His Diary

1998年4月〜1999年3月

 

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1999年 
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1999年3月27日(土)        観光地は苦手

 

昨日、ホノルルから帰国した。
実は、今回の旅は、僕だけユナイティド航空の
たまっていたマイルと交換したダダ航空券で行ったため、
乗り継ぎが悪くホノルルで1泊しなければいけなかった。
もともとハワイイってガラじゃないのだが、
マウイのようなのんびりした島ならまだ、身体が適応できる。
でも、観光客(特に日本人)でいっぱいのワイキキなんて、
どうやって時間をつぶそう。
ショッピングには、全く興味ないし。
しかもひとりきりで・・・トホホ。

なんとかワイキキのビーチから2ブロック入ったところに安宿をみつけ、
チェック・インしたあと、とりあえずビーチへ行ってみる。
あぁ、想像通り、狭いビーチに這い蹲って人びとが日光浴している。
まるで、トドが寝ころんでいるようだ。オヨヨ。
同じところに芋荒いのように寝ころんでなにが楽しんだろう。
っと視界の中に、サーフボードが飛び込んできた。
「レッスン一時間35ドル(英文だよ)」とメモ書きの看板に書いてある。
そうだ時間つぶしに、サーフィンを教えてもらうのは、どうだろう。
マウイでは、自己流だったから、パドリングが精一杯。
立ち上がるなんて、ムリムリだった。
この際、基本から学ぶってのは、悪くない。
僕の指導をしてくれるのは、ちょっと小太りのトッド
(トドじゃないよ。名刺をみたらスペリングはTODD)さん。
体つきからはサファーという感じとはほど遠いのだが、
波の上に乗ったとたん、もうそれは、華麗。
さすがハワイアンって感じ。

そんでもって、レッスン開始。
まずは砂浜で、立つタイミングの練習をする。
数回トライして、なんとなくわかったら、すぐに海へ。
今回は、ロングボードだったので、バランスがとりやすいので、パドリングも楽々。
なんとかいけそうだ。
ボードを方向転換して波を待つ。
トッドさんの合図で、波が背後から来る直前に岸へと思いっきりパドリングする。
そして、左足、右足とボードの上に乗せ、身体を起こし、手を放す。
一瞬、身体が波の振動と呼応するのがわかる。
ヤリー! 
と気を許したとたん、バランスを失いドボ〜ン。
しばらく何度もドボン、ドボンやっていた。
でもそのうちに、だんだんとボードに乗っている時間が長くなる。
波の力って凄い。
考えてみれば宇宙規模のエネルギーが波を生む。
その力に抱かれて遊ぶわけだから、サーフィンというスポーツ、なかなか奥が深いのだ。
サーフィンといえば、ファッションぽくって、ずっと毛嫌いしていたのだが、
かなりこれは、ハマる。
ずっと沖から、何度か岸の近くまで乗ることができた。
あっという間の1時間。
まだ、曲がることはできないけど。
トッドさん曰く、とにかく上手くなるには、何度も乗らないとダメだそうだ。
あぁ、この環境、日本にもあればなぁ・・・。

そのあとは、ホノルルマラソンのコースをダイヤモンドヘッドの展望台までジョギングした。
ちょうど夕陽の沈む頃で、紅に染まる空を見ながらのランは、最高。
(フルマラソンのあとだったから、あちこち痛いのは、しかたないけど)。
展望台の下には、人気の少ないビーチがあって、
そこでのんびり夕陽が沈むのを見届けた後、同じ道を薄暮の中を走った。
いい時間だった。

まぁ、とにもかくにも、過ごし方次第では、苦手な観光地でも楽しめるんだなぁ。

 


1999年3月22日(月)        壁はやっぱり高い

 

体調は万全だった。
天候もランニングには、絶好のコンディションだった。
コースの下見もバッチリ。
高低差もしっかり頭に入っている。
なんのいいわけもできない。

はるばるマウイまで来て、臨んだフルマラソンのレース。
今回の目標は、なんといっても3時間30分の壁を切ることだった。
朝5時30分、マウイ島第一の街カフルイをスタートして、
ホテルが立ち並ぶリゾート地カアナパリには、9時頃にはつくはずだった。
僕が頭の中で考えていた作戦では、前半は、キロ5分のペースでゆっくり走り、
後半キロ4分半で走り切るというものだった。
海外のレースなので、マイル表示なのだが、
5キロごとにキロ表示の看板も出してくれているので助かった。

スタートから真っ暗の中を走る。
5キロ地点で26分、う〜ん、まずまず。
10キロ地点で48分。調子がいい。
15キロあたりからアップダウンが続くので、ちょっとペースが落ちるかと思ったが、好調、好調。
1時間10分。
20キロ地点で1時間38分。まだまだいけそうだ。
25キロ地点は、看板が風で吹き飛んでいたので、さだかではないが、たぶん2時間5分くらい。
30キロでは、ちょっと足が重くなってきたが、それでも2時間30分。
ううん、いけるかもしれない。
趣のある町並みのラハイナが35キロ地点。
時計は、2時間58分を指している。あと30分強。
7キロちょっとだから、このままスパートすれば、目標タイムを切れそうだ。
足は徐々に上がらなくなっているが、なんとかスパートしよう。
っと頑張ったものの気持ちだけが先走り、足がなかなか上がらなくなってくる。
ラハイナの街を出ると、海岸沿いのコース沿いの先に
ゴール地点のカアナパリのホテル群の建物が見えている。
あと、少しだと思った時、突然、お尻の下の太ももの筋肉がつった。
こんなところ今までつったことがない。
一歩も前に進めないのだ。
少し動かすと、足全部がつりそうな感じだ。
どんどんランナーに抜かされる。
タイムは無情にも過ぎていく。
しばらくして、少し動かせるようになる。
あと3キロほどか。
はってでもゴールしたい。
そんな気持ちで歩き出す。
5、6歩歩くと、またさっきのところがつりそうになる。
ひぇ〜。リタイヤしたくない。
必死でさする。
何度かそんなことを繰り返しているうちに、歩けるようにはなった。
しばらく歩いてから、今度はちょっと走ってみる。
もう爆弾をかかえているようなものだから、おっかなびっくりである。
ゴールは見えているのに、あとの1キロがなかなか進まない。
ヘロヘロだ。

でも、なんとかゴールした。
時間は、3時間50分21秒。
目標タイムどころか自己タイムも更新できなかった。
好調だっただけに目標タイムの壁の高さに愕然。
なによりくやしかったのは、歩いてしまったこと。
残念だった。
こんなことなら、もっとゆっくり景色を楽しんで走ればよかった、
なんて自分に腹をたててみたりもした。
記録証によると、2049人中293位。

やっぱもっと練習しないとダメだなぁ。

 


1999年3月19日(金)        ビッグ・フライディ

 

目の前は、ターコイズブルーの海。
ウエーブが、繰り返し白波をたて岸へと抱かれていく。
光のシャワーが、あたり一面にふりそそぎ、
風が椰子やハイビスカスの低木を揺らす・・・

な〜んてちょっと詩的になってしまうのも、今いる場所のせいかもしれない。
行き当たりばったりでみつけたマウイ島のコンドミニアムのラナイ(ベランダ)で、
この日記を書いている。
日曜日に行われるフルマラソンの大会に出るために来ているのだ。
一緒に来ている仲間のひとりがサーフボードを買って、
俄かサーファに変身したため、昨日はサーファーのメッカ、ホノルアビーチに連れていかれた。
(彼以外はペーパードライバーなので、移動は彼次第ってことになる)
最初は、そんなに乗る気じゃなかったんだけど、行ってみると、good!
地元のサファーが集まるだけあって、観光チックじゃないところがイイ。
ジモティの隠れた遊び場という感じ。
とても気に入った。
時間を忘れて岩場に座って、波と戯れるサファーたちの姿を見ていた。
資料によると、このビーチは、初級〜中級向きらしいのだが、
僕らからみるととっても高い波のように思える。
わが俄かサファーも、新品のサーフボードを抱えて、
海に入ってみたものの、パドリングすらできない状態。
思わず笑いこける僕ら。
こりゃ、ちょっと初心者にはムリのようだ、というので、本日は別のビーチへ。

昨日からサファーくんたちを見ているうちに、自分でもやりたくなっていたので、
俄かサファーにちょいっとボードを貸してもらうことにする。
ボードがどっかへいっちゃわないように身体とボードを繋げるリーシュを足首にくくりつけ、いざ海へ。
もう、気持ちは、ビッグ・ウエンズディのウイリアム・カットになりきっている。
「Oh!  GOOD LOOKING !(キャー、カッコイイ)」
っと砂浜にいる金髪女性の声が聞こえた錯覚に陥っている僕。
ところが、海に入ったとたん、ボードを抱えたままドッテン。
大波に足をすくわれる。
おお、みじめ。
気を取り直して、ボードを海面に起き、上に身体を寝かせてパドリングを試みるが、
身体がボードからすぐに落ちてしまう。
身体をボードの上に固定するバランスが難しい。
見るとやるとでは、大違い。
そのうちに、大きな波がきて、ウイリアム・カットもどきは、波の滴と消えたのでありました。
波乗りどころか、沖にも出られないみじめな結果。

池澤さんは、ハワイイ紀行で、サーフィンは、闘争性がなく、
波とメイク・ラブするような思索型のスポーツだと書いていたけれど、
波に戯れられて(トホホ)、その意味をほんのちょっぴり理解したように思う。
なにごとも、やってみるもんだ。

 


1999年3月15日(月)        井戸のそば

 

なんだか知らない間に「体育会系ライター」とか
「肉体酷使型ライター」とか、いわれるようになってしまった。
でも身体を使って体験すると、頭では考えてもいなかったものが見えてくることがある。
僕には、このやり方が性にあっているようだ。
とはいっても、30歳代も後半なので、いろいろと身体にガタがきているのは確かだ。
もともと学生時代から山登りで重い物を持ちすぎたせいか、腰痛持ちなのだ。
でも慢性的な鈍痛なので慣れっこになっているから、なんとか騙し騙し身体を使ってきた。

2カ月ほど前に、ジム仲間に、とある接骨院を紹介してもらった。
腰を伸ばすローラーの機械にかかったあと、患部に電気をあてる。
最後に接骨師の先生がマッサージまでしてくれる。
おまけに保険がきくので、とっても安い。
もう、極楽、極楽。
僕の担当をしてくれる先生は、まだ若いのだが柔道をやっていたため、
スポーツからくる疲労なども理解していて、いろんなアドバイスもしてくれる。
マラソンのレースのあとなど、もう一直線で彼のもとに行くっていう感じ。
まさに僕のトレナーのようだ。
プロの選手じゃあるまいし、楽しみで疲れているのにトレナーまでついているなんで、
はい、贅沢です。

この接骨院、僕のようにスポーツマッサージを受けに来る人もいるのだが、
やっぱり主流は中高年。
電気にかかるときは、カーテンで仕切られたベットの上に寝て機械をあててもらう。
布一枚へだてた隣りから、接骨師の先生と話す患者さんたちの声が聴こえてくる。
それが、結構おもしろい。
梅がきれいだねぇとか、春一番か吹いたねぇとか、季節感の漂う話題から、
身内やご近所さんのうわさ話まで。
主流は、やはり芸能ネタ。
もちろんIZAMUとひなのの結婚なんて話は出ない。
杉良太郎の離婚の話だとか、藤圭子の娘が歌手デビューして、人気があるとか、
梅宮の辰ちゃんも甘やかせすぎよとか・・・。
ワイドショーも、中高年層の視点で見れば、こういうふうに分析されるのかと、
なかなか興味深い。
(そのせいでかなり偏った芸能通になってしまった)

藤圭子の娘で歌手デビューして人気があるという話を聞いていたおばあちゃん。
「どんな演歌をうたうんだろうねぇ」だって。
宇多田ヒカルのあの曲を聞いたら、きっとびっくりするだろうなぁ。

接骨院の先生たちの凄いところは、どんな話も嫌がらず聞いてくれるところ。
きっと身体のコリだけじゃなくて、心のコリもほぐれるんだろうなぁ、ここにくると。
なんとなく接骨院でのこのひとときが、僕は気に入っている。
現代の井戸端なのかもね。

明日から、ハワイイ。
・・・普通の日本語ではハワイと呼ばれる。
しかし英語の綴りを見た人は最後に I の字が二つ並んでいることを奇異に思うのではないか。
普通の英語ではありえないことだ。
そして、この島々の言葉ではこの名は綴りのとおりにハワイイと呼ばれる。
・・・「ハワイイ紀行」 池澤夏樹著

ってなわけで、ハワイイのマウイに行ってきます。
ガラじゃないと言われそうですが、フルマラソンがあるのです。
どうなることやら。

 


1999年3月8日(月)        持ち越し

 

昨日は、三浦マラソンに出た。
あいにく曇り空で、今にも雨が降りそうだったし、気温も低かった。
でも昨年、低気圧の通過するまさにその瞬間に走るという最悪のコンディションだったので、
すべてがマシに感じた。
天気が良ければ、青い海原が広がる気持ちのいいコースなのだそうだが、そこまでは望むまい。
イマイチの天候でも快適、快適。
なんてったって昨年は、押し戻されるほどの風が吹く嵐の中を走ったのだから・・・。

嵐の中でのレースだったので印象深かったのか、この1年ずっと心にひっかかっていた風景がある。
うねうねとした丘の上で、どんよりとした空に羽を広げている2基の風力発電の風車だ。
風って感じることはできるけれど、見ることはできない。
風車の羽は、その風を視覚化してくれるはず。
でもなぜだかあの強風の中でグルングルンと回っていた記憶はない。
嵐の中でも、すっくとのびやかに立っている姿だけがモノトーンの写真のように焼き付いたらしい。
横殴りの風雨の中で、あんなに辛い思いをしたはずなのに、
鮮明に記憶に残ったのは、静かなその風景。
不思議だった。
昨日もそのふたつの風車を見た。
走っている最中だからしっかり見たわけではないのだけれど、
やっぱり動いているようには見えなかった。

で、思い出したことがある。
今年の1月から読売新聞で池澤夏樹さんの新聞連載がはじまった。
(おもしろくなりそうなので、途中からでもぜひ読みましょう)
その小説の重要なアイテムとして風力発電が出てくる。
昨年、その取材で池澤さんとネパールのムスタンに行ったのだが、
現地でもあまりの強風で壊れた風力発電の風車が残骸となっている場所を見学した。
取材に行く前に最近の風力発電の仕組みの本を読んだ。
強い風でも壊れないようにするために、風を逃がしたり、
ある程度の風速を超えると羽が自動的に止まる開発がされているそうだ。
もしかしたら、それかなぁ。
ま、システム的なことはよくわからないが、いずれにしても、
その風景は、新たに昨日見たにもかかわらず、前のまま。
もう1年持ち越しになりそうだ。

なんでこんなにひっかかるんでしょうねぇ。

 


1999年2月25日(木)        笑顔の誘惑

 

東京での移動手段といえば、ほとんど電車。
近くの渋谷区内ぐらいだったら歩きか自転車で動く。
別に不便を感じないから、いつしかペーパードライバーになっていた。
学生時代に免許をとって車を運転したのは、ほんの数回だけ。
今じゃ、どっちがアクセルかブレーキかもわからなくなってしまった。
それでも運転免許の更新はやってくる。
フリーで仕事をやっていると、
自分を証明できるものといえばパスポートか運転免許ってことになるから、おろそかにはできない。
1ヶ月ほど前に連絡ハガキが来るまでは、そんなこと忘れていたが、
更新の手続きは僕にとっては、大事なお仕事なのだ。
引き出しのすみっこに埋もれているくらいだから、黄金色に輝く優良ドライバー。ハハハ。
三軒茶屋の警察署へ行って更新手続きをすると15分ほどで新しいカードがすんなりできあがる。
ゴールドの下地の上に「平成16年の誕生日まで有効」とある。
平成16年? 
なんか5年後の自分が想像できないなぁ。
また誰かに「ヴィジョンのない奴」といわれそう。
まぁ、でもそれが自分なのだからしかたあるまい。

昨年の誕生日にはコンビニのケーキを食べたと、この日記に書いたと思う。
1年の経つのは早いもんだ。
大きい声ではいえないが実は隠れ甘党だ。
死ぬ間際にケーキか酒かどちらかひとつ選べといわれたら、迷わずケーキを選ぶはず。
そんな僕としては、無性にケーキが食べたくなる時がある。
最近仕事をよくさせてもらっているある編集部にこの間はじめて行ったのだが、
その編集部の入っているビルには、ちと困った。
ビルの1階が「不二家」なのだ。
あのペコちゃんの笑顔の誘惑には、勝てない。
不二家といえば、なんといってもボリュームのあるショートケーキ。
37にもなる男が、イチゴがのった大きいショートケーキを
ひとりで(ここんところがかなりヤバイ)嬉しそうに食べる図など
誰にも見せられんなぁ。


1999年2月22日(月)        一年に一度出会える顔

 

日曜日は青梅マラソン(30キロ)にでた。
参加人数15,000人とか。ものすごい数なのだが、くじ引きという第一関門がある。
昨年も、くじ引きには当たったものの、
エントリー・フィーを払う期間に日本にいなくて、お金を払えなかった。
で、初参加ということになる。
ランナーにとっては、かなり人気の高いレース。
そのわけがだんだんとわかってきた。
青梅駅のひとつ手前の河辺(かべ)駅からスタートするのだが、
河辺駅についたとたん、街中が活気に溢れている。
なんだか年に一度のお祭りのよう。
いろんな屋台も出ているし、ミス青梅が青梅市の広報パンフを手渡ししていたりして・・・。
(現代的な美人だった)
近くの民家が選手を受け入れてくれていて、着替えや手荷物を預かってくれる。
僕らのジムチームがお世話になった家なんかわずかなお金(ひとり500円)で、
あたたかい茶の間に上がらせてもらえる。
レース開始までお茶をごちそうになったり煎餅をつまんだりと「のほほん」とできるのだ。
CATVで流れている先にはじまった10キロの青梅のレースをみながら、鋭気を養う。
お世話になっている選手たちとも、
なんとなくお互いに仲間のような気分になってくる。
はじめて会うのに・・・不思議な感じだ。
なかには十数年この民家に通っているという人もいた。

僕のゼッケン番号は4000番台。
まだいい方なのだが、それでもスタート地点にたどり着くまでに3分ちょっとかかった。
芋荒い状態の中、ぞろぞろと2キロほど青梅駅前まで走ってくると、
「帰ってこいよ〜、帰ってこいよ〜、帰ってこ〜いよ〜」
と紅白出場歌手松村和子のなつかしの演歌がスピーカーから大音響で流れてくる。
いいねぇ。この感覚。
思わず笑みがこぼれる。
今回の目標タイムは2時間20分。
いつも欲張るのが僕のいけないところ。
思えばネパールへ行っていたので、前回走ったのは、3週間前。
スイムは、帰国してから毎日2キロは泳いでいたが、やはり走る筋肉はちょっと違うからね。
それでも1キロ5分を切る目標タイムに設定したのは、このコースは試走していたから。
長距離の練習では、去年から青梅によく来て走った。
コースを知っているから力の配分もバッチリ・・・のはずだった。
10キロで、46分。折り返し地点で1時間。
帰りは下りなので、結構行けるかも、と思ったが、徐々に足が上がらなくなる。
20キロで1時間32分。このペースじゃ、疲れるのが当たり前。
ハーフじゃないんだから。あと10キロもあるんだぞ、っと思ったとたんヘロヘロになってくる。
こんな時、沿道の応援がなにより心強い。
特に青梅の沿道の人びとの応援は、あったかい。
あちこちで手を伸ばして、私設エイドステーションができあがっていた。
チョコレートや飴、スポーツドリンク、ミカンにレモン、かりんとうまで。
僕も氷砂糖やバナナをいただき、なんとか元気を取り戻す。
青梅市内に入り、あと2キロ。
「帰ってこいよ〜」は、いつしか青梅音頭?のようなものになっていた。
ラストスパートする力は残っていなかったが、それでもペースは保ちゴール!
2時間24分45秒。
目標タイムは、もちろん無理ではあったが、1キロ5分の壁はこえられてホッとした。
これも青梅の人びとのおかげだろう。

民家に戻ると、すでに数人の早い選手は着替えを済ませていた。
「また、来年会いましょう」
そう、挨拶して帰っていく選手たち。
名前も職業もなんにも知らないけれど、一年に一度出会える顔。
「走る」ということだけで繋がっている。

なんとなくいい感じ。


1999年2月17日(水)        ひねくれものの居場所

 

以前「ヤセ」と命名しているのら猫のことをこの日記に書いたことがあったと思う。
今日もまたそのヤセに出会った。
いつもの同じ場所・・・一台やっととめられるほどの民家の駐車スペース。
寒いんだし、天気がいいのだから日向でゴロゴロすればいいのに、なぜかいつも車の下に寝ころんでいる。下はコンクリートだからなおさら寒いはず。
ほんとにひねくれもんなんだから。

ネパールから直行便で関西空港に着いた。
羽田までの乗り換え時間が2時間強。関空に来ると必ず行きたくなる場所がある。
空港から歩いて2分のところにあるホテル日航のプール。
ヴィジターも受け入れてくれるので、乗り換え時間に余裕があると必ず足が向いてしまう。
でもそのために山に行くのに水着とゴーグルをわざわざ持って来ているんだから
物好きといわれてもしかたないだろうなぁ。
おまけに乗り換え時間はわずかに2時間ぽっち。
そんなに広いプールではないんだけど、ジャグジーもあるし、人も少ないし・・・。
ゆっくりできる。時間つぶしには絶好の場所。
空港ターミナルの人混みでウインドショッピングなんてしているより、よっぽどリラックスできる。
おすすめです。
で、1時間ほどゆっくりして、あわただしく空港に戻ろうとしたら、受付の人が声をかけてきた。
「よくいらっしゃいますね」だって。
確かここ2年ほどで4回くらいは利用したけれど・・・。
よく人の顔を覚えているなぁ。さすがにプロっという感じ。
おまけに、なんと無期限のタダ券を2枚もくれた。ラッキー。
僕にとって居心地のいい場所のひとつになりそうだ。

居心地のいい場所といえば、東京にもある。
そんなにしゃれたところじゃない。
あの安いコーヒーショップ「ドトール」だ。
とはいってもドトールならどこでもいいってわけじゃない。
原宿の表参道沿いにあるドトールがグッド。
原宿の街自体はなんとなく落ちつけないのだが、
ひと駅だし、大きな図書館があるので行く機会が多い。
それでたまたま入ったのがこのドトール。
2階の表参道が見晴らせる場所に座って、街をボッと見るのが結構楽しい。
道を歩く最新ファッションの若者たち。
オヨヨっていう髪型を斜め上から、眺める。
「ほうほう、いまどきはこういうものが流行っているのか・・・」
(どんどんオヤジくさい口調になっているかなぁ)
な〜んてことをリサーチするつもりは毛頭ない。
なんとなく無縁な世界をだらだらと傍観しているのが好きらしい。
斜め上というところが重要で、道行く人の顔の雰囲気や表情が微妙にわかりにくいところがいい。
『あぁ、カワイイ』とかそういう感情が働くとちょっと疲れるようだ。
人の頭の流れをBGVにするくらいがリラックスできるのだ。

つい最近、最寄り駅の代々木八幡駅のそばにドトールができた。
2階席からやっぱり道が見晴らせる。
状況は一緒なんだけど、なぜか居心地はイマイチ。
空気が悪いようだ。
原宿は、とっておきのその場所一帯が、禁煙コーナーなのであります。
そんなにたばこの煙は苦にならないんだけど、
やっぱり居心地の良さとなると、減点。

ヤセのやつも、きっとあの車の日陰がかなり居心地がいんだろうなぁ。

 


1999年2月5日(金)        日だまりの異変

 

ここのところかなり冷え込んでいる。
許せない寒さだ・・・などと書くと、おや?と思う人もいるかもしれない。
マイナス20度の厳冬のヒマラヤなんかに行ってるから
さぞかし寒さに強いんじゃないかと思っているでしょう。
実は寒がりだ。
というより場所によって身体が許せる寒さの度合いが変わるようだ。
きっと心構えの問題なんだろうけど。
東京で氷点下になったりしたら、身体が適応できない。
困ったもんだ。
長野県出身なので、田舎から出てきた当初は、東京のこの冬の天気の良さには驚いた。
「東京の人はずるいなぁ」と思ったもんだ。
でも東京暮らしが長くなると、そんな特権なんかとうの昔に忘れてしまっている。
で、最近の楽しみが部屋の中の日だまりでヌクヌクすること。
エアコンなのであんまり部屋があたたかくならないせいもあるが、
縁側の猫のようにほんの5分でも日差しの中で目をつぶっていると幸せな気分になってくる。
悪友にその話をしたら「ジジクサ〜イ!」といわれたけれど。
ささやかな冬の楽しみ。

それで今朝、そのヌクヌクタイムに窓からベランダをボッ〜と見ていると、
雨ざらしになっているリュウゼツランの鉢植えに異変が。
なんとつぼみが12個もついている。
ビックリ。
実は、3年ぐらい前にもらったんだけど、放ったらかしにしていた。
水なんかもほとんどあげていない。
白い花が枯れてからは、ずっと葉っぱだけの姿だった。
確か去年は花をつけなかったはず。
でも・・・去年はこの時期ヒマラヤに行っていたからなぁ。
蹴飛ばしたことがあって、鉢もかなりヒビ割れている。
なんか、「ごめんなさい」って感じ。
放任していただけにその逞しさに脱帽。

今度、新しい鉢を買ってきてあげようっと。

身体をヒマラヤモードに変えなければ・・・。明日からネパール。

 


1999年1月17日(日)        たちはだかる壁

 

かなりハードな1週間だった。
例のごとく仕事が重なっていた上に、
たまたまエントリーしていたハーフマラソンのレースが続いたのだ。
10日は横田基地を走る毎年参加しているレース。
去年は、そのあと仕事で沖縄便の飛行機に飛び乗ったことをこの日記に書いたと思う。
もうひとつは15日の成人の日の東京ハーフマラソン。
このレース、くじ引きなのでエントリーしてもダメなことがある。
去年は、くじ引きにもれた。
今までくじで当たったのは半分くらいの確率なので、
今年もあんまり期待していなかったのだが、見事当たってしまったのだ。
10日のレースから、たったの5日。
昨年からいつもよりは練習していたけれど、こんなにレースが接近していたことはないので、
10日のレースは、押さえ気味で走ることにした。

横田基地のレースは、天気もよく、滑走路を走るのでアップダウンも少ない。
押さえ気味だったにもかかわらず調子がよくって、
ゴールしたらなんとここ数年のベストタイム。
1時間31分47秒。
や、やり〜!っと気をよくしたのが悪かった。
押さえ気味でこの記録なら、
『15日は長年の夢だった30分を切れるのでは』と思ってしまったのだ。
15日に向けての5日間は、なんとなく落ち着かず、
仕事の合間にプールで身体をほぐしたり、サウナにいったりと万全の体制で夢の記録にのぞんだ。
前日の新年会だって、ビール一杯だけにとどめた。
結構、意気込みが凄かったのだ。

成人の日の天気は、午後から雪が降るかもしれないというあいにくの曇り空。
昨年まで都庁から都心を通って大井競馬場まで走るコースだったのだが、
今年からお台場を走るコースに変更になった。
その分、海風がきついんじゃないかなぁ、と思っていたが、
幸いそれほどではなく、日差しがないわりに寒くなかった。
1キロ4分〜4分30秒を目安に走る。
10キロ地点で42分。いい調子。
このままペースを守れば30分を切れるぞ。調子もそんなに悪くない。
ペースをキープしながらも、さらにランニングハイの力をかりて目をつぶりながら足を上げ速度をあげる。宙に浮いている感じ。ストライドが長くなるのがわかる。
こりゃ、いけそうだ。
あと1キロのところで、ふと時計をみると、なんと1時間29分台。
この時のショックといったら。
ガガ〜ン!って感じ。
無惨にも「29」はあっという間に「30」の数字に。
と、とたん力がドッと抜けた。
急に筋肉が痛み出す。オヨヨ。
最後の数百メートルが力が出ない。
まわりのランナーは全速力を出して懸命に走っているのに、脱力感で足が上がらない。
結局、ゴールタイムは、1時間31分34秒。
数秒ではあるが、ベストタイムは更新できた。
でもちっとも嬉しくないのだ。
こんだけ調子がよくって、かなりギリギリまで酷使して頑張って、
この記録なんだ・・・と自分の限界を思いしらされた感じだ。
30分の壁は、僕にとってはかなりのハードルのようだ。

さっき、横田基地のレースの記録証が届いた。
それを見て、ビックリ。
なんと走った距離が20.150キロで、ハーフの距離より100m近く短かったことになる。
な〜んだ。30分を切れるなんて最初から無理だったのじゃないか・・・。トホホ。

それでも、いつかは、30分を切ってやると、どこかで思っている自分だった。
こりないねぇ、ホントに。

 


1999年1月8日(金)        女神はご機嫌ななめ?

 

今年の幕開けは、バタバタしたものになってしまった。
一昨年に引き続き、ギアナ高地のロライマ山というところで年を越したのだが、
今年は、全く一昨年とは違っていた。
ギアナ高地に住むペモンのインディオたちは、
女神としてロライマ山を崇めてきたのだが、その女神がご機嫌ななめだったのだ。
ちっとも天候が良くならない。
千メートルも切り立った台地上の山の上には幾重にも白い雲がたちこめている。
ジャージャーと雨は降り続くし、おかげでテントは水浸しになるし・・・。
「最近ドッと押し寄せてくる人間どもに嫌気がさしているんだ」と現地のガイドMRイヴァンは語る。
「でも人が来ないと僕らは食いっぱぐれちゃうし。だからいつも尊敬の念を持って山に登るんだけどね」まぁ、そんなわけで、天候に左右されっぱなしで、
実感のないままあっという間に年を越してしまったのだ。

イヴァンと一緒に仕事をするのは、これで2度目なのだが、
かなり自分と同じ要素を持っている人間だと思う。
乾期に山岳ガイドでめいっぱい稼ぎ、あとはインディオの小さな村で自給自足の生活。
もともとベネズエラの首都カラカスの大都会の人間なのだが、
いつの頃か自然の中で暮らすことが当然だと思うようになったという。
思うだけなら都会の人間は、僕を含め少なからずそんな気分の人も多いと思うのだが、
実行に移すとなると、なかなか。
でもイヴァンはそれを実行に移した。
ブラジルとの国境の町からほこり道を3時間ほどジープで行ったところの土地をインディオから借り、
インディオのコミュニティの中に入り、じゃまをするのではなく、同じように生活をしているそうだ。
やぎを飼い、野菜を育て、連絡は無線のみ。
借りている土地には、ダイヤモンドの原石がゴロゴロしているんだそうだが、
彼にはそんなものは目に入らない。
「僕のダイヤモンドは、ワイフと彼女のお腹の中にいるベイビーだからね」
イヴァンは、嬉しそうに語る。
また、この奥さんというのが美人で・・・。トホホ。
うらやましい限りだ。

別れ際に「今度はぜひ、家に遊びに来いよ」ってイヴァンから言われた。
その時は、無理かなぁと思っていたのだけれど、
いつの日か、本当に行ってみたい気になっている。

 


1998年12月25日(金)        得な顔のつくり第二弾?

 

窓から見える東京タワーのあかりが、いつもと違う。
下の方が消えていて、上の部分だけ宙に浮いている。
これがクリスマスバージョンのあかりなんだそうだ。
キャンドルのつもりなのかなぁ。
街は、ホントにクリスマス一色だった・・・らしい。
結局、もめていた原宿の電飾も見に行かなかったなぁ。
ひと駅で行けるほど、近くに住んでいるのに。
毎年、年の瀬は、なんとなく落ち着かなくて、イベントどころではないのが現実だ。
思い返せば、大学を卒業して以来、ここ10数年、日本で年を越したことがない。
いつだって仕事なのだ。
人が休んでいる楽しい時こそ稼ぎ時なんだからしかたないね。
トホホ。

最近、ばったり人によく出会う。
最初は、赤坂見附の駅で丸の内線から銀座線に乗り換える時に、
めったに会わない友人に、ばったり。
次は、たまたま忘年会をしようと遊びに行った友人宅のそばのコンビニで
ダイビング仲間の女の子にばったり。
最後は、渋谷でメシやを探していたら、普段は、富山に住んでいる人に、ばったり。
たまたま上京していたんだって。
人がわんさかいる雑踏で突然、視界の中に知ってる顔が飛び込んでくる。
びっくりするよ。
こっちが気がついたんだったら、まだ余裕があるからいいんだけど、
この3回は、向こうが先に気がついたもんだから、びっくり度が倍増!
きっとまぬけな顔してたんじゃないかな。
挨拶なんかもソコソコになっちゃって、結局きちんと話もぜずに別れてしまった。
せっかく会ったのにねぇ。
それで、富山の人からメールが来た。
何故、渋谷の雑踏の中で僕をみつけたかって・・・理由が書かれていました。
遠くからでもすぐ僕のことがわかったらしい。
顔の色があたりの人とは明らかに違っていた模様。
黒い〜んだそうだ。最近は焼いてないのになぁ。トホホ。
これもやっぱり得な顔のつくりの第二弾だといえるのだろうか・・・。

そんなわけで、今年もまた仕事で黒さに磨きをかけてきます。
メリークリスマス&よい年を!


 

1998年12月10日(木)        どっちに入る?

 

寒い。
とうとう厳冬のヒマラヤで活躍したモコモコのダウンジャケットを着てしまった。
まだ12月なったばかりなのに、少ない我が衣装の中から、最後の切り札を出してしまっていいものか。まぁ、風邪ひくより、いいか。
というのも、昨晩、ニュージーランドから帰ってきたばかりなのだ。
思ったより暑くはなかったけど、南半球は、今は初夏。
この寒さは、こたえる、こたえる。

ニュージーランドは2回目。
今回は、北島のみ。それもオークランドまわりの取材だった。
オークランドは、ニュージーランド最大の都市で、人口100万人。
そこから車で2時間半のところにあるコロマンデル半島というところへ行った。
オークランドに住んでいる人が、気軽に週末に自然を楽しめる場所だ。
東京でいったら、伊豆とか箱根とかの感覚かなぁ。
ちょうど週末に、オークランドからコロマンデルに向かったんだけど、
まず驚いたのが、モーターウェイと呼ばれる高速道路が、無料だということ。
しかもスキスキ。渋滞なんか、ナイ。
まぁ、人口が少ないんだから、当然か。
そんでもって、コロマンデルで、山に登ったり、森を歩いたりしたんだけど、やっぱり人が少ない。
週末で、こんななんだから、平日だったら、もっと少ないだろうなぁ。
伊豆とか箱根の観光地とは大違い。
自然を本当にゆったり楽しめるっていう感じ。
平均年収にすると、たぶん日本の方が多いんだろうけど、
生活や精神的な「ゆとり」ということを考えると数段ニュージーランドは優れているような気がする。
このあたりは中流の家です、と説明された庭つき一戸建・・・・東京だったら、豪邸だろうなぁ。

空港で画期的なことを発見した。
女性トイレの表示で「women」だけじゃなくって、「unisex」という表示も一緒にあったんだ。
ニューハーフの人たちの人権が守られているってことかなぁ。
でも、男性トイレの表示は「men」のみ。
おなべさんたちは、どっちに入るんだろう?
人権運動が活発というより、「unisex」の表示は、なんとなく社会が優しいという印象を持った。
あまり先進国ってところに縁がないので、僕にとっては、はじめての発見。
でも、先進国では、最近の常識なのかなぁ。
他の国で、みかけたことのある人は、ご連絡ください。

今回、いろんな場所で、結構飛び込みで取材したんだけど、嫌な顔ひとつせず、親切な人が多かった。
突然の訪問したにもかかわらずホームメイドのケーキをごちそうになったり。
たまたま、いい人に巡り会ったのかもしれないけど・・・。
とにもかくにも、精神的なゆとりは、人間を優しくするのかもしれない。
 


1998年12月1日(火)        人間ってやつは

 

もう二日も経つというのに、筋肉が痛い。
それもそのはず、二日前の日曜日、フルマラソンを走ったのだ。
42.195キロ。
練習では何度が走っていたけれど、フルマラソンのレースははじめてだった。
今まで2度エントリーはしていたのだが、2度とも仕事が入ってしまい出ることができなかったのだ。
市民ランナーなんだから時間など気にせず楽しんで走ればいいのだが、
それでも2カ月前から、少しずつこの日のために練習して調整をしていた。
とはいってもやっぱりレースと練習では、雲泥の差。なんたって緊張感が違う。
それにペース。まわりの走者の影響は、気をつけていてもハイペース気味になる。
途中でつぶれてしまうのが、心配だ。
そんでもって、今回は、自分に目標をたてた。
「歩かないで走りきること」と「4時間をきること」のふたつ。
マラソンは、30キロの壁があるといわれている。
いくら調子よく走っていても、30キロあたりで、ガク〜ンと力が抜けてしまうのだ。
その時に、どのくらい頑張れるかが、4時間をきるポイントなのだ。
だから、ゆっくり目にスタートして後半つぶれないように、と心に決めていた・・・。

薄日の差す絶好のマラソン日和。
心配していた「つくばおろし」の強風も思ったほどではなさそうだ。
ドキドキしながら15分前からスタート地点で待つ。
のんきものの自分でもかなり気合いが入っているなぁ、と焦る気持ちを冷静にする。
「ゆっくり、ゆっくり」こうなると、暗示にかけるしかない。
5分前、緊張が高まる。1分前、アドレナリンがドドドッと体内に溢れてくるようだ。
ド〜ン! 
スタートの合図で、参加者の長蛇の列が動き出した。
フ、フ、フと軽く息を吐き、その列に続く。
と、とたん、「ゆっくり、ゆっくり」という暗示が吹っ飛んでしまう。
いけない、いけない。ペースダウン、ペースダウン。
今回は、ジム仲間で、トライアスリートの矢内さんが途中まで一緒に走ってくれた。
ペース配分は、これで安心。とりあえず1キロ5分のペースで走ることにする。
それにしても、練習のペースからすると、ハイペース。
大丈夫かなぁ。
5キロ地点26分。10キロ地点51分。中間地点で1時間48分で通過。
ちょっとずつペースは落ちているのだが、その分快調、快調。
気分よく走れている。
「ここから頑張れば、もしかしたら、夢の3時間30分を切れるかも?」
なんて虫のいいことを考えはじめていた。
ペースを少しずつ上げる。それでも30キロ地点までは、調子がよかった。
バナナやチョコレートを補給して、ラストスパート。
30キロの壁も感じない。
ここで安心したのがいけなかった。
35キロを過ぎた頃から、左足のくるぶしの内側横の筋肉がつりそうになってきた。
練習ではここからさらにペースを上げたのだが、足が思うように上がらない。
無理をすると本当につってしまいそうだ。
もう、そうなると足をかばいながら走るしかない。
「絶対に歩かないぞ」と気力だけで走る。
少し走ると痛みが取れてきた。
うむうむ、いけそうだとスピードを上げると、今度は右足の同じ筋肉が痛み出す。
こりゃ、やばいと、またまたペースダウン。
それでも、沿道の応援に助けられて、なんとかペースを守って、ゴールの競技場に入った。
ゴールの垂れ幕が見えると、さすがに嬉しさがこみ上げてきた。
そして、ゴール。
3時間48分14秒。
夢の3時間30分は、到底無理だったけど、歩かずに完走できたし、4時間も切れた。
当初の目標はクリアできたのだ。
今回は、嬉しい結果がもうひとつ。
ジムのインストラクターが2時間36分台を出して、大分別府マラソンに出場する権利を獲得。
すごいなぁ。
身体への負荷は、僕ら市民ランナーとは比べものにならないだろうけど、
かなり追い込んで練習をしていた彼でさえ、足が曲がらないほど筋肉痛になっていた。
やはり筋肉痛はランナーの勲章。
この痛さにめげずにこれからも頑張ろうっと。
2時間36分台なんて絶対無理だけど、僕にとっては夢の3時間30分を、いつかは切ってみたいなぁ。

あぁ、人間ってやつは、どうしていつも欲がでるんだろうねぇ。

 


1998年11月18日(水)        ゴミだけど。

 

用意万端!
ベランダに出て、モコモコのダウンの寝袋をゴアテックスのシュラフカバーに入れる。
自分はフリースを着て、その上からダウンジャケットを着込む。
コーヒーメーカーからは、香ばしい匂いがたちこめているし、
口淋しい時のためにチーカマも準備した。
あとは、寝袋の中にくるまり、その時を待つだけ。

11月18日の未明、獅子座流星群が東南の空に出る。
一週間くらい前から、そんな話題がチラホラ。
誰かと夜空を見るってガラじゃないし、おまけに夜更かしが苦手。
でも「東南の空」というところにソソられた。
「いっちょ、見てみるか」という気になったのだ。
前にも書いたけど、この部屋東南向きで、高台にあるので3階なのに空が広い。
東京タワーも副都心のビル群も見えるのだ。
いいところはなにもないうなぎの寝床のような狭い部屋なのだが、
この眺めだけでここに住んでいるといってもいい。
33年に一度という流星群が東南の空に出るなんて、まさに縁じゃないか。
それで見てみようという気になったのだ。
仕事柄、山道具は揃っている。
マイナス20度の厳冬のヒマラヤで活躍した愛用品をロッカーから引きずり出してきた。
完璧、完璧。

夜の10時前から深夜の2時まで仮眠して、いざ勝負。
寒気が来ているのでかなり寒くなるとニュースでは行っていたのだが、思ったほどではない。
ダウンジャケットを着込んだまま寝袋に入ると・・・暑い。
温度計は10度くらい。
な〜んだ。
と決死の覚悟はあっという間にしぼんでいく。トホホ。

ずっと東南の空を直視していると、スッと流れ星。
最初は「オッー」と思わず声を出していたが、そのうちにもっともっとという気になってくる。
東南方向だけではなく頭上にも流れる。
薄明るい都会の空でも次々に流れるのが見えるじゃないか。
こんなに東京で夜空を見上げていたのははじめてだ。
大気圏に入って空気が流れているせいか、止まっているいつもの星が呼吸しているようだ。
眠気の中でボッとしていると、時折、ひと筋の光が流れる。
彗星が落としたゴミだといってしまえばそれまでだが、
星屑たちのパフォーマンスはかなりロマンチックではあった。
ヌクヌクした寝袋の中で贅沢な時間が過ぎる。
気がつけば、あっという間に白んできていた。
結局、降るようにというわけにはいかなかったが、それなりに時間を楽しんだ。
空気の澄んだヒマラヤで見たら、もっとすごかったんだろうなぁ。
でも、都会の真ん中にしては、上出来ということにしよう。

あぁ、眠い。

 


1998年11月11日(水)        雲間からわずかな光

 

雲間からわずかに日が差した。雲が流れている。
天気予報では、午後から晴れるというのだが、雲はまだまだ厚い。
今の僕の事情に似ているなぁ。今日の天気。

この1週間、いろんなことがあった。
取材で東北の角館に行った。
今回は、京文化を色濃く残す角館で茶の湯に親しむという企画。
海外ばかり行っていた頃、ふと日本の昔ながらの文化に興味を持って、
能を見たり茶道を習いにいったことがある。
(やめたわけではないが、ちょっと今はご無沙汰)
一畳のたたみの中に、実に機能的にしかも繊細に美しく展開される作法に魅了された。
そこに流れる時間が好きで、自分はなかなか点てる作法を身につけられないでいるが、
うまい人の作法をみているだけで心が休まる感じだった。
そんなわけで今回の企画を思いついたんだけど、なんでも興味を持ってやってみるもんだ。
思わぬところで役に立つ。
歳月を重ねた建築物の武家屋敷の和室でいただく抹茶は格別でありました。
それから角館焼きという焼き物があって、抹茶茶碗も作る機会があった。
焼いた後で、1カ月後に、送ってくれるそうなので、できあがりが楽しみ。
(詳しくは、JR東日本の雑誌「TRAIN VERT」1月号でどうぞ)

この時期、年末進行なので、締め切りもきつい。
今朝、原稿をあげてホッとしているところ。
実は、その締め切りの迫る中、日曜日は昭和記念公園で10キロのランの試合があった。
3日の文化の日にまた、青梅に行って青梅マラソンコースを
フルマラソンの距離42.195キロ走っていたので、余裕のつもりだった。
しかし、試合の10キロのペースは、ことのほか早い。
1キロ4分のペースを維持するとかなりのハイスピード。オヨヨ。
辛い辛い。
内臓が飛び出るかと思った。
走り終わってみると、もっと頑張ればよかったと思うほどそんなに疲れは残っていないのだが、
今の体力だとこれが限度だなぁ。それにしても、早い人は早い。

この不景気の影響で、
1カ月前にここ1年の間一番頑張って取材していた仕事がダメになりそうだったんだけど、
昨晩、結果が出て、なんとか持ちこたえた。
当初の予定とまではいかないけれど、
どしゃぶりだった気持ちもようやく今日の天気のように雲間から光が差しています。
「元気がないね」とメールくれた方もいて、
気持ちが文面にでるなぁとあらためて反省したものです。ご心配かけました。

ヒマラヤの群青の空のように、晴れるといいね。

 


1998年11月2日(月)        得な顔のつくり

 

あっという間に11月。
ついこの間、こんなことがあった。外からトントンとドアをノックする人がいる。
普通セールスかなにかだと、インターホンをならすので、インターホンごしにお断りするのだけれど、
トントンと叩かれたのでなんだろうと、つい開けてしまった。
すると新聞の勧誘。
「しまった」と思ったんだけどしかたなくつくり笑いをすると、
その中年のちょっとくたびれたセールスマンは、僕の顔を見るなり、
「あぁ、日本語わからないよね。どうも、どうも」
と勝手に納得してドアを閉めてしまった。
どういうことだろう?
10月はずっと東京にいたから無国籍化していた顔の方も、だんだんと白くなってきたはず。
なのに・・・。
うまく勧誘を撃退したのだから、まぁ、いいか。
得な顔のつくりです。

電車の中で、いきなりアジア系の人から話かけられたこともあるし、
話かけられずとも、アジア系の人からなんか親しみをこめた微笑みを受け取ったりする。
なんとなく嬉しいもんだ。
まぁ、もともと華僑系なんだから、顔も東南アジア系ではあるのだけれど、
やっぱり色が黒いのが決定打。
都会にいると見知らぬ他人との交流は皆無。
へたに関係を持とうとすると怪訝そうな顔をされるのがオチ。
ストーカーかなんかに間違えられるかもしれない。
でも、日本の社会に生きる異国の人びとの間には、
なんとなくお互いに励まし合うような優しい社会ができあがっているんじゃないかな。
微笑みの向こうに「頑張ろうね」というような気持ちがこめられているような気がする。
そんなことを感じられるのも、この顔のつくりのおかげかも。

ヤキイモの季節になった。
最近のあのそそるようなヤキイモ屋の呼び声は、録音されているようだ。
リピートされている呼び声をならしながら、
近所に来たヤキイモ屋サンは、運転席に座って携帯電話で誰かと話している模様。
耳に入ってきた言葉は、なんとタイ語。
タイ人のヤキイモ屋さんだったのだ。
別に買うつもりで外に出たのではなかったのだが(ホントだよ!)、
ついついヤキイモを買ってしまったのだった。

ホクホクでうまかった。

 


1998年10月15日(木)        ガラにもなく

 

ナショナルジオグラフィックの今月号の付録に、
サテライトから写した地球の夜間だけの明かりを合成して地図化したものがついていた。
衛星から夜の地球をみると、こんな風にみえるんだなぁ。
まずは、人工的な明かり。
光の強さは先進国とそうでない国とには差があるけれど(もちろん電気のないところもあるわけだから)、人の営みがわかるというか、
特に、北朝鮮の部分が漆黒の闇になっていたり、
ナイル川沿いだけ明かりがあって、あとは真っ暗だったり(まわりは砂漠だから)。
シベリヤ鉄道沿いに明かりがあったり・・・。
おもしろい。
あと驚いたのは、かなりの範囲で火災が起こっているということ。
東南アジアとアフリカのサバンナのあたりとオーストラリアが、かなりひどい。
他にも日本近海やマレー半島、アルゼンチン沖には、漁船団の光が照っているし、
シベリアや中近東のあたりは油田から出る天然ガスの光で黄色くなっていたりする。

この地図を眺めていたら、無意識のうちに、行ったことのある場所を目で追っていた。
イラクで燃えていた油田の光はこれかな、とか。
タイのタオ島から見えたイカ釣り漁船の明かりはこれかな、とか。
インド・ヒマラヤのスピティの人たちの明かりはこれかな、とか・・・。
まぁ、実際はわずかな光のひとつに過ぎず、見えるわけないんだけど。
そんなこんなしているうちに、出会ったいろんな人の顔が浮かんできてしまった。
東京の明るい光の中に埋もれていると、目先だけのことにオタオタしていたような気がする。
「頑張れ」とひとつひとつの明かりが語りかけているように思えた。

ガラにもなく、ちょっとセンチメンタルな、秋です。

 


1998年10月12日(月)        ケ・ケ・ケ!

 

週末も、僕の気持ちとは正反対の秋晴れが続いた。
今日も、引き続き晴れマーク。
先週中盤にちょっと落ち込むことがあって、
そういう時って、天気だけでも元気な方が、救われるっという感じ。

10日の体育の日は、青梅までいって、マラソンコースを走ってきた。
風は涼やかで、絶好のラン日和。ペースは、ゆっくりめでスタート。
快調だったので、15キロの折り返し地点よりさらに進んで、鳩ノ巣という駅まで走って折り返した。
走行距離は、約40キロ。
途中、給水とストレッチのため4回、5分ほど休んだ以外は、走り続けた。
途中から少しあがったペースも最後まで落ちなかった。
気分が下がり気味のこういう時は、身体を酷使していたほうが楽になる感じ。
ちょっとマゾヒズムのよう。トホホ。
でも、確実に元気になってきている模様。

そういえば、最近読んでいる民俗学の本の中で『ケ』という民俗語彙のことが書かれていた。
ケとは、生命力や活力を表現する『気』という意味で使われることがあり、日常を動かす力に相当する。
『産気づく』とは、出産の活力が発生した状態をいうわけだ。
『ケ』が止む(気が病む)と病気になり、
『ケ』が枯れるとすなわち穢れるのだ。
『絶気』という言葉があって、これは、死に該当するそうだ。
絶気は最後の段階であるが、それ以前に、ケ止み、ケ枯れのプロセスが繰り返し起こり、
そのたびごとに人間は繰り返し、活力を回復させようとするのだそうだ。
民俗語彙で飢饉のことをケカチといったそうなんだが、
これは『ケ』が欠ける状態という意味からきているらしい。
なかなかおもしろい。

とにもかくにも『ケ』を早くとり戻さなくてはね。

 


1998年10月4日(日)        嗅覚にうったえる秋

 

秋晴れの気持ちのいい日曜日。
9月に入って、日曜日の午前中はジムの仲間とランの練習をしている。
本日のコースは、多摩川、等々力渓谷方面。
日差しは、けっこうきついのだが、風が心地よい季節になった。
走っていても、気持ちがいい。
ジムのある猿楽町から目黒川を通って、246号を多摩川へ。
途中、桜新町の駅に逸れて、『さざえさん通り』を道草した。
二子多摩川で給水した後、多摩川の土手を走って、等々力渓谷へ。
はじめて来たんだけど、東京とは思えぬ場所。
渓谷を流れる川も透明でびっくりする。
環八を田園調布へ向かって走ったあと、自由通りを抜けて中原街道へ。
洗足池で休憩のあと、五反田付近から目黒川の遊歩道に入り、ジムに戻った。
走行距離30キロ強。
ゆっくりではあったが、かなり練習になった。
都内を走るのは、排気ガスで苦しむのだけれど、本日は日曜日で車も少ない上に、
なるべく住宅街の中を走ったので、楽しいランになった。
頭の中の地名が、自分が走ることによって地図化されていく過程もおもしろい。
たぶん車に乗っている人は、こういうふうにして道を頭に入れていくのだろうなぁ。

それにしても、走っている間中、キンモクセイがずっと香っていた。
あのなんともいえない甘い香りに包まれて走っているという感じ。
黄色い小花は、杉花粉を連想させてあまり好きではないのだが、香りは、いい。
東京は、特にキンモクセイを植えているところが多いんじゃないかなぁ。
いたるところから、自分たちの存在を僕の嗅覚にうったえてくる。
秋だなぁ。

キンモクセイとういうものが、僕の頭に強烈にインプットされたのは、中学の頃。
教室の花瓶にキンモクセイが生けられたのだ。
持ってきたのは、好きだった髪の長い女の子。
その香りがなんとなく彼女とダブったわけ。
それからは秋になって香りがするたびに彼女の顔を思い出したもんだ。
でも、それも数年だった。
淡い気持ちが薄れたのもあるが、芳香剤でキンモクセイというのが出て、
キンモクセイの香りが身近になりすぎてしまったんだなぁ。
やっぱり、フッとどこからか香ってくるとありがたみもあるけど、
トイレに入るたびに、香ってくるんじゃあね。
なにごとも、『過ぎる』のはあきまへん。
でも、本日は、久しぶりに自然なキンモクセイを満喫した。
そんで、ちょっぴり淡い思い出がよぎったのかもしれない。
僕にも、ウブな頃があったのだよ。

とにもかくにも僕にとっての嗅覚の秋は、
キンモクセイってことになる。
めったに口にしない松茸では、ないのだ。


1998年10月1日(木)        のほほんのしっぺ返し

 

とうとう10月が来た。
実は、10月前半は仕事が込み合っているので、前倒しで原稿を書くはずだったのだが、
この一週間『のほほん』と過ごしてしまった。
なんで締め切り間近にならないとできない体質になってしまったのだろう。
あとで苦しむのは自分なのに。

でも、筆が進まない時は、どうやったって進まないものだ。
そういう時は、あまり考えすぎると落ち込むので、身体を動かすことにしている。
どうせ、パソコンに向かっていたって、眠気が襲ってくるだけだから。
毎日のプール通いは、もちろんのこと、雨の切れ目のわずかな曇りの時に、走った。
この秋から冬にかけて、かなりいろんな大会にエントリーしている。
10キロ2レース、ハーフ2レース、30キロ1レース、フル2レース。
(中には、抽選というのもあるのだが、30キロの青梅マラソンは、本日当たった!)
だ、だ、大丈夫かなぁ。
今年の夏は、泳ぎにはまったので、ほとんど走っていなかった。
9月に入って、週末にちょこちょこ走りはじめたけど、まだまだ練習不足。
そんなわけで、皇居とか駒沢公園へ走りにいったわけ。
18〜23キロコース。
調子は、泳いでいたおかげで基礎体力は衰えていなかったのか、走っていないわりには、好調。
でも、足はさすがに少し痛くなるが・・・。
それにしても平日に走ると、排気ガスがすごい。
都内はこれだからイヤだ。悪い空気をわざわざいっぱい吸って走っている感じ。
トホホ。しかたないか。

原稿に行き詰まっている時って、頭の中が忙しくて身体は暇でもてあましている感じ。
だから体育会系にハシルわけだけど、他にも、どうでもいいことひょんなことで気がついたりする。
たとえば、資生堂っていう化粧品会社あるでしょ。そのロゴのマークをよくご覧あれ。
『SHISEIDO』は、すべて大文字のデザインなんだけど、
最初の『S』と4文字めの『S』の大きさが、微妙に違うのを知ってました?
女性陣は、知っているのかなぁ。
まぁ、ホントにどうでもいいことです。
こんなことに気がつくなんて、よっぽどヒマジンといわれそう。

まぁ、とにもかくにも10月になってしまった。
しばらくは、のほほんのしっぺ返しの日々が続きそうだ。

 


1998年9月24日(木)        あと何秒?

 

こんな死亡記事がでた。

『僕は、2035年12月1日(土)に死にます。
葬式は12月3日に執り行いますので、忘れないようご自分の手帳に書いといてください。
なお、香典は今から受け付けています。
ちなみに、ご自分の死亡予定日をご存知でない方は、
Webサイト[Death Clock]
http://www.deathclock.com/で調べられます』

実は、この記事は、大学時代の悪友が編集している雑誌で彼が書いた編集後記に載っていたのだ。
悪趣味といえば悪趣味なのだが、さっそくこのあやしいサイトにアクセスしてみる。
まず自分の誕生日と性別をインプット。
最後の欄がミソで、選べる性格が3つに分かれているのだ。
normal(一般的)かpessimistic(悲観的)かsadistic(自虐的)か。
とりあえず、ノーマルでインプットしてみる。なんかドキドキする。
すると、ボンとデス・クロックが出てくる。真っ黒な画面で考えている模様。
数秒後、僕の死亡予定日が決定された。

『2035年2月7日(金)』

一週間も遅く生まれたはずなのに、悪友よりも早く死ぬらしい。
もっと恐いのは、その日付の上に、あと死亡するまで何秒かという秒数が刻々とカウントダウンされる。
数字があらよあらよと減るのだ。トホホ。
こうなったら、もうやけくそ。他の性格でやってみる。
悲観的なら2025年11月20日(木)。
なんと自虐的なら1998年12月7日(日)らしい。オヨヨ。

遊び半分でこんなことしてはいけないとは思うのだが、
自分の残りの時間が案外少ないことに気がつくには、いいチャンスかもしれない。
ノーマルでいっても残りの人生はあと37年。ちょうど折り返し地点ということになる。

悪友もその編集後記で書いていたけど、「明るく生きよう」っと。


1998年9月23日(水)        蜘蛛の住む恐怖の館?

 

またまた台風がふたつも通り過ぎた。
しかし、期待していた青空は、なさそうで残念。

数日前から、虫の音がしている。
「ジー、ジー、ジー」
邯鄲(かんたん)かなぁ。
秋だなぁ。でも、それがなんか部屋の中からするわけ。
たぶん代々木公園の方から飛んできて、たまたま僕の部屋に入ってきちゃったんだな。
かわいそうなんで、声のする方を探すんだけど、
コンピューターのデスクの裏の方で、なかなかみつからない。
しかたないんで、窓を開けておけば、そのうちに出て行くだろうと、放っておいた。
でも日中は忘れているんだけど、夜になると、また鳴き出す。
そんなことが数日続いている。
この部屋、冷蔵庫もないんで、食糧をまったく置いてない。なにを食べて生きてるだろう。

実は、(こんなこと書いたら、誰もうちに遊びにきてくれなくなっちゃうなぁ)
今年、僕の部屋の中で小さい蜘蛛が大量発生した。
全然、害はなくて、蜘蛛の巣もほとんど張らない。
はじめはビクッとしたんだけど、一緒に暮らしているうちに、けっこうかわいくなってきた。
まぁ、みつけたら外に逃がしてやったりしていたんだけど、
そのために捕まえようとするとかなりすばしっこい。
スルッと手元を抜けて、逃げる逃げる。
それが、最近とんとみかけなくなった。もしかしたら・・・。
思わぬ場所で、実は弱肉強食の自然界が存在していたりして。
でも邯鄲って肉食???

「ジー、ジー、ジー」
今夜もまた・・・。

いずれにしても彼にとっては、このちんけな館は、案外代々木公園より住みやすいのかもしれない。

 


1998年9月16日(水)        ビル越しの夕焼け

台風が駆け抜けた午前中が嘘のような、空。
青空が眩しい。
台風が運んだ熱帯の風が吹いている。
う〜ん、気持ちいい。
台風一過の昼下がり。

先週末は、佐渡だったのだけれど、思っていたより島の大きさが広くでびっくりした。
子どもの頃インプットされている地図の中の佐渡のイメージとは、まったく違っていた。
かなり高い山もあるし、収穫間近の稲穂の畑が続く平原もある。
とにかく広いという印象だ。
土曜日の夕方の6時頃、ちょうど西海岸にたまたまいた。
ふと見上げると、空が・・・。
空全体をうろこ雲が覆っていたんだけれど、その雲全部が真っ赤に染まっている。
そのなんともいえない強烈なそれでいて控えめな紅色には、思わず息をのんだ。
ほんの一瞬の出来事で、みるみるうちにその色は消えて闇に溶けていったけど、
いつまでもその色が頭の片隅に残った。

夕焼けといえば、なぜだかマダガスカルを思い出す。
ちょうど行った時期がそうだったのか、毎日がそれはそれは心に残る「赤」だった。
毎日、微妙に違うのだが、その日ごとにインパクトがある夕焼けなのだ。
うまくは表現できないけど、大気全体が染まるって感じかな。
いろんな動物も見たし、バオバブの並木道も印象に残ったけど、
数年たって今、思い出すのは太陽が地平線に沈んでいく時に大気全体に発するあの「赤」。
佐渡の夕焼けは、それに匹敵するくらい、すごかった。

東京でも、何度か印象的な夕焼けをみたことがあるけど、
チャンスがなかなかないのは、この部屋が東南向きだからだろうか。
でもビルに反射する夕陽をみながら、その日の夕焼けを想像してみるってのも案外いいもんかもしれない。

きっと、今日も台風のあとで大気が洗われているから、いい感じの夕焼けになるに違いない。

 


1998年9月9日(水)        動きの中の静寂

月が出ている。かなり膨張して少し赤みを帯びている。
満月から3日め。まだまだ、まぁ〜るい。
東京タワーのネオンも自然の光の強さには、かないそうもない。
もう、本格的に秋なのかなぁ。

沖縄から、さっき帰ってきた。
今回はちょうど沖縄の旧盆の時期で、仕事の合間にエイサーに行った。
エイサーは、沖縄の伝統舞踊で、16〜25歳くらいの若者が、街角の路地で舞う。
沖縄に住んでいる池澤さんや垂見さんは、毎年、エイサーを見に行っているそうだ。
集落ごとに踊りのスタイルが違うので、
昔ながらの踊りの伝統を今に残しているおすすめの場所に連れて行ってくれたのだ。
園田(そんだ)、平敷屋(へしきや)、屋慶名(やけな)という集落に毎晩、日替わりで行った。
集落ごとに、踊りの良さがあったのだけれど、僕はなんといっても、平敷屋の踊り。
まず、装束が渋い。灰色と白だけの衣装を身にまとい、裸足で踊る。
よけいなものをいっさい省いて、踊りに徹する。
100人近いの踊り手が一糸乱れぬ姿で単調なリズムの中で勇壮に踊る。
太鼓の力強い低音と指笛の天を突くような高音が交錯する。
ほとばしる汗。熱気がびしびし僕にも伝わってくる。
いつの間にやら踊り手の気迫の渦の中に吸い込まれていた。
平敷屋のすごいところは、その激しい動きの中にいいようのない静寂があること。
「動」の中の「静」。
垂見さんが、以前「涙がでるさ〜」と言っていた意味が、その時やっとわかったような気がした。

その晩もちょうど月が照っていた。
あと一日で満月の月が、うろこ雲の合間から覗いていた。
躍動する若い踊り手たちとその上の月。
そのフレームのワンショットが今でも目に焼きついている。

沖縄は知れば知るほど、奥が深い。

 


1998年9月3日(木)        ヨォ!

9月。今年の夏は、いったいどうしちゃったのか。
東京は日照時間が例年の半分だったそうだ。まったく。
降ればどしゃぶりで、被害はもたらすし。人間にしっぺ返しがきているようだ。
池澤さんの「楽しい終末」を思い出す。
・・・人間がいなくても、地球は全然困らない。
恐竜がいなくなったように、人間がいなくなる地球を想像してみる。
それでも自然の営みは平然と続く。
人間はどこに向かっていくのだろう。絶望のドン底からの希望。
絶望することができるだけ、まだましなのかもしれない・・・
確かそんな終末論だった。

台風の余波で、天気が大荒れの日のこと。
窓から黒い雲がどんどん流れていく。
時たま小降りになったので台風に備えて食糧を調達しようと、
コンビニにへ買い出しにいった(うちには冷蔵庫がない)。
道路に出ると、いつもの場所に「ヤセ」が寝ころんでいる。
ヤセは、灰色の中に白いブチがある野良猫だ。
病気でもしているのかと思うくらい痩せている猫だ。
それで、そんな名前を勝手につけさせてもらっている。
このあたりは住宅地なのでノラちゃんが結構たくさん、のんびり暮らしている。
僕が名前をつけているだけでも4匹はいる。
「八方」「渋茶」「オジイ」そしてこの「ヤセ」。
野良猫のコミュニティは、人間のコミュニティと実にうまく折り合いをつけて、
したたかに成り立っているのだが、人間さまの方では、それに気がついている人といない人がいる。
僕もずっと気がつかない方だった。
猫が気になりだしたのは、保坂和志という作家の「プレーンソング」という作品を読んでからだ。
ひとたび猫の存在が気になりだすと、いるわいるわ、あっちにもこっちにも。
猫の方も気づいている人には、ちゃんと挨拶をするもんだ。
その日も、ヤセは濡れた身体を横たえたままこっちをジロっとみる。
「ヨォ!」って感じ。
でもヤセは八方のように猫なで声(この言葉も考えてみればすごい)をだしたりして、
擦り寄ってきたりはしない。
ただジロっと視線を僕に向けるだけ。
貧相な体つきでみるからに弱々しいのだが、「かわいそう」という気持ちが起こってこないのだ。
それどころかその目つきには威厳さえも感じるから不思議だ。
生きてるって感じかな。
ヤセの視線にいつも襟を正す僕なのでした。

明日から、沖縄。


1998年8月18日(火)        モジモジのいいわけ

あっという間に12日が過ぎた。
その間に、丹沢、伊豆、信州と行っていた。
原稿は、なんと4つも重なっていたのだ。
仕事があるということは、ありがたいことだが、重なる、重なる。
暇な時は、暇なんだけどなぁ。
でも、そういう時の方が、緊張しているせいか仕事がはかどることも事実だ。
現に、昨日アップしてから、次の原稿にとりかかるのにモジモジしている。
来週の月曜に40枚の原稿があるのにもかかわらずだ。
本日も、掃除をしたり、洗濯したり、プールへ行ったり、本屋で気晴らししたり、
天気が悪いからのらないんだなんて言い訳したりして、なんとなくやり過ごしてきた。
トホホ。結局、一行も書いてない。(そんでもって、この日記をつけているわけ)

それにしても、天気悪くないですか、今年。
結構、天気に気持ちが左右されやすいタチなんで、青空が恋しい。
ただただ暑いだけで、スカッと晴れない、なんかすっきりしない夏。
いつもこんなもんなんでしょうかねぇ。

信州から帰ってくる時のこと。
中野で11時から約束があったので、朝6時50分松本発のあずさに乗った。
かなり眠たかったので、ぐっすり寝てしまっていたら、気がついたら電車が止まっている。
時計をみると9時ちょっと前。
もう甲府はとっくに過ぎているはずだけどなぁ、と思っていると車内アナウンス。
「お茶の水駅で、車両故障のため、中央線は全線不通になりました」
本当だったらあと、30分ほどで新宿に到着するはずだった。
よくみると、止まる駅ではない「相模湖」という看板をホームで発見。
でも約束の時間までは、まだ余裕だったので、そのまま座っていると、またまたアナウンス。
「当分、復旧のメドがたちませんので反対側のホームに止まっている各駅停車の列車にお乗り下さい。
高尾までいって、京王線に乗り換えて下さい」
トホホ。しかたなく、僕は乗り移ったのだが、半分以上の人はあずさに残ったままだった。
「すぐ動くさ」とみんな思っていたはずだ。
高尾まで行って、京王線に乗って新宿に着いた。
その時点で10時30分。
もう間に合わないからと中央線で中野へ行こうとすると、まだ、不通。
こりゃ、どうしたものか。
ん、で思いついたのがバス。
自宅のそばから中野行きのバスが出ているのを思いだしたのだ。
あわてて小田急線に乗り込んで、ついでに荷物を自宅に置いて山手通りのバス停へ。
11時には、バスに乗り込んでいた。
それがまた、道がお盆なので空いていて早いこと。
15分もしないうちに中野駅に着いた。
まぁ、ちょっと遅れてしまったが、トラブルのわりには、早くついたと思う。

ところで相模湖駅で残った人たちは、あれからいったいどうしたんだろうなぁ。
とちょっぴり心配する僕であった。

 


1998年8月6日(木)        正しい夏の過ごし方

水曜日の午後2時にひとつ原稿がアップした。
知り合いの女性カメラマンが房総の岩井というところに引っ越して、
その日の午後からパーティをしていていますとファックスをもらっていたのだが、
締め切りがあったので無理だと一度断っていた。
アップした開放感と、次の原稿締切が来週の月曜日だからと自分に納得させて、
東京駅発15時30分のビューさざなみ号に飛び乗った。
心地よい疲れの中、うとうとしながらも時折車窓からみえる海を意識の中で確認している。
気持ちがどんどん「うみ・うみ・うみ!」と高揚してくる。
信州育ちの僕にとって、海水浴といえば日本海の濃い蒼の海だった。
山間を抜ける大糸線にのって海に向かって行くときの興奮をふと思いだしていた。
思えば本当に久しぶりの日本での夏。
海水浴場なんてここ20数年行ってないなぁ・・・
などとぼんやり考えていると、17時すぎに岩井の駅に着いた。
駅前は、もうなんかローカルでいい雰囲気。
結構海までは距離があるはずなのに、海の香りがしてきそうな感じ。
商店で売っている新鮮そうな魚とか浮輪とか麦わら帽子とかが、そんな気にさせるんだなぁ。

引っ越し先は、高層マンションだったので、すぐ場所はわかった。
それらしき建物はひとつしかなかったから。
もちろんパーティはすでにはじまっていた。
まずはビールをグィっと。
角部屋なので、2方向の壁全面が大きな窓で海風が心地よく吹いてくる。
エアコンなんかいれてなくても涼やか。
とれたての魚の刺身や新鮮な野菜でつくった家庭料理をつっついているうちに、
気がつくと暗くなっていた。
ドド〜ン。
海岸で花火がはじまったのだ。
あわてて広いベランダへ酒を持って移動する。
6階だから前には遮るものはなく、音と光を充分に堪能した。

ほろ酔い気分と花火の興奮で、夜の海岸へ行こうということになった。
ビールと家庭用の花火を持参していざ、夜の海へ。
30もだいぶ過ぎたいい大人たちが集団で、花火をしながら奇声をあげて海に入った。
なんか学生時代の合宿のようだ。
そのうちに花火もなくなり、みんな、ぼんやりと天を見上げながら海にプカプカ浮いて漂った。
雲間から月が時折顔をのぞかせる。
ふっと時間を忘れてしまう。
このまま波にまかせ流されてもいいような、そんな危ない気持ちになってくる。
いけない、いけない、と思ってクロールに切り替えた。
すると真っ黒な闇の海の中に淡いきらめきが。
腕をかいたところだけ光るのだ。
夜光虫だ。
房総の海にも、夜光虫がいるとは。
思わぬ海からの挨拶だった。

翌朝は、早起きして地引き網を見に行った。
とはいっても二日酔いの頭をかかえてむりやり起きたので遅れてしまい、
われわれが行った時はすでに引き終わったあとだった。
網の中をのぞくとカニとかイカとかが採れていた。
子どもたちが嬉しそうにビニール袋に入れて持ち帰っていた。
朝食後、2時間ほど、海岸で海水浴。
遠浅の海なので臨海学校の小学生たちが先生の指導のもと泳いでいる。
なんとなく自分の子どもの頃の夏が蘇ってくる。

そして、なんといっても夏といえば、かき氷でしょ。
チープな感じの(ここのところが大切、コンビニ風のきれいなところはいけない)海の家で
山盛りの氷の上に、イチゴのシロップと練乳をかけてもらう。
しめて、350円なり。
うむうむ、この味。

20数年ぶりの「正しい夏の過ごし方」を、やってしまった2日間だった。

 


1998年8月2日(日)        百年後の味

今、新宿の伊勢丹で「大沖縄展」が行われている。
物産展のようなものなのだが、
以前サトウキビ刈りの取材にいった南島詩人平田大一さんの一人舞台があったり、
那覇に行くと必ず立ち寄る泡盛と郷土料理の店「うりずん」のオーナーの土屋さん、
南方写真師の垂見健吾さん、コーラルウェイの編集長の武田さんの3人が
泡盛と沖縄料理のことを語ったりと、知っている顔がイベントに出た。

沖縄に通いはじめてもう16年。
なんとなくアジア的で居心地がいいと通い続けているうちに、
いつのまにか沖縄をとことん愛する人たちに出会えた。
僕には貴重な財産になっている。
沖縄のあの熱気に魅せられて集まってくる人たちは、なんとなく心が通じるものがあるようだ。
そういえば、池澤さんも沖縄に魅せられたひとり。不思議な縁だ。

もう、今日、会場を歩いていると、沖縄の雰囲気が漂ってきて、
いてもたってもいられなくなってきた。
早くまた行きたい。(幸いにも仕事で9月に行く予定なのだけれど、待ち遠しい限り)

ところで「うりずん」では、昨年から百年古酒(クース)を作るという試みをはじめている。
もともと泡盛は、新しい酒を少しずつ足して(仕次ぎという)、
200、300年と生きていく酒なのだが、戦争とかいろいろあって、
そういう古酒はなくなってしまったらしい。
それで土屋さんが中心となって百年古酒を作りはじめたのだ。
一口千円で、誰でも参加できる。
「泡盛はロマンがある」と今日のイベントでも土屋さんは語っていたが、
百年後の酒の味を思うなんて、まさにロマン。

今年もやるそうなので、僕も参加させてもらうつもり。

 


1998年8月1日(土)        鬼が住んでいた村

7月の終わりに、初夏の信州の白馬へいった。
とはいっても、まだ梅雨が明けていなくて、すっきりした天気とはいえなかったけれど、
水分をいっぱいに含んだ緑が眩しかった。
今回はスケッチをしながら白馬近郊を旅する取材で、指南役は、山岳画家の山里寿男氏。
とても気さくな方で、心温まる取材になった。
山里氏はサインペンを使って、スケッチをするのだが、
わずかな時間があると、すっとスケッチブックをだして、筆を運んでいた。
真っ白な紙が、あっという間にさまざまな表情をもつ線で埋められていく。
山の風景も、民家も、石仏も、平面的なキャンバスに立体的な姿がみるみるうちに現れてくる。
塩を日本海から信州に運んだので塩の道と呼ばれている千国街道を辿ったり、
栂池自然園の湿原を散策して高山植物をスケッチしたり、茅葺きの集落を訪ねたりした。

この茅葺きの集落を探すのは、かなりたいへんだった。
やはり今は茅があまり採れないので、なかなか保存していくのが難しいようだ。
村の人の話だと、80年に一度、茅を葺きかえるのだそうだけれど、
最近は葺きかえる時に、トタン屋根にしてしまうことが多いようだ。
わずかに保存されているのは、民宿だったり、博物館だったり・・・。

青鬼(あおに)集落も、ほとんどトタンに変わってしまっていたけれど、
その村の風情というか表情というか、それがとってもよかった。
山里氏もさっそくスケッチブックを広げて、その雰囲気を書き始めた。
その間に、僕は畑仕事にいく村のおじいに話を聞いた。
この魅力溢れるあやしい村の名前の由来を知りたかったのだ。

おじいの話によると・・・
村の裏に洞窟があって、そこに体毛の多い鬼が住んでいたそうな。
それで青鬼という名前がついたそうな。

伝説のようなものできちんと調べれば違うのかもしれないが、
そういう話があるというのが、村の雰囲気をさらに不思議な靄で包むような感じで、
とても気に入った。
聞こえるのは、鳥の声と傾斜の急な村を流れるせせらぎの音だけ。
ヒマラヤの村にいるような心地よさを感じた。
そこからは、天気がよければ白馬五竜岳などの北アルプスがみえるそうだ。
また、今度は、このあたりをゆっくり歩いてみたいものだ。

そういえば、ヒマラヤにもイエッティ(雪男)伝説があったっけ。

 


1998年7月24日(金)        赤ちゃんです

昨晩は、荒川の花火を見に行った。
懇意にさせていただいている某男性雑誌の編集部の方が足立のジモティで、
絶好の場所で見ることができた。
こんなに間近でみる花火は生まれてはじめてだった。
ちょうど土手の斜面で寝ころんで見ていたのだけれど、
真上から降ってくる火の粉の花々は、それは、それは壮観。
たぶん口を開けたまま、まぬけな顔をして見ていたことだと思う。
しばし、我を忘れていた。
「オッー!」「スッゲー!」
知らず知らずのうちにため息ともつかぬ声を発していた。
ライターの端くれなんだから、もっと気のきいた言葉がでればいいのだけれど・・・。
毎年、外苑の花火を自分の部屋のベランダから見るのがささやかな夏の楽しみだったのだが、
音も迫力も雲泥の差だった。

3月くらいから東京にいる時は1時間ほど泳ぐのを日課にしているのだが、
本日プールから上がったら、
右足の薬指と小指とそのすぐ下の足の裏の8分の1ほどが「ダッピ」した。
ホントに「脱皮」という言葉がピッタリくるほど、ペロっとむけた。
しかも薄皮じゃなくて、かなり厚い。
ゾ、ゾーという感じ。オカルト映画じゃないんだから・・・。
これはひどい水虫にやられたのだろうか、それとももっと悪い病気なのだろうか・・・。
いろんなことが頭をよぎる。痒くも痛くもないんだけどなぁ。
くよくよ考えるのもよくないと思い、おずおずと皮膚科へいった。
そこの女医さんは、足の裏をみながら怪訝そうな顔をする。
組織をとって顕微鏡でのぞいてみたりしている。
やはり重病か。ヒマラヤの川で水浴びしたのがいけなかったのかなぁ。
「最近、熱かなんかでましたか」と女医さん。
そんなことはないと言うと、
「よく2歳くらいまでの赤ちゃんが、熱をだしたあと、このようにペロっと皮がむけることがあるんです」オヨヨ。赤ちゃん?!

女医さんとの問診の中での結論・・・
ヒマラヤで登山靴をかなり履いて、歩き詰めだったので、脱皮した部分に圧力がかかっていたようだ。
その後、プールで泳いだりしたもんだから、その部分がフニャフニャになって、すっぽりとむけたようだ。その女医さん曰く「ほっとけばいいですよ」だって。
薬もくれなかった。ホントにただの脱皮だったわけだ。
それにしても赤ちゃんと同じとは。

そういえば、固い足の裏の組織がむけた部分だけ、
ピンク色の柔らかい皮膚が覗いている。
まるで赤ちゃんの肌のようでもある。


1998年7月22日(水)        前世の話

山から帰った翌日に海へ。どうしていつもこうなってしまうんだろう。
暇な時は、どっと暇なのにね。
とにかくどこもかしこも天気がよくて、
黒さに磨きがかかりさらに無国籍化している我が顔であります。
これからは、少し腰を落ちつけてパソコンと対峙しないと・・・。

3度めのスピティは、秋や冬とはまた違った感じだった。
砂漠のような褐色の大地の中にも、至るところに緑色に溢れていて。
植林しているポプラの緑、斜面の段々畑のさまざまな野菜や穀物の緑。
どれもこれもが人びとの汗の結晶なんだな、これが。

今回、村からさらに奥に入って、
標高4,500mくらいで生活する遊牧民のところに5日ほどおじゃました。
小さい丘が連なってうねうねとした草原の中で、
放牧された家畜と共に、草に寝ころんでボッと空を見て過ごした。
群青色の濃い空に白い雲が流れていく。草の香しい匂いが嗅覚をくすぐる。
なんだかとっても居心地がよかった。
デジャヴーというよりも、もっと根源的な何かが5感の奥の方で反応しているようだった。

もしかしたら前世は遊牧民だったのかもねぇ。

 


1998年6月15日(月)        なんでもないこと

日本にいたこの2週間は、梅雨入りしてしまい、天候にはあまり恵まれなかったが、
その分、わずかな日だまりが貴重に感じた。
今日も気持ちの良い一日だった。
青空が覗くだけで、気分が良くなるとは、我ながら単純な頭の構造だ。

実は、昨日の雨で、エントリーしていた駅伝がキャンセルになった。
レースそのものが中止になったのではない。たぶん雨天でも決行したはず。
軟弱ランナーの我々のチーム5人は、前日の夜、降水確率100パーセントということを聞いて、
天が泣いているというのに、わざわざひとり5キロずつ走るのはもってのほか・・・
ということになったのだ。
三浦マラソンの悪夢を思い出したためかもしれない。
(ほとんどがあの時のメンバー。詳しくは3/1の日記参照)

自分の不甲斐なさを棚にあげて、天気を恨んでみたりした日曜だったのだ。
だからこそ本日の青空がなおさら身に沁みたらしい。

明日からは、3度めのスピティ。
この時期、ヒマラヤ一帯は、雨期の影響も少なく緑が眩しいすばらしい季節のはずだ。
前回の真冬の厳しさとは対照的な人びとの生活に出会えるかもしれない。
一緒にいくカメラマンに、
「謝さんは、スピティにいるほうがイキイキしているね」といわれてしまった。
確かに何度いっても居心地がいい。
あまり一般に知られてはいないが秘境ともいえないし、
観光資源が目白押しという感じでもないのだが、とても魅力を感じる。
たぶんそれは、「人」なんだと思う。
いろんななじみの顔が思い浮かぶ。

最近「なんでもない」ことに興味を持つようになっている。
いつもの日常。なんでもない一日・・・。
それが結構、おもしろい。

そういうことが日本の中でもみつけられるような目が持てるといいのだけれど、
まだまだ。
スピティという土地の中で、そんな視線が芽生えたらと思っている。

では、では、行ってきます。

 


1998年6月9日(火)        梅雨時のささやかな楽しみ

萼紫陽花(ガクアジサイ)の季節になった。
毎年いつものように季節は巡り、芽吹き、伸び、咲き、そして枯れる。
植物たちは、ひっそりともの言わず生命を育んでいるのだけれど、
それに気がつくことは少ない。
特に気持ちが元気な時は。

萼紫陽花との出会いは、5年ほど前。
交通事故で入院した時、フラワーコーディネートをしている旧友が
まだ市場に出始めたばかりの早咲きの一輪もってきてくれた時だ。
紫陽花自体は、派手バデ過ぎてあまり好きではなかったのだが、
薄紫のその萼紫陽花は、清楚で、凛としていて、健気で。
確か紫陽花のもともとの原種は萼紫陽花だったはず。
野性に近いほうが僕にはグッとくるらしい。
なんだか心に沁み入った。一輪というところもよかったのかもしれない。
入院といってもただの骨折だったのだが、
やはり気持ちはちょっと元気がなかったのだろうか。
30過ぎの男が一輪挿しに見とれているというのもちょっとアブナイ光景だが・・・。

翌年からは、歩いているときに萼紫陽花をあちこちの庭先でみかけるようになった。
きっと毎年咲いていただろうに、気がついたのは、入院の次の年から。
住宅街の一郭の駅までのよく通る道沿いにも、萼紫陽花をみつけた。
垣根の向こうから、かなり太い立派な枝が道の方に伸びていて、次々とかわいい小花を咲かせる。
(正確にいうと花らしきところは花ではないのかもしれないが)
咲き始めから枯れるまで、かなり長い間花を楽しんだ。
それからは、毎年、知らず知らずのうちに、
うっとおしい梅雨のささやかな楽しみになっていたようだ。
いつもはボッと歩いている通い慣れた道で、
ある日突然、薄紫のちっぽけな花が「見て!」と主張して意識の中に飛び込んでくる。

でも、そんな楽しみも去年まで。
実は今年の冬、気がついた時には、萼紫陽花の木はなくなっていた。
かわりにマンション建設の看板が・・・。

代々木公園の近くの遊歩道で萼紫陽花をみつけた。
そんなわけで、今年は、ちょっぴり遠回りをして、駅まで通うことになった。
梅雨時だけだけど。

 

 


1998年6月2日(火)        イイ時間の流れ

ベランダには、ネパールのムスタンで活躍した勇者たちが、物干し竿の下で風になびいている。
今日やっと荷をほどいた。なんとか「曇り」でよかった。
1カ月あまりの砂と風と強烈な太陽光線との闘いが今はなつかしい。

池澤さんは、思った通りの方で、旅に対する姿勢がやはり僕と同じなのか、
一緒にしていてもイライラすることは全くなく共感することが多かった。
不思議なくらいだ。一ヶ月も寝食を共にすれば、
もう少し自分の気持ちの中で反駁するところがでるのかと思ったが、
なかったんだなぁ、それが。
池澤さんは、とても気を使う人なので、
実は、池澤さんの方が、毎日疲れていたりして・・・。

とにもかくにも、とても貴重な体験をしたし、
毎日おもしろい発見が次々と生まれ、内容の濃い取材ができたように思う。
この取材は、池澤さんが読売新聞で12月頃から連載小説を発表するので、
楽しみにしていてください。
このホームページでも、そのうちに辿ったコース紹介なんかを検討中なので、乞うご期待! 

旅をしていると、本を読む時間がフッとできるものだけれど、
文庫本で、まだ読んでいなかった池澤さんの本を持っていった。
テントの中なんかでそれを読んだあとに、すぐに本人とその内容について話せるなんて、
贅沢なこともやってしまったのだ。

あぁ、いい時間の流れ方だった。

 


1998年5月2日(土)        いよいよ

気持ちのいい季節が巡ってきた。
新緑に包まれ伸びやかな日差し。
チャリンコで日だまりの中を走っていると都会の中にいても気分がウキウキしてくる。

このウキウキ感、季節のせいだけではない。
確か12月にもこの日記に書いたと思ったが、池澤さんといよいよ仕事をいっしょにする。
しかも長年行きたかったネパールのムスタンの取材なのだ。
池澤さんと同じ時を過ごし、いっしょのものを見て、感じ、語り合い・・・。
夢のようだなぁ。
旅の仕方や感じ方は非常に僕と似ていると池澤さんは言ってくれたけれど、
どんなことに興味を持って取材をするのかをみることができて幸せものだ。
池澤さんの旅のエッセイはたくさん読んだけれど、
実際旅をいっしょにできるとは。
1カ月近くのテント生活なので、時には意見が食い違うことがあるのかもしれないけど、
それも僕にとっては貴重な経験になると思う。

こんな機会またとないから、思う存分ムスタンの空気を吸い込んでこようと思う。
帰国したら、また報告します。
では、では、行ってきます。

 


1998年4月26日(日)        同じ年

J-WAVEのニュースで、世界最高齢のパンダ
(たぶん動物園で飼われている中ではという意味だと思う)の「ルル」が
今日誕生日を迎えたそうだ。なんと36歳。僕と同じ年ではないか。
ちょっと感慨深い。
人間の年齢に換算すると約100歳ということになるらしい。
僕と同じ年にルルが生まれた時、自分がいちばん歳をとるなんて、思ってもいなかっただろうな。
パンダ年齢だと僕は、12歳くらいか。
動物にも平均寿命というものがあるとするならば、
それぞれの動物が感じる時間の概念はいったいどんなものなんだろう。
ルルが12歳までに過ごした時間の長さの概念と
僕が今まで生きていた時間の長さの概念は等しいものなのだろうか。
理数系の弱い僕には、こんがらがる話だ。

でも、ルルとは、確実に同じ時間を生きてきたわけで、
なんとなく親しみがわいてくる。
いつまでも元気でいて欲しいなぁ。

 


1998年4月23日(木)        ホッ。

週刊アスキーという今はコンピューター雑誌になってしまった、
縦書きと横書きが一体化した面白い試みをした一般週刊誌があったのだが、
その中で「ヤポネシアちゃんぷる〜」という連載記事があった。
ボーダーレスに生きている人たちを取材したものだった。
ライターの吉村喜彦さんと写真家の垂見さんが組んでやった仕事で、
ひょんなことから、僕のところにも取材依頼がきた。
確か、この日記にも取材にきた時のことを書いたような気がする。

その連載がまとまって、単行本として、出版されたので、出版記念パーティがあった。
ものすごい人数の人たちがパーティ会場に来ていて、
吉村さんと垂見さんの人柄がしのばれるようなパーティだった。
特に、ハワイアン・ギタリストの山内雄喜さんと
元ネーネーズの古謝美佐子さんの「花」の演奏と歌はしっとりとしていて、感動的だった。
それも、即興でやってしまったんだから、すごい。

東京にいながら、沖縄の風が微かにそよいで。
気持ちがホッとなるような楽しいパーティだった。

 


1998年4月20日(月)        ぼられた。

桜が散るのを待っていたかのように、花水木が咲き出した。
確か花水木は外来種だったと思うのだけれど、
もしかしたら、日本にやってきた時に桜があまりにきれいなので、
同じ時期に咲いたら見向きもされないからと、咲くのをずらしたりして。
まぁ、そんなことないか。
なんとなく去年くらいから、ちょっと気になる木だ。
緑の中に咲く十字の花は、結構気に入っている。

 

土日は、秋田で取材だった。
竿燈祭りの準備を取材したのだが、実際に竿燈を上げさせてもらった。
とはいっても、大人が上げる竿燈は、50kgもあって、素人ではとても無理なので、
小学生が上げる『小若』と呼ばれるサイズの竿燈を上げた。
秋田では、竿燈を持ち上げることを『竿燈を差す』という。
子若は15kgなので両手なら簡単に持ち上がったが、片手で頭上に差すのは、難しかった。
すぐにバランスを崩して前に竿が倒れてしまうのだ。
でも、なかなか面白い体験だった。
(詳しくは、JR東日本の雑誌TRAIN VERT7月号で、どうぞ)

 

さて、本題。土曜の夜、秋田で夕飯を取材班で食べた時のこと。
なんと、続けざまに2軒ぼられた。
なぜ、ぼられたかがわかったかというと、カメラマンが秋田出身で、
秋田の相場がわかったから。
たぶん彼がいなかったらぼられたのも知らずにいたのだろうけど。
最初の一軒目は、雰囲気はとても素朴な感じで、
メニューに書いてあるのも、それなりの値段だったので、安心してとりあえず適当に頼んだ。
でも・・・。
最初に出てきた秋田名物のじゅんさいの量の少なさにビックリ。
カメラマンの話によると、じゅんさいの質もかなり悪いとのこと。
やられた・・・。と気がついた時にはもう遅い。
でてくる、でてくる。大きなお皿に、申し訳なさそうにちょこんとのってくる料理。
高級料亭じゃないんだから。これじゃ、東京より高いだろう。
長居は無用だ。最初に頼んだ料理が出そろったところで、そうそうに退散した。
最初の店が、こうだと、懐疑心が強くなって、なかなか次の店が決まらない。
とはいってもあんな量では、腹は空き空きだ。
しかたなく、えいやぁともう一軒にトライ。とりあえず、じゅんさいとビールを頼む。
じゅんさいをみてからあと考えようという作戦。
ビールとお通しがでてきて、その後、じゅんさいがでてきた。
なぬ、これだけ。やっぱりダメだ。
そんでもって、退散することにしたのだが、なんと、お通しの高いこと。
こりゃ、またやられた。トホホ。
歓楽街に近いのが悪かったのだろうと、そのあたりは、もうやめにした。
空腹のまま駅のそばへ。こうなったら『村さ来』かなんかのほうがいいんじゃない。
なんて弱気になる僕ら。
それもかなりいろいろ物色して秋田料理の店に入った。でも、懐疑心のかたまり。
やっぱりじゅんさいで勝負。
でも最後に入った店は、すごくうまいとはいかないが、良心的な店だった。
やっと腹一杯になったのだ。
取材した人たちは、とても良い人ばかりで秋田の印象は良かっただけに、
残念な秋田の夜になってしまった。でも騙されるほうも悪いのかもね。

歓楽街には近づくべからずだ。



1998年4月12日(日)        春、爛漫

昨日は、今はやりのお台場までいって、ダライ・ラマの法話を聞いてきた。
天気もよく、新交通のゆりかもめなんかに乗ってしまって、ミーハー心がくすぐられる。
まぁ、法話がなければ当分いかなかっただろうけど。
(ひとが多く集まるところは苦手だから)

ダライ・ラマに実際にお会いするのは、
(遠くから拝見するという表現のほうが正確だろう)
これで3回目だ。
インドのマナリと当時ソ連だったブリアート・モンゴルの寺院、
そして今回の東京ビックサイトだ。
今回は、法話は、日本語訳があり、法話を聞くには、もっともよい条件だったはずなのだが、
前の2回とはちょっと違う印象をうけた。
ダライ・ラマのお言葉があんまり心に伝わってこなかったのだ。
どうしてだろう?
前の2回は、全然言葉もわからず、
マナリでは英訳があっても、理解するには難しすぎて、しっかり聞いてはいなかった。
でも、ダライ・ラマの静かながら熱っぽく語る力強いエネルギーを不思議とびんびん感じた。
今回は、日本語の訳があったので、日本語に耳を傾けすぎたことに要因があるらしい。
講演ではなく法話なので、僕らにはとても難しい話になってしまう。
でも、なんとか理解しようとしているうちに、
ダライ・ラマの実際の声や感情が断絶してしまったようだ。
訳者の声ばかりに集中してしまった。
その上、集まった人びとの熱気が全然違っていた。
もちろんあたりまえのことなのだが、
以前の2回は、チベット仏教を心から信仰している人びとのまっただ中で聞いたわけで、
そのエネルギーたるもの、凄かった。
わざわざ何日もかけてやってきた人もたくさんいるのだから。
今回は、1万円払えば、信者でなくても聞けたわけで・・・。
まぁ、僕も信者ではないので、そういう意味では、その雰囲気をつくっていたひとりなのだが。
それでも、やはりダライ・ラマの笑顔は、人を惹きつける力を放っていたように思う。

今日は、世田谷公園でやっていたフリマへ行ってきた。
「フリマ」ってなんだかわかりますか?
知らないとちょっと遅れているらしい。
要するにフリーマーケット。
僕もさっきまで知らなかったんだけど、
最近、フリーマーケットが景気が悪いせいか流行っていて、
若い子たちにも浸透しているようで、
「フリマ」というお得意の短縮言葉が流行っているのだそうだ。
そのフリマに友人の家族が出展していたので、遊びにいった。
天気もまぁまぁで、時折日差しがこぼれて、フリマ日和だった。
ホントに若者の出展が多くてビックリ。
掘り出し物なんかを探しながら、結構、楽しんだ。

桜はもう散ってしまったが、まさに春、爛漫の日曜日だった。



 1998年4月6日(月)        ランニング・ハイ

まさに桜は満開。昨日は、そんな絶好のお花見日和の中、
厚木基地でハーフマラソンのレースがあった。
天気もよく、気温も走るにはちょうどいい暖かさで。
風もなく絶好のコンデション。
最近のレースは天気が悪かったり、せっかくエントリーしていても仕事で参加できなかったりと
イマイチついていなかったので、昨日は久しぶりに気持ちよくレースにのぞめた。

僕が走りはじめたのは、ちょうどフリーになった時からだから、もう8年近くになる。
後ろ盾がないのだからせめて体力だけはと走りはじめたわけ。
集中的に走っていた時期もあったけど、忙しいとついなまけて。
それでも、まぁ、なんとか走り続けることができたのは、
その気になれば、ひとりでいつでもどこでもできること。
雑踏のごみごみした街の中を走っていても、
風が流れていくのを感じているとストレス解消になるようだ。
ひとりだけの空間ができるというか。
そう、ウォークマンを聞いている時と同じような感覚かなぁ。
それでいて、外の音は入ってくるし、何よりポジティブ。
そのうちに身体が温まってくると、だんだんと気分がよくなって、トランス状態になる。
(ランニング・ハイというらしい)
この気持ちよさ、走っている人にはわかると思う。

厚木基地のレースは、滑走路の上を走る。
これが都心の近く? と思えるほど広い敷地だ。
政治的な問題はともかくも、この滑走路、風の強い日はそれは、たいへんなコース。
でも昨日は風は心地よい微風で、快適快適。
わざと滑走路の真ん中に出て、走っていると、トランス状態になった。
気もっちイイ。
目を細めてはるか滑走路の先をみる。宙に浮いたような感覚。
いくらでも力が漲るような錯覚に陥る。
身体全体が走るという行為を無意識にしながらも、脳だけは身体から離脱して・・・。
うん、ちょっと危ないかも。ここで頑張り過ぎると、また18キロ過ぎから、ヘロヘロになる。
と思って、ちょっとスピードを抑える。
が、すぐにもっともっと、と誘惑する自分もいる。

それにしても昨日の僕はへんだった。
特に練習をしていたわけではないのだけれど、18キロを過ぎてもスピードが遅くならなかった。
いつもなら下半身が重くなり、「もっと抑えておけばよかった」と後悔しながら歩いたりする。
が、昨日は不思議と調子がよかった。ぐいぐいと足が前に出る。
最後の1キロはさすがに疲れたけれど、1時間33分台でフィニッシュできた。
これって、もしかしたら僕のベスト記録?
20歳代の時、もっと早く走ったかもしれないが、ここ数年では最高記録だ。
早いタイムではないが、僕にとっては満足のいく記録といえる。
コンディションもよくアップダウンのないコースだから出た記録だろう。
このまま練習していけば、目標タイムの1時間30分もきれるかもしれない。などと欲がでる。
でも、また練習は中断するだろうし、コンスタントにこんないい記録がでるとは思えないし。

まぁ、これからも楽しんで走ろうっと。


1998年4月1日(水)        ない、ない、ない!

おとといグァテマラより帰国したら、思いの他暖かくてビックリしたのに、
今日の冷たい雨はなんだ。せっかくの桜が散ってしまう。
まぁ、それも自然なのだから「せっかくの」という気持ちは
ずいぶん人間の身勝手なのだが。

陽気に誘われて、昨日は四谷の土手まで走った。
自分の部屋からいろんなジョギングコースを勝手につくっているのだが、
その中に迎賓館コースというやつがある。
代々木公園を横切って、原宿の人混みをぬけ、
絵画館前の銀杏並木を突っ切って、246号線に出て、
迎賓館を一周して帰ってくるコース。
それに昨日は四谷の土手をプラスした。
そういえば、去年も桜を見るために同じコースを走ったっけ。

「yo・tsu・ya」という響きは、僕に一種独特の感情をもたらす。
ほろ苦くてそれでいて、ちょっぴり甘美な。
「青春」っていう文字をいまらさら言葉にするのも気恥ずかしいけれど、
「yo・tsu・ya」の中にはそれがいっぱい詰まっている。
昨日も、10数年前の日々を回想しながら、
土手の桜色のトンネルの下を走った。
地上に現れる地下鉄丸の内線の赤い電車、
その下を走るJRの黄色とオレンジの電車。(あの頃はまだ国鉄だった)
見慣れた風景が桜越しに流れていく。
土手の反対側には学校の正門がある。
それを過ぎると、次は・・・・
ない、ない、ない!
古めかしくも威厳のあるイグナチオ教会の三角屋根の尖塔がないではないか。
もう、桜どころではなくなっていた。
もう、壊しちゃったの!?
新しい建物ができて、あの三角屋根の建物が取り壊される前にミサがあるとたまたま当日聞いて、
信者でもないのにミサに参加したのが1月。
あれからもう3カ月近くたっているのだから壊されてしまったのも当然なのだが、
心のどこかでまだ残っているのではないかという気持ちでいた。
三角屋根のあっただろう場所には幻影が残るばかりで、
完全にさら地になっていた。
やっぱり淋しいもんだ。
入学試験の直前、気持ちを落ちつけようと、
ひっそりとした堂内に入ったことが昨日のことのように思いだされる。
またひとつ僕の知っている四谷が消えてしまった。
とはいっても、今の四谷がどんなに変わろうとも、
「yo・tsu・ya」の響きの中の四谷はあの頃のままで変わらないのだろうけど。

その夜、神保町で仕事が終わってから、
なんとなく九段下まで歩いて、千鳥が淵の夜桜を見た。
宴もたけなわの時間で、腰掛けていたり歩いているのは、グループかカップル。
昼間ならまだしも、この時間、ひとりで夜桜を見ている物好きは僕くらいだった。
トホホ。
気後れしながらも見上げるとライトアップされた桜は見事で、
下を見やれば外堀にうつる桜は幻想的であった。
そんでもって、なんとなく半蔵門まで歩いてしまった。
昨日は朝から晩まで、桜一色の一日だった。

4月1日は、節目の日だということが、
否応なく知らされたのが、区民プールの値段だった。
200円だったのが今日から300円になっていた。
あと、もしかしたら、自動販売機のドリンクの値段120円になっていませんか。
(区民プールの中だけ値上げしたのかなぁ)
あまりに時勢にうといので、誰もが知っていることを知らなかったりするので
今回のこの値上げもみんな知っていることだったら、どうしよう。

他の自動販売機をこっそり調べておこうっと。


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