「ため息と嬌声」あるいは「喫煙と水遊び」

2002年ピナ・バウシュ&ブッパタール舞踊団日本公演/『炎のマズルカ』『緑の大地』

桜井圭介

 「私は天使になりたい!」「野原を走るの。太陽、花、ひまわり、鳥たち!」「僕は三拍子が好き。美しい。とても!」等々、この舞台でダンサーによって語られる「台詞」は、しばしばこうした「感嘆文」の形をとる。「感嘆文」とは、伝達の目的・対象を持たない、言外の意味をもたない(「だから〜である」という帰結を持たない)発話行為だ。
 いっぽう、「グラスの水を相手にかけ、それを手のひらで受けて相手の顔めがけて打ち返す」とか「タバコの煙を女のモジャモジャ髪に吹き付けて焚きしめる、すると四つん這いではい出す女の髪から煙りが立ちのぼる」あるいは「透明のビニールシートの四隅をつまんでこさえたインスタント・ウォーターシュートで滑る」といった、この舞台でダンサーたちによって披露される「行為」のほうも、それは一体何のつもりかと問うてみても「単に遊んでいるだけ」というほかない、解釈すべき(隠された)意味などどこにも見当たらない、いわば「感嘆文」のような行為なのではないか。実際、その「遊び」に興じるダンサーたちの発するのは感嘆符付きの嬌声、「キャー!」である。
 そしてそれは、遂にはたった一つの「感嘆詞」にまで縮約されるだろう。「アー」というため息(とりわけ『炎のマズルカ』において様々なニュアンスで繰り返し現れるあの「アー」)にまで。そこから先は、「水の飛沫」となって飛び散り「タバコの煙」に気化していくしかない(水とタバコは最も頻繁に登場するモチーフだ。一列に並んだ女たちがそろって頭から水をかけてもらいながらタバコをふかすという、水と紫煙の共演まで登場する!)。
 しかも、そのような台詞と行為が、矢継ぎ早に・脈絡なく・展開することなく進行して唐突に終わり、決してまとまったセンテンス(統一体、構造物、意味)を形成しようとしないのだから、作品全体もまた一個の「感嘆文」なのだ。
 では、その一個の「感嘆文」とは何だろうか。直訳するならば「ダンス!」という一文である。「感嘆文」とは「文節言語の限界」(バルト)なのであり、よく言われる通り、言語の終わる地点からダンスが始まるのだから。
 そしてさらに、あえて「意訳」するならば「世界は美しい!」といったところか。たしかに、それはあまりにオプティミスティックに過ぎ、相当に陳腐なクリシェではある。だが、実は「感嘆文」はときに賛意を要請する「命令文」となることがある。つまり「世界は美しい!」は「世界は美しいということを即時的に肯定せよ!」となるのだ。「世界は美しい(何故なら〜)」でもなく「(〜ゆえに)世界は美しい」でもなく、つまり疑いの余地を与えずに、論理・意味を生み出さずにそれを言うためには感嘆文しかあり得ず、感嘆文であることによってその命令文は命令の妥当性の証明責任を免れるのだ。もちろんこの命令はまず何よりも自分自身に向けられたものであろう。風景(世界)を目の前にしながら「それ(世界)は美しい」と言うことは、ほとんど同語反復なのだから。
 とするならば、遡って「ダンス!」という直訳のほうもまた、自動的に「踊れ!」=「踊るぜ!」となるだろう。世界を批評(表象・表現)するのではなく、世界を定言的に即肯定するとなれば、そう、それはもう「踊るっきゃない!」のだ。もちろんそれは、振付家としてのバウシュにとっては「今、いかにすればダンスを肯定出来るか?」という方法論的な問題ともリンクしているわけだが。
 ところで、そのようにして肯定される「世界」とは、どのような世界だろうか。さしあたって言えるのは、今日支配的な「力」が無理矢理に認めさせようとする世界像(グローバリズム・世界資本主義?)に抗して、「水遊びをすること」(環境保護)はもちろん、「死ぬまでタバコを吸い続けること」(スローフードとしてのタバコ!)を是とする世界、ということになるだろうか。
(2002年6月 音楽の友社『バレエ』 02年9月号初出)

[ 追記]
 たとえば、男女のカップルたちが体のあらゆる部分を測る(「緑の大地」)こと、あるいは、コーヒーのカップに砂糖を文字通り山のようにかけて飲むことは、かつての舞台であれば、「支配と被支配」とか「オブセッション」といった何がしかの読み取りが可能なもの、というかそのように読むことを誘う仕掛けとして提示されていたわけだが、今やそれは「ただ単に」恋人同士の戯れ以外の何ものでもないもの、ただ単に砂糖の山に埋もれたコーヒーを飲むこととして、つまり「それ自体」として提出される。隠された意味などない。その違いは、コンテクストの徹底的な不在からくる。「原因や文脈から切りはなされた行為」という特徴はもとからあったのだが、以前は元の文脈とは別のシチュエーション、場というものが雑多な無関係な行為を貼付ける台紙(コラージュの)として存在していた。それすらも存在しないので、ポプリ、メドレーになってしまっている(そもそも端からまとめあげることを放棄しているようなふしがある)。そうなると舞台美術も必然性が失せ、「地」(台紙)として働かない。現に、溶岩の岩場や緑の台地は踊る場所ではなく、後景であり緑の岸壁は背景(書き割り)の地位しか与えられていない。
 それ以上に、ますます顕著になった「ダンス」回帰のほうが重要な変質と言える。多くはソロで踊られるアクロバティックなそれは、コンテクストを一切欠いて提示されるがゆえに、ますます抽象的ないわば純粋舞踊となり、そのようなものとして見ると、それなりに技巧をこらした振付であるとはいえ、それ以上のものではないと言うしかない。そうした「ダンス」と比べれば、まだ「ため息をつく声」や「水浴び」といったもののほうが遥かに強度はあるのだ。
 すなわち、ここにないものとは軋轢、齟齬、ノイズ、ノイズをノイズ足らしめる「地」としての条理空間=かつては激しくブーイングを浴びせた観客・世間、歴史(の痕跡)である。(2003年6月)



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