無根拠な身体

かくも過剰で希薄なリアルについて

桜井圭介

※以下の文章は2001年4月発売の『美術手帖』誌の特集「VIVA! 肉体表現主義!!! EXTREME BODY & SOUL」のために書かれたものである。

 特集のタイトルを「肉体・表現主義」と、わざと誤読してみる。アートの世界でも「肉体」と「表現主義」は相性がいい、というか切っても切れない仲。だったわけでしょ、20世紀は。(論理的)抽象が煮詰まっていくときに、必ず身体がせり出して来る、そしてそれは「表現主義」と呼ばれた[1]、と。>  では仮に、今この場所(の表現)において、「身体」のせり出しが(再び?)勃興しているとして、それはこれまでと同じものと言えるだろうか。恐らく「ここ」は、さしあたり「スーパフラット」という言葉がふさわしい場所、それを乱暴に言ってしまえば、「ここ」に特化された我々の「ポストモダン」ということだが、それは決して「リアル」の超「希薄」さ、といった単純なものではなく、だから、その反動として身体がせり出すという図式も成り立たない、というか、身体の無根拠で超・過剰なせり出しが、「リアル=身体性」の希薄さを進行させることに加担する、そのような場所ではないか。
 例えば、椎名林檎。なるほど、ほとんど冗談の域に達した超シミュラクルな小室サウンド全盛からいきなり唐突に登場した彼女は、かつてテクノ・ポップ(例えばプラスチックスの佐藤チカ)の後に登場した戸川純、という歴史の反復にも見える。しかし椎名の、「肉体」の二文字に収斂されてもおかしくない「情念系語彙」群は、背景(文脈)から奇妙に浮き出た過剰な臨場(3D)感によって、
ハイファイなバック・トラックの上に乗ったロウファイな「サンプリング」の「ネタ」を思わせないだろうか。そして「椎名林檎」という表現体は、「脈絡なく美味しいトコ取り第一でチョイスされた素材を駆使する手だれのDJのツボにはまったプレイ」のようなものだ。 だからその「既視感」は歴史の再帰ゆえでなく、それが「シミュラクル」であることに起因するのではないか。[2]
 ここで、いったん「表現」から「現象」に後退して、この場所の・今どきの「身体」の「行為」を眺めてみる。例えば「パラパラ」を踊るヤマンバ。ほとんど手先だけしか動かさない超・省エネ=記号的な行為。その超やる気なさげな身体の表面では、日焼けサロン肌の黒さ・厚底の高さ・土人メイクの使用する色数が止めどなく過剰になっていく。次々と発表されマスターされていく新曲だが、そのフリはどれもほとんど同じなので、結局パターンを反復し続けるに等しい。あるいは「トランス」で踊る男の子。ほとんど上下動というこれまた省エネ=記号的な行為を、こちらは、究極のカジュアルというより単に無頓着ゆえの体操着に包まれた虚弱な身体、でもクスリでキメてるので、空気のように軽い身体で、一晩中でも反復するだろう。つまり、
(1)超ルーズな身体、身体性の過剰に希薄な身体
(2)行為の反復における過剰、と
(3)身体の延長、拡張=バーチャル身体(メイクやドラッグ)の過剰
この3つのねじれの関係によって、希薄なんだか濃ゆいんだかわからないような身体行為が形成されることになる。
 さて、ふたたび「表現」に戻って、あなたが間もなく目にするであろう2001年型最新パフォーマーが、例えば「なぜかやたらハッチャキである」ならば、それは¥ショップ武富士の血縁(コンテンポラリー・ダンスとか?)などではなく、その「過剰」な「ハッチャキ、のようなもの」(としかいえない。だって、その明るく元気の根拠がてんで見えないから)は、椎名林檎の「過剰」な「情念、のようなもの」と兄弟である「しるし」なのかもしれない。「身体性のせり出し」、情念/ハッチャキ/セクシー[3]といった代入可能な「○○」の様態ではなく、その「過剰さ」と○○であることの出自・必然の「無根拠」、そこんとこポイントね。OK?

(2001年 3月)


copyright (C) by Keisuke Sakurai


[1] 狭義の「表現主義」(20〜30's)に始まり、「抽象表現主義」(40's)「イヴェント」(60's)「パフォーマンス」&「ニュー・ペインティング=新表現主義」(80's)等々。

[2] しかしこのことから、椎名の表現を、身体性の迫り出しを偽装した、いわばよく出来た「商品」である、などと短絡することは誤りである。そうではなくて、そのようでしかしかありえないような「身体性の迫り出し」を問わなければならない 。
 もちろん、椹木野衣の指摘する通り、既にして80年代の新表現主義もまた、「パッションの盲目的な肯定などではなくて、むしろ周到に回避することによって可能になるシミュレーション空間を前提としたメタ・イリュージョナルな絵画」であり、さらに近代以降の日本という「悪い場所」においては、土着にアナーキーな逸脱として絶えず身体のせり出しが反復され続けているというのも確かだろう。本稿において、そのことを曖昧にして図式的に切断地点を設定するのも(「ゲルニカ」出身でもある戸川純を乱暴に「真正キ印」として対立項に仕立てるのも)、「いずれにせよ」、この一見リアルな身体性の迫り出しは無根拠であり、「もはや」決して表現主義などには還元出来ない、ということを言わんがためなのだ。

[3] 例えばロマンチカの「セクシー」もまた、本来の対象(殿方の欲望のまなざし)という根拠を持たず、にもかかわらずその過剰によって遂には超プラスティックなものに変異するに到るのだった。

[付記] 本稿と同型の比較はあらゆるところで設定可能だ。例えば、できやよいと草間弥生の異/同について(浅田彰「弥生/やよい」BT'01年2月号)、あるいは加藤美佳と「スーパ−フラット」派について(桜井圭介「明るいオブセッション」 artscape 2000年11月号)など。
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