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ドラマ『新選組!』批判



050703『八百万石に挑む男』(東映・1961年)
ちょっとしたトラブルで浅草におもむくことがなければ見逃していたかも知れない。昭和36年制作の時代劇。場外馬券場の時間待ちの観客で午前中というのにけっこう入っている。しかし場内では堂々と「禁煙」を破る、そんな映画館。タイトルでわかる「徳川天一坊」である。講談にして10時間強、タッタ95分の総天然色に何ができる、まあ、参考に見てやるか・・・。 
・・・。今日ほど自分が「脚本家」でなかったことを感謝する日はないだろう。もしそうで、今自分が「天一坊」の脚色に取り組んでいる最中だとしたら、あたかもバラティエ船上で鷹の目のミホークに挑んだロロノア・ゾロの如く血みどろでその場に倒れてグウの音も出なかったろう。わずか、わずか95分で、完全に講談から取られた素材を、針の先でつつく隙もなく計算されて描かれていた。恐るべし橋本忍、恐るべし、中川信夫。 
いや、これは「天一坊」に現に高座で取り組んでいるから起こる錯覚なのか? その証拠にTSUTAYAに足を運んでもこの戦慄すべき傑作のビデオがない? まさか、かつての日本映画というのはこれほどのレベルを保っていたというのか・・・。 
八代将軍のニセのご落胤という題材を使って、親子の愛、男女の愛、人の野望、政治批判、そして運命の不条理。ありとあらゆるテーマをこれでもかと詰め込んで、かつ立ち回りすらほとんどないセリフ劇で、レース待ちの観客を完全に魅了していた(その証拠、途中入場してきた缶ビール片手のアンちゃんが、場面転換にならないとそのビールをすすることすらできない)。 

もう一度思い返しても、ケロロ小隊のクルルの針のごときイチャモン力持ち主であるオレが、河原崎長十郎の大岡越前のセリフがほんの一呼吸遅れたこと以外にひとつの文句もつけられない。完璧である。昔よくやっていた「オガマ批評(オハナシ、ガメン、マンゾクド)」でいくとAAAで90点というところだろうか。ほぼ史上最高得点だ。たぶん、このまま人類の進歩のペースが変わらないなら今後100年、いや200年はこの映画を超える天一坊は出ないのではなかろうか・・・。今の日本映画がどうかは知らず、これを作り出してきた日本の文化状況の中で育ってきた運命に乾杯したい。と、生まれる寸前の作品だが。 

スイセンしても観ることは難しいかもしれないけど、とにかく衝撃を受けた。帰りにTSUTAYAでとにかく脚本のいいものが見たくて『ペリーヌ物語』の12巻を借りてきた。 

書き忘れてた。 
物語にはふたつの「魔術的なif」が存在すると考えている。ひとつは「主人公の生命がかかっている時」もうひとつが「主人公が舞台上にいる時」このふたつがストーリーに導入される瞬間がもっとも緊張感を呼ぶ。だが、「生命がかかっている」というのは世界観ひとつで価値が無いにひとしくなる場合がある。西部劇や戦争ものでは、日常的な命のやり取りの中でも特に危機を描くものだがそのケジメのない作品が現代には多すぎる。もうひとつが「舞台上」という緊張、つまり「演技をしている」状態(映画なら映画の中で)。それは「演技に失敗した時」には主人公の「社会的な死」が訪れることになるからである。 
この両者がバランスを保って描かれる時、物語表現は最大の緊張感を発揮する。たとえば『サウンド・オブ・ミュージック』のナチに追われて舞台にあがり「エーデルワイス」を歌うトラップ大佐である。「天一坊」の場合も、ニセのご落胤としての演技が見抜かれた時は現実の死も訪れるので設定としては申し分がない。しかし、橋本忍の脚本はさらに二重、三重の構造に仕立て上げる。凄いのひとこと。「二重の魔術的なif」状態はありとあらゆる表現に有効であると思う。ただし、「Zガンダム」のラスト近くの(略



050620【書評】『仏教・キリスト教・死に方・生き方』(玄侑宗久・鈴木秀子)
臨済宗VS.カトリック、世紀の対決! とは、当然ならず、ターミナルケアについての高度に理論的な情報交換、といった感じ。個人的な資質もあるんだろうけど玄侑氏の方がタームのあやつり方に長けていて「対決」としては押している雰囲気だった。カトリックの方が受容力が高い、というべきなのかも知れない。興味深かったのはある文化で一子相伝の秘法としてリーダーを育てるためには「本人の資質とまったく逆のことをやらせる」というもの。つまり、社交的な資質のものには個人作業をエンエンとやらせる、など。この秘法を使うと必ず立派なリーダーが誕生するという。つまり、人間を合理的に扱うとその「理」から漏れる豊さを全部否定してしまうのではないか、ということだ。たとえば勉強のできる子供に勉強ばかりやらせるとその子の身体的な能力や感性を否定することになるかも知れない。そうすると才能は育つとしても「リーダー」としての資質は育たないということになる。「苦労しないと人の上には立てない」ということらしい。まあそれも、伝統的な文化の生きている場所でのことなのだろうが。 
あと、理論的には仏教の方が面白いかもしれないが、少なくとも今の時点で感情的に訴求力を感じるのはキリスト教の方だなあと感じた。つまり「物語」としてはキリスト教の方が完成度が高い・・・所詮欧米文化の洗礼を受けているせいかもしれないのだが。 
うう・・・そろそろ新作を書き出さないと・・・・



050619 吾妻ひでお『失踪日記』
「あなたの人生経験が問われる本だ!」 

↑いちおう、ここで取り上げるものには自分なりにキャッチコピーをつけることにする。 
子供の頃からマンガ家の生活にあこがれていた。しかしそのイメージの元は小学生の頃から全集を読破しては初刊に戻った「手塚・赤塚」両巨頭ではなく、なんだか自分の作ったキャラとやたらに仲の良さそうに顔を出す吾妻ひでおだったのだと思う。自分の創作した世界が独立して存在し、キャラが人格をもって勝手に動き始める(『やけくそ天使』など)、藤子不二雄の世界よりもはるかにマンガ家は「神」に見えたものだ。宮崎駿よりもはるかに早く、今でいう「萌え系」の元祖・教祖である吾妻氏は多くのギャグ作家と同じく自家中毒の道をたどっていく。それでも自堕落にアル中気味でずっと活動していると思っていたのだが・・・実は想像以上に真面目な性格で、とうとう追い詰められ、現実に失踪、保護、失踪、保護はては完全なアル中となり強制入院させられてしまう。その体験をあの三頭身のキャラで描いた本書に、どれだけのリアリティを感じ取れるか、それは読者の人生経験を試すだろう。 
不安にかられ現実から逃げ、金はおろか食べ物はおろか寝る場所にすら不足し、やがて労働の喜びを取り戻すも現場での複雑、いや正直言って愚劣な人間関係。それを支えるプライドとしかし人間関係の方がまだマシと思える創作の苦しみ…。さすがに強制入院は「人生経験」のレベルではないだろうが、そういう人々の日常を知っているかどうか、フツーに40年も生きていても「守られた場所」にいては経験していないだろう数々のエピソード・・・。ケンカ売るけど、帯の「現代の聖書」ってコピーがとても気にいらない。作家は聖なる放浪などしていない。本当にただの現実が叩きつけられているだけだ。もちろん、その徹底した客観視と描写は見事なもので作品としての価値は疑いない。だがその「現実」を「物語に昇華された」と見えるのは、あなたの人生経験の問題だろう、と・・・。 

なんにせよ、買って読んでみてください。吾妻氏のご家族の生活費の足しになるためにも(これはインタビューに答えた当人の弁です。でも、実はこのインタビュー、買わないと読めないことになっているのです・・・)。日記にも書いたが、俺がこのようになると「失踪」ではなく「転落」にすぎないので、精進します。



050618【書評】『アミターバ』(玄侑宗久)
・・・最近高座に上がると「まずは宗教のお話からいたします」と始め、いきなり「般若心経」の解説をし、「・・・ですから<空>を<悟>りますと、カメハメ派が撃てるようになるのです」と落とすのだが・・・これがスベると単なるアブない人になってしまう。そんなスリリングな高座を君も聞きにこないか! 
・・・じゃなくて。一応新作のためとはいえ、仏教とは真剣に向き合っているつもりだ。だがそれは宗派や教団ではなく、むしろ釈尊という偉大な「語り手(騙り手と書きたいところだが)」一対一で向き合いたいという思いからだ。言葉によって無から有を生んだり人の心を救ったりするという点で、宗教の力を学ぶことは講釈師として必要なことと思う。その向こうに釈尊の偉大さがある。格闘技でいえば無敗のヒクソン並みだ・・・偉大なる釈尊、まさしく「シャクソン・グレーシー」(ああ・・・)。 
カブれているといえばカブれているのだが、何かがパッと解決する訳ではなく、「色即是空、空即是色」の意味を考えることから苦痛が半減した、この「半減」が丁度よい塩梅なのだ。 

先日京都に寄った時「玄侑宗久への反感から臨済宗の寺である銀閣寺を無視してきた」のだが、もしやそれは単に嫉妬であったのか? しかもその日、マンガ喫茶で山田玲司(おおおお! 
今気がついた! 沖田総司、寺山修司につづき、神田陽司と二文字違いの三人めだああああ!)の『絶望に効くクスリ』を読むとそこにも玄侑宗久が登場し、こりゃあもう「縁」だと思ってネットで何冊も買い込んだ。「てめえ、死後の世界を説くのに量子力学やE=mc2を持ち出すとはそれでも宗教者かっ!」と 
いう思いからだったのだが・・・。おまけに「禅宗の坊さんが阿弥陀仏を持ち出してどうすんだ」とか思っていたのだが。 
義理の母、それも私にとって懐かしいベタベタの関西文化圏の母の死(中)の描写はむしろ大島弓子の漫画(たとえば『ダリアの帯』)を思わせるような優しく美しいもので、阿弥陀の光明はおろか「天使」まで登場するにいたっては「参りました」の一言しかない。対機説法としても優れたものと言わねばなるまい。そして生を充実させてこその美しい死である点もまた禅宗の僧侶としての立場を全うしているように思える。ううう、やはりあの銀閣寺通過は嫉妬だったのだ・・・タママ・・・。 



050129『ケロロ軍曹』
  「辛口コーナー」に入れた途端に『ケロロ軍曹』かいっ!

  まあ、自由に書かせていただきましょう。

  ヒットするものには必ず「偶然と必然」が作用しているというのが持論である。25年ほど前まではそんなことは考えたこともなかった。しかし、栗本慎一郎の「ニワトリ論」を読んでから「必然」の部分ばかり目がいくようになってしまった。人々の心に何かが訴えるのは理由がある、と。
  『ケロロ軍曹』だれがどう見ても、単なる子ども向けのギャグマンガである。原作はまだ読んでいないがアニメで見る限りは、エロティックな部分をピンセットでつまみ出し、あるいは許容範囲で残して極力ファミリーむけに仕上げた毒のありようなのい作品である。このアニメを知ったのは現在ヒット中の『電車男』の中で、オタク青年が初めてできた恋人との大事なデートの日にでも録画を忘れることのないことからだ。

  イキナリはじまる「マーチ」の中には「いざ進め」だの「勝利の雄叫び」だのミリタリーな歌詞のオンパレード。30年も前なら「軍国主義的」とPTAからクレームがついたであろう。これが受け入れられる「必然」とは何か。
  かわいい(?)カエルの宇宙人5名はまぎれもない「侵略者」である。普通、異世界からの珍客が日常に入り込む場合は「改心して」とか「愛に目覚めて」とかとにかく、侵略者としての属性を奪うという手続きを踏む。にもかかわらず、「転向」を経験したのはどうやら5人のうち「ドロロ」一人であるらしい。つまり、彼らは依然として「侵略者」のままなのである。実際、時として地球破壊行動や脅迫行為に及んでいる。

  ガンプラが好きとか、地球人に恋をしているとか安全弁を用意されてはいるものの、日常に敵を隣接させたまま物語は進む。これが「必然」の部分である。
  基本的にギャグアニメ。「笑うための」アニメ。だが、人は何ゆえに「笑う」か?
  「人の身体が成す態度、振る舞い、動きは、単純な機械を連想させる程度に比例して笑
いを惹き起こす」というのはベルグソンの分析だが、これはつまり、「人間の複雑な選択の責任からの解放感」の笑いということであろう。ならばその責任が重ければ重いほど、今風にいえば、シビアーならシビアーなほどその解放感は大きいに違いない。

  よく「今の笑いはギスギスしてていけない、もっとほのぼのとした笑いがいいね」という感想を聞くが実は「ほのぼの」は笑いを深化するものではない。むしろ「ギスギス」とした緊張感が解放をより大きなものにするハズなのだ。お笑い芸人の「イジメ」的な笑いが批判の的になることがあるが、それはイジメがより多くの緊張を強いるからでそれが笑えるのはそれが理解できているということに等しい。イジメられた経験、イジメを目撃してそれを容認した負い目を負ったことのない人にはあのテの笑いは笑いにならない。自分の知らない「暴力」を目の当たりにして顔を背けるのみだ。チャップリンの時代には貧困こそ最大の問題であった、ゆえにかのトランプ氏はその貧困を笑いとばした。『街の灯』の二重人格の大金持ちの行動が笑えるのは金持ちは二重になどならない、彼らは権力者であり分裂する必要などないことの裏返しである。

  話がそれまくった。

  『ケロロ軍曹』のミリタリックな設定、「侵略者」との共生という日常は現代の「責務」のひとつだからだ。子供といえどもそれを感じている。ゆえに彼らが「笑わせてくれる」ことはより大きな解放感を味合わせてくれる。・・・・・・私の中では決して考えすぎではない。

  上の理論の証左のひとつ。かつて日本中の若者を緊張させた「恐怖の大王」をかわいい女子高生「アンゴル・モア」として登場させている。私の知る限り「ノストラダムス問題」に決着をキチンと(?)つけてくれた子供向きの漫画を他に知らない。こういった各所のセンスがこの作品全体をしてヒットさせているのだ。

  のだと思う。

  ということにしといてください。




050109 『タイガー&ドラゴン』
  宮藤官九郎脚本。へえなるほど、こういう話づくり、こういう演出もあるのか。いや、途中が芝居仕立てになるドラマは沢山あるけど、「再現フィルム型」と「突然舞台型」が併用されているのは珍しい気がする。脚本自体にはどう指定してあるのだろう。それは脚本通りなのだろうか? と元シナリオライター志望としては思う。

  まさしく、「古典落語」への宮藤の正面きっての挑戦状ではなかったかと思う。通常、そういうドラマはどちらかといえば「愛してやまない古典落語へのオマージュ」なのだが、なんとなく、なんとなくだけど、「古典そのものではなくそれを抱えている世界への愛おしみ」は感じるものの、落語自体へは対決姿勢で書いている、そんな感想だった。
  でも本当によい刺激になった。「三枚起請」が「五枚起請」になる面白さは情報量が増えた面白さではなく「自分が体験したこと」であることの面白さ。「繰り返し聞いても面白くなければ」というセリフは、知ってたつもりの認識でも、ちょっと目が開いた。いや、けっこう開いた。つまり、落語に限らず講談に限らず、ストーリーには「情報」以上のものが要求されるということなのだ。講談の場合、情報量の方に依拠している確率が非常に高い気がするし、自分でも「毎回どこかが変わっている」ことを旨としているのだが、それは新しいくすぐりを入れるということではない気がした。演劇の方では「一度一度役を体験すること、役を生きること」というスタニスラフスキーの超課題が現代も有効なわけだが、語り芸の場合は観客が違うことが毎回意識される(「第三の壁理論が超克されている」)訳だから当然細部が変わる・・・はずである。もちろん対人的認識がある程度以上の高度に達した場合には観客認識もまた高次に達する(たぶん、その状態を「名人芸」と呼ぶのでしょう)だろうが。

  なんにせよ、自分のかかわる業界モノでありながら、一般にどんな感想をもたれたか以上に自分がどう感じたかが重要なドラマだった。なお、オチが『ティファニーで朝食を』であったところが、もしかすると「古典作品に対するオマージュ」というものかもしれないが(一応皮肉)。




041230 『徳川綱吉 イヌと呼ばれた男』
  ドラマとしては演出も拙劣なものだった。いくらなんでもリアリティなさすぎ。リアリティじゃない、時代劇としての約束事を無視しすぎ。将軍がひとりで出歩いたり、討ち入りの現場に出向いたり。時代劇を生まれて初めて見る子供以外は「なんだこれ?」としか思えないだろう。

  しかし、素晴らしいのは「神をも恐れぬ」実験精神。四十七士の討ち入りに賛美歌を重ねた映像の記憶はかつてなく安直とはいえど柳沢吉保の子供の誕生と同時に描くあたりに強烈な表現意欲が感じられる。

「人はどう生きるべきか、もう一度考えろ! 大石!」
「私が考えるのはどう死ぬかです」

  綱吉が薄っぺらすぎてせっかくのモチーフが生きない。上のセリフのような問いかけが真に時代劇を使って行われるようになれば(いや、「名作」と呼ばれるものには必ずこういった根源的な問いかけがある)時代劇の再生は有り得るかも知れない。「子ども向けアニメ」がその形而上学的な問いかけで再生できたように。しかしそれは滅びへの道かも知れないのだが。なぜなら時代劇の本来の醍醐味は予定調和のハズなのだから。

  最大限にこの作品を評価し称賛した上で、最大の不満は時間が限られるあまり「生類哀れみの令が戦国以来の血なまぐさい風潮を完全に拭い去った」というテーマが綱吉の弱さゆえの感傷にしか見えなかったこと。細かい形容詞と名詞、名詞と名詞の掛かりがデタラメであったこと。綱吉の正しさの根拠に現代の法律にもってきたあたりも怠惰にして勉強不足。綱吉が大石の演技と磐石たる忠臣蔵の物語性に食われてしまっては仕方ない。それでも、今年のNHKの『新選組!』よりはわかり易かったのだが。


  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ああ・・・・・・『新選組!』の評論でメチャクチャ書きすぎたせいで、ぜんぜん歯止めのない悪口になっている。まあ、いいや。唯一「毒舌」というより「単なるガス抜き」のコーナーに堕ちないように気をつけていこう。






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