ダンス時評・「子供の国のダンス」便り [4] 番外編

──「グルーヴ」以後としての「コドモ身体」

桜井圭介×木村覚

S(桜井圭介):どうも、桜井です。今回は、美学研究者にして新進気鋭のダンス批評家、木村覚さん(1)をお迎えしてます。というのも、本誌4号に寄せた論考に始まる私の「コドモ身体」論(2)も、そろそろ煮詰まってきた(笑)ので、これが一体「なんぼのものか」、ここらへんで一回、あらためて検討してみよう、と。では、木村さん、ひとつガツンとお願いします。

K (木村覚):かつて、『西麻布ダンス教室』(94年)『ダンシングオールナイト』(98年)でグルーヴィなものに注目していた頃と今では、桜井さんのダンス観はまったく変わってしまったのでしょうか。グルーヴィなものってもう、ダメ?

「グルーヴ」以後としての「ダメ身体」?

 そうですね、変わったのかなー。確かに、例えば、技巧的にスゴい!とは思うけどヒップホップなんかにグルーヴ感じなくなってますね。技巧とかフィジカル・エリートな感じがヒップな感じじゃなくなってる気も。ヒップホップのチャンプよりも、ほらあれ、トーランス・コミュニティ・ダンスのデビッド・コウフェン(3)。ああいう一見ダメダメなもののほうが、ワクワクする=グルーヴィなんですね、今の僕的には。あと、「からくりTV」の「印刷屋のサカイさん」(4)とか。つまり、グルーヴィなもの=コドモ身体(の状態)ということになってる。なんか、要するに「珍味」のほうに傾いてますかね?。木村さんに前に言われましたよね。「ただのヘンなもの好きの人」か?って。

 きっとそこに、コドモ身体以前以後を分かつ何かが。その変化は、「技」を極めていく身体に対する不信感が根本にある、ってことですかね。

 そうだと思う。

K 例えば、最近ぼくが書いた「老体の城が動く、ということ」(『BT/美術手帖』05年3月号)は、宮崎駿をダンス批評的に斬るという原稿でした。

 読みました。あれは宮崎にとってはかなり嫌味なものじゃないかな(笑)。

K 宮崎的とされる飛翔や疾駆などスピード感溢れる運動のみならず、「ぎこちなさ」を感じる運動にこそ、反ディズニーの宮崎らしい「反美学」が垣間見られるのだとし、『ハウルの動く城』がもつ運動の魅力とそれが物語に浸食される過程を論じましたが、それは明らかに『ダンシングオールナイト』での桜井さんによる宮崎批判(第8章「徹底討議:もののけ姫をめぐって」)へのぼくなりの応答であり、しかも現在の桜井さんの方向を参照した上での、運動(グルーヴ)論の試みなんですよ。
でも、ディズニーを称讃する刀で宮崎を斬るという『ダンシング〜』のアイディアでは済まない問題が露呈している現在、ディズニー的な動きのグルーヴに、近代的な統制のロジックないし美学を読み込まずにはいられない。しかしこの視点は、コドモ身体論の延長線上にある、とも言えるわけです。

 なるほど。

 とはいえ、まさに近代的主体の論理に無批判で、統制に従順な身体によるダンスは依然として大人気なのであって、

 アダム・クーパーとか、マシュー・ボーンとかね。金森穣だって、ダンス自体はともかく、その受容のされ方から見たら、結局「セックス・アピール」ってことかよ、ってね。

K 問題は、そこにある種のグルーヴを感じているならばまだしも、ってことで、「ナマ穣さまを見た!」の時点でかなり満足の雰囲気。まあ、金森君カッコイイからなー。で、そうした受容のされ方からコンテンポラリー・アートとしてのダンスを救い出すという意図が、桜井さんのなかで、グルーヴに対する一種の警戒に繋がっているのですかね?

 だって、今や「超グルーヴィ!」と言われたら人は「超セクシー」とか「超スゲー技」を連想、要求しかねないという状況だったりしませんか?


アート=批評行為>ダンス?


 桜井さんは、例えば最近の室伏鴻の舞台について「男=マチョによるギリギリの(毒をもって毒を制する式の)マチョ批判=フェミニズム」(本誌六号)と整理していますよね。それが──「去勢願望」との表現にも繋がると思うのだけれど──、感覚(グルーヴ)よりも、「アート」の「批評行為」に重きを置くことだとすれば、結局ダンスのポテンシャル(グルーヴ)をないがしろにしていないだろうか、と思ってしまう。

 うーん、そうかなー? 確かに今の僕は、以前と変わって、「エンタメ」「娯楽」「職人芸」と、アートを区別しようとしている。そのアートとは、現在性、アクチュアリティを持つ表現のことで、それゆえ結果として「批評性」を持ちうるのだし、それはもちろん、いわゆるアート(高級芸術)だけではなく、すべての表現に見いだすことが出来る、そしてそのようなものを、そうでないものと区別する限りにおいて「アート」ということばを使用しているわけですが。でも、結果として、例えばフレッド・アステアのダンス(しかしそこには歴然とグルーヴが存在する)が、相対的にないがしろにされてしまう、という問題はあるんですね。コンテンポラリーダンスを語ろうとするときに、かつてはそうしたようにアステアの「歴史的価値」ではなく「グルーヴ」をすくいとるというのではなく、それをさし控えて、かわりに「もしかしたら今日ではアステアよりグルーヴィなダメ身体のダンスというものがあるんじゃないですか」と。それが今の僕の語るべき対象の選択の優先順位なんです。
でも、木村さんにしても、「ディズニー的な動きのグルーヴィに、近代的な統制のロジックないし美学を読み込まずにはおれない」から、あえて批判的になるわけじゃない?でも、ディズニーにグルーヴがあることは否定できないでしょ。

 ディズニーについては、もちろんグルーヴを感じるし好きだけど、よくよく考えると恐い、といったところ。アステアも純粋に好き。基本的に、批評がグルーヴ分析であることが重要なのではないかと。ぼくがこだわるのは、桜井さんの場合どうも「コドモ(ダメ)身体」という理論枠が先にあって、それに相応しいものを探してくるといった順番に見える点なんですよ。



エリート批判?


 あるいはフォーサイスの『wear』を論じるあたり(連載第1回)は、エリートがしかもバカなことをする=もう批判のしどころがないくらい立派、という図式のように見えて、それでいいのか?と。結局エリート批判ではなく、超エリートの称揚なのでは?と。

いや、もちろん、エリートが「エリートを鼻にかけない俺」を狙ってダジャレ言う、とかじゃなくてね。立派な身体&技術を無意味なことに使用している、ということを言ってるだけなんだけど。
つまり、 あらかじめ持ってしまっているものを、どう使用するか、という問題なのです。フツーの日本人や日本のコンポラダンサーのようには、生来的にコドモ身体でないガイジン(立派でスムースな立ち居振る舞いが身に付いている)やガイジンのダンサー(ダンスの伝統とダンス教育システムによって訓育されてしまった身体)が、いかにしてコドモ身体を獲得できるか?それは否応なく持ってしまった立派な身体と技術を誤用するしかないんじゃないか?と。フィジカル・エリートであることを無批判に「前提」しているのではなく、彼らの場合その地点からしか出発できない、と言っているだけです。フィジカル・エリートであることの劣弱性からスタートする、という話。

 そうすると、土方の舞踏理論が「飼い慣らされた身体」を批判するように、一見「フィジカル・エリート」であるものは実は飼い慣らされているんだ、という近代批判なわけですか?

 そう。一般にダンス的とされる身体は「訓育」された身体である、と。同様に、「僕たち」は既にして否応なくマチョである(部分的にせよ)という劣弱性の認識(自己批判)が、「僕たち」の出発点である、と。「マチョ」であるゆえに、他者(の身体)を抑圧し、己の身体をも抑圧する。それは本当に去勢手術すれば解決するわけではなく、特に立派な身体を持つダンサーであればなおさら、己の身体の男性性をひきうけるところからしかスタートできないであろう、その上での乗り越えの一つのかたちとして、室伏のダンスを「男=マチョによるギリギリの(毒をもって毒を制する式の)マチョ批判=フェミニズム」と評価するということです。

 なるほど。

 で、また木村『ハウル』論ですが、思うに日本アニメは、かつては「持たざる者」の側で、それゆえに苦肉の策として、(日本のコンポラ・ダンスが不器用さを前提とするように)カクカクした動きを逆手に取って、独自の表現を獲得した、それに対して今では、やろうと思えばいくらでもキレイにアニメートさせることが出来るはずで、『ハウル』の、老体の「軋み」「ヨレヨレガクガク」という動きのアニメート=操作にしても、アニメーターの緻密な計算とか優れた「技術」によって作られているわけでしょ。フィジカル・エリートの室伏やフォーサイスがダメ身体をあえて意欲するように。

 あの小論でぼくは、宮崎的運動の「ぎこちなさ」を「反美学」と解釈すると同時に、彼自身がどこまでそれに自覚的であるかは疑問だ、とも指摘しました。彼が十分に自覚的ならば、フルアニメーションよりもパペットアニメを選択するべきではないかとも思う。

S なるほど。それは当たってると思う。


ダンスを理論が抑圧?


K 繰り返しになりますが、「コドモ身体」論(論に傍点)では、どうもイズム=主義が主で、ダンスは従という気がするんですが。

ダンスが従というのはそうかもしれないけど、イズムが先にありではなく、私・桜井が先にある、という感じかな(笑)。ダンス的問題を観客=消費者、批評家=傍観者としてではなく、「私の問題」として引き受けるなら、という。

K そのせいか「私小説」的だと感じたんですよ、今回の連載よみかえして。

うん。たしかに。こりゃ自分で思っていたより「実存的」だな、かなり。ヤバイなあ(笑)。

K そうするとやはり、ダンスとは何かという問いは棚上げ状態、あるいは「従」の位置に置かれる。強く言えばダンスそのものの抑圧にも映るときがあるんですよ。

そうかもしれない。でもね、室伏鴻や黒沢美香があのような踊りにいたる契機には、そういう彼ら自身の個人的葛藤はあったはずで。

それは率直に分かります。

何の苦労もなくただいるだけでコドモ身体、ダメ身体というのではないだろうと。 コドモ身体というのは、ダメ身体のためのイデアルなモデルなんですね。まず、コドモ身体には「子供」の身体がイデアルなモデルとしてあり、すでに技術や身体能力を持ってしまっている者が意欲するダメ身体には、いわば荒川良々的なる身体、愚鈍なる身体すなわちコドモ身体がモデルとしてある。現実の良々は、ただいるだけで愚鈍でいられるわけではないというのは無論のことですけど。

 黒沢や室伏の個人的葛藤に桜井さんという個人がシンクロしながらの批評であったと、ここまでの連載は。

快楽(グルーヴ)を求めつつ、なかなか気持ちよくなれない体質になってしまった俺の私小説か、それちょっとヤダね。


「社交としてのダンス」とは?


 じゃあ、このへんで、木村さんが最近展開しつつある、いわば「社交としてのダンス」論について、今ここで話題にしている問題にからめて、少しお話頂けませんか?

K まだ試案の段階ですが。まず、「誘惑」の関係性はダンスの感性論と不可分だろうと。これは最近調べているホガース(5)などによる近代西洋の優美論と絡んでくるところで。優美とは、「魅力」という語とほぼ同義で使われ、また社交の理想とも考えられていた概念で、とくに動きの美である点が一般的に言われる美と区別される。

例えば、金森穣についてさっき言ったことは、セックス・アピールはまったく意味なしということではなく、それがきちんとダンスが潜在的にもつ「誘惑」の戦略にのっていない、ゆえに観客はただ若いカッコイイ子が汗かく姿にうっとりしているだけ?と思わせるところに問題があるわけで。

 うんうん。

K 「優美」には、相手の欲望を意識してそれに合わせた何かを振る舞いとして呈示しながら、その誘惑を通してむしろ自分の欲望を成就する一種の賢明(あるいは狡猾)さが含まれています(カスティリオーネ(6)の理論などを範にかなり乱暴に整理すれば)。支配者がいてそれを倒せ!というシンプルな考えは、現在左派的な人の多くがほとんどプロレス的な茶番しかできていない事実を思えば、空論であるのは明白。

S おお。

K だとすれば、支配者に対し一見おもねる振りをしながら、求めているものを得るという身振りこそ、実践的。優美とは言えないにしても、暗黒舞踏のなかにも類似の論理が見いだせます。例えば、最近書いた土方論の原稿(7)で、ぼくはバトラー=土方というアイディアを呈示しています。


S 面白そう!

K 「何か」に「なれない」ところに起きる動きに着目した土方の舞踏論は、「失敗」による「アイデンティティの攪乱」というジュディス・バトラーの戦略と重なる面があります。バトラーは、反復を通して意味を生みだすに過ぎない近代的主体のアイデンティティに抗して、そこに批判的な攪乱を持ち込むためには、その反復に対して外部から批判をするより、むしろその実践の内部に入り込んで、しかもそこで反復の失敗をなすことが肝要だと主張します。「アイデンティティの攪乱が可能になるのは、このような反復的な意味づけの実践の内部でしかありえない。これこれのジェンダーであれという命令は、必ずその失敗を生みだし、その多様性によってその命令を超え、またその命令に歯向かうさまざまな首尾一貫しない配置を生みだす。しかしそれとて、その命令によって生産されるものである」(ジョディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』、竹村和子訳、青土社、99年)。ただし、単に既存の社会制度の批判に留まらず、新しいダンスを発見するための論理だったことは看過されてはならないのですが。


S それはおそらく、僕の、コドモ身体に準ずるという場合の「ダメ身体」に相当するものですね。訓育された身体=自我を前提とする場合。

K 別物ではないと思う。でも、ぼくの現時点での考えは、近代的主体とか支配者を否定するだけのかっこいいが実効性の乏しい考えより、支配者に対する客体としても振る舞いながら、一方的にやられてばかりでなくどうすれば自由な動きをそこで獲得出来るか、その駆け引き、バトル、その手管を洗練・更新したり、方法を示すことで人を勇気づける、そんな可能性こそダンスのポテンシャルではないか、ということです。関係を放棄することではなく、続けることが重要なのでは。
土方の言う「なれない」動きは、なる対象へと没入してしまう点で一見観客をないがしろにするようだけれど、実は観客はその没入に釘付けになり、没入に誘(いざな ルビ)われます。例えばこういった、アートとしての洗練とは別の、観客とダンサーとを直接結ぶ関係のためのレトリック、それに必要な「社交のスキル」とでも言うべきものを、コンテンポラリーダンスを論じる際に、ぼくたちはもっと問題にすべきじゃないか。例えば、黒沢の「丸太切り」(『HAWAII』)や室伏の異様に丸めた背中(「没入」をさらに消去する室伏のボヤキも含め)は、この点から批評する必要があると思うんですよ。

S あ、そうか、わかったぞ!僕の場合、見ている自分と対象としてのダンサー(ダンス)という(木村理論における誘惑)関係がないんだ、ダンス(ダンサー)=俺状態になってる。これじゃ、実存的にもなるだろうし、目の前にあるダンスを記述しても「私小説」になっちゃうわけだ。あ、ごめん、どうぞ続けてください。

K 「技術」もグルーヴを疎外しない限り、基本的に尊重すべき。だから技術をそれ自体として否定するのは反対です。また技術の問題は、ぼくのなかでは「アート」の文脈とも必ずしも連関づける必要がなくて、例えば、バリ舞踊のダンサーの超絶技巧的指の震えは、西洋的「アート」の文脈に直接関係はしないけど、見るたび感動してしまう。この感動の内実の方に重点を置きたいんですよ。アステアだって、今もいつでも素晴らしい。しかも、『踊らん哉』で見せたバレエをタップで再構成するなんてアイディア、室伏鴻がモダンダンスを舞踏的に解体する方法に比肩出来るくらい現代的だし。グルーヴに関連する面白いアイディアこそが重要で、また面白さを感じるのは観客なのだから、観客との関係を結ぶ「社交のスキル」に、技術の問題は還元出来る面があるのでは、と思うんですよ。

「コドモ身体」=「去勢身体」?

K 話をコドモ身体論に戻しますが、またひとつ、桜井さんのそれはコドモ身体というより「去勢身体」 ではないのか、という疑問もあって。つまり、十分に性的な面をもつ本当の子供の多様なポテンシャルを矮小化してはいないか、と。ぼくたちが性的な人間であることは紛れもない事実なのだから、去勢することは、問題の否定によって問題を回避し、あるいは棚上げし温存してしまうことになりかねないぞ、って。

うーん、ダンスにおける性的なものを過大評価するべきではないという主張が、僕の中で去勢願望なのかは微妙、両義的なんですね。マチョ批判という部分では自己処罰願望もあるけど、自分のなかのコドモ性とダンス的喜びはつながってるわけで。
でも、最近、みんなどうしてコドモというときに必ず「コドモだって性的存在だ」という部分を強調したがるのかな。口唇期的なるもの、は案外言われないよね。僕はそっちを改めて強調したいと思うわけですよ。「僕たちが性的な人間であることは紛れもない事実」だけれど、人生には性的でない関係性というものも一杯あるわけだし。そう、もちろん口唇期リビドーというものはある。それを含めて性的というなら筋は通るけど、口唇期のリビドーは未だ未分化なエネルギーで、ダンスの本質は実はそこと繋がってるんじゃないかと思う。分化され、明確なリビドーとなって以後のセクシャリティじゃなくてね。それで、黒田育世について、あれは「エロ」じゃなくて「えんがちょ」だ、と言ったわけですが(連載第3回)。
もっとざっくばらんな話、僕にとってダンスする身体の喜びは「自由」とか「博愛」とか「連帯」とか、自己(主体)がバラけていって、他とつながる、他に接合する、そういうもので、そうすると、ある部分ではセックスと重なるけれど、それがメインかどうか?ということ。
うん、こうして考えてみると、やはり、この僕の態度は自己処罰(去勢)ではないと断言できそうです。「象徴界」(あるいは「近代」)に生きざるを得ない我々が、ダンスという回路を通して「想像界」に一瞬だけ再接続される、って楽天的すぎる?まあ、「象徴界」が綻び「現実的なるもの」が回帰してくる、というケースのほうが多いのかもしれないけど、いずれにせよ「象徴界」が不全に陥る、ってことが重要なポイントでしょう。
で、話を戻すと、黒田育世にすらエロを見るというのは、ようするにペドフィルなのであって、それはいちおう病気で、確実に犯罪(悪)である、と言いたい(笑)。パンツ丸出しで駆け回る少女は性的存在ではない。でもダンシーである。そういうこと。

 観客と作品の関係というより作品の構造内部の話になりますが、以前ぼくは、「父なるダンス」(彼女が培ってきた古典的なダンス=バレエ)と「女の子のいらだち」が無批判に混在していると、『SIDE-B』を批判しました。ただしそこでも大事なのは、「父」の消滅ではなく「父」と関係しつつなおどうグルーヴィであり続けるか、です。
黒田作品に男性の欲望を喚起する仕組みがあったことは事実。もちろん、最新の『SHOKU』では、それが希薄になってきて、その分、父なるダンスと自分はどう距離を取ったらいいのか?という問いがクローズアップされ面白くなってきた、そう解釈してます。

「父」=ダンス・システム=象徴界=すでに彼女が身に付けてしまった「技術」、という理解でよいとするなら、僕の、持ってしまった者の「ダメ身体」と同じようにも見えるんけど、どうでしょう?

 同意します。ダンスの非性的な側面を無視していいなんて思いません。ただ言いたいのは、性的な面を一切カットしてしまうと、ダンスの潜在的な力が不十分にしか論じられないのでは?と。



コドモ身体という「戦略」(なのか?)


 そろそろ「子供の国」(「国」に傍点)のダンスの展望などについて。

 ちなみに「子供の国」っていうのは、単に「日本」のことなんですね。日本のダンス(・シーン)を扱う時評だから「子供の国のダンス」便り、ということ。これまでのダンスから見ると、きわめて特異な展開を見せつつあるこの場所のダンスを、まずコドモ身体と名指してみる。でも「コドモ身体の王国」とか言って、「国」として囲い込むというつもりはなくて、可能性としては欧米のダンスも含めて、みんなの心と身体に潜在するはずであろう「コドモ身体」を誘発したいだけだ、と。コドモ身体は、子供の身体そのものではなく、子供以外の身体にいわば統制的な働きかけをする理念のようなものであって。

K  はい。

S で、僕の場合、木村的な戦略的な絶えざる闘争ではなくて、あくまで、ウイルス伝播に希望を持っているってことかな。中世の舞踏病ってあるでしょ。踊って生き、踊りながら死ぬ。そういうウイルスとしての力。あ、ドラッグと同じか。ケンカとか憎悪とかが意味なくなる、バカバカしくなる、っていうさ。
しかし、ダイレクトにグルーヴが伝わる音楽の感染力と比べるとね、ま、繰り返しになるけど、ダンスの場合、人はまずダンサーを見ちゃうから、どうしてもからだとかに目が行って、バイアスかかって、結局グルーヴにたどり着かない。

K それ、結構身も蓋もないけど事実。でも、目が行っちゃって見るうちに踊ってしまう、という期待もしたいけど。

S レイヴ参加を奨励するほうがずっと有効だったりして。なんだ、ダメじゃん俺。

K ぼくも本当はバリでバリニーズと一緒にダンス見たり、ヒップホップ系のクラブで踊ったり、そういうことが全然いい、と思ってて。気持ちはいつもそこに逃げてる。基本快楽主義者だし。

S だから、僕も木村さんも、立ち位置が屈折してるような。

K そうすねー。期待が高すぎるのかも、コンポラに。

S あ、それある。自分が踊ってる時と同等の快楽を求めてるから。結論は、「まあ踊れば?」ってことですかね。

K 踊りを信じる、と。



[付記]

この対談は2005年3月2日ネットのチャットで行われた。テープ起こしの労を省かんがための策であったが、実際の会話は面談よりもはるかに時間を要したわけで、おつきあいくださった木村氏には大変感謝している。後日、木村氏より以下のお手紙を頂戴したので、お許しを得てここに掲載する(桜井)。


桜井様
今回、あらためて連載の文章をチェックしたら、何と、コドモ身体で「グルーヴ」が語られていたのはチェルフィッチュに関してだけでした。このことは象徴的で、理論化への意志が、そもそも桜井さんがダンスに感じていた「快楽」を封殺しているのではないか。そんな思いを抱きつつ対談に臨みました。
批評は、グルーヴに巻き込まれる快楽がまずあって、その快楽の分析を通して問題を浮き彫りにする。そういう順序で書かれるべき、とぼくは考えています。そもそもぼくが『西麻布』に惚れたのは、感性を論じていたから(当時グルーヴへの言及は新鮮だった!)なのだし。
それに、グルーヴが即非倫理的(倫理を無視している)ということはないと思う。グルーヴが起きているという事態こそ、ある種の堅さからの解放なのであって、そこにこそ倫理の問題への応答はある。あれ?ってことは、コドモ(ダメ)身体論で、ここら辺べつにいけそうな気が。
木村より




※この原稿は京都造形大・舞台芸術センター発行『舞台芸術』誌第8号 に掲載されたものを加筆・修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

[1]木村覚(きむら・さとる) 1971年生まれ。美学研究者・ダンス批評。国士舘大学文学部非常勤講師。論文に「踊ることと見えること 土方巽の舞踏論をめぐって」(第12回芸術評論募集佳作入選 『BT/美術手帖』五月号、2003年)ほか。
www.page.sannet.ne.jp/kmr-sato/
[2]「コドモ身体ということ」(『舞台芸術』04号所収)、ダンス時評「コドモの国のダンス」便り(『舞台芸術』05〜07号所収)。なおこれらの原稿は、ウェブ上の下記ページにもアップしてありますので、参照されたい。
www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance.html
[3]スパイク・ジョーンズの撮ったファットボーイスリム『Praise You』のP・Vは、こんな感じだ。劇場前で並んでいる人々を観客に、ゲリラ・パフォーマンスを敢行するダンスチーム。しかも彼ら、トーランス・コミュティ・ダンス・グループは、公民館の市民サークル的なリアル素人。スリム・ジーンズで「はみケツ」までして、出来もしないブレイキング(超ヘロヘロ!)まで披露する恐れを知らないリーダー=デビッド・コウフェン。それを偶然捉えたかのようなホーム・ビデオ風の絵。ヒド過ぎてイイ! ところが、このダサダサなクリップはMTVアワードを受賞、「ダメ」ダンサーズはメトリポリタン歌劇場の舞台に立つことに!
[4]TBS『さんまのからくりTV』(日曜19時)の「みんなのかえうた」コーナーに度々出演するシロートさん「印刷屋のサカイ」さんは、失業中で、セミ・ホームレス状態。ガリガリにやせた身体できわめて異様な振りのダンスを踊る。それは、まるでガイコツ踊り。要チェック!
[5]18世紀イギリスの画家。『美の分析』(1753年)のなかで蛇状曲線をモデルに優美論を展開した。
[6]16世紀に活躍したイタリアの外交官にして文学者。『廷臣論』(1528年)にて、「さりげなさ」を基準に社交における優美を論じた。
[7]木村覚「「死者」とともに踊る−−暗黒舞踏の方法における一局面−−」『死生学研究』春号所収、東京大学大学院人文社会系研究科、2005年、332−348頁。
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