「弾ける身体」

─「吾妻橋ダンスクロッシング」のための覚え書き─

桜井圭介

 今、世界的に見てもアート全般がなしくずし的にサブカル化、つまりポップ化してるなかで、依然として「ハイアート」の孤高を死守している数少ないジャンルのひとつが「ダンス」かもしれない。たしかに、多少とも社会学的な視点(カルチャラル・スタディーズとかの)を持って「20世紀ダンス史」を眺めれば、「舞台芸術としてのダンス」の貧弱な軌跡以上に、ブロードウェイやハリウッド・ミュージカル、すなわちショウビジネスの栄光の歴史(その頂点であるフレッド・アステア)や、20年代のチャールストンに始まりスウィグ時代のリンディ・ホップ、ツイスト、モンキーダンス、ゴーゴー、ディスコ、そしてブレイク・ダンスにいたるストリート系ダンスの目くるめく変遷がせり出して来るはずだ。ダンスにおいては「エンタ−テインメント」としてのそれが、質・量ともに圧倒的な勝利を収めてしまったがゆえに、負け組の「芸術派」は余計に高級芸術の幻想に閉じこもらざるを得なかったのかもしれない。
 しかし、そもそも「踊る」という快楽的な行為が「弾ける(Poping)身体」を前提としているのだから、それがもしアートだとするならダンスほど「ポップ」なアートはないはずで、それを無理矢理にスクエアな「お芸術」に押し込めようとすれば自己矛盾を来すのではないのか?
 カラダの普通の使用法、例えば「歩行」は、最短で目的地へ到達するために、効率よく重心移動が行われる必要があるので、背筋を伸ばして規則正しく左右の足を交互に前に出していく。これがダンスと違うのは「楽しくない」という点なので、歩行をダンスにして楽しもうと思ったら、とりあえずまっずぐに歩かなければいいわけだが、「芸術ダンス」は「芸術」であろうとするために、脚の上げ下げの角度やラインの正確さに固執するので、結局普通の歩行と同じ、いやそれ以上に「楽しくない」ことになってしまうのだ。
 そうした袋小路な状況の欧米と比べて、いま日本のコンテンポラリー・ダンスが断突に面白い(と僕は思っているのだが)、少なくともきわめて特異な展開をみせているのは、この場所がもともと「芸術としてのダンス」の歴史や教育も無いに等しく、それゆえ共有されるべきコンテクスト、その基準となるスタンダードも持たない「悪い場所」(椹木野衣)だからだ。劣悪な(?)環境のなか、各自ありあわせの材料をやり繰りして「ダンスらしきもの」をデッチあげるのだから、いきおいデタラメ度というか革新性は高まるというわけだ。
 彼らの唯一の方法、というか「前提」は「ダンスはポップな行為である」というスタンスだ。そのことさえ手放さないでいれば、あとはどんなふうにカラダを動かすとカラダが笑う=弾けるかを、自分勝手にどんどん試していくだけだ。乱暴な言い方をしてしまえば「いかにデタラメに、いかに間違った使用法にカラダを使うか」をダンスの要諦とすること。
それともうひとつ、ボディが違う。「世界標準」のダンスは人並み以上に「立派な身体」を前提としているのだが、この場所のコンテンポラリー・ダンサーは、と言えば早い話がその辺を歩いてる今どきのニイチャン、ネエチャンなのであって、「背ばっか伸びちゃって」なヘナチョコ・ボディ。ワールド・スタンダードの「鍛え抜かれたスーパー・ボディ」とは違って、これでは「超絶技巧を駆使!」とか「身体の可能性の極限を追求!」とかには行こうと思っても行けないわけだし。ということで、ヘナチョコなカラダを前提としたそのダンスはいきおい「コドモの遊び」のようなものに似てくる。
 ここで「ポップ」とは何か? についてもう一つの定義を持ち出すならば、歴史的に言ってそれは受け手も送り手もティーンエイジャー、つまり「コドモ」のための「コドモ」によるカルチャーの謂いで、ことさらにカウンター・カルチャーと言わなくても、高級な大人文化の対概念だ。ということは、ヘナチョコな、つまりもっと端的に言えば「コドモ」な身体でデタラメするというのは、ダンスというポップ(なアート)の実践としてまったく利にかなったものである、ということにならないだろうか。
 例えば、「ニブロール」。振付家・矢内原美邦は、いわゆるなダンス・テクニックを拒否し、非ダンサーをも起用し彼らの「素」の身体・存在のリアルを運動として組織化する。さらに、ここでは通常のカンパニーとは逆に、非ダンサーと比べて相対的には「踊れる身体」であるダンサーに対して、素の身体の持っているカラダの自由を取り戻すため、いわば「カラダを笑かす」ための処方箋が与えられる。ダンサーの「習い性」で、与えられたあるひとつの「振り」を丁寧に完璧にトレースしようとする、制御しようとするところを、矢内原は単純に「超スピードでやれ」と要求する。すると丁寧にトレースする暇はないので、自動的にグシャグシャっとした動きになる。それはいわば左手を使うことで、リアルとしてコドモの絵を描くようなものだ。
 あるいは、康本雅子の場合。彼女は見た目はボサーっとしているが、じつはかなりのテクニシャンである。ところが、その持てる才能、しなやかさ、繊細な身体コントロールをわざわざ駆使して「バカ」「くーだらない」「キテレツ」(あと「エロ」)方向に向かう。これもまたダンス=ポップ的に見れば正しい、技術の「誤用」と言える。
 ところで、最後に一言。ここで私は欧米に対する日本の優位を自慢したかったわけでは無論ない。例えば、マイケル・ムーア。例の「Shame on You Bush!」のスピーチしてるときの腕(短い!)の振り回し方はまさにヘナチョコ、「コドモ」身体だった。カッコ悪いんだけどカッコいい。やっぱ「マッチョ・バカ=ブッシュ」「帝国」に抗う今どきの身体は万国共通、「コドモ」身体だよ!


(※この文章は『STUDIO VOICE』誌04年5月号に掲載された原稿を加筆修正したものです。)

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