦争映画だ。

 日本製の戦争映画は、はっきり言って、これ一本見れば十分である。

 歴史マニアの視点から見ても、完全に納得の行く当時の軍隊や戦場の姿が描かれる。また、人間ドラマと史実が対立するような場合、必ず後者を優先させるような脚本の真面目さに好感が持てる。しかも、この映画で展開される歴史感は、かなり客観的で公平で、しかも科学的である。

 実はこの当時、歴史作家・司馬遼太郎の歴史論(司馬史観)が流行していた。たとえば、日露戦争を描いた『坂の上の雲』では、「乃木将軍無能論」がしつこく展開されていて、それが通説のようになっていた。そして、エリートを自認するこの世代の人たちは、みんな司馬史観こそが歴史の真実だと思い込んでいたのである(今でも基本的には同じ)。

 私は、若いころに初めて『坂の上の雲』を読んだとき、「読みやすいけど、嘘ばかり書いてある本だな。しかも、物語の構成が途中で破綻した失敗作じゃん。なんで、こんなのがエリート層のバイブルなんだ?この国の偉い人って、実はみんなバカなのか?こんなことでは、この国の政治と経済は、いずれ崩壊するだろうな」と感じた記憶がある。オイラは、子供のころからヒネくれた性格だったんだねえ(苦笑)。でも、その時に抱いた悪い予感は、後に完全に的中したわけだが(泣)。

 そんな私が、映画『203高地』を高く評価する理由は、これが司馬史観全盛時代に製作された映画であるにもかかわらず、司馬史観から自由だからである。

 この作品内の乃木希典(仲代達也)は、司馬遼太郎が描くような愚鈍でアホウな無能者ではない。「人情が篤すぎて非情に成り切れず、それが結果的に戦局を不利にして兵士たちに余計な犠牲を出してしまい、その事実に苦悩する好人物」として描かれている。 その一方で、彼の親友でありライバルでもある児玉源太郎(丹波哲郎)は、「心が冷酷非情であるがゆえに、過酷な命令を迷うことなく発して戦局を優位に進めることで、結果的に兵士の犠牲を減らす」人物として登場する。この解釈は、近年の反司馬史観主流派の主張と多くの面で合致しており、1980年の映画にしてはその先見の明の深さには驚いてしまう。私も、あの実際の戦場はそういうものだったと思う。

 指揮官たちの描き方だけではない。この映画は、苦悩する最前線の兵士たちを描いた青春群像劇としても秀逸である。後に世界中の戦争映画で描かれる全ての良質なドラマ要素が、この中に詰め込まれていると言っても過言ではない。

 「司馬史観」の最大の問題点の一つに、「上から目線」というのがある。彼の小説の主人公は、ほとんど偉い人かインテリで、無学で弱い庶民は、多くの場合、意図的に作中で無視されるのだ。そういうわけで、小説『坂の上の雲』でも、庶民や下級兵士の姿は完全に無視され忘却されている。だからこそ、最前線の兵士たちの苦悩を描いた映画『203高地』は、この弱点を補った作品という意味でも有益だろう。

 しかし、同じ監督とスタッフで、後に制作された『大日本帝国』は駄作だった。太平洋戦争がテーマだと、時代が近すぎて、スタッフが冷静になれなかったということだろうか?あるいは、『203高地』が、たまたま偶然出来が良かっただけなのだろうか?

 こういった品質のブレを補正するために開発されたのが、今のハリウッドシステムであり、その亜流の製作委員会システムである。その功罪について、これから少しずつ語って行くことになるだろう。

   


 

NHKの歴史ドラマ

 

 この稿では、NHKの歴史ドラマを取り上げる。

 日本放送協会というところは、定期的に良質な歴史ドラマを製作し放映する。毎週日曜8時からの「大河ドラマ」が有名だが、他にも「新時代劇」とか「スペシャルドラマ」と称する別枠でもそれなりに頑張っている。

 こういった歴史ドラマの難しさは、仮にもNHKがやる以上は、歴史の真実に忠実で真面目でなければならず、しかも、現代人の鑑賞に堪え得るような面白さと理解の容易さを同時に担保しなければならないところにある。これには、なかなか高度な知的作業が必要とされる。NHK歴史ドラマの歴史とは、すなわちこのテーゼを充足させるための奮戦記であり、同時に挫折記でもある。

 さて、長いNHKドラマ史の中には様々な作品があり、出来不出来も人気度も様々だ。私は全部見ているわけでもないが、個人的に好きだった、あるいは高く評価した作品は、大河ドラマでは『黄金の日々』、『草燃える』、『女太閤記』、『太平記』、『葵〜徳川三代』、そして新時代劇の『真田太平記』である。これらは、歴史に比較的忠実で時代考証も正確で、しかも俳優陣の技量も高く、そして脚本の出来が良い作品であった。

 つい最近、『真田太平記』(1985年)のDVDセットを大人買いして一気に見たのだが、その品質の高さに驚愕した。特に、池波正太郎の原作小説の弱点を巧みに補正した上で、原作には無いメッセージ性を織り込んでいたのに感心した。たとえば、「真田昌幸(丹波哲郎)が関ヶ原で判断ミスをしたのは、忍者がもたらす戦術的な情報を過剰摂取したためである。 それとは逆に、その長男・信之(渡瀬恒彦)は、低レベルの情報を全て無視して戦略面でのインテリジェンスに特化して行動したために勝ち残った」という解釈は、インターネット全盛で、無駄な情報の洪水の中で溺れている現代人(私を含む)にとって極めて貴重な教訓になるエピソードだと思った。つまり80年代 までのNHKは、非常に品質の高い、視聴者にとって「普遍的な意味で本当に勉強になる」ドラマを真面目に作っていたのである。

 「転機になったかな?」と感じたのは、大河ドラマ『利家とまつ』(2002年度)だ。俳優陣に、当時の人気アイドル系を大量配備し、脚本も、時代考証や当時の文化を無視した荒唐無稽なものになった。おまけに、予算をなるべくケチる動きも見え始めた。そして、こういった傾向は、時代を下るに従って極端で顕著になって行き、今ではとんでもないことになっている。

 そもそも、ストーリーの中で何を語りたいのか見えてこないのだ。

 そんな中、珍しくテーマ性を前面に出したのは、『天地人』(2009年度)だった。これは、「義」というキーワードを前面に立てて物語を構築するスタイルだったので、「最近のNHKにしては頑張っているな」と、少なくとも最初のうちは期待した。ところが、肝心の「義」の意味が途中からブレまくって、最後は無茶苦茶な辻褄合わせに終始してしまい、物語が完全に崩壊してしまっていた。私は、終盤の方は毎回、ケタケタと失笑&爆笑しながらこのドラマを見ていた。もちろん、スタッフもキャストも、視聴者を笑わせようとしてこのドラマを作っていたわけではないのだろうが、少なくとも私は、バカにして笑うためにこれを見ていた。十分に楽しませてもらって、満足です。

 NHKスタッフは、『龍馬伝』(2010年度)や『平清盛』(2012年度)では、画面を埃っぽくして「時代感」を出すようになった。一部の視聴者から「汚い」と批評されているが、その批評は手ぬるいと思う。 なぜなら、スタッフがこういう方策に打って出た本当の理由は、脚本の出来が酷すぎて、ストーリーだけでは時代性を表現できなくなったからなのだ。脚本と演出がしっかりしていれば、画像表現の巧拙に拘わらずリアルで面白い時代劇は作れるはずなのに、その能力が失われたことを隠そうともしなくなったというわけだ。それでも、彼らが提供する映像が、本当に時代性を映したリアルなものならまだ許せるが、とてもそうは思えない。

 たとえば、『平清盛』では、登場人物の多くの顔が泥まみれなのに驚いたのだが、これはいくらなんでも酷すぎる。ここは日本なので、水なんか昔からそこら中にあるのだから、少なくとも、若い女性まで終始泥まみれの顔で生活するなんて、絶対に有り得なかっただろう。

 もっとも、欧米ないし中国製のリアリティ重視の時代劇を見ると、確かにみんな薄汚い。その理由は単純で、海外の国々は日本ほど水資源に恵まれていないので、上水道が完備される近代に至るまでは、実際に顔を洗うことさえ難しかったからである。みんな実際に不潔だったからこそ、ペストやコレラなどの疫病が、あれほどの猛威を振るったのである。おそらくNHKスタッフは、こういった「汚い」海外作品を参考にしたつもりなのだろうが、ここは日本なのだから海外のリアリティを猿真似したところでまったく無意味である。戦国時代や江戸末期に日本を訪れた欧米人が 、常に「日本人の清潔さと奇麗好き」について特筆していたことを忘れてはならない。NHKは、昔の日本人のことをバカにし過ぎだ。本当に正しい歴史を描く気があるのかどうか、正気を疑いたくなる。

 また、「名前の呼び方」の問題も気になるところだ。昔の日本人は、相手の「諱(いみな)」を決して口にしなかった。諱は、すなわち「忌み名」だからである。それなのに、最近のNHKドラマでは、普通に「信長 さま」とか「家康さま」とか呼び合うでしょう?これは、たいへんな無礼であるから、その場で手討ちにされても仕方ないほどの悪行なのである。NHKスタッフは、おそらく「分かりやすさ」を重視してそうしているのだろうけど、歴史上の常識を無視するのは、歴史に対する侮辱ではないだろうか?それでも、NHKドラマが昔から首尾一貫してそういう方針ならば「間違っているけど、そういうポリシーなのだね」と妥協してあげても良いけれど、たとえば『真田太平記』では、「安房守さま(真田昌幸)」、「伊豆守さま(真田信之)」などと、ちゃんと史実通りに官職名で呼び合っていた。それが、『太平記』の頃からグラグラし始めて、ついに90年代に入ってから、急激に堕落したのであった。つまり、悪い方へ方針変更したのである。

 つまり、『龍馬伝』や『平清盛』は、そういった史実のリアリティにちゃんと配慮せず、ただ映像だけ汚くしている(しかも間違った方向に)わけでしょう?愚行としか思えない。

 結論を先に言わせてもらえば、最近の映像作家は「頭が悪くなった」のである。

 どうして、NHKの映像作家は頭が悪くなってしまったのか?視聴者の知的レベルが下がっているのに気づいて、それに迎合しているうちに、本当に能力が衰えてしまったと解釈するのが妥当であろうか?あるいは、視聴率稼ぎのために、ドラマの難易度を下げることばかり考えているうちに、肝心の歴史の真実を無視することになり、それが歴史ドラマ本来の面白さを消してしまう形になったのだろうか?

 実際のところ、頭が良いクリエイターは、テレビドラマ制作のような「儲からない」仕事から撤退して、「より儲かる」ゲームやアニメの現場に転出してしまったと見るのが妥当なのかもしれない。

 それは、NHKドラマに限った話ではなくて、映画界でも同じことが言える。

 もっともNHKは、その高い権威ゆえに、優秀な映像作家や俳優をいくらでも集められるので、 民放に比べると、今でも高いアドバンテージを有することは確かなので、これからも諦めずに期待はして行きたいところだ。せめて、『天地人』のように失笑&爆笑で楽しませてくれる作品を期待します(笑)。
 


 

おろしあ国酔夢譚

          

制作;日本

制作年度;1992年

監督;佐藤純彌

 

(1)あらすじ

 江戸時代の天明2年(1782年)、伊勢から江戸へ向かう商船「神昌丸」は、嵐に遭難して黒潮に流され、ロシア領カムチャッカ半島に漂着した。

 大黒屋光太夫(緒方拳)以下9名の生き残りは、帰国を賭けて厳寒の中をペテルブルクに向かい、イルクーツクの学者ラクスマンの助けを借りつつ女帝エカテリーナへの謁見に成功。そこに、日本との国交を開きたいロシア政府中枢の意図がからみ、奇跡的にロシア船に乗って北海道からの帰国に成功する。

 しかし、鎖国中の江戸幕府は、禁制を破って海外に渡った光太夫らを軟禁状態に置いて冷たく扱うのだった。

 

(2)解説

 1990年代に入ると、日本製の映画やテレビドラマは急激に詰まらなくなった。

 映画大好き少年で、80年代は年がら年中映画館に通っていて、しかも高校で自主制作映画など作っていた私だが、いや、そんな私だったからこそ、「90年代以降の映画鑑賞は、カネと時間の浪費に過ぎなくなった」という悲しい事実を肌身に感じて、悲しい思いを味わうのだった。当時はお金が無かったので、1,800円の映画代は高かった。それなのに、映画館に見に行った映画の9割は駄作で、見終わった後に映画館に放火したくなるくらいの怒りを覚えることもしばしばで、精神衛生上も良くない。そこで、「この映画なら絶対に大丈夫だろう」という確信を得るまで、事前に石橋を叩くように慎重に検討して、ようやっと映画館に足を運ぶようになった。それでも、以前に紹介した『スパイゾルゲ』のように、大失敗に終わって激怒する確率が高かったのだが。

 さて、『おろしや国酔夢譚』は、江戸時代の実在の人物、大黒屋光太夫の生涯を描いた映画である。そして、冷戦崩壊で自由化して間もないロシア映画界の全面協力を得て制作されたという、いろいろな意味で画期的な映画なのである。

 私は当時、ロシア(ソ連)のことが大好きで、いずれは亡命移住したいと考えて、ロシア語の勉強をしていたくらいなので、光太夫に非常に大きく感情移入していた。井上靖の原作小説はもちろん、関連する専門書などモリモリ読み込んでいた。そして、「このストーリーの映画化で、しかも緒方拳が主演なら、絶対に外れないだろう」と大いに期待して映画館に足を運んだわけだが。

 ・・・詰まらなかった。退屈で寝そうになった。

 どうしてかと言えば、その理由は単純である。

 井上靖の小説は、感情を込めずに淡々と事実を書き連ねていき、その事実の重さで読者を感動させるものが多い。吉村昭や城山三郎の小説も、それと似た傾向にあるが、司馬遼太郎みたいに主観と感情を出しまくるのは、むしろあの当時の小説世界では異端だったのである。そういうわけで、『おろしや国酔夢譚』の原作小説も淡々としている。それを、そっくりそのまま映像化したものだから、映画も淡々としちゃったのである。

 すなわち、井上靖の小説はもともと映像化に馴染まないのだから、映像化する上で、映画ならではの特殊な演出が必要である。先に紹介した『砂の器』のように、原作の内容を大幅に改編することも、場合によっては必要である。ところが、90年代の日本映画界は、そういう知的作業が出来なくなっていたのだ。そして『おろしや国酔夢譚』は、観客に何を語りたい映画だったのか、まったく心に伝わってくるものが無かった。

 史実の大黒屋光太夫は、もともと一介の伊勢商人に過ぎない人物だったが、なぜかロシア宮廷で人気者となり、その人物の素晴らしさは西欧にまで風聞として伝わるほどだった。それは、彼の日本人としての高潔さ、慎み深さ、知性の深さなどが、当時のヨーロッパ人にとって驚異的だったからである。すなわち、『おろしや国酔夢譚』は、こういった日本人の日本人ならではの素晴らしさを世界に発信し、同時に、バブル崩壊で苦しむ日本国民を鼓舞し勇気づける上で絶好のテーマだったと思うのだが、残念ながら映画はそうなっていなかった。・・・私の期待が高すぎたのだろうか?

 もっとも、外国とのコラボレーション映画というのは、平凡な出来に終わることが多い。なぜなら、異なる文化や技法のぶつけ合いは、「虻蜂とらず」の中途半端に終わる確率が高いからである。特に、「和の精神」が強い日本人は、すぐに相手に謝ったり妥協したりするから、期待以上の作品が出来上がる道理がないのだ。そう考えるなら、この映画に期待した私 の方が愚かだったのだろう。

 これは余談であるが、旧ソ連のゴルバチョフ書記長(大統領)が初めて日本を訪れたとき、スピーチの中で大黒屋光太夫の名前を出した。彼はサービスのつもりで語ったのであろうが、そのスピーチを聞く日本の政治家官僚そしてマスコミは、コウダイユというのが誰の事だか全く理解できずに無反応だった。私は、テレビでその有様を見ていて、恥ずかしさに気が狂いそうになったものだ。

 バブル崩壊以後、すなわち90年代以降の日本の知性は、加速度的に劣化していく。

  


 

バブルへGO ! タイムマシンはドラム式


 

制作;日本

制作年度;2007年

監督;馬場康夫

 

(1)あらすじ

 2007年、巨額の借金を抱えて崩壊寸前になった日本経済。窓際の財務官僚・下川路(阿部寛)は、かつてバブル経済を崩壊させた「総量規制」を阻止するため、タイムマシンを用いて歴史の改変を行おうとする。

 そのエージェントに選ばれたキャバ嬢の真弓(広末涼子)は、現代と全く違うバブル文化に驚愕しつつも、バブル崩壊の真相に迫って行くのだった。

 

(2)解説  

この稿は、いわゆる「パクり」がテーマである。

これは私的な意見だが、そもそも「パクり」とは作劇の邪道であり、元ネタの作者に対する非礼である。だから、原則としてやってはならない行為なのだが、例外というのもあって、それは「元ネタ作品に対する愛情と尊敬をたっぷり込めた上で、元ネタの弱点を修正することで、よりハイレベルの作品に仕上げた場合」であろう 。

ところが、日本映画は、それが出来ていないものが非常に多い。

『バブルへGO!』をDVDで見る少し前に、織田祐二主演の『ホワイトアウト』というのを見たのだが、これは腰を抜かすほど出来が悪いパクり映画だった。この映画は、明らかにアメリカ映画『ダイハード』のパクりなのだが、元ネタの面白さの理由についてまったく考察しておらず(つまり上辺だけ真似している)、ありとあらゆる意味でピンボケしており、しかもストーリーが途中で破綻していた。たとえば、『ダイハード』の最も重要なテーマは「夫婦愛」なのだが、映画『ホワイトアウト』からは、そういう要素が完全に抜け落ちていた。

なお、『ダイハード』は、日本製アニメ『未来少年コナン』(高畑勲監督)のパクりという説がある。言われてみれば、確かに良く似ている。もしそうなら、それはパクり方として大成功であろう。ところが、それをさらに逆輸入した『ホワイトアウト』は、すべてを台無しにしているのだった。つまり日本のクリエイターは、70年代まではハリウッドによってパクられるほど優秀だったのに、2000年代に入ると、逆にハリウッド映画(その元ネタは日本なのに)の劣化コピーしか出来なくなるほどダメになったということだ。これは、ゆゆしき事態である。

さて、『バブルへGO!』だ。この映画の元ネタは、どこからどう見ても『バック・トゥー・ザ・フューチャー』だ。 ただ、そのパクり方は、『ホワイトアウト』に比べると随分マシである。ちゃんと、「異なる時代間のカルチャーギャップがもたらす笑い」と、「タイムパラドックスがもたらす家族の再生」を興味の主軸においたコメディとして成立しているので、少なくとも元ネタのメインテーマを外すような酷いことになっていない。

『バブルへGO!』はコメディ映画なので、その設定の無茶ぶりについて、あまりうるさい突っ込みはしたくない。「バブル崩壊は、一部の高級官僚と外資系ハゲタカファンドが私利私欲で仕組んだものだ」という新説(笑)や 、「あのとき総量規制さえやらなければ、日本経済は21世紀になっても好調だったはずだ」という異説についても、突っ込んだらキリが無いのだが、あえてやらない。

いちおう少しだけ言うと、バブルというものは、いつか必ず弾けるからバブル(=泡)なのであって、これが弾けるのを阻止することは不可能なのである。もちろん、政策的に対処することで、いくらか問題先送りにすることは可能だが、その場合は後の世代が受けるダメージが数倍にもなる。アメリカ発のリーマンショックなどが、その好例であろう。だから、どうしてもバブル問題を解決したいのであれば、「バブル崩壊を阻止」するのではなく、「バブル発生を阻止」するのが正しい有り方なのである。そういう意味では、この映画はテーマ設定の段階で間違えているし、すなわち登場人物は全員、徹頭徹尾間違った行動をしていることになるわけだが、どうせコメディ映画なので、そこを突っ込んでも意味がないだろう。

ここで、あえて突っ込むべきなのは、やはり物語のテーマ性であろうか。

元ネタの『バック・トゥー・ザ・フューチャー』がなぜ名作かと言えば、それは「アメリカの家族」についての諧謔精神とブラックユーモアに満ちているからである。

「1950年代のアメリカの家庭像」は、全世界の家族の在り方の「模範」とされて来た。テレビドラマの『奥様は魔女』あるいは『大草原の小さな家』などが好例だが、「ハンサムで人格者の夫と、それを支える貞淑無比で優しく賢い美人妻、そして彼らの愛情をたっぷりと受けて育つ可愛い子供たち」こそが、50年代のアメリカの家庭のモデルであり、アメリカが全世界に訴えようとした「アメリカ型民主主義と資本主義」の成功の象徴であった。全世界は、それでアメリカに憧れてアメリカ文化を見習うようになったのである。

しかし実際には、こうした家族像は「プロパガンダ」であった。現実のアメリカには、そんな理想的な家庭など、ほとんど存在しなかったのである。逆に、だからこそドラマの中で極端に美化することで、アメリカが目指すべき家庭の理想形を訴えていたとも言える。ところが、この理想の現実化に見事に失敗した結果として、80年代以降のアメリカ社会における家庭崩壊がもたらされたのだった。

『バック・トゥー・ザ・フューチャー』という映画は、実は、そのことをテーマにした映画なのである。なんで、主人公マーティ(マイケル・J・フォックス)が、設定上、50年代にタイムスリップすることになるかと言えば、そこが「極端にカリカチュアされた理想のアメリカ」だったからである。しかし、実際には理想化されたイメージ通りの社会とはほど遠くて、そのことがもたらすカルチャーギャップもまた、タイムトラベルによる約30年間の時間差がもたらすカルチャーギャップに加えて、この物語の重要な隠し味になっているというわけだ。つまり『バック・トゥー・ザ・フューチャー』は、驚くほど複雑で知的な装置に満ちた高度な諧謔映画なのである。

ところが、『バブルへGO!』は、そこまで突っ込んだ知的作業を経て作られた映画ではない。この映画の中盤から、急に「家族再生」の物語がパラレルに出て来るのだが、それが「バブル崩壊阻止」というメインテーマと微妙にズレていたのが残念である。劇中でのバブル崩壊と主人公の家庭崩壊の問題は、ほとんど無関係に見えたので、この映画のスタッフが『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の猿真似をする都合上、深く考えずに何となく「家族」テーマを劇中に入れ込んだとしか思えなかった。

その点で明らかに、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』の方が、物語としての品質は上であろう。「家族再生」の問題にメインテーマを絞り込み、ブレることなく、それをとことん語り尽くしているから。もっとも、『バブルへGO!』が、『バック・トゥー・ザ・フューチャー』に敬意を払った結果として、似たようなテーマを持って来たのだとすれば、それはそれで良心的なのかもしれないが、パクり方としては二流といわざるを得ない。

なお、「一つの物語に2つのテーマを無造作に放りこんだ結果、それが互いにギスギスと不協和音をもたらす」という愚かな物語作りは、これ以降、悲惨な形で常態化する。たとえば、キムタク主演の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』は、往年の名作アニメ『宇宙戦艦ヤマト』のリメイクだが、一本の映画の中に2つの全く異なるテーマを無造作に詰め込んだ結果、テーマ同士が互いを否定し打ち消し合う惨状を呈し、救いようがない酷い出来になっていた。具体的には、『宇宙戦艦ヤマト』(1作目)のメインテーマである「生命尊重」と、『さらば宇宙戦艦ヤマト』(2作目)の「特攻精神」を、何も考えずに一本にくっつけたため、物語が矛盾と混乱のオンパレードになってしまったのだ。どうして監督も脚本家も、そんな基本的なことに気付かなかったのだろう?どうせ『ヤマト』をリメイクするなら、1作目か2作目か、どちらか一方に絞るべきであっただろうに。「それだとカネにならない」とか、誰かが言い出したせいだろうか?

いわゆる「製作委員会」システムの弊害について言おう。ここでは、大勢のスポンサーやスタッフがあまりにもゴチャゴチャと関与しすぎるため(その目的はあくまでも私的な金儲け)、参加者みんなの勝手な声が大きくなってしまって、一個のポリシーに即したしっかりと筋の通った物語を作り難くなってしまった。つまり、「船頭多くして船走らず」という事になってしまった。特に、日本人は「和の精神」やら「横並び」が大好きなので、参加者全員の顔を同時に立てようとするから、どうしても矛盾と混乱の度合いが大きくなってしまう。最近の日本映画の出来の悪さ(テーマ とストーリーが整合せず、しかも互いに矛盾しまくる)は、この視点でかなりの程度は説明できるだろう。

ところで、『バブルへGO!』で 私が一番ツボに入ったギャグは、主人公・真弓がバブル期の女性の顔を一目見て「眉毛太っ!」というシーンだ。これには笑った。確かに、80年代の女性はみんな眉毛が太かった。ただ、あの頃の皆が付け眉毛をしていた(つけまつける?(笑))とは思えないので、逆に、最近の女性はみんな眉毛を剃っているのであろうか?AKBも、あの膨大な人数が全員、眉毛剃っているのか?そっちの方が、なんだか怖いわっ!(苦笑)

 


 

おくりびと

 

制作;日本

制作年度;2008年

監督;滝田洋次郎

 

(1)あらすじ

 不景気で東京のオーケストラの仕事を失った小林大吾(本木雅弘)は、妻の美香(広末涼子)とともに郷里の山形県酒田市に帰郷するのだが、ひょんなことから葬儀会社で納棺師の仕事に就くことになる。

 この仕事は俸給は高かったけれど、周囲の偏見や誤解に始終苦しめられることになった。しかも、妻でさえ逃げてしまう有り様。悩み苦しむ大吾だったが、この仕事の社会的貢献の高さに気づくことで、大きく成長していくのであった。

 

(2)解説

 「第81回アカデミー賞外国語映画賞」に輝く名作である。その反動で、日本でも大ヒットした。ノーベル賞でも青色発光ダイオードでも八木アンテナでも村上春樹でも同じだが、外人様(特にアメリカ白人様)が高く評価したものが、時間差で日本で人気が出る現象は、今に始まった話ではない。それはそれで問題なのだが、今回はそこには突っ込まない。

 映画『おくりびと』は、往年の日本映画全盛期を思わせる重厚な出来で、私もおおむね満足であった。葬儀社の佐々木社長を演じた山崎務は、こういう役をやらせると見事に嵌る(『ヤマト』の沖田艦長役は酷かったが)。しかも、この社会でタブーにされがちな「死を扱う仕事」の大切さをアピールした点でも、この映画の社会的貢献度は極めて高い。

 ただし、私が肩透かしを食ったように感じたのは、このテーマの映像化において最も重要かつ困難なハードルであったはずの「死穢(しえ)」の問題が、軽くスルーされていた点である。『歴史ぱびりよん』的には、そこを突っ込まざるを得ない。

 日本人は、「死」に対して独特の宗教観を持っている。すなわち、「穢れ」の問題である。このテーマについては、文化人類学者や民俗学者はもちろん、作家の井沢元彦氏なども詳しく論じているのだが、日本人は、「この世の悪や不幸はすべからく『穢れ』によって引き起こされる」と考える。

 「穢れ」が生じる原因は様々だが、「恨みを抱いて死んだ魂」こそが、その最悪のものだという考え方をする。死体もまた、その発生源だから、やはり穢れている。この「穢れ」を浄化するのが神社であり神主であり、そこに「日本神道」の最大の存在意義があるのだ。ちなみに、天皇家というのは日本神道の総本山みたいなものであり、すなわち日本の国家的かつ民族的な「穢れ」を取り払ってくれる存在なのであり、だからこそ「象徴」としてこの国に存在してもらうことに重要な意味があるのだ。

 ここまでの説明で十分理解できるだろうけど、「靖国神社」とは、実は、戦死者や戦犯処刑者の無念な魂が社会にもたらす「穢れ」を浄化するための装置なのである。あれは決して、「戦争英雄や戦犯を美化顕彰している」施設ではない。韓国や中国は、この点について大きく誤解している可能性があるのだが、日本の政治家は、ちゃんと彼らに説明しているのだろうか?

 いずれにせよ、これらの話は、外人には分かりにくいどころか、ほとんど理解不能だろう。天皇や日本神道は、かなりユニークな「日本独特の概念」なのだ。このテーマについては、この ホームページ内の『概説・太平洋戦争』の終盤で詳しく論じているので、興味がある方は、そちらも参照してください。

 さて、『おくりびと』の主人公・大吾は、日常的に死体と接することで、「穢れ(死穢)」を直接的に受けることになった(納棺師は、神社の神主じゃないので「穢れ」を浄化出来ない)。だから周囲の人々は、彼の職業を知ったとたんに生理的な嫌悪感を抱くのだ。最愛の妻でさえ、「穢らわしい 」 、「そんな手であたしに触れないで」と泣き叫んで家を出て行くのだ。理不尽な話だが、これはおそらく縄文時代から日本人のDNAに伝わる感情なのだから、どうしようもないのである。

 ちなみに、いわゆる「部落民(えた非人)問題」の淵源もここにある。部落差別は、その対象者の「先祖」が、死体処理や屠畜や革製品製造などに携わり、職業として「穢れ」を貯め込んだことから来ている。これはある意味で、インドのカースト制度よりも遙かに悪質な差別の在り方なのだ。

 「穢れ」というのは、これほど深刻で強烈で根深い解決不能な重大問題なのだが、映画『おくりびと』では、なんとも呆気なく終息させてしまっていた。出て行った妻も、呆気なく復縁してしまった。いちおう作劇上、表面的もっともらしい解決の説明を付けてはいたが、「穢れ」問題の特殊な深刻さを考え合わせた場合、いかにも甘すぎるだろう。

 私には、製作スタッフが面倒になって(あるいは怖くなって)「逃げた」ように見えて仕方がなかった。こういう場合、責任の所在を曖昧に出来る製作委員会システムは便利である。

 しかし、「穢れ」の問題を華麗に(?)スルーしたからこそ、この問題にまったく興味を持たないアメリカ様の歓心を買うことが出来て、晴れてアカデミー賞を取ることが出来たわけだ。そういう意味では、スルーして結果的に大正解だったと言えるかもしれない。

 こうして、私のような変わり者の観客だけが、微妙なフラストレーションを抱えたまま取り残されるのであった(苦笑)。

 なお、広末涼子が出て来る映画を2つ続けて取り上げたわけだが、私は別にヒロスエのファンというわけではない。むしろアンチである。だって、大根じゃん。私は、「顔は可愛いけど演技が下手くそ」な女優が嫌いなのだった。だって奴らは、あんまり努力しないで金儲けしているってことじゃん?同じ理由で、綾瀬はるかも堀北真希も嫌いである。そういうわけで、『バブルへGO!』も『おくりびと』も、ヒロスエさえ出ていなければ、もっと好きになれていたかもしれないのだが。 

 最近の日本映画やドラマがレベル低下した理由の一つに、「俳優の技量低下」がある。製作委員会システムの下では、大手タレント事務所の歓心を買うことが大切なので、制作者が技量を基準にして俳優を選ばないからである。だから、無駄にイケメンや美女(しかも、みんな大根)がウジャウジャ出て来る物語が出来てしまい、リアリティと説得力が皆無となるのだ。やれやれ。

 


 

プリンセストヨトミ

 

制作;日本

制作年度;2011年

監督;鈴木雅之

 

(1)あらすじ

 大阪を訪れた会計検査官・松平元(堤真一)は、同地に配分されたはずの巨額の予算が消えていることに気付き、「財団法人OJO(大阪城址整備機構)」の謎に迫って行く。

 そこには、滅びたはずの豊臣家の子孫を擁する「大阪国」の存在があった。

 

(2)解説

 「日本映画も、ここまで堕落してしまったか!」と、別の意味で深い勉強になった一本。とにかく作劇技法上の悪例のオンパレードなので、「まさか、わざとやっているのか?これは何かのギャグなのか?」と、いろいろ勘ぐってしまった。

 細かく突っ込んでいくとトンデモないことになるので、重要な点に絞り込んで解説する。

 まず、導入部からダメである。主人公たちは「会計検査院の調査官」という、一般人には馴染みの薄い仕事をしているプロフェッショナルのエリートである。ならば、その仕事の説明とプロフェッショナルの魅力を冒頭で際立たせないと、後のストーリーが展開できなくなる。ところが、映画はいきなりそれに失敗しているのである。

 そもそも、この映画のスタッフは、「会計検査官」という職務について、ちゃんとリサーチしているのだろうか?それさえも怪しい雲行きであった。いちおう説明すると、「会計検査官」というのは、都道府県、市町村や学校法人などの諸団体に配分された国家予算について、その使途が適正かどうかチェックする地味な国家公務員である。ともあれ、こういう職業の人を主人公に選んだ以上、映画はその線に沿ってストーリーを転がす必要があるはずだ。ところが、この映画の調査官は、本来の仕事を真面目にやっている形跡が無いのである。したがって、優秀に見えないのである。

 これは、そもそも論だが、主人公を何らかの職業のプロフェッショナルに設定する場合、その主人公は、少なくともその道において優秀でなければならない。『七人の侍』が面白いのは、勘兵衛たち7人が極めて優秀な侍だからである。『砂の器』が面白いのは、今西刑事らが極めて職務熱心な警官だからである。『おくりびと』が面白いのは、大吾が熱心に修行して優秀な納棺師になったからである。これは、作劇上の最も大切な「セオリー」である。

 もちろん、ギャグやコメディなら話は別だ。すなわち、『シャーロック・ホームズ』はシリアスなストーリーであるから、主人公は探偵として優秀でなければならないのだが、『ピンク・パンサー』はギャグ映画だから、クルーゾー警部は無能で良いわけだ(幸運に助けられて事件は解決するけど)。

 しかるに、『プリンセストヨトミ』の会計検査官は、(いちおう)シリアスなストーリーにもかかわらず、まったく優秀に見えなかった。

 そのせいで、物語の展開が無茶苦茶になった。中盤で、「大阪国総理大臣」の真田幸一(中井貴一)が、いきなり何もかも諦めて、松平にカミングアウトを始める。真田総理は、「この人には、何も隠せない」と感じたらしいのだが、映画の中の松平は、勝手に出張を延泊して街をウロウロしていただけである。なんで、無能にしか見えないこいつに告白しなければならなかったのか、理由がさっぱり分からない。せめて、会計検査官を冒頭で優秀に描くことに成功していれば、まだしも救いがあったのだが。

 だいたい、松平らは、会計検査の仕事を真面目にやらないくせに、映画の後半でいきなり「大阪国」と外交交渉を始める。言うまでもないことだが、「大阪国」の存在を突き止めたり、その国を承認するか否かは、内閣総理大臣ないし外務大臣の仕事なのであって、一介の会計検査官がどうこう出来る問題ではないだろう。ピントが大きくボケているし、真田総理は、そもそもカミングアウトする相手を間違えているのだから、まったく救われない。

 そういうわけで、この真田という人物も、劇中の設定では松平にその優秀さを恐れられる存在なのだが、実際には「バカで無能な売国奴」にしか見えなかった。どうも、この映画の制作者は、会計検査院の描写うんぬん以前の問題で、「優秀な人間と無能な人間の描き分け」が出来ないのかもしれない。もしかすると、この映画の脚本家は、実生活の中で優秀な人間に出会った経験が無いので、人間の優秀さを表現する方法が分からないのかもしれない。

 それ以上に深刻な問題は、「物語のメインテーマが途中で切り替わる」点である。

 物語というものは、「起承転結」という明確なセオリーによって成り立つのだから、せめてメインテーマは首尾一貫していなければならない。それが途中で切れてしまったら、全てが台無しになってしまう。

 もちろんこれには例外もあって、たとえば『三国志演義』や『太平記』のような超絶的大長編の場合は、いくつもの「起承転結」を重ねて続けることで、途中でのテーマ切り替えは可能であろう。しかし、2時間程度の映画でそれをやっては絶対にいけない。

 ところが、この映画は平気でそれをやってのけるのである。

 具体的には、最初はミステリーとして始まったくせに、途中から家族の感動物語になってしまう。すなわち、ミステリーの要素は、真田の唐突なカミングアウトで一方的に投了されて、「大阪国は家族の絆を守るために存在する」とか、その存在を正当化するための物語に変化する。そして、視聴者を無理やり泣かせにかかる(苦笑)。だけど、その主張は意味が分からない。東京や名古屋などの大阪国以外の地域では、家族の絆は維持できないとでも言うのだろうか?仮にそうだったら、「大阪国でなければ守れない家族の絆」というのを具体的に劇中で提示して貰いたいところだが、それは無かった。これでは泣けない(むしろ失笑)。

 いずれにせよ、物語のメインテーマを途中で切り替えるのは、作劇の邪道どころか、絶対にやってはならない愚行なのである。この映画の制作者は、気の利いた小学生でさえ知っている作劇のセオリーを知らないのだ。それでも、切り替わったテーマに説得力があれば、多少は救いにもなるのだが、「家族の絆」を守るために「大阪国だけ」が巨額の国家予算を遣い込むことに果たして正当性があるのだろうか?

 大阪国が、そのシンボルとして密かに守っている豊臣家の子孫は、見るからに貧乏そうで、少なくとも金銭的に恵まれていなかった。それどころか、彼女が危険に遭って死にそうになっていても(それも、会計検査官の活動とはまったく関係ない偶発事件によって)、大阪国の要人たちはみんな無視していた(笑)。実は、プリンセストヨトミはどうでも良かったんかい?だったら、何のための「大阪国」なんだ?

 そう考えていくと、35年間にわたって遣い込まれたという175億円もの国家予算は、いったいどこに消えたのだろうか?原作小説では、スーパーコンピュータの維持管理費ということになっているらしいけど、説得力皆無だ。実は、真田や長宗我部が、キタやミナミの高級キャバクラで、毎晩ドンペリを開けていただけじゃないの?どうして、会計検査院はそこを突っ込まないのだろう?松平はそのために、わざわざ延泊して調査していたはずじゃないのかい?

 松平は結局、真田の「家族の絆」攻撃に丸め込まれて職責を放棄したわけだが、それって公務員失格ではないのか?それはすなわち、真面目に税金を払った上で、爪に火をともすように家族の絆を地道に紡いでいる、東京や他の地域の国民に対する裏切りじゃないのか?そもそも、真田と松平の2者会談だけで全てが隠密理に済まされたけれど、あれほどの大事件で、そんなことが物理的に可能なのか?その際、大阪にたまたま来ていた観光客や出張ビジネスマンや外国人、マスコミ関係者をどうやって全部誤魔化したのか? 映画では、まったく説明が無かったけれど。

 などと、ちょっと考えただけでも矛盾と疑問百出の、すさまじい映画だった。ここまでグチャグチャにするのなら、コメディとして作れば良かったのにね。それならば、スラップスティック系(『天才バカボン』とか『こち亀』とか)の作品として、一定の面白さを獲得できたかもしれない。私も、ケタケタと笑いながら楽しめたかもしれない。だけど、この映画は徹頭徹尾、シリアスな造りになっていた。やれやれ。

 「こんなものを作って人からカネを取って見せようだなんて、物凄い根性だなあ」と悪い意味ですごく感心するのだが、おそらく制作スタッフはそうは思っていないのだろう。自分たちが駄作を作ったことにさえ、気づいていないのかもしれない。

 それにしたって、セオリーどころか常識まで外しまくるストーリーが出来るのは、一体どういうわけだろうか?どうして、誰も事前にチェックしてあげないのだろう?製作中に「誰も気づかない」なんてことは 常識的に有り得ないので、制作サイドに「やる気がない」としか思えない。金儲けさえ出来れば、映画の品質など低くても良いというのだろうか?もしそうなら、それは観客に対する最悪の侮辱であって、犯罪行為に値する。

 もっとも、制作者側から見れば、広告宣伝にカネを掛けさえすれば映画自体の品質が低くても客を呼べるので、品質なんかどうでも良いのかもしれない。すなわち、最近の映画は「製作委員会」が一手に引き受けるのが普通であるから、大型書店、出版社、テレビ局などの大資本が続々と参加し、しかも電通や博報堂ら大手広告代理店が全面協力するので、それが「超絶的駄作」であっても「名作」だと偽って、全国的にとんでもなくカネのかかった売り込み方が出来る。そうすると、純朴な日本国民は、みんな騙されて映画館に足を運ぶから、製作委員会の皆様はどう転んでも大儲けが出来るのだった。これは、往年の角川映画が裸足で逃げ出すほどの悪質さだと思うのだが、どうしてマスコミがそれを批判しないのかと言えば、マスコミもみんなグルだからである。

 製作委員会システムに限らず、こういった日本型組織が最悪なのは、「責任の所在が完全に曖昧になる」点である。考えてみれば、「福島原発」の真の責任者はもちろん、「太平洋戦争」の仕掛け人でさえ、未だに具体的に明らかになっていない。おそらく、未来永劫、明らかにならないことだろう。日本型組織のこの在り方は、権力を行使する側(個人)にとって好都合だ。なにしろ、「戦場で数万人を餓死させても、数十万の子供たちを放射能汚染させても、数百万の観客から映画料金を詐取しても」絶対に自分は安全だからである。だったら、どんな非道な犯罪でも、鼻くそをほじるような気楽さでゴーサインを出せるだろう。失敗した場合、ぜんぶ「組織のせい」で「自分も被害者の一人」にしてしまえるのだから。

 この日本型組織の悪弊(無責任体質)を改善しない限り、この国は何度も何度も同じような過ちを繰り返して劣化を続けて行くことだろう。製作委員会は、駄作を増産し続けることだろう。あたかも、誰も責任を取らないまま、拙劣な戦略戦術を繰り出すことで敗北をズルズル続けて崩壊した大日本帝国のように。

 最近の「日の丸家電」の凋落の理由も、根底にあるのは、そういうことではないだろうか?

 さて、こうした製作委員会の悪行の当然の帰結として、これから日本文化の担い手になるであろう若い世代が、駄作を名作と勘違いして成長してしまうだろう。日本人の知性は 、どんどん劣化していくだろう。クリエイターのレベルも減退することだろう。幼いころから不味いものばかり食べさせられた子供が味音痴になるのは有名な話だが、文化の世界でもまったく同じことが言えるのだ。すなわち、知性低下のデフレスパイラルである。

 たとえば、『踊る大捜査線』の映画シリーズとそのスピンアウト作品は、『プリンセストヨトミ』に負けないくらいに酷い内容だと思うのだが、なぜか大ヒットしている。『相棒』の映画シリーズは、『踊る…』よりは多少マシだけど、やっぱり酷いよね。なんで、観客の皆さんは気づかないのだろう?みんな、ありとあらゆる意味で麻痺しちゃったのだろうか?

 『東京物語』や『七人の侍』から早60年。日本映画は、落ちるところまで落ちてしまった。だが、もはやこれ以上、落ちようが無いのは救いである。 せめて、そう考えていたいのだが、まだまだ落ちていくのだろうか?それはそれで、どうなるのか興味深いところではあるが(笑)。

 世界史上で最低最悪の映画が生まれる国があるとすれば、それは間違いなく今の日本だろう。

 もっとも、ミニシアター等を戦場にして、必死に日本文化の灯火を守り続ける誠実な映画人もまだ多いので、そちらに希望を繋ぎたいところではある。

 

 


 

魔法少女まどか☆マギカ 劇場版 

              

 

制作;日本

制作年度;2012年

総監督;新房昭之

 

(1)あらすじ

 鹿目(かなめ)まどかは、優しい両親と可愛い弟と友人たちに恵まれた中学2年生。幸福に満ちたそんなある日、まどかのクラスに暁美ほむらという謎めいた美少女が転校して来た。ほむらは「これから起きる、どんな誘惑にも負けてはならない」と、まどかを諭す。

 やがて、まどかの前に現れたヌイグルミのような奇妙な生物キュゥべえが、「どんな望みでも叶えてあげるから、ボクと契約して邪悪な魔女と戦う魔法少女になって欲しい」と契約を持ちかける。一見すると魅力的な提案だったが、これは純情な少女たちを騙す罠だった。キュゥべえは、少女たちの魂の堕落と絶望をエネルギーに変えることを目的とした、邪悪な宇宙生命体インキュベーターだったのだ。

 魔法少女たちは次々に破滅していき、まどかは絶望と悲嘆に暮れる。

 まどかと世界を救える最後の鍵は、謎の少女ほむらであった。

 

(2)解説

 私の周囲の知的な大人たちが、なぜか熱心に薦めるので、半信半疑ながら映画館に見に行ったアニメ作品。

 私は、日本映画に何度となく騙され続けてドラウマを抱えていた上に、子供のころから「少女マンガっぽい絵」が大嫌いなのだった。だから、そんな物を見るために高い映画料金を支払うなんて愚の骨頂だと考えて、長いこと躊躇っていたのだが、「食わず嫌いは良くないし、もしかすると私の将来の創作活動にとって有益なヒントが得られてブレイクスルーになるかも」と、自分に言い聞かせて心を必死に奮い立たせたのだった。

 映画館では、案の定、冒頭から「少女マンガ絵」に気持ち悪くなって不愉快になったのだが、やがてその絵が「仕掛け」の一環であることに気付くと、とたんに気にならなくなった。そう。このアニメでは、信じられないくらいに高度に知的な作劇術が駆使されているのであった。私は、スクリーン全体から、知の突風が吹きつけて来るような感覚を味わったのである。

 『まどマギ』という作品の本質を端的に言えば、「戦闘美少女もの」+「美少女嗜虐もの」+「世界系」である。この3要素は、全世界のアニメオタクが大好きなストーリーであるから、この3つを融合させれば、間違いなく世界的な大ヒット作品になることだろう。この映画のスタッフは、おそらくそこまで計算しているのである。

 なお、この3要素の融合に成功した先行作品は、かの『新世紀エヴァンゲリオン』である。ただし、これはおそらく「結果的に偶然に」3要素が結合されただけであり、したがって、その作劇術は粗削りで洗練されておらず、テレビ版は最終回に行きつけずに(結論が出せずに)行き倒れになってしまった作品であった。それにもかかわらず大ヒットとなった『エヴァ』は、まさに恐るべき作品なのであり、『まどマギ』のスタッフは、だからこそこの作品を徹底的に研究し、その欠点を克服した上で、このテーマを拡張進化させたのであろう。

 「戦闘美少女もの」+「美少女嗜虐もの」+「世界系」の3要素を結合させるのは、至難の技である。なぜなら、要素それぞれが現実社会に有り得ないものであるだけでなく、要素同士が互いに矛盾し打ち消し合う関係だからである。まずは、この点について解説しよう。

 最初に「戦闘美少女もの」だが、世間一般の常識では、美少女はそもそも戦闘をしない生き物である。一般的に「戦う女」といえば、吉田沙保里とかミラ・ジョヴォビッチ(バイオハザード)だろうけど、アニメオタクは、そんなのには萌えないのである(笑)。華奢で、いかにも弱そうな可愛い子ちゃんが武装して戦うんじゃないとダメなのである。そんなのは現実には有り得ないのだが、だからこそアニメオタクはそれが見たいのである。

 「美少女嗜虐」について言うと、世間一般の常識では、美少女とは嗜虐を受けない生き物である。イジメの対象となるのは、だいたいブサイクちゃんであって、美少女は性格が悪かろうが頭が悪かろうが、みんなにチヤホヤされるのが相場である。でも、アニメオタクは、だからこそ美少女が泣いたり喚いたり怪我したり惨殺されたりするのを見たいのである。私見だが、AKBに代表されるアイドルブームも、消費者の潜在心理の根っ子にあるのはそういった「嗜虐趣味」ではないかと思うのだが(「恋愛禁止」というのが、そもそもイジメだと思うし)、論点がズレるのでここでは深く突っ込まない。キュゥべえが秋元康に似ているなんて言わない(笑)。

 最後に「世界系」について言うと、これは古くから世界的に伝わる作劇テーマの一種である。具体的には、「平凡な主人公が、それまで何の野心も持たず努力もしなかったくせに、ある偶然のきっかけで、世界の中心人物に成り上がってしまう物語」を言う。『指輪物語』や『スターウォーズ』が、まさにそんな作品だが、最近の日本のアニメでは『サマーウォーズ』などがこの型だろうか。個人的には、P・K・ディックの小説『宇宙の操り人形』が好きであるが、いずれにせよ、そんなシチュエーションは現実には有り得ないだろう。野心も抱かず努力もしない者が、世界の中心になれるわけがないからだ。逆に、だからこそ、オタクはそういう安直な物語に憧れるのである。

 さて、この3要素は互いに矛盾する関係にある。「戦闘美少女」は、敵と戦って勝つのがその役割だし強いはずだから、「嗜虐」の対象に成りにくい。また、「嗜虐」されるような女の子は、世界の中心に成りにくい。そして、「世界系」の主人公には、「戦闘美少女(そもそも平凡な存在じゃないし、日頃から努力しているはず)」は似合わないのだ。

 以上、この3要素をリアルに成立させた上で、しかも矛盾なく互いを融合させるのは非常な難事業なのである。

 『新世紀エヴァンゲリオン』は、難事業をこうやって克服している。すなわち、「謎の敵・使徒の攻撃から人類を救うためには(=世界系)、14歳の特定の少年少女しか乗れないロボット兵器エヴァ(=戦闘美少女)を出撃させるしかないのだが、実は主人公たちが守ろうとしている世界には暗い闇や欺瞞が溢れていて、少女たちはそれらに触れることで苦しみ傷つく(=美少女嗜虐)」。

 『まどマギ』のストーリーも、基本的にはこれと同じである。「魔女の攻撃から人々を救うためには(=世界系)、女子中学生が魔法少女になって戦うしかないのだが(=戦闘美少女)、だけどその背景には陰湿な欺瞞が満ちていて、少女たちはみんな苦しむ(=美少女嗜虐)」。

 ただし、この3要素は、成立させた上で矛盾なく繋ぎ合わせればそれで良いと言うわけではない。こうして出来上がった無理やりな世界観に、きちんと説得力を持たせて観客の思い入れを誘った上で、さらにストーリー全体をうまく転がして起承転結を付けなければならないのだ。『エヴァ』は、残念ながらこの作業に失敗と限界があった。しかし、『まどマギ』は、完璧にこれをこなしているから、恐るべきスタッフの知性なのである。

 冒頭で述べた『まどマギ』の作画の「仕掛け」は、このことと密接に関係している。すなわち、いかにも嘘っぽい「少女マンガ絵」を全面展開することで、「絵柄がこうなんだから、世界観やストーリーがいくらか現実離れしていても仕方無い」と観客に思わせているのである。つまり、「わざと幼稚な絵柄にすることで、物語に説得力を与える」という高等技法が使われているわけで、逆に考えると、この作品を劇画タッチで描いていたり、あるいは実写化していたら、全てが崩壊していたことだろう。

 他にも、様々な細かい仕掛けがある。

 全部は語り切れないが、たとえば日本人の観客に、このアニメの世界観を納得・共感させるため、『おくりびと』でも述べた「穢れ」の要素を入れている。

 この作品の敵役である「魔女」の概念は、「恨みを持った魂が転生する」という設定なので、日本民族の伝統である「穢れ」の思想を踏襲しているようで興味深い。そして、魔法少女になった主人公まどかが、巫女のような行動(破魔矢のようなものを放ったり)をして浄化に努めるのは含意が深い。しかもこの作品は、「魔女(穢れ)」問題に正面から逃げることなく向き合って一定の解決に導いていたのだから、この映画のスタッフは、『おくりびと』のスタッフより、遙かに賢くて勇敢で誠実だと思う。

 また、「少女たちの魂に強いエネルギーがあって、そのエネルギーで世界を救済できる」というメッセージは、物語の背景にヘーゲル哲学(精神現象学)を置いているようで、哲学畑の人々が強く共感するところである(私は、あんまり哲学は得意じゃないが)。こういった仕掛けが仮に無かったとしたら、たとえば、キュゥべえが展開する「第二次性徴期を迎えた少女の絶望の魂のエネルギーが・・・」といったウンチクなど、アホらし過ぎて爆笑&失笑は必至だったことだろう。この映画のスタッフは、物語構造の脆弱さを、知性と教養で巧みに補完しているのだ。

 なるほど。最近は、アニメの製作現場の方に、頭が良くて教養が深くて勇気のあるクリエイターが多く集まっているのだった。これも、時代の流れというものだろうか?

 考えてみると、今の日本では、世界に通用する価値は、アニメかゲームに限定されてしまった。換言すれば、アニメかゲームでしか、質の高い作品でカネを稼げなくなってしまったのだ。だったら、優秀で知性溢れるクリエイターが、実写映画やテレビドラマの現場から逃げ出して、『まどマギ』のようなアニメ映画を作っている現象は、正しい経済法則に基づいていると言えよう。日本文化のために貢献していると言えよう 。

  私は、アニメ美少女にまったく思い入れ出来ない性格の人なのだが(アイドルは、たまに好き(照))、それでも『まどマギ』は面白いと心から思った。アニメ美少女が大好きな人なら、その感動と興奮は、きっと筆舌に尽くし難いものになっただろう。

 日本映画の最後の希望。それは、アニメ映画なのかもしれない。私も、これからはアニメ映画を見るために劇場に通うことになるだろう。「少女マンガ絵」に生理的嫌悪感を抱きながらも(苦笑)。

 ただ、最後に少々、苦言を呈したい。それは、過剰な「美少女虐め」についてである。『まどマギ』の映画は、ほとんどのシーンが、アニメ美少女が落ち込んだり悩んだり泣いたり喚いたり傷ついたり死んだりの繰り返しである。むしろ、この物語が提供したかった最大のテーマは「嗜虐」にあるのではないかと疑った。

 私見では、健全な社会とは「子供がいつも笑っていられる社会」なので、『まどマギ』で描かれるのは明らかに不健全な社会である。これはもちろん、今の日本の病的な姿を戯画的に作品に反映させているのだろうけど、映画製作者も観客も、どこか「心を病んでいる」のではないだろうか?

 今の日本社会は、全体的に知性が劣化した上、例外的に知性が高い人も、実はどこか心を病んでいるのかもしれない。「そうじゃない!」と反発する人は、一度胸に手を当ててじっくり考えてみてください。

 (我ながら、辛口評論のオンパレードだったね。不愉快になった方は、本当にごめんなさいね。これも、日本を真剣に思う愛国心から出ているのです)。