「ダンス」という「コドモ身体」

ニブロール論のための準備として

桜井圭介

 「バタバタ」と歩く。「ドスドス」と、あるいは「ドカドカ」と歩く。腕を闇雲に「ブンブン」と振り回す。唐突に「ガーッ」と走る、猛ダッシュ。で、「ガクン」とつんのめって、コケる。さもなければ「ドスン」と人にぶつかり「バーン」とはね飛ばされる‥‥これは一体何だ? そうだ、「子供」だ!おのれの身体に対して過不足なく力を働かせることが出来ない、重心移動をはじめとして、身体コントロール全般が「ユルい」子供の身体ー運動。「きれいな、正確な、スムーズな」身体操作ではなく、むしろ「ギクシャクしていて、ブレたり軋んだり、つっぱらかったり」するダンス、いい歳をした大人が「コドモのように」転けつまろびつ駆けまわる、いわば「コドモ身体」としてのダンス、それがニブロールの「ダンス」にほかならない。
 たしかに「ただ意味もなく動きまわること自体が面白くて仕方がない子供の身体ー運動こそダンスのイデアルなモデルである」──こんなふうに言えば、異議を唱える者はいないだろう。ところが、それを比喩的にではなく、ニブロールのように「リテラル」に、「フィジカル」に実行してしまうという事態は、芸術としてのダンス、もっと端的に言えば「見せるためのダンス」史上、かつてなかったのではないか。イサドラ・ダンカン以来、常に先行するテクニックやメソッドを「型にはまった」ものとして否定し「もっと自由に!」という主張で生まれた、様々なニュー・ダンスが、時には一切のダンス・テクニックやそのための訓練を否定することさえ厭わなかったにもかかわらず、どうあっても手放さなかったもの、それは「大人の身体」すなわち「身体コントロール」だ(そこでは「コケる」ことは「事故」「失敗」以外ではありえない(1)だろう)。
 だが、何故ニブロールが躊躇なく「コドモ身体」するのか(2)、そして観客が何故ニブロールを支持するかと言えば、「そっちのほうがダンシーだから」という単純な一言に尽きる。となれば、ここは是非とも「ダンスとは何か」が問い直されねばならないだろう。
 社会生活における身体の使用法、例えば「歩行」は、最短で目的地へ到達するために、効率よく重心移動が行われる必要があるので、背筋を伸ばして規則正しく左右の足を交互に前に出していく。これがダンスと違うのは「楽しくない」という点なので、歩行をダンスにして楽しもうと思ったら、要はまっすぐに歩かなければいいわけだ。歩行の側から見れば、ダンスのあらゆるステップは「行きつ戻りつ」し「脇道に逸れてばかり」いる、いわば(子供の)「道草」のようなもの、ということになる。身体を本来の目的(生存・生活の円滑なる遂行)やその為の正しい使用法に則って用いるのではなく、間違った使い方で「オモチャ」にすること。それが「ダンス」ではなかったか(3)。
 しかし、ダンスが、みずからを何が何でも歩行とは違うと主張したいがために、脚の上げ下げの角度やラインの正確さに固執するならば、結局普通の歩行以上に「楽しくない」ことになってしまう。そうした本末転倒した事態に対して、だったら「ダンス」(のフリ)なんかやめてただ「歩く」ほうがマシだ。というのがジャドソン・チャーチなど60年代のアメリカン・ポスト・モダンダンスだったわけだが、いかんせん「大人の身体」のままで「歩行」したので、結局それは本当にただの歩行にしかならなかった。惜しい!
 というわけで、ニブロールは「コドモ身体」で歩く。バタバタ、ドスドス歩く。足をもつれさせる、で、コケる。ところが、「ダンサー」というものは、子供の頃からの厳しい訓練のおかげで、バランス・キープとか重心移動が、どうやっても「ウマく」出来てしまう身体になってしまっている。コケようとしても、無意識にバランスが取れてしまう。そこで(これまたかつてのポスト・モダンダンスがやってることだが)、ダンサーに比べて「制御の行き届いていない身体」である非ダンサー(俳優など)を積極的に起用するわけだ。
 さらに「ダンサー」に対しても、カラダの「(コケる)自由」を取り戻すための処方箋が与えられる。例えば、予備動作なしでいきなり急発進、猛ダッシュしていきなり急停止。「車は急には止まれない」、反動(慣性)でポーズはブレるだろう、つんのめるだろう、コケるだろう。あるいは、ダンサーの「習い性」で、与えられたひとつひとつの「振り」を丁寧に完璧にトレースしようとする、制御しようとするところを、やはり「超スピードでやれ」と要求する。すると丁寧にトレースする暇はないので、自動的にグシャグシャっとした動きになる。それはいわば左手を使うことで、リアルとしてコドモの絵を描くようなものだ。何と簡単な!
 ここでちょっと休憩。試しに、アナタも鉛筆を左手に持ち替えてノートに何か絵を描いてみよう。ギッチョの人は右手で。どうかな? 「うわっ、手に力が入らないよ、まっすぐに線が引けないよ、うー、線がブルブル震えてきた、指先に力が入り過ぎだ、あ、芯が折れちゃった、何じゃこりゃ(笑)、俺何描いてたんだっけ?」といった感じだろうか。でも、なかなかに楽しいでしょ? この、身体のコントロールを外すことの快感、それが「踊る」ことの快楽だ。
 かくして、これまで長きにわたって「ダンス」に付きまとってきた「身体=主体の制御」という強迫観念(4)と完全に手を切り、晴れて「アウト・オブ・コントロール」がダンス的身体の根本原理だと気付いたからには、ダンスの領野はみるみる拓かれていくだろう。ズッコケ=ダンス、突っ張らかり=ダンス、挙動り=ダンス、多動(ADHD)=ダンス、どもり=ダンス、チック=ダンス、夜尿=ダンス、×××=ダンス‥‥‥‥(5)。
 いや、少し先走り過ぎた。なるほど、自分で踊って楽しむダンスと観賞用のダンスの評価基準は別であるようにも思われる。我々の習慣的な「ダンスの見方」というのはおそらく、時間軸に沿って継起的に描かれる身体の軌跡を空間−造形として、「フォルム」として把握するというものだろう。つまり、すべての動作はAというポーズ(フォルム)からBというポーズ(フォルム)への移動であり、ダンスは「AとB(起点と終点)の2つのポーズ、そして2点を結ぶ1本のライン」として把握される。それゆえに、「身体制御」によって軌跡=ラインがスムースに(継ぎ目が見えないように)流れていくことが求められるわけだ。ところが、ニブロールのように「超スピード」で、「突っ張らかった」(すなわちアイソレーションされない)動作を、我々の目は「クリア」な「像」として受け取ることができない。コドモの落書きが「何が描かれているのか判別不可能」であるように。実際、例えば、このページに掲載する写真をセレクトしようと思っても「ニブロールらしさがよく出ている」写真など望めない。もちろん写真家のせいではない。それは、フォルムとして認め得るようなものではないのだ。全力疾走も、100m走選手なら高速シャッターで切り取ってもきれいなランニング「フォーム」が写っていることだろうが。
 ならば、ニブロールの「ダンス」を見ている我々は、その時一体何を見ているのだろうか、何を「ダンス」として見ているのだろうか。おそらくそれは「強度」「(猛烈な)勢い」としか言いようのないもの、である。フォルムとして「決まる」以前の未分化な状態のエネルギーの流れを「ダンス」として見る。すると、「フォルム」=「ダンス」は、「ダンス」=「勢い」を生むための単なる「踏み台」、アクセルに過ぎないものとなる。そしてまた、その「勢い」「強度」と言うしかないものを、我々(の知覚)は「見て」いる(視覚によって)のだろうか? それはむしろ「感じて」いる、「体感」している、と言うべきではないのか。その「強度」に対して我々の身体は「圧」を受ける、「勢い」に巻き込まれる、というのがより感覚の実際に即している。 ここにおいて、ダンスとは何かという内実の逆転が二つの意味で起こっている。そして、それはニブロールのみならず、すべてのダンスに妥当するはずだ。まず第一に「フォルム」から「運動」へ。ダンスは身体造形、単なる「ポーズ」集ではなく、徹頭徹尾「運動」として存在する。そして第二に「視覚」的対象から(複数の知覚にわたる)「体感」的対象への転回。この二つは相即的だ。「フォルム」は「見る」ものだが「運動」はその時間を「(共に)生きる」ことによってしか享受できないから。つまり、結局のところ、ダンスを見ることは即ちダンスを踊ることと等価なのである。
 さて、こうしたダンス概念(の更新)の共有を前提とした上ではじめて、ニブロールのダンスの「振付」を分析すること、それがいかに複雑精緻であるか(6)を記述することが許される。つまり「作品論」だ。ところが、これまでニブロールに対してしばしばなされてきた批判、「稚拙」「ダンスというものの文法を知らない」「ダンスにもなっていない」といった批判は、実はニブロールの個々のダンス作品の「振付」に対してではなく、その前提となる「身体」の在り方(コドモ身体)に対して(の嫌悪、フォビア)でしかない(7)。我々が自分の身体のコントロールを外す快楽=踊る快楽を肯定的に認めるならば、見るものとしてのニブロールのダンス、その「コドモ身体」としてのダンスは、由緒正しいダンスとして、即時的に肯定されねばならないはずなのだが‥‥。

(2005.10)

※この原稿は東京都写真美術館『恋よりどきどき コンテンポラリーダンスの感覚』展図録に掲載されたものを修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

(1)ダンスにおける「脱力」とは、過不足なく力を配分して、体のどこにも無駄な力みがない状態を作ることである。つまり、モダン・ダンスのテクニック「フォール」(倒れ込み)も、そうした状態で行うことによって、安全を確保した上でのものなのである。これは、「コケる」こととはまったく違うのだ。まさに、身体が完璧なコントロール下に置かれた状態である。まあ、大人はわざわざケガするためにコケたりしないわけだからして。
(2)ニブロール=「コドモ身体としてのダンス」が、今この場所に登場したのには、それなりの理由があるだろう。
 まず、「身体」。海外へ行くと我々は成人でもしばしば子供に間違われるわけだが、体型・骨格はともかくとして、平均的日本人は欧米人と比べて「立ち居振るまい」「身のこなし」がスムーズ(スマート?)ではない。子供のようにギクシャクしている。意識の問題としても、我々は20代の若者(ニブロールのダンサーたちもそうだ)をついつい「男の子/女の子」と呼んでしまうではないか。日本人=ネオテニー?
 あるいは、ダンス環境の特殊性もある。この場所がもともと「芸術としてのダンス」の歴史や教育も無いに等しく、それゆえ共有されるべきコンテクスト、その基準となるスタンダードも持たない「悪い場所」(椹木野衣)だからだ。劣悪な(?)環境のなか、ありあわせの材料をやり繰りして「ダンスらしきもの」をデッチあげるなら、いきおいデタラメ度というか革新性は高まるというわけだ。
 さらに、日本に限らず広く共有されているであろう今日的な感性、「不良性/だらしなさ」(例えば、ヒップ・ホップ・カルチャーの「ルーズ」)、あるいは「ロウ・ファイ」(ノイジーであるほど音楽としてよりクールである)、というような「サブ・カル的感性」との親和はじゅうぶん指摘しうることである(とりわけハイ・アートとサブ・カルチャーの区別がきわめて曖昧であり、ダンスもまたサブ・カルとして受容されているというような日本の文化状況においては)。
 それにしても、今日、文学はもちろんのこと、現代美術にしろ先端的音楽にしろ、他ジャンルのアート表現がなしくずし的にサブ・カルに接近しているなか、依然として「ハイ・アート」の孤高を死守している数少ないジャンルのひとつが「ダンス」かもしれない。おそらくそれはダンスの死守する「身体制御」=「大人の身体」とも密接に関係しているはずだ。他者のそして己の身体の支配が、近代的「主体」の存立と「管理」にかかわる重要事項だからであろう。
(3)東京都写真美術館「恋よりどきどき コンテンポラリーダンスの感覚」展(2005年10月)におけるニブロールのインスタレーション&パフォーマンスのタイトル「NO DIRECTION, everyday 」が示しているのも、まさに、このことだ。方向を失う、行先を間違う、日々是道草!気がつけば足元は空の上。で、コケる。
(4)しかしながら、自分で踊るためのダンスにおいては、「身体コントロール」の解除は(部分的にせよ)しばしば見られることである。今日の「レイヴ」に至ってはそのダンスは単なる「身体のフラツキ」で、しかもそれは薬物で自動的にアウト・オブ・コントロールが施されている!それはともかくとして、ゴーゴー、ツイストなど反復的に身体をシェイク(=痙攣!)させるダンス、さらに遡れば、決まったステップを持たず「いかにデタラメか」を競うダンスだったジッター・バッグ(スラングで「震え虫」!)、あるいは、「びっこの黒人の歩行」から着想されたとされるチャールストン等々。また、通常ダンスとは呼ばれないものの、ジェームス・ブラウン「脚の痙攣」芸、あるいは「モンティ・パイソン」の有名な「シリー・ウォーク(バカ歩き)」なども。
(5)これはまったくの「夢想」というわけでもない。緊張すると身体の一部が勝手に動いてしまうという己の不器用さを逆手に取って、身体の微細な部分をミニマムに暴走させる身体実験=ダンスを試みる手塚夏子、「だらだらとして論理性を欠いた超現代口語の台詞(まったく要領を得ず、話がいっこうに前に進まない)とそれを発話するひどく落ち着きのない身体のノイジーな仕草」を「ダンス」として提示するチェルフィッチュなど、ニブロールの登場以降、この場所のダンスにおいては「アウト・オブ・コントロール」というレトロ・ウィルスが急速に蔓延しはじめた。なお筆者は「コドモ身体」として名指し得るニブロール以降の一群のダンスについて、季刊『舞台芸術』(京都造形大・舞台芸術センター発行)の連載時評「子供の国のダンス便り」で考察中、原稿は順次下記URLにアップされているので、参照されたい。www.t3.rim.or.jp/~sakurah/dance/html
(6)2004年夏に最終ヴァージョンが上演された『NO-TO』は、これまでのニブロールの作業の到達点ともいうべき作品である。そこでダンサー等が繰り広げる行為たち、そこで起こる「出来事たち」は、これまでにも増して超高速・高密度、そして因果・脈絡を欠いていた。「錯乱」の極地。「でたらめ」の極地。印象を例えていえば、複数の起承転結のある「ナラティブなドラマ」を、細切れに断片化して徹底的にシャッフルし、スクラッチ、リバース等の加工をし、リミックする、で、4倍速で再生!みたいな。もとの素材には行為に結びついた感情があるわけだが、それがコンテクストを奪われ、増幅や反復やクローズアップされたかたちで間断なくアウトプットされるので、それが「シミュラクル」であることがかえって異様なまでに見ているこちら側の情動を駆動するように作用している。意味不明の「叫び」や「歓声」や「喚き」「怒号」「こう笑」を伴った、意味不明のエネルギーの発露(猛烈なダッシュの走り、衝突、転げ回り、接吻、蹴り、格闘、抱擁、大立ち回り、足の引っ張りあい)が遠心分離器上で攪拌され続ける怒濤の一時間だった。
(7)ニブロール「批判」と同様、「擁護」に際しても、筆者も含め、(サブ・カル的)感性の共同体を当てにした物言いになる傾向があったことは否めない。本稿は多少ともそうした反省のもとに書かれたものである。
Dancing Allnight   Profile   Discographie   Dance Critcal Space (BBS)   Link   Mail to Sakura House   What's New