映画評論 PART 6


目 次

1.君の涙ドナウに流れ    2006年 ハンガリー

2.カティンの森      2007年 ポーランド

3.英国王のスピーチ    2011年 イギリス

4.太陽に灼かれて      1994年 ロシア 、フランス

5.戦火のナージャ      2010年 ロシア

6.ぜんぶ、フィデルのせい 2006年 フランス

7.マチュカ〜僕らと革命〜 2004年 チリ 、スペイン、イギリス、フランス

8.革命戦士ゲバラ     1969年 アメリカ

9.ブラジルから来た少年  1978年 イギリス

10. ダーク・ブルー     2001年  チェコ

11. グッド・シェパード   2006年 アメリカ

12. ミュンヘン       2005年 アメリカ

 

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君の涙ドナウに流れ

              Children of glory

 

制作;ハンガリー

制作年度;2006

監督;クリスティナ・ゴダ

 

(1)あらすじ

  195610月、ハンガリーの水球選手カルチ(イヴァン・フェニェー)は、共産主義政権に対する革命騒動の中、若き女性政治活動家ヴィキ(カタ・ドボー)と恋に落ちた。

 宗主国ソ連が「ハンガリー革命」に妥協する様子を見たカルチは、安心してメルボルン五輪への旅に出る。しかし、妥協と見せたのはソ連が仕組んだ罠だった。突如として攻め込んだソ連戦車部隊の猛攻を受けて炎上する首都ブダペスト。そして、虚しく殺されて行く若者たち。

 そんな中、オーストラリア滞在中のカルチに出来る戦いは、オリンピック会場でソ連水球選手団と対決し、これを打ち負かすことだけだった。熾烈な血まみれの決勝戦の後、金メダルの栄冠を掴んだのはハンガリーの水球チーム。しかしその間、祖国は廃墟と化し、愛するヴィキも死刑囚となって処刑台に送られていた。

 カルチは、表彰台の上で激しく嗚咽するのだった。

 

(2)解説

 ハンガリー映画史上の最高傑作である。いや、政治をテーマにした映画の世界最高傑作と評するべき作品だ。

  有楽町駅前での単館上映だったので、見に行く時間を確保するのに本当に苦労した。それにしても、良い映画であればあるほど、ミニシアターでの単館上映になるのはどうしてだろうか? 大手シネコンって、いったい何を考えているんだろう?もちろん、お子様や腐女子向けの映画ばかり上映しておいた方が、効率的なおカネ儲けにはなるという経営判断なんだろうけど、その判断は明らかに間違っているね。

 日本の映画産業が長期的に衰退しているのは、不景気のせいでも料金が高すぎるせいでもなくて、「詰まらない作品しか上映しない」からではないだろうか?出版産業についても同じことが言える。最近の出版社って、発行点数はやたらに多いけど、詰まらない本しか出さないんだよね。映画界も出版界も、いずれ仲良く共倒れだろうね。

 さて、1956年の「ハンガリー革命」は、現代ハンガリー史上の一大事件である。ソ連から押しつけられた共産党政権の改革を求める若者たちが、軍事介入したソ連軍によって5000人以上も殺された悲劇である。ゴダ監督は、このテーマの映画化に当たって相当なプレッシャーを感じたはずだが、この重責に見事に耐えた。

 ちなみに、ハンガリーの水球選手団が、同年のメルボルン五輪でソ連を破って優勝したのは史実である。ゴダ監督は、このエピソードと革命の悲劇を巧みにリンクさせたのだ。

 主人公の水球選手カルチが、直情径行の熱血スポーツマンで、政治のことに全く興味が無いという基本設定が、政治をテーマとする映画にしては珍しい。また映画の前半で、カルチが周囲の革命流血騒ぎには目もくれず、美少女ヴィキにストーカーまがいのアプローチをしまくるのに違和感を感じた。私は基本的に、政治の物語に無理やり恋愛要素をブチ込む手法が好きではないので。

 しかし、こういった伏線は、物語の後半で次第に意味を持って来る。恋愛要素は「無理やり」どころか、この映画の必然なのだった。

 革命の崩壊後、秘密警察に逮捕されて尋問に耐え続けるヴィキの姿と、オーストラリアのオリンピック会場でソ連選手団と死闘を繰り広げるカルチの姿が同時並行で語られる。そして、ヴィキは秘密警察長官の要求を全て撥ねつけて彼に恥辱を与える。そのころカルチは、水中で満身創痍となりながらソ連選手団を打ち負かす。すなわち、2人はそれぞれの戦場で同時に勝利したのだ。

 しかし、その結末はまったく違う。ヴィキは勝利したことによって絞首台に送られる。牢の中から様子を見守る囚人たちと一緒にハンガリー国歌を口ずさみ落涙しながら。同じころ、カルチは勝利したことで表彰台に立つ。そして、顔じゅうを血と涙でいっぱいにしながらハンガリー国歌を歌う。

 この場面で泣かない観客は、人間じゃないやね! 日本人のオイラでさえ涙を堪え切れなかったんだから、ハンガリー人観客の想いは、いかほど強いものだったことか!

 近年の中欧映画のレベルの高さを激しく痛感できる本当に良い映画だと思った。ハンガリー人の個性「熱血性」が、プラス方向に遺憾なく発揮された名作であると言い切れる。

 


 

カティンの森

              Katyn

 

制作;ポーランド

制作年度;2007年

監督;アンジェイ・ワイダ

 

(1)あらすじ

 第二次大戦中の193910月、ナチスドイツとソ連によって国土を東西から挟み撃ちにされたポーランド軍は、抵抗を諦めて降服した。

 将校アンジェイ(アルトゥル・ジミイェフスキ)は、戦場を訪れた妻アンナ(マヤ・オスタシェフスカ)の脱走の勧めを振り切り、祖国への忠誠のためにソ連軍に投降した。しかし、ソ連軍に投降したポーランド人将校を待っていた運命は、死だった。

 それから2年後、ソ連に侵攻したドイツ軍は、1942年になって、ベラルーシの「カティンの森」の土の中から1万体を越えるポーランド人将校の腐乱死体を発見した。ドイツ軍は、ソ連共産党政権の残虐性を全世界に訴えた。

 ところが、この戦争でドイツが敗北した後、ソ連によって牛耳られるようになった戦後ポーランドでは、この虐殺の下手人はドイツ軍ということに歴史が書き換えられてしまった。そして、この事件の真実を口にした者は、職場を解雇されたり秘密警察に逮捕され収監されるなど、過酷な懲罰を受けるのだった。

 アンナは、カティンの森事件の死体名簿の中に夫アンジェイの名が無かったことから、夫の生存を堅く信じ、一人娘とともにその帰りを気丈に待ち続けていた。しかし、届けられた一通の手紙が全ての希望を打ち砕く。

 カティンの森の真実は、想像を絶するほどに残忍で過酷なものだった。

 

(2)解説

 またもや、中欧映画の名作を紹介。

 ポーランドの巨匠ワイダが、80歳の時にメガホンを取った超絶的傑作。

 ワイダ監督は、実は彼自身のお父さんが「カティンの森事件」の犠牲者なのだ。そんな彼が構想50年の後、満を持して全身全霊を込めて送り出したのがこの作品だ。

 それなのに、この映画もやっぱり「岩波ホール」での単館上映だった。大きな映画館って、いったい何を考えているんだろうね?(以下同文)。

 映画の内容は本当に良かった。ワイダ監督の語り口の巧さは相変わらずで、80歳になってもクリエイティブで有りつづけるその前向きな姿勢に心からの尊敬を捧げたい。少しは、日本の映画屋にも見習ってもらいたい。

 さて、第二次大戦で最も悲惨だった国は、尺度の取り方にもよるけれど、やっぱりポーランドだろう。何しろ、戦争開始後いきなりナチスとソ連に国土を半分こされ、その後も何度も両軍の戦場にされてグチャグチャになった国だ。その悲劇の内容を個別に挙げて行くとキリがないのだが、かの「アウシュビッツ絶滅強制収容所」がポーランド国内にあったことを挙げるだけで十分だろうか?

 ソ連軍が、無抵抗で非武装のポーランド人捕虜をカティンの森で大虐殺した理由は、はっきりとは分かっていない。どうやら、ソ連がポーランドを奴隷として支配して行く上で、教養が豊富で自立心の強いポーランド人将校の存在が邪魔になったらしいのだ。ソ連の支配者スターリンは、狂人と呼ばれても仕方ないほど猜疑心が強い残酷な性格だった。そんな彼ならば、この程度の非道な犯罪は躊躇なく行ったことだろう。

 ラスト30分の虐殺シーンの凄まじさは、夢に見てうなされるほどである。そして、映画があのような終わり方をするとは完全に予想外であった。いろいろな意味で革命的であった。さすがはワイダ監督、さすがはポーランド映画。 

 あえて不満を言うならば、物語の後半の舞台がクラコフなので、当時訪れたばかりのクラコフの名所が映ることを期待していたのだが、あんまり出て来なかったのが残念だった。

 なお、カティンの森は新たな悲劇の場所でもある。昨年、慰霊のためにこの地を訪れたポーランド大統領が、飛行機事故で落命した事件は記憶に新しい。

 ポーランド人は、カティンの森に呪われているのだろうか?

 


 

英国王のスピーチ

              King's speech

 

制作;イギリス

制作年度;2010年

監督;トム・フーパー

 

(1)あらすじ

 1920年代、ヨーク公アルバート王子(コリン・ファース)は、重度の吃音症に悩んでいた。王家の一員として、演説すら出来ないのでは仕事にならない。

 万策尽きて、オーストラリア出身の民間療法士ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の許を訪ねた彼は、風変りな療法士との間に奇妙な友情を結んでいく。

 やがて、アルバートの父ジョージ5世(マイケル・ガンボン)は逝去し、後を継いだ兄エドワード8世(ガイ・ピアース)も王位を捨てて隠棲してしまった。なし崩しに即位してジョージ6世となったアルバートは、欧州を覆うナチズムの悪意に敢然と立ち向かうべく、ローグとともに演壇へと向かうのだった。

 

(2)解説


 この間、「新宿武蔵野館」で見てきました。期待通りの良い映画でした。

 どうして、こんな良い映画がミニシアターでしか上映されないのだろう?大手映画館の見識に疑問を感じてしまいますな(以下同文)。

 主人公は、20世紀半ばのイギリス国王ジョージ6世(今のエリザベス女王のお父さん)。この人は、ヒトラーの挑戦を勇敢に受けて立ち、絶体絶命のイギリス国民の精神的支柱となって、第二次大戦を祖国に勝ち抜かせた名君です。ところが、この人は「重度の言語障害(吃り=stammer)」というハンデを、生涯抱え続けた人でした。

 この当時のイギリス王家は、今の我が天皇家と同様に、「国民の象徴」となっていました。つまり、王様の唯一の仕事は、国民にお話しすることだったのです。その仕事が満足に出来ないなんて、たとえるなら、電卓を叩けない会計士、文字を書けない作家みたいなものです。

 このハンデを、どうやって乗り越えるのか?優しい奥様と、頼りになる療法士との厚情が、史実にのっとって丁寧に優しくユーモラスに描かれます。

 結局、病気が完治することは無いのですが、最初のうちはコンプレックスに打ちひしがれて自分に自信を持てなかった主人公が、ハンデと正面から向き合う方法を見出して、勇敢に運命に立ち向かうラストは泣かせます。

 人間は誰でも、何らかのコンプレックスを抱えて生きています。だから、万人が共感できて勇気をもらえる、本当に良い映画だと思いました。そういう私も、中学から高校まで、吃音癖で随分と悩んでいたものです。主人公の苦しみが、他人ごとのように思えませんでした。

 ただし、素人歴史家の視点からは、劇中の歴史解釈を疑問に思うことも多かったです。

  たとえば、主人公の兄エドワード8世の描き方。

 エドワード8世は、イギリス史上で初めて、民間人(アメリカ人で異教徒のシンプソン夫人)との純愛を貫くために王位を捨てた人です。劇中では性悪なバカ殿扱いだったけど、見方によってはたいへんな偉人だと思うのですけどね。

 確かに、ヒトラーと仲良くしていたのは、今から見たら問題なのかもしれませんが、あのころはヒトラーがドイツ国内での内政に大成功して国民的英雄だった時期なのだから、今からの視点で非難するのは、公平さを欠いていると思うのでした。

  それと関連する話ですが、ヒトラーが1930年代にあれだけ強勢になったのは、実はイギリス政界のバックアップのお陰なのです。ラインラント進駐もオーストリア併合もチェコ分割も、背後でイギリスがお膳立てしたからこそ可能だったのです。そういう意味では、ナチスの成長を語る上でイギリスは共犯関係だったと断定せざるを得ない。ところが、「英国王のスピーチ」では、主人公とその知人たちは、最初からヒトラーが嫌いでナチスを敵視していたことになっています。これはちょっと、眉つばです。

 まあ、ヒトラーただ一人を絶対悪だと定義づけて、単純化して攻撃するのが作劇術の常道です。でも、それが本当にあの当時の歴史の真実だったのかどうかは、別に検証する必要があるでしょう。

  


 

太陽に灼かれて

            The Exodus burnt by the sun

 

制作;ロシア、フランス

制作年度;1994年

監督;ニキタ・ミハルコフ

 

(1)あらすじ

 1936年のソ連。革命戦争の英雄コトフ大佐(ニキタ・ミハルコフ。監督兼主演だ)は、ソ連共産党政権下にありながら、地主として農村地帯の美しい豪邸で生活していた。独裁者スターリンの友人でもある彼は、自分の豊かな生活に一点の不安も抱かずに、若く美しい妻と一粒種の幼い愛児ナージャ(ナージャ・ミハルコフ。監督の実の娘だ)と共に、幸せいっぱいに人生を謳歌していた。

 そんなある日、コトフの旧友ディミトリ(オレグ・メンシコフ)が突然現れた。ピアニストでもある陽気なこの青年は、たちまちコトフ家の人気者となる。しかし、ディミトリは、かつてコトフの妻マルーシャ(インゲボルガ・ダクネイト)の恋人であった。それなのに、マルーシャに横恋慕したコトフによって政治的な罠に嵌められ、彼女から遠ざけられたという暗い過去を持っていた。

 その事を意識するコトフとディミトリとマルーシャの間に、奇妙な緊張感が漂う。しかし、ディミトリの来訪の目的は、個人的な復讐とは別のところにあった。彼の真の目的は、スターリンの命令で地主のコトフを破滅させることにあったのだ。

 

(2)解説

 スターリンの大粛清を描いた最高傑作である。

 そして、ニキタ・ミハルコフ監督は間違いなく天才である。うるさ型の私が、文句を付けたくなる個所が一つも見つからない。そんな映画を撮れる監督は、ご存命の映像作家の中では 、もはや彼ただ一人である。そして、故・黒澤明のテイストを完璧に具現できる人材は、もはや全世界で彼一人である。そんなミハルコフ氏は、黒澤明の個人的な友人でもあった。

 「太陽に灼かれて」は、1994年度のカンヌ国際グランプリの最高賞、そして同年のアカデミー外国語映画賞の受賞作である。それなのに、この映画もやっぱり「シネスイッチ銀座」での単館上映だった。日本の大手映画館は、いったい何を考えているんだろうね?(以下同文)。

 燦々と照りつける黄色い太陽と黄色い豊かな麦畑の中で、ピアノとダンスに彩られた愉快な人間ドラマが溢れ出す。予備知識を持たずに映画館に来た人は、物語が終盤に入るまで、これがスターリンの暴政をテーマにした政治映画だとは、まったく気づかないことだろう。それくらいに、明るくて楽しいのである。ナージャちゃん(6歳)は、反則なまでに可愛いのである(ロリ萌えー♪)。

 この陽気なムードが、一転して絶望に変わる「間」の取り方が本当に素晴らしい。スターリンの大粛清の本当の恐ろしさは、死の恐怖でも強制収容所でもなく、本人にとって全く理解不能の理由で人生と家族を一瞬のうちに破壊されることなのだ。

 ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、トロツキーを追い出して共産党ナンバーワンの座を手に入れて以来、病的なまでの猜疑心の鬼となる。彼は、自分の周囲の人間全てを潜在的な敵だと思い込んだ。そこで、かつての同僚や先輩など、有能な者から順繰りに反逆罪に仕立て上げて、処刑したり強制収容所送りにしたのだ。この事件で犠牲になった人は300万人とも言われる。

 ソ連軍最高の名将であったトハチェフスキー元帥も、意味不明な理由で殺された。後のナチスドイツのソ連侵攻(1941年〜)が、緒戦であれほどの大戦果となったのは、この名元帥が、他ならぬ国家指導者の指示によって消されていたからなのだ。そういうわけで、スターリンの大粛清については「ヒトラーの謀略だった」という陰謀説があるほどである。

 「太陽に灼かれて」のコトフ大佐も、革命戦争時代の有能な指揮官であるが故に、スターリンの標的にされてしまった。半ば狂人となったスターリンにとっては、コトフとの昔の友情など物の数ではない。スターリンとの関係を信じて余裕と冷静さを保ち続けていたコトフ大佐が、最後に上げる絶望の悲鳴の凄まじさは、夢に見てうなされるほどであった。

 「やはり、ロシア映画のレベルは高いなあ」と痛感させられる一作である。

   


 

戦火のナージャ

             The Exodus burnt by the sun 2

 

制作;ロシア

制作年度;2010年

監督;ニキタ・ミハルコフ

 

(1)あらすじ

  英語版タイトルから分かる通り、「太陽に灼かれて」の16年ぶり(!)の続編である。スタッフもキャストも昔のままであるから、前作のファンはそれだけで映画館に見に行かざるを得ないだろう。

 1943年の独ソ戦争の最中、アーセンティエフ大佐(オレグ・メンシコフ)は突然、スターリンに呼び出される。彼に与えられた極秘任務は、死刑執行直前に収容所から逃げ出したコトフ大佐(ニキタ・ミハルコフ)を見つけ出すことだった。

 一方、コトフの妻子は、アーセンティエフ大佐ことディミトリに匿われて、名前を変えて密かに生きていた。幼いころに引き離された父を忘れられないナージャ(ナージャ・ミハルコフ)は、ディミトリの言葉の端から父の生存に気付き、従軍看護婦として働きながら父を捜索する。

 そのコトフは、懲罰部隊の一兵卒として独ソ戦争の最前線で戦っていた。妻子が処刑されたと思い込み人生に絶望した彼は、死地を求めて各地の戦場を転々とする。

 ディミトリ、ナージャ、そしてコトフの3者が、それぞれの思惑で彷徨する過酷な戦場では、地獄のような悲惨な情景が待ち受けているのだった。

 

(2)解説

 東京では、「シネスイッチ銀座」と「新宿武蔵野館」でしか上映しなかった。大手映画館は何を考えているんだ(以下同文)と言いたいところだけど、この映画に限っては仕方ないのかな。

 何しろ、「東日本大震災」直後の上映である。こんな暗くて重い話を、いったい誰が見たがるっていうんだ?実際、私は公開初日に銀座に見に行ったのだが、映画館はガラガラだった。

 予告編の後、ニキタ・ミハルコフ監督が画面に登場し、日本人に対して同情と励ましの言葉を投げてくれた。だけど「日本人は他人の不幸を自分のことのように思いやる優しさがあるのだから、この映画も気に入ってくれるはず」って、本当かなあ?

 ストーリーの組み立て方もかなり無茶で、前作「太陽に灼かれて」を知らない観客を完全に排除する内容になっていた。つまり、前作を見ていないと話が良く分からないのである。その前作って、なにしろ16年前でしょ?苦しいよね。

 それどころか、「戦火のナージャ」は完結編ではないのである。この続編があるのである。そういうわけで、この映画のラストシーンは非常に唐突だった。伏線の回収とか、いっさい無いし。

 ミハルコフ監督は、明らかに商業的成功を度外視しているのだが、それには理由があると思う。この監督は、実はプーチン首相(前大統領っていうか、ロシアの影の帝王)の友人で、ロシア映画界の ドンなのだ。だから、今さら商業的成功を求めて映画を作る必要が無いのである。

 そういうわけで、映画は無茶苦茶に贅沢で、異常なまでにカネをかけている。まるで、1950年代の栄光の時代のソ連映画を見ているようだ。また、芸術的な映像技巧は、まさに最盛期の黒澤映画を見ているようだ。それどころか、最新機材の力を借りて、過去の映画の中では見たことが無いような新鮮なエピソードや映像表現がどんどん出て来る。

 妙に人間的で下品なドイツ軍兵士たち。機雷に掴まって漂流しながら僧侶から洗礼を受けるナージャ。ドイツ戦車のキャタピラに肉片とともに絡まる家の鍵。雪の中に横たわり眠るように死んでいく若い兵士。「殺さないで」と哀願しつつ静かに踊るジプシーの少女。「死ぬ前に女性の乳を見たい」と哀願しつつ息絶える戦車兵。などなど。挙げて行ったらキリが無いほどの贅沢な映画表現の凄みがある。

 思えば、最近のハリウッド映画や日本映画は、過去の成功経験だけを基にして、どれも似たような内容の軽い映画しか作れなくなってしまった。ほんの少しでもいいから「戦火のナージャ」を見習ってほしい。いや、映画関係者はみんな、この映画を見て原点に返ってもらいたい。もっとも、カネが無いから無理なのか?そう考えるなら、「戦火のナージャ」の凄さからは、近年の「ロシア経済の成功」こそを読み取るべきなのかもしれない。

 それにしても、ナージャちゃんは22歳になってしまった (映画では10代の役だが)。6歳のころのあの可愛らしさは、いったいどこに行ってしまったんだろう。その反面、巨乳になったのは喜ばしいことである。ロリコンとしての私は、深く悲しみ傷ついている。その反面、巨乳マニアとしての私は大いに喜んでいる。非常に複雑な引き裂かれた思いを胸に、私は映画館を後にしたのであった(苦笑)。

 
 


 

ぜんぶ、フィデルのせい

          La Faute a Fidel !

 

制作;フランス

制作年度;2006年

監督;ジュリー・ガヴラス

 

(1)あらすじ

 1970年代のフランス。9歳の少女アンナ(ニナ・ケルヴィル)は、裕福な両親のもとで、可愛い弟ともに幸せに暮らしていた。

 しかし、「チリ革命」をきっかけに左翼思想家に転向した両親は、アンナに学校の宗教学の授業をボイコットさせた上(宗教はアヘンだから)、大好きだったミッキーマウスの人形を取り上げてしまい(アメリカ資本主義の象徴だから)、しかも安普請のボロアパートに転居してしまった。それどころか、日々の食事も貧しい内容に変えてしまった上に、家政婦さんまでクビにする。そして家族のアパートには、昼夜を問わず、濃い鬚を生やし葉巻を吸いまくる自称「革命家」たちが入り浸る始末。

 これまでの裕福で平和な生活が恋しいアンナは、「キョーサンシュギ(共産主義)」の当否を巡って両親と激しく対決する。

 しかしこの騒動の中で、両親が様々な苦しみを抱いていることや(実は、スペインのフランコ右翼政権に弾圧されてフランスに逃げて来た一家だった)、彼らが優しい心の持ち主であるがゆえキョーサンシュギ者に変貌した過程を知ることで、アンナの中で何かが大きく変わって行くのだった。

 

(2)解説

 「恵比寿ガーデンプレイス」での単館上映作品。大手映画会社は何を考えて(以下同文)と言いたいところだけど、これもまあ仕方ない。この映画、予備知識が無い日本人にとっては内容がチンプンカンプンに違いない。

 1970年代の日本は「安保闘争」の時代だったわけだが、フランスも似たような時代の空気の中にあった。ただし日本とフランスの左翼思想の決定的な違いは、日本の左翼はソ連ないし中国寄りだったのに対して、フランスの左翼はラテンアメリカ寄りだった点である。

 世界地図を見るよりは地球儀を見た方が分かり易いのだが、フランスは地理的にソ連よりも中南米に近いのである。だからフランスの左翼は、ソ連の動向よりはむしろ、キューバなどのラテンアメリカ世界の左翼と深い関係を持っていた。この映画のタイトルが「ぜんぶ、フィデルのせい」であることに、そのことの全てが現われている。フィデルというのは、言うまでもなく、キューバ革命の英雄フィデル・カストロのことである。この辺り、日本人の感覚ではなかなか分かりにくい。だから、この映画もきっと分かりにくい。

 アンナの家の家政婦さんが、カストロに祖国を追われた亡命キューバ人で、子供たちに「世界が悪くなったのはぜんぶフィデルのせいよ!」と言いまくるのが、この映画のタイトルになっている。この家政婦が「キョーサンシュギ者は悪い奴らよ。みんな鬚を生やして葉巻を吸っているから、一目で分かるのよ!」と言ってたら、子供たちの父親が本当にそんな姿になってしまったのが笑いどころである。

 実際、この映画に出て来る左翼思想家は、みんな濃い顎鬚を生やして葉巻を吸っている。これは明らかに、カストロやチェ・ゲバラの真似をしているのである。「左翼といえば鬚と葉巻」という感覚も、日本人には分かりづらいだろう。

 しかも、この映画の背景は「キューバ革命」じゃなくて「チリ革命」なのである。キューバ革命なら知っている人でも、チリ革命のことはなかなか知らないだろう。これは、キューバ革命の影響を受けた結果、チリで社会主義政権が合法的な普通選挙の結果誕生したという画期的事件である(1970年)。フランスの左翼運動家たちは大いに喜んだ。何しろこの事件は、彼らに平和的な選挙活動で政権を奪取する夢を与えたのである。リベラルな弁護士一家だったアンナの両親が、この事件を前に大いに張り切った事情も良く分かる。

 劇中、アンナと「鬚の革命家」が議論を交えるエピソードがある。革命家がオレンジを例にとって、「オレンジが一個しかない場合、これを平等に分け合うことで、みんなが幸せになれる」と論ずると、アンナは「オレンジの数を、もっと増やせばいいじゃないの!」と言い返す。9歳の女の子にしては頭が良すぎる気もするが(笑)、共産主義と資本主義の違いを最も分かり易く説明する良い挿話だと思った。

 映画は、「チリ革命の崩壊」で幕切れとなる。1973911日、アメリカの息のかかった右翼のピノチェト将軍がクーデターを起こし、アジェンデ大統領を殺害してチリの社会主義政権を終わらせたのである。失意に沈むアンナの両親。だけど、家族の絆がいつの間にか強くなっているラストは、希望に溢れるものだった。

 どうでもいいけど、アンナ役のニナ・ケルヴィルちゃんは、物凄い美少女である。ナージャと違って美人顔だったから、きっと今でも可愛いんだろうな。巨乳になっていたら、なお嬉しいかも〜(爆)。でも、まだ16歳か。

 


 

マチュカ〜僕らと革命〜
 

                      Machuka

 

制作;チリ、スペイン、イギリス、フランス

制作年度;2004年

監督;アンドレアス・ウッド

 

(1)あらすじ

 1973年のチリ。首都サンチャゴに住む11歳のゴンサロ・インファンテ(マティアス・ケール)は、裕福な家庭で育った成績優秀な少年だけど、苛められっ子である。そんな彼の学校に、貧民窟に住む先住民の少年たちが入学して来た。社会主義政権の新方針で、貧しい子供たちに無料で教育を受けさせることになったのだ。ゴンサロは、そんな少年の一人ペドロ・マチュカ(アリエル・マテルーナ)と友人になる。

 ゴンサロとマチュカは、互いの生活格差を乗り越えて友情を深めていく。ゴンサロはやがて、貧民窟の少女シルバナ(マヌエラ・マルテリイ)に淡い恋心さえ抱くのだ。

 社会主義政権の同化政策は、貧富格差や人種差別を乗り越えてチリ国民みんなを幸福にすると期待されていた。しかし、長い歳月をかけて形成された差別意識や生活格差は一朝一夕には払拭できず、大人たちの軋轢は、次第に子供たちの心も蝕んでいく。

 そして運命の911日、クーデターを起こしたピノチェト将軍は社会主義政権を転覆させ、チリ全土を過酷な軍政下に置いた。学校は銃を持った兵士たちの管理下に置かれ、校長は追放された。そして貧民窟の人々は、「共産主義者」と呼ばれて強制収容所に入れられることになった。抵抗したシルバナは射殺され、貧民と間違えられて兵士に連行されそうになったゴンサロは、愛する人の死体の前で「僕はこの人たちとは関係ない!」と絶叫する。そんな友人の姿を、マチュカは絶望の涙を流して見送るのだった。

 

(2)解説 

 DVDで見た。これって、おそらく日本の映画館では上映されていないと思う。仮にされたとしても、ミニシアターでの単館上映だったに違いない。なにしろ「チリ革命」がテーマなので、日本人には受け入れられないからだ。まあ、その通りだね。舞台背景を知らない人には、意味不明な箇所が多かったし。

 だけど、こういう映画は本当に勉強になる。私は見ている間中、目からウロコが落ちっぱなしだった。そういうわけで、語りたいことが非常に多いので、この解説は長くなります。覚悟して読んでください。

 「ぜんぶ、フィデルのせい」の項でいくらか説明したが、チリではサルバドール・アジェンデ大統領に率いられた社会主義政権が、1970年、合法的な普通選挙の結果発足した。アジェンデは、キューバのカストロやチェ・ゲバラの友人でもあったので、その政策はキューバ型社会主義に非常に近いものとなった。具体的には、チリ国内の人種差別や貧富格差を完全に消滅させようとしたのである。

 貧民窟で差別を受けていた先住民出身のマチュカ少年たちは、こうして名門の聖パトリック校に入学することになった。しかし、これまで全く異なる生活を送り、異なる教育を受けて来た者たちが、急に名門校に同化できるはずもなく、むしろ多くの軋轢が生まれることになった。

 主人公ゴンサロは、白人で裕福な名門のお坊ちゃんだが、その生活には秘密があった。彼には父親はおらず、母の手一つで育てられている。その母は、複数の男性と肉体関係を持ち、その見返りにお金や食料を手に入れているのである。つまり、一種の売春婦だったのだ。しかもこの母親は、息子を愛人の家にいちいち連れて行くのである。どうやら本人は、これを子育ての一環で愛情表現だと考えているから救われない。さすがに、行為の最中は別室で待たせておくのだが、これは11歳の少年にとっては精神的拷問に他ならない。そんなバカ母の影響なのか、ゴンサロの姉は、まだ16歳なのに酒とタバコと男に狂っている。

 ゴンサロの家庭は、いわば「資本主義の悪い面の縮図」なのである。こんな環境に育ったゴンサロだからこそ、貧民窟に住みながら明るく屈託のないマチュカやシルバナに惹かれていったのだし、アジェンデ大統領の社会主義政策に子供ながら共感していたのだ。

 ヒロイン(?)のシルバナは、ゴンサロやマチュカよりも数歳年長の少女である。彼女は先住民(インディオ)と白人の混血の容貌をしているのだが、美少女と呼べるかどうかは微妙である。だけど、姉御肌で不良っぽいところが凄く魅力的だし、私がゴンサロの立場だったら間違いなく惚れると思う。3人の子供たちが、河原でコンデンスミルクを口移しで飲ませ合うシーンの妙なエロさは秀逸である。シルバナが、口元を滴る白いミルクを舌で舐め取るシーンは、ある意味「一般公開映画で子供に演じさせられる究極のエロ表現」なのではなかろうか?このシーンだけでも、「見て良かった!勉強になる!」と叫んでしまいたくなる。

 マチュカは、前2者に比べると平凡な少年である。ただ、足を引きずってヒョコヒョコと歩く姿がとても印象的だ。これを演技や演出でやっているのだとしたら、本当に凄い。「チリの下層民は、貧しくてあんまり栄養を摂れず、怪我も病気も治りにくいので体が歪んでしまう」という状況がセリフ抜きにリアルに表現されるからである。

 さて、大人の中で最も印象的な人物は、聖パトリック校の校長マッケンロー神父である。この人はカトリックの神父だというのに、社会主義政権を熱狂的に支持して、その政策や思想を学校に浸透させようと努力する。そのため、右翼的な父兄から「コミュニスト」と罵られたりする。

 そもそも、教会の聖職者が「社会主義の手先」になる状況は、ソ連東欧では有り得ないのである。同時代のソ連東欧モンゴルでは、聖職者はむしろ「思想の敵」と看做されて、殺されたり強制収容所に送られるのが普通だった。どうしてチリは、いや中南米世界ではそうじゃないかと言えば、中南米の社会主義思想の根底にあるのは、「マルクス=レーニン主義」ではなくて、キリスト教の一派「イエズス会」の教義だからである。

 「イエズス会」は、日本でもフランシスコ・ザビエルで有名だが、「イエスの思想の原点に立ち返り、愛と清貧と平等を広めるべきだ」と主張するカトリックの一派だ。実は、キューバ革命もチリ革命も、最近のヴェネズエラやボリビアやブラジルの社会主義政権も、みんなこの思想に立脚している。だからこれらの国々の社会主義は、ソ連東欧圏のそれとは雰囲気が随分と違うし、同じカトリック国であるフランス文化とも親和性が高いのだ(「ぜんぶ、フィデルのせい」参照)。だからこそ、教会の神父が社会主義政権の先兵になることが有り得るのだ。

 一般的な日本人は、宗教とイデオロギーを切り離して考える傾向が強いけど、そのようなアプローチは間違っている。日本以外の全ての国では、宗教とイデオロギーは密接な関係を持っている。民主主義や資本主義や軍国主義だって、土着の宗教と繋がっているからこそ、その地域の民衆を広く深く惹きつけることが出来るのだ。そして中南米世界では、信仰熱心な人ほど社会主義に引きつけられる傾向があるようだ。「マチュカ」のマッケンロー神父の活躍は、そのことを明確に表している。そして、子供たちは皆、この献身的な神父を心から敬愛しているのだった。

 ピノチュト将軍のクーデターの後、マッケンロー神父は失脚する。彼は、学校の教会で捧げもののパンを全て食べて燈明を消し、沈痛な表情で「もはや、ここに神はいない」と呟く。彼にとっては、社会主義こそが神の正義だったのだ。ソ連東欧系の左翼知識人は、きっとこのシーンを見たら仰天することだろう。この後、会堂に集まっていた子供たちが「さようならマッケンロー先生」と口々に言う場面は、涙なしには見られない。神父はこれから恐らく刑務所に入れられて、もしかすると殺されてしまうからだ。この立派な神父には、実在のモデルがいるらしい。

 それに続いて、ピノチェトの軍隊が貧民窟を襲う場面は、激怒無しに見ることは出来ない。シルバナの父親は、社会主義勢力に手旗を売っていたために兵士たちから寄ってたかって軍靴で蹴られ銃架で殴られるのだが、彼は「共産主義者」だったわけじゃなくて、生活のために仕方なくそうしていたのである。そんな父を助けようと兵士にむしゃぶりついたシルバナを、兵士は容赦なく射殺してしまう。この場面で激怒しない奴は、もはや人間じゃないね。俺は、テレビ画面(DVDで見ているから)に向かって物を投げつけそうになることしきりである。自分のテレビが壊れるだけだから、実際にはやらないけどね(笑)。

 ところで1970年代の日本では、「自称知識人」は皆、温厚な徳人アジェンデをバカにして、残忍非道な暴君ピノチェトを褒めていた。これは間違いなく、アメリカ発の偏向報道に騙された結果であろう。なぜなら、ピノチェトにアジェンデを殺させたのは、他ならぬアメリカだからである。

 アメリカ合衆国は、「社会主義を奉ずる民主政権よりは、資本主義を奉ずる軍国政権の方がマシだ」という価値判断をする国なので、しばしば世界中でこういうことが起きる。だいたい、今まさに混乱しているエジプトやシリアやイエメンだって、アメリカの差し金によって長期独裁政権が維持されていた部分が大きいのである。今回の革命騒ぎを見て「民主主義の勝利だ」などと喜んでいるアメリカ人は、自分の態度が政府のそれと矛盾していることに気付いてもいない。

 アメリカ合衆国は、自分の利益のためならば、外国人を平気で殺し独裁者を甘やかすような国である。その結果、当該国の民衆が貧困化しても不幸になっても、まったく同情しないのである。アメリカが仕立てた軍国主義のピノチェト政権によって、どれだけ多くの罪のないチリ人が殺されたことか。

 だからこそチリでは、「カストロから寄贈された銃を撃ちながら戦死した」アジェンデ大統領こそが「祖国の英雄」なのである。この映画を見れば、そのことが良く分かる。(もっとも、アジェンデ政権の悪い面や無茶だった面もちゃんと公平に描いているところは立派である)。

 日本の「自称知識人」は、映画「マチュカ」を見て、過去にピノチェトを賛美したことを深く反省し、チリ人に謝罪するべきである。そして日本人は皆、アメリカ発の邪悪なプロパガンダに盲従することを慎むべきである。

 近年、中南米では、社会主義的な色彩の強い反米国家が続々と誕生している。我々は、そうなった理由や事情について、もっと深く正確に知るべきだと思う。映画「マチュカ」は、そのためのテキストになることだろう。

 



革命戦士ゲバラ

                       Che !

 

制作;アメリカ

制作年度;1969年

監督;リチャード・フライシャー

 


 チェ・ゲバラを主人公にした最も古い伝記映画。

 なにしろ、ゲバラが死んだのが196710月だから、その翌年に製作が開始されたことになる。他ならぬ、敵手アメリカによって。

 その事実だけでも明らかだが、これは「反キューバ・プロパガンダ映画」なのである。ただし、その作り方は非常に見事である。客観的に見て、最近の「チェ2部作」より遙かに上だ。だからこそ、この場で紹介したい。

 まず、映画の冒頭はゲバラ(オマー・シャリフ)の死体から始まる。死体となったゲバラが、過去の思い出について詩的な独白をする調子で、革命戦争の物語が始まる。また、劇中で死体のシーンとゲバラの生前の活躍のシーンが交互に語られるのだが、観客の興味を引き付ける上で、この構成の取り方は実に見事である。

 最近の「チェ28歳の革命」では、この映画を意識したのかどうかは不明だが、革命戦争のエピソードとゲバラの国連総会での演説のエピソードが、交互に出て来る構成になっていた。でも、これは意図も意味もまったく分からなかった。しかも、なぜか国連総会のシーンはモノクロだった。これも、意味がまったく不明であった。作り手の頭が悪いのだとしか言いようがない。

 さて、「革命戦士ゲバラ」の構成のもう一つの巧さは、劇中で語られるゲバラの全てのエピソードについて、故ゲバラの知人たちからインタビューを得て描くスタイルを取っていることである。インタビューのシーンが、劇中でいくつか出て来るのだが、一見すると公平で客観的な取材をしているように見える。ゲバラファンからの好意的な評価も取り入れているように見える。

 このように「インタビューの集積」という形で伝記映画を作ると、物語に説得力が増すだけでなく、「平気で嘘が書ける」メリットが得られる。案の定、この映画の劇中には、かなり多くの「嘘」が出て来るのだが、映画製作者は「だって、そういうインタビュー結果があったんだもん」と、とぼけてしまえるのだ。実際、「歴史」とか「伝記」というのは、そういう風に作られるのかもしれない。

 そう考えるなら、この作り方は本当に上手い。見事である。

 これらインタビューの結果、劇中で描かれるチェ・ゲバラは、次のような人物である。

 キューバ革命の黒幕はゲバラであった。カストロ(ジャック・パランス)は飾り物に過ぎなかった。したがって、戦争中の虐殺行為は全てゲバラの仕業である。戦後の戦犯大量虐殺も、全てゲバラの仕業である。そして、キューバをソ連に引き渡したのも、キューバ島にソ連製核ミサイルを導入したのも、アメリカを核攻撃しようとしたのも、全てゲバラの仕業である。そんなゲバラは、その邪悪さがカストロにバレて大喧嘩になったので、逆切れしてキューバを飛び出してボリビアで大暴れを始めたけれど、現地での傲慢ぶりと残虐ぶりが民衆に嫌われ部下にも見放され、その結果、野垂れ死にしたのである。

 はあ・・・。

 そういうわけで、ボリビアの戦いでは、ゲバラが村を襲って民衆から物資を強奪するシーンが出て来る。また、処刑される直前に、羊飼いの老人から「よそ者の掠奪者」として非難されるシーンが出て来る。ゲバラは、自分の人生が全て間違っていたことを思い知らされて、失意と悲しみの中でボリビア軍に射殺されるのである。

 ぶわははははははは〜!!

 これらは、ほとんど全て作り話である。嘘だと思うなら、拙著「カリブ海のドン・キホーテ」を読んでください(営業かよ(笑))。もしも私の本が信用できないなら、関連図書をなるべく多く読んでみてください。

 だけど、映画全体が「客観的なインタビューを集めて作った」体裁になっているので、すごく説得力がある。実際に、ゲバラが邪悪で傲慢な人間に見えて来るから見事である(実際に、彼の中に傲慢な部分があったことまでは否定できないが)。

 だけど、ゲバラが本当にそんな邪悪な人間だったとしたら、今日に至るまで多くの人に尊敬され愛されていることの説明がつかないやね。

 ともあれ「革命戦士ゲバラ」は、本当に素晴らしい作りの知的なプロパガンダ映画だと思った。すごく勉強になった。

 昔のアメリカ人って、すごく頭が良かったんだねえ(苦笑)。

 逆に言えば、アメリカ映画が知性の面で、近年になって激しく劣化している事実がよく分かりました。 日本映画がダメになったのも、この傾向に引きずられているからなんだろうね。

 


 

ブラジルから来た少年

Boys from Brazil


 

制作;イギリス

制作年度;1978年

監督;フランクリン・J・シャフナー

 

(1)あらすじ

 ナチス狩りに執念を燃やすユダヤ系アメリカ人青年コラーは、南米パラグアイでの「ナチス会」の秘密会議を盗聴した。すると、大幹部ヨゼフ・メンゲレ博士(グレゴリー・ペック)が部下たちに、世界各地で94名の一般市民を殺害するよう命じていた。驚いたコラー青年は、メンゲレに発見されて殺される直前に、ウイーンに住むナチス狩りの専門家エズラ・リーバーマン(ローレンス・オリビエ)に国際電話で急報を入れることに成功する。

 リーバーマンは、メンゲレの無差別殺人計画の目的を察しかねつつも、老体に鞭を打って調査を始めた。すると確かに、世界各地で50年配の老人が、事故を装って何者かに殺害されているのだった。被害者たちはナチスとは何の関係もなく、ユダヤ人でもなく、互いに面識もなく、国籍もバラバラだった。彼らの共通点は、平凡な公務員かそれに類した職にあること、若い妻と10代半ばの男の子がいること。そして、男の子の顔と性格が、みんな瓜二つであることだった。

 やがてリーバーマンは、少年たちが誰かの「クローン」であることに気付く。生物学の教授(ブルーノ・ガンツ)から詳しいレクチャーを受けるうちに、彼はついに真相に気付いた。

 宿敵メンゲレ博士の目的は、ナチス総統アドルフ・ヒトラーを現代に再生させることなのだった。

 

(2)解説

 「昔の映画は知的だったなあ」+「中南米ネタ」ということで、取り上げたのがこの映画。「これって、歴史映画じゃないじゃん!」と突っ込まれたら、「まあその通りです」と応えるしかあるまい(笑)。ジャンル的にはSFである。

 アイラ・レヴィンの原作小説も非常に面白かったけど、映画はまた違った味で見事である。古き良き時代のヨーロッパ映画の残り香が全面に漂っている。主演グレゴリー・ペックとローレンス・オリビエというのが、その象徴であろうか。2人の老人の対決(肉弾戦まである!)は、この名優2人だからこそのパワフルな迫力がある。

 だけど、この映画は日本では一般公開されなかった。後にテレビ局が安値で仕入れてやたらと放送していた時期があるので、私は子供のころにテレビで見て非常に強烈な印象を受けた。大人になってDVDで見直して、その素晴らしさに改めて感動した次第である。このような名画を一般公開しなかったということは、日本の映画会社はすでにこの当時から目が曇っていたということだろうか?

 邦題の付け方にも文句を言いたい。「ブラジルから来た少年」って、なんか青春スポーツものみたいじゃん(笑)。原題どおりに「ブラジルから来た少年たち」と複数形にした方が、得体の知れぬ不気味さが滲み出て良かったと思うのだが。

 物語の構成は、本当に見事である。メンゲレの意図や目的がなかなか明らかにならないし、明らかになる瞬間の間の取り方やテンポも完璧である。そして、この当時の最先端技術であった「クローン」を主題にしているのが素晴らしい。

 メンゲレは、南米の秘密病院で94人のヒトラーのクローンを作り出すことに成功するのだが、同じ遺伝子を持つだけでは、クローンがヒトラーその人にならないことを知っていた。人間の性格は、後天的な生活環境によって決定される部分が多いからである。そこでメンゲレは、子供たち全員を、ヒトラー家と良く似た環境条件を持つ家庭に養子に出した。そして、実際のヒトラーが若いころに父親を亡くしていることから、同じタイミングで養父全員を殺害しようとしたのである。確率計算をした結果、94人のヒトラーの遺伝子が全く同じ生活環境で育つならば、そのうちの数名はヒトラーその人になるはずだと固く信じて。

 もっとも、1970年代の世界にヒトラーその人が復活したところで、いったい何が出来るのだろう?「ナチス会」の中にもメンゲレの狂った計画に反対する者が多くて、この計画が途中で打ち切られてしまうところがリアルである。メンゲレ博士は狂人、というよりも、医学者としての己の技能と知識に耽溺して暴走している人物に見える。

 対するリーバーマンは、ヒトラーの誕生を恐れて、というよりは純粋な正義感から被害者たちの命を助けようとする。そして、遺された少年たちさえ守ろうとする。「ブラジルから来た少年たち」が、たとえヒトラーと全く同じ遺伝子を持っていたとしても、決してヒトラーその人にならないことを強く信じて。

 もっとも、映画のラストシーンは、少年の一人が血まみれの死体の写真を見て喜ぶシーンである。なんか、B級ホラー映画みたいな終わり方である。ここでは、実際のアドルフ・ヒトラーが「血を見るのが嫌いな菜食主義者だった」 事実は完全に忘れられているようで、「ヒトラー=残酷な性格」というステレオタイプの幼稚で単純な決めつけには嘆息せざるを得ない。そもそも科学的に見て、仮にホストが残酷な性格だったとしても、クローンまでそうなるとは限らない。単なる細胞のコピーだからである。そのため、このシーンはいろいろな批判を浴びたようだ。

 それでも、アメリカ映画で描かれるクローンは、肉体のみならず性格や記憶までも、先天的にホストのそれを自動継承しているケースが多い。そんなバカな。そう考えると、イギリス映画はまだまだ科学的なんだなあと一目置かざるを得ない。

 なお、生物学の教授役でブルーノ・ガンツが出て来るのだが、まだ若くて毛がフサフサしている。まさか、彼自身が「ヒトラー最期の十二日間」で後にヒトラーその人を演じることになるとは、この時は夢にも思わなかっただろうな。

 ともあれ、古き良き時代の名優たちのご冥福を心よりお祈りします。

 


 

ダーク・ブルー

       Dark blue world

 

制作;チェコ

制作年度;2001年

監督;ヤン・スビエラーク

 

(1)あらすじ

 19393月、チェコスロバキアはナチスドイツによって無血占領された。

 しかし、降服を潔しとしないチェコ空軍の勇士たちは、ポーランド、フランス、そしてイギリスへと渡り、義勇兵となって大空でナチスと戦い続けた。

 ところが戦後、生き延びて祖国に帰り着いた彼らを待っていたのは強制収容所だった。ソ連の息がかかった新生チェコスロバキアにとって、イギリス軍の一員だった義勇兵たちは、英雄どころか邪魔者に過ぎないのだった。

 

(2)解説

 高畑勲、宮崎駿両氏大絶賛の触れ込みで、スタジオジブリの協賛の下で、鳴り物入りで上映された映画。その割には、「シネスイッチ銀座」での単館上映だった。ジブリの威信も高畑・宮崎両氏の名声も、頑迷固陋な大手映画館を動かすことは出来なかったというわけだ。やれやれだぜ。

 ともあれ、私が大好きなチェコ映画である。しかも、ヤン・スビエラークは、あの超絶的名作「コーリャ愛のプラハ」の監督である。そして脚本を書いたのは、監督のお父さんズデニェク(つまり、「コーリャ」でロウカ役だった人)だ。さらに、主演は「コーリャ」で印象的な墓掘りを好演したオンドジェイ・ヴェトヒィだ。

 想像してください。この映画の上映を知った時の、この私の感動と興奮の有り様を。一本の映画に、これほど夢と希望を抱いたことは後にも先にも無いっ!

 だけど、実際に見に行った感想はというと。

 ううむ・・・・・。

 物事は何でもそうだが、最初に過剰な期待を抱かない方が良い。

 なんというか、観客の期待や予想を、ことごとく外すような物語の作り方なのである。チェコ映画だし、スビエラーク監督だから(つまり、ひねくれている(笑))、おそらくわざとやっているんだろうけどね。

 主人公たちは、スピットファイヤー戦闘機を操るパイロットだが、イギリスには何のゆかりもないチェコ人義勇兵である。それが過酷な戦場で、バタバタと撃墜されて死んでいくのである。だけど、彼らのこの行為の動機はほとんど描かれないのである。

 普通ならせめて、「祖国を蹂躙したナチスが憎い!」とか、誰かに言わせるでしょう?「ヒトラーの野郎、ぶっ殺してやる!」とか、激怒するシーンを作るでしょう?ところが、そうじゃないのである。みんな、ヒトラーのことを「隣の変なオジサン♪」みたいなノリで、笑顔でニコニコ語るのである。

 なんで?

 また、パイロットたちは、暇さえあればナンパに精を出している。主人公フランタと相棒のカレルは、女の話しかしないし、最後は女を巡って喧嘩になって絶交しちゃう。そして、カレルは不機嫌のまま戦死しちゃうのだ(いちおう、死ぬ前にフランタを助けるけど)。この人たち、わざわざ、イギリスに女を漁りに来たのかね?命の危険を冒して?まあ、このノリがチェコ流だといえば、これ以上は無いくらいにチェコ流なんだろうけど(苦笑)。

 生き残ったフランタが祖国に帰ると、婚約者が他の男と結婚していた!これって割と、この手のドラマに有り勝ちなベタな展開である。だけど、フランタはフランタで、イギリスで他の女と楽しくやっていたのだから、ある意味で自業自得である。だからフランタは寂しげに微笑むだけで、このエピソードは終わり。

 はあ・・・。

 戦後、理不尽に強制収容所に入れられることになっても、フランタは微笑んでいる。特に、恨みごとも愚痴も言わない。ここが、いかにもチェコ流である。これがハンガリー映画やポーランド映画なら、絶対にこういう描き方はしない。社会主義政権の理不尽さに対して、登場人物が感情的に抗議するシーンを必ず作ることだろう。

 スビエラーク監督ってば、わざと観客の予想や期待を裏切るような造りをしているとしか思えない。

 このように、「ダーク・ブルー」は、いろいろな意味で型破りな戦争映画である。監督は、おそらく戦争映画の定石をひっくり返すような「革命」をやりたかったのだろう。ただ、ちょっとやり過ぎだったかもしれない。そして、主人公の達観ぶりがあまりにも「チェコ的」過ぎて、外国人にはすんなり入って行けない世界だったような気がする。

 病的なチェコマニアであるこの私でさえ、首をかしげるくらいだもんなあ。

 それでも、近年のアメリカ映画や日本映画が、過去の成功経験を踏襲した「ベタな造り」のワンパターンな物語しか作らない現状を考えると、常に実験や冒険を繰り返す中東欧ロシア映画はハイレベルだと言わざるを得ないだろう。

 以上、やや辛口の評論になってしまったけれど、「ダーク・ブルー」の空中戦や飛行機の撮り方は非常に上手だった。名戦闘機であるはずのスピットファイヤーやメッサーシュミットが、「中古の軽自動車」みたいな描かれ方なのには驚いたのだが、考えてみたら1940年代のマシーンだし、実際にあんな感じだったんだろうね。そのリアルさは、とても素晴らしいと感じた。私が将来、戦闘機ものを書くときは、「ダーク・ブルー」を大いに参考にすることだろう。

 そして、この時点で私は気づいてしまった。

 なぜ、高畑勲と宮崎駿がこの映画を大絶賛したのか?

 ・・・この人たち、第二次大戦のレシプロ戦闘機のマニアなんだよねー(苦笑)。

 

 


 

グッド・シェパード

          The Good Shepherd

 

制作;アメリカ

制作年度;2006年

監督;ロバート・デ・ニーロ

 

(1)あらすじ

 1961419日、キューバに侵攻したアメリカの亡命キューバ人部隊は壊滅した。

 この作戦の立案に携わったCIA局員 エドワード・ウィルソン(マット・デイモン)は、侵攻計画が事前にキューバ側に漏れていたことに気付く。そして、二重スパイの調査を始めた彼は、自分がCIA局員になるに至った過酷な生い立ちを振り返っていく。

 やがてエドワードは、衝撃の事実を付きつけられることになる。キューバに情報を漏洩したのは、彼の最愛の家族なのだった。

 

(2)解説

 1961年春の、いわゆる「ピッグス湾事件」を背景にした映画。ただし、「ピッグス湾事件」そのものは冒頭のニュースフィルムでしか流れないから、ピッグス湾ファンの人(そんな人、いるのか?)は残念でした(笑)。

 ちなみに「ピッグス湾事件」とは、キューバのカストロ政権を倒すためにアメリカが行った軍事侵攻である。国際世論の非難をかわすため、侵攻軍の兵士は全員、亡命キューバ人から成っていた。この作戦の特徴は、計画から実行まで全てCIA(アメリカ中央情報局)の主導で行われたことである。しかし、海岸線でキューバ軍の反撃に遭い、わずか3日で全滅させられてしまった。情報専門家のCIAが主導したくせに、情報漏れが起きたのが原因であった。「グッド・シェパード」は、その事実をテーマにしたサスペンス映画である。

 名優ロバート・デ・ニーロが監督で、彼自身もCIA創設者サリバン将軍として登場する。そういうわけで、この映画は大手映画会社でロードショー公開された。

 でも、詰まらなかった(泣)。

 何というか、創り方が真面目すぎるのである。実際のCIAのスパイをリアルに描こうとする試みは偉いと思うけど、あまりリアルにやりすぎると、陰惨で残酷になるだけである。

 主人公エドワードは、「絵に描いたような官僚」で、想像力をまったく持たない冷たいエリートである。無口で感情を滅多に表に出さないし、そもそも人間らしい感情が欠落している。だからこそ、何も考えずに人を殺したり拷問にかけたり出来るのだ。確かに、実際にCIAで汚れ仕事をしていたスパイって、そんな感じだったんだろうけどね。でも、映画としてそういうのを延々と見せられるのは苦痛でしかない。マット・デイモンの「冷たい官僚」演技は非常に見事なのだが、見事すぎて余裕が全くない。もうちょっと下手な演技をしてくれた方が、むしろ楽しかったかもしれない。

 主人公がそういう性格だから、当然、家庭もうまくいかない。妻(アンジェリーナ・ジョリー)や息子とも意思疎通がうまくいかない。その事実こそが、ラストの悲劇を招くのである。そう考えるなら、この映画の主題は「エリート官僚の悲劇」だったのかもしれない。

 また、デ・ニーロ監督は、「アメリカの正義」の偽善性について強く訴えかけている。

 劇中、ソ連のスパイ(と疑われた人)が、主人公から過酷な拷問を受けて自殺する直前に叫ぶ。「ソ連の脅威なんて、本当は存在しない!アメリカの軍産複合体が金儲けのネタにしたいから、誇張気味にソ連の恐怖を言いふらして国民を騙しているのだ!」。まさに、その通り。

 また、実際のCIA局員の非情さや愚かさや地味さをリアルに描くことで、「スパイ」に対するロマンや幻想を全て否定している。ジェームズ・ボンドやイーサン・ハントやジャック・バウアーが、子供じみた架空の存在であることを強く訴えている。

 タイトルの「グッド・シェパード」とは、聖書に出て来る「人民を導く善良な羊飼い」という意味である。劇中で邪悪に描かれるCIAのことを「善き羊飼い」と呼ぶのは、物凄い皮肉である。

 そういう意味では、非常に知的で良心的な映画なのである。

 だけど、詰まらなかった(泣)。

 なお、「ピッグス湾侵攻」が情報漏洩のせいで失敗したことは史実である。だけど、CIA局員の息子がソ連の女スパイに騙されて(ハニートラップね♪)、出張先のアフリカで洩らしちゃったというのは作り話である。

 実際は、もっと単純でおバカなことが原因らしい。キューバに遠征したのは反カストロの亡命キューバ人から成る兵団だったわけだが、キューバ人はとにかく陽気でお喋りである。この連中、マイアミあたりの飲み屋で酔っ払って、「今度、カストロの首を取りに行くぜ!」とかベラベラ喋りまくったらしいのだ。それを、潜入中のカストロのスパイが聞きつけてしまったと。

 ・・・事実は映画より奇なり。別に、ソ連のハニートラップも コンゴの秘密基地も要らなかったのである。CIA局員のボンクラ息子を騙す必要なんか無かったのである。「ピッグス湾事件」がアメリカの大敗に終わった理由は、「キューバ人のお喋り」にあったのだ。

 だが、もっと問題にすべきなのは、実際のCIAが「情報漏洩の事実を知っていた」点である。それにもかかわらず、彼らは作戦を強行した。その理由は単純で、彼らは「カストロとキューバをバカにして舐めていた」のである。だから、情報漏洩の事実を知りながらも勝利を確信して作戦をそのまま強行し、その結果、大失敗したのである。

 これは、「官僚」と呼ばれる人々が抱える共通の欠点なのだが、この人たちは紙の上でしか世間を知らないくせに、自分たちが作成した紙が絶対だと思いこむ。そして相手がいる場合でも、自分たちが作った紙の通りに思考し行動するだろうと勝手に思い込むのだ。CIAは、先入観からカストロとキューバ人を愚かなダメ人間だと思い込み、そんなダメ人間が自分たちのようなエリートに対抗できるわけがないと決めつけてかかっていた。だから、情報の秘匿にも気を配らなかったのだし、実際に情報漏洩があっても意に介さなかったのである。

 ちなみに、我が国の太平洋戦争の大敗も、今回の福島原発のメルトダウンも、こういった「官僚の思考様式」の欠陥こそが根本的原因である。

 つまり、「ピッグス湾」でのアメリカの大敗の原因は、「キューバ人のお喋り」以前に、「このような重大な仕事を官僚に丸投げしてしまったこと」なのである。これは、現代の日本にも通じる極めて大きな教訓である。

 ところが、「グッド・シェパード」では、そこまで踏み込んで分析していない。

 「女スパイのハニートラップ」の話に逃げ込んでしまったのは、デ・ニーロ監督の知性の問題なのか、それとも脚本家が「映画としての面白さ」を優先してしまったからなのか。

 結果的に、ぜんぜん面白くなかったけど(笑)。

 そういう意味で、あまり高く評価する気になれない残念な映画であった。 
 

 


 

ミュンヘン

             Munich

 

制作;アメリカ

制作年度;2005年

監督;スティーブン・スピルバーグ

 

(1)あらすじ

 197295日、ミュンヘン五輪に潜入したパレスチナのゲリラ組織「黒い9月」は、11人のイスラエル選手を人質に取って、イスラエルによって不当に収監されているパレスチナ人の解放を要求した。しかしながら、西ドイツ警察との撃ちあいに発展し、人質ごと全滅してしまう。

 この事件に激怒したモサド(イスラエルの諜報機関)は、工作員アヴナー(エリック・バナ)に報復を命じた。具体的には、世界各地で活動しているパレスチナ解放運動(PLO)の幹部を11人殺害せよというのだ。

 暗殺や爆弾処理などの特殊技能を持つ仲間たちを集めたアヴナーは、指令通りに世界各地で暗殺を実行していく。しかし、やがて事態に気づいたPLOやソ連の反撃に遭い、次々に仲間を失うことになった。どうやら、仲間や協力者の中に裏切り者がいるらしい。

 心を深く病み、もはや誰も信じられなくなったアヴナーは、家族とともにアメリカに移住するのだった。

 

(2)解説

  「歴史上の実際のスパイをリアルに描いた映画」としては、「グッド・シェパード」と好一対の名編である。劇中で語られる事件は全て、実際にあった出来事を基にしている。だから、この映画も地味で陰湿で残酷で暗い(苦笑)。

 でも、スピルバーグ監督の技量はさすがにデ・ニーロよりは上のようで、なかなか面白く見ることが出来た。その最大の理由は、観客に訴えかけたいテーマが最初から明確に提示されているからである。すなわち、「暴力は次の暴力を呼び、報復は次の報復を呼ぶだけだ」という立派な問題提起である。

 この映画では、イスラエルのスパイ組織モサドが、「グッド・シェパード」のCIAに負けないくらいに陰湿で邪悪な組織に描かれている。まあ、実際にそうなんだろうね。そういうわけで、イスラエル政府やユダヤ人は、この映画に対して批判的であるらしい。スピルバーグは、彼自身がユダヤ系であることから「裏切り者」と呼ばれているらしい。なんか、気の毒である。

 でも、「客観的で公平な描き方」という一般的な評価は、本当にそうだろうか?私は、スピルバーグは結局、イスラエルを美化しているように思えてならなかった。

 その根拠は、クライマックスの回想シーンである。アメリカに渡ったアヴナーが、久しぶりに会った奥さんとエッチしながら、「黒い9月」のミュンヘン襲撃をリアルに回想して泣くシーン。

 ・・・なんか、いろんな意味でおかしい。

 まず、奥さんとエッチしている最中に、そんなこと回想するかね?行為の最中は、普通、違うことを考えるんじゃないかい?

 そもそも、アヴナーが「ミュンヘン襲撃事件」をリアルに回想するのはおかしいのである。だってこの人は、その場にいなかったんだから。どうせ過去を振り返って後悔するのなら、自分の殺人行為を思い返すのが筋じゃないの?そういえば、「プライベート・ライアン」にも、その場にいなかった人がリアルな回想をする場面が出てくるけど、スピルバーグって、そういうことに違和感を覚えないセンスの人なのだろうか?

 いずれにせよ、クライマックスで「黒い9月」の犯行を残酷に執拗に描くということは、これが映画の主題ということだろう。つまりスピルバーグは、「もともとパレスチナ側が悪いのだ」と言いたいのである。「彼らがミュンヘン五輪を襲わなければ、アヴナーも世界も平和で安らかだったはずなのに」と言いたいのである。

 でも、それは明らかに間違いだ。

 そもそも、イスラエルとアラブ(パレスチナ)の争いは、イスラエルが最初に起こしたのである。国連で定められた領土を越えて侵略し、多くの無辜のアラブ人を虐殺し家から追い立てたのはイスラエルなのである。それに対して反撃を試みたアラブ諸国は、アメリカの支援によって著しく強化されたイスラエル軍にどうしても勝てない。そこで、窮余の一策として、ゲリラ戦やテロ攻撃を仕掛けるようになった。「ミュンヘン襲撃事件」は、その一環なのである。

 ところが、映画「ミュンヘン」では、こういった背景がほとんど描かれない。だから、この映画だけ素直に見ると、パレスチナ側が一方的に悪いように見えるのだ。それがスピルバーグの狙いだとしたら、非常に巧妙である。映画「革命戦士ゲバラ」の制作者に近いくらいのプロパガンダ能力が発揮されたと言ってよいだろう。だけど、それが理解できないイスラエル人に非難されるとは、本当に気の毒でる。

 いちおう言っておくと、ハリウッド映画がユダヤ人やイスラエルに好意的であるのは、製作者やスポンサーの多くがユダヤ系だからである。だからスピルバーグも、本当の意味で客観的で公平な映画をアメリカで作ることは出来ない。さらに言えば、アメリカの政財界が常にイスラエルの味方をするのも、同じ理由である。

 「ミュンヘン」はそれでも、従来のアメリカ映画と比較すると、リアリティを非常に重視した造りになっていて、少なくともイスラエルを一方的に賛美するような幼稚な内容になっていない。それは、アメリカ社会の成熟であり、スピルバーグの成長であり、一歩前進だと解釈して良いのかもしれない。

 そのせいでイスラエルが激怒すると言うのなら、それはイスラエル側の姿勢や態度に問題があると言うことである。