ニブロール『ノート(表)』

ニブロール with アタックシアター

桜井圭介

 バリバリにダンスなテクニックを駆使し、正攻法で押すアタックシアター@ピッツバーグ。いわゆるなダンス・テクを拒否し、ダンサーの「素」の身体・存在のリアルを運動として組織化するという反則技(?)な方法が売りのニブロール@東京。そんな日米のカンパニーによるコラボレーション。
 いわば、あまりにも東京な表現とアメリカ=モダンダンス=グローバル・スタンダードの対決もとい対話といったところか。にしても両者の隔たりは大きい。それでも、対話が平行線を辿り単なる「併記」で終わるのをなんとか回避しようと、とにかくお互いの「ダンス」を交換してみるというまっとうなアプローチを採ったことで、当人たちの思惑とは別に、意外な面白さが出てきた。
 アタック側の(ごくオーソドックスな)テクニックもニブロールのダンサーによって踊られると、例えば「リフティング」は、足下フラフラで頭上に掲げた人が今にも落っこちそうだし、「コンタクト」は、教科書通りに受けとめてくれる相手をいちおう信頼して重力に身を任せたら案の定ハズされました、といった具合に「ダメダメな表現」にすり変わってしまう。
 逆に、ニブロール特有の語彙、やみくもに腕を振り続けるとか「スライディング」とかの非ダンス的所作も、アメリカ人ダンサーにかかると、きわめて「スムース」に「踊」られる。本来、突発的・暴力的なナマな動きも、必ずダンス的に解釈され「ダイナミックなムーヴメント」に置き換えられる。あるいは端的に「コケる」といった時でも、無意識のうちにバランスを取って、どうやってもなめらかに動いてしまうのだ。
 両者の身体操作の「不器用」と「器用さ」、これを「子供と大人」という言い方ができるかもしれない。子供はまっすぐに歩かない、左右の足を切り替える度に肩がガックンする、すぐコケる、要するに重心移動とかバランスとかの身体コントロールが「ユルい」。しかし、これって日本人の大人を欧米人に比べる際にもよく言われることだな。ってことは…俺たちはコドモだったのか!? 「この国のカルチャーは子供っぽい」という批判(アニメやゲーム、時として村上隆について)もよく聞くが、そもそも身体からしてコドモだとしたら、しょーがないじゃん?
 いや、開き直りはよくないな。話をダンスに戻せば、ニブロールの「不器用」は、実際は確信犯的に選び取られた「表現」ではあるが、なぜそうするかと言えば、無意識に「そっちのほうがダンシーでしょ」と感じているからだ。ダンスが本来、脚を単なる歩行のための道具ではなく(身体を生存のための機能ではなく)玩具にしたい、という欲望に従う行為であるとすれば、それはまさに「デタラメを歌いながらフラフラと道草を喰っている子供」の身体に戻るようなものではないか。でも、一方では(アタックシアターに限らず)依然としてスムース・正確・きれいな身体運動が「ダンス」と呼ばれ続けているのも事実だし。うーん、難しい。マイケル(ジャクソン5の)とエマニエル坊や、どっちが好きか的な‥‥違うな。
(2003.3)


(初出『インビテーション』2003年5月号)

copyright (C) by Keisuke Sakurai


『ノート(表)』
2003年3月2〜3日新宿パークタワーホール

http://www.nibroll.com/events/events.m.htm

[2] 一番スゲーと思ったのは、男女カップルの真剣なラブシーン(大人同士の苦い恋?)にみえるアタックのデュエットのすぐ横で、コドモ三匹が奇妙な「フェイシャルマッサージ」のマネ(子供の目には不可解な仕草と映る大人の行為のマネ)をしているというわけのわからないシーンだ。
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