His Diary

1997年6月〜1998年3月

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1998年3月17日(火) 梅と花粉と

3月前半は仕事の合間に時間をつくって、なるべく走った。
たまたまなのだが、ちょうど梅の季節で、羽根木公園や青梅の梅に出会えた。
梅はなんとなく健気な感じがする。
桜よりも一歩ひいた感じ。
その奥ゆかしさが昔から人びとの心をとらえているのかもしれない。
僕が走るのは平日の朝が多いので、
梅見をしているのはおばあちゃんやおじいちゃんが多い。
ひだまりの中で、老夫婦が少し離れて、ゆっくりと歩きながら梅の木の間を歩いているのは、
とても静かで温かい風景に思えた。
どんちゃん騒ぎする桜見より、
なんだかいい感じ。

 

春間近のこんないい季節だが、
僕にとっては恐怖の時期でもある。
憎き花粉ちゃんが、やってくる。
彼(もしくは彼女?)とは子どもの頃から相性が悪い。
「花粉症」とトレンディーな名前で呼ばれる前からである。
まだ、そんなにメジャーな病気ではなかったので、
「おまえは、気が張っていないから、そうなるんだ。もっと精神を鍛えなさい」
と父親にいわれたものだ。
(結局10年くらいして、父も花粉症になったんだけど)

 

そんなわけで、ちょっと日本を留守にします。
花粉症の時期に海外にいけるのは本当にありがたい。
成田を離陸するとすぐに治るんですよ、これが。
ヒマラヤなんか杉が多いんだけれど不思議と、ならないんだよね。
海外でなったのは一度だけ。
タジキスタンの山の中でした。
同じ花粉症の同士たちよ、申し訳ない。
行ってきます。


1998年3月1日(日) 寒冷前線通過中

まだ薄暗いうちに家をでた。
雨かと思っていたら足元がベチョ。
水分をいっぱいに含んだベタ雪。
まいったなぁ。
今日は三浦半島でハーフマラソンのレースがあるのだ。
「まぁ、でも温暖な三浦半島方面は大丈夫だろう」と眠い目をこすりながら三浦半島へいった。
電車の窓からは、ところどころ雪が白く積もっている。
なんだか嫌な予感。
出発地点の三浦海岸で下車すると、雪は冷たい雨に変わっていた。
おまけに強風。
雪ならまだしも雨。そのうえ、雨が横殴りになるほどの風。
ゼッケンと一緒に送られてきた案内書をみると<雨天決行>とある。
「おいおいこれでもやるのかよ〜」
参加賞のTシャツと大根一本を抱えて、帰途につく人がたくさん。
やっぱりこの天候じゃレースどころじゃない。
海岸に立っているだけでも凍えそうだ。
冬の嵐って感じ。

幸い通っているジムのトレナーの新谷さんが車できてくれていたので、
その車の中でスタート時間まで待って、様子をうかがうことにする。
車の中でかけていたラジオから
「関東沿岸を寒冷前線が午前中に通過します。
これからさらに各地で雪や激しい雨になりそうです。
今日は家でじっとしていたほうがよさそうですね」
と若い女性アナウンサーの甘ったるい声が響いた。
車の中にいた僕らは思わす苦笑。どんどん意気消沈してくる。
午前中ということは、まさにレースの時間ではないか。
走る気力が萎えてくる。

それでも、スタート時間の20分前に、ひとりが着替えはじめるとみな着替えはじめた。
もうやけっぱち。あわてて着替えて、スタート地点までくると、
あっという間にスターターが鳴った。
考える時間もない。えぃ、やぁ、もう走るしかない。
そのあとは、もう凄かった。言葉にならない。最悪のコンディション。
降りしきる雨と横殴りの風との闘いがはじまった。
風で前に進めないのはパタゴニア以来だ。
いくら走っても身体が温まらない。
城ケ島にかかる橋の上の風も凄かったし、
最終地点の三浦海岸の海岸線から吹き付ける風はもうそれは、強烈!
寒冷前線通過の真っ最中って感じ。前に進めない。押し戻される。
息も絶え絶えに、やっとのことでゴール。
なんと最長記録を更新してしまった。2時間をきれなかった。オヨヨ。

でも、参加賞のTシャツと大根をもらい、
無料で配ってくれたスポーツドリンクとおでんをしっかりいただいた。
「最悪のコンデションだったけど、きっとこのレールはのちのちまで語られるだろうね」
と走った仲間たちは満足気だった。
僕もウンウンとうなずきながら、
久しぶりに無謀で馬鹿げたことをしたような気分で、
やっぱり満足していた。

 

身体はボロボロだったけどね。


1998年2月25日(水) ふたつで300円のケーキ

古いアルバムを見ていたら、
近所の子たちに囲まれた真ん中でほっぺを真っ赤にして
主役を演じている幼少の僕の姿があった。
我が実家の破けた障子がなんとなくなつかしい。
この日は、僕にとっては、特別な日だった。
幼い頃から好きな数字は、2と5だったのも、たぶんそのせいだろう。

大学生の頃は九十九里の海をひとり見にいったこともあった。
春のまだ遠い荒波をみながら、海岸線を夕陽が沈むまで歩き続けた。
なんとロマンチックだったんだろう。

そして、その特別な日が今年も巡ってきた。
とはいっても特別なことは何もしなかった。
コンビニでふたつで300円のショートケーキを買って食べたくらいだ。
「わびしいなぁ」とどこからか声が聞こえるかもしれないが・・・。
36回めともなると、それぐらいがいい感じ。

でも、覚えていてくれる人がいて、
電話をくれたりしたのは、やっぱり嬉しかった。
いくつになっても、この日だけは主役になりたいのが本音なのかもしれない。

My Birthday!!!


1998年2月21日(土) なんでもない空

タイ経由で、インドヒマラヤより今朝7:30着の便で帰国した。
新宿に向かう成田エクスプレスの中で、ボッと空を見ていた。
どうってことない空。
雨が上がったばかりのようで、路面が濡れていて。
ほぼ9割が重く沈んだ灰色の雲で、
たぶんこれだと割合からいって「くもり」ということになると思うのだが、
地平線の方だけが雲が浮いたように薄い青空が覗いていて。
そのアオがとても新鮮で鮮烈で、ひかえめで。
たぶん東京をしばらく離れていたので、心が敏感になっていたんだろうか。
「東京の空も捨てたもんじゃないぞ」と思った。
また東京で生活しているうちに、
こんな気持ちも薄らいでいってしまうのだろうけど。

厳冬のヒマラヤは、思ったより天気がよかった。
日中は、風がなければ、日差しもあって、0度くらいになった。
でもさすがに、朝晩は冷え込んで-20度になる。
持っていったたまごもトマトもじゃがいもも、水分が少しでもあるものは、凍ってしまって、
ガチガチ。
目薬まで凍ってしまったのには驚いた。
暖房器具といえば、昔なつかしい薪ストーブ。
その自然のぬくもりが心に沁みた。
薪がパチパチ燃える音を聞きながら、家族が寄り添って寝ている姿は、
それはそれは、
安らかな時間に思えた。
もちろん決して楽な生活ではないけれど・・・。


1998年1月28日(水) またまた失敗

 

本当は今頃はインドに行っているはずなのに、なぜが、まだ日本にいる。
またまた、とんだ手違いをして、
一緒にいくカメラマンのパスポートの残存期間がわずかに足りなくてインドビザが取れなかったのだ。
それで、出発が30日に伸びた。
その分、インドから帰ってからやる原稿をふたつあげることになった。
仕事的には、それのほうが結果的に効率がよいのだが、
自分の計画性のなさには、ほとほとうんざりする。

 

原稿のひとつは、沖縄のキビ刈りの原稿。
これは、インドから帰ってから書くよりも、取材したばかりで、熱いうちに原稿にできたので、
よかった。
申し訳なかったのは、シンラのコラム。
無理をいって、撮影日を前に持ってきてもらった。
このサイトでも「自然を歩く」のページで紹介しているあのコラムだけれど、
洋服とタイアップの広告企画ページなので、もう春物。
日曜日に伊豆の海で撮影したのだが、天気はよかったのものの、寒い、寒い。
-40度の寒気団がちょうどきていた時で、春物のセーターじゃ、辛いよね。
足がガタガタ震えるのが自分でもわかる。
一生懸命震えを抑えるんだけれど、身体がいうことがきかない。
指先は感覚がなくなるし。
でも、僕らのせいで、撮影日を前に変更してもらったんだし、
これからもっと寒いヒマラヤに行くんだから、
こんなことでへこたれては、いけない!と身体にいい聞かせた。
そんな軟弱な僕をしり目に、真冬のサファーたちは、
日暮れてからも、黙々と波と格闘していた。
すごいなぁ。

 

インドヒマラヤの取材は、来年のシンラの連載が決まったので、
さらに腰を落ちつけてしっかり取材してこようと思う。
特に今回は厳冬の取材で、僕自身もはじめての経験なので、
心して頑張ってこようと思う。
肉体的にはたいへんだと思うけど、
厳冬期の人びとの生活を知るのは、楽しみだ。
たくさん知り合いができているので、
その人たちとの再会も嬉しい。
地に足のついた人びとの痛みがわかるような取材ができればと思うんだけど。
その割に、すごい装備でいくんだな、これが。
遠征隊が着るようなダウンジャケットも買ったし、
とびっきりモコモコの寝袋も準備した。
どうなることやら。

無事に帰ってきたら、また報告します。


1998年1月16日(金) 自分のため以外に

 

昨日は羽田が雪で閉鎖されて、那覇に足止めをくらった。
うらやましいね、なんて思うかもしれないけど、最終便が欠航になるまで、右往左往した。
こんなことなら、小浜島に残って、もっとキビ刈りを手伝っていればよかった。

 

今回の小浜島での取材は、体力的にはとても疲れたけど、
頑張っている人たちに出会えてよかった。
僕も力が沸いてきた。
小浜島では、砂糖キビ生産農家が高齢化しているため、
キビ刈りの重労働を不安がって生産高が減ってきていて、
島で経営している製糖工場が存続できなくなってきている。
砂糖キビの地場産業は島の生命線だから、
なんとか収穫量を増やそうと考えられたのが、
援農塾という制度。
宿泊代と食費を無料にするかわりに無償でキビを刈ってくれる人を募集したのだ。
小浜にくる交通費も自己負担だし、最初は人が集まるんだろうかと心配していたが、
4年めの今年は、開塾している50日間に延べ1200人の若者が集まるという。
僕も、まる一日だけだったけど、塾生と一緒にキビを刈った。
無心になって、キビを倒していると、
なんか自分の中の雑念が払われていくようで、気持ちよかった。
塾生も骨のあるやつばかりで、一緒に作業をしていると、
仲間意識のようなものがふつふつと沸いてきた。
いい経験だった。
この援農塾を発案して、島おこしの中心になっている平田さん親子との出会いも強烈だった。
島の痛みを身体から感じて、島おこしをしている彼らの姿は、まぶしかった。
問題点もいっぱい抱え込んでいるんだろうけど、
前向きに先のことをどんどん考えている人たち。
それも、自分のためではなくて、島のために。
なかなかできないことだ。
(詳しくは4月1日にでるJTAの機内誌コーラルウェイでどうぞ)

 

自分のためではないことに、僕は真剣にしたことがあっただろうか。


1998年1月11日(日) 綱渡りの一日

 

めまぐるしい一日だった。
今は沖縄の那覇のホテルにいる。
ここにいるのが不思議なくらいだ。
1月の第2日曜は、毎年恒例の横田基地でのハーフマラソンの大会がある。
参加賞がトレーナーという画期的な上に、走っている仲間と新年会のような雰囲気があって、
年にこの日しか会わない人もいて、はずせない大会なのだ。
去年は、当日の朝、家を出る時にレンジフードに頭をぶつけて血を流して欠席!
という失態をさらしてしまったので、今年は這ってでも参加したかった。
でも、夜には、那覇で池澤氏と打ち合わせがあったので、
羽田発15:55の便に乗らなければならなかった。
普通だったら、大会出るのやめるよね。
そこが、僕のいけないところ。
このタイトなスケジュールを楽しんでしまうんだよね。これが。
(暇だった時期が長かったのでその反動かもしれない。トホホ)

 

早朝7:20に新宿集合して、ジムの仲間と横田基地へ。
20人近く集まったかな。そんでもって、大会がはじまるのが10:30。
いくら早く走っても1時間半はきれない。
おまけに練習してないときているから、最悪2時間はみといた方がいいだろう。
間に合うんだろうか。イヤー走る前からプレッシャー。
寒いし、雪は残ってるし。練習してないし。トホホ。計画性のなさが露見する。
でも、ここまできたら、もう走るしかない。
などと考えているうちに、スターターの音。
オヨヨ。
ダラダラと長い列と一緒に走り出した。
折り返し地点までは、抑え気味で走った。
うーん。結構いけるかも。
もう3週間くらい走っていないのだが、快調だ。
と図にのるのが僕のいけないところ。
いい気になって、スピードをあげて走っていると、19キロ地点で、どかっと力がぬけた。
ひぇー。足が上がらない。
どんどん人が抜いていく。頑張って走っているつもりなのだが、全然前に進まない。
それでも、なんとかあと1キロのところまでは、走った。
でもこらえきれず「ちょっとだけよ」と歩いたのがダメだった。
そのあと、走れなくなった。いやー、3分ほどは歩き通し。
それでも、ゴール前を歩くのはさすがにみっともない。
エイヤァとなんとか走りだした。息も絶え絶えにゴール。
1時間41分ぐらいだった。歩いたわりにまあまあの成績。
でも、ゆっくり休んでいるわけにはいかない。
ゴール地点で配っているバナナとオレンジと水とトレーナー(これが重要)をわしづかみ、
そそくさと着替えて、みんなにあわただしくバイバイしたのが12:30。
青梅線の駅まで、足を引きずりながらも早足で15分ほど歩き、
列車に乗り込んだ。家に着いたのが14:00。
シャーワーをチャチャとあびて、荷物を持って(さすがに準備は前の日にしておいた)いざ羽田へ。
もう、焦る焦る。
千代田線と山手線を乗り継いで、浜松町で15:15発のモノレールに飛び乗るまで、
走る、走る。
ハーフを走ったなんで、とうに忘れていた。人間の底力はすごいもんだ。
羽田のチェックインカウンターに着いたのは、なんと15:38。
締め切りの2分前に滑り込みセーフ。
僕がボーディングしたとたん、ドアが閉まって、すぐに飛行機が動き出した。
乗客の白い目が。
きっと「あとおひとりが搭乗したら、出発します」なんてアナウンスがあったんだろうなぁ。
トホホ。すいませんでした。
嵐のような東京の出来事が嘘のように、
池澤さんは、穏やかな方で、
ペルー料理をつっつきながら打ち合わせは無事終了。
そんで、ホテルに帰ってきたわけ。

 

綱渡りの一日だった。
でもホッとする間もなく明日から小浜島でキビ刈りの体力勝負の取材なのだ。
体育会系ライターのつらいところ。
先が思いやられる。
せめてサウナでも行こうっと。


1998年1月8日(火) がっぷり四つに組んでくる風

 

パタゴニアから帰国して、4日後に沖縄に行かねばならない。
その間にシンラの撮影で千葉の奥まで行かねばならないし。
ということは、原稿も一本あげないといけないし。
この綱渡りの日程。
果たしてできるものやら。
でもこういうふうに詰まっているほうが
緊張していて、いいのかもしれない。
仕事があって、感謝、感謝。

 

パタゴニアは、今回で4回めだったんだけど、
何度行っても、自然の造形物のすごさ、不思議さには頭が下がる。
氷河が削り取った山並みの力強さは、圧倒される。
でも、僕にとっては、いまひとつしっくりこないんだなぁ。
箱庭のような感じ。
あまりにきれいすぎて、気持ちの奥の方で震えないというか。
人の営みがみえてこない。
かつては、昔ながらの生活をしていたモンゴロイドの民族が3部族ほどいたのだけれど、
マゼランが侵入してからは、どんどん迫害されて、今は、消滅してしまったそうだ。
やはり、昔ながらの人間の営みがあって、そこにすばらしい自然がある。
そういう場所に僕は心が震えるらしい。
だからヒマラヤにこだわるのかもしれない。

 

それにしても、パタゴニアの風はすごかった。
旅をしていると、いろんな風を感じるのだけれど、
パタゴニアの風ほど強烈な風はない。
がっぷり四つに組んでくる感じ。
わかるかなぁ。
山から吹き下る風は、立っていられないほど。
風に背をむけて、そのまま後ろに倒れようとしても、
身体が倒れないで、後ろから押され包み込まれる感じ。
そう、ふわふわのソファーの背もたれに寝ころぶ感じかな。
そのまま両手を広げてキリストの張り付け状態になると、
(このたとえはよくないけど、まさにそんな感じ)
まるで宙に浮かんで空を飛んでいるようになる。
すごい風でしょ。

 

旅の醍醐味はいろんな意味で
いろんな風と出会うことかもね。


1997年12月22日(月) そうあるもんじゃない。

 

思いがけぬということって、そうそうあるもんじゃない
でも、昨日は、それがあった。緊張したなぁ。
実は、昨日、なんと池澤夏樹氏から電話があったのだ。
あの芥川賞作家の池澤さんですよ。
もうビックリ。

池澤さんが住んでいらっしゃる温かそうな沖縄の空気と一緒に優しそうな声。
特に僕なんかは、一般的に名前が知られるずっと前から好きで読ませてもらっていた作家なので、
それはそれは、緊張した。

池澤さんの作品との出会いは、「タマリンドの木」という作品。
タマリンドは東南アジアなんかを旅していると出会う木なのだけれど、
日本ではあまり聞き慣れない木なので、
この木のことを知っている人はどんな作家なのだろうと手にしたんだなぁ。
読み始めたら、どっぷりはまってしまって。
なんか池澤さんの感性が僕のずっと奥の所を震わせて・・・。
もうそれからは、出ている作品を読み漁ったという感じ。

旅先によく持っていったなぁ。
そう、池澤さんの作品って自然の風景がよく似合うんだな。
旅先の風景が作品の中の風景とオーバーラップして。

だから週刊文春に僕の本の書評を載せてくれた時もそれはそれは嬉しかった。
読んでくれたということだけで、もうビックリなのに、感激でいっぱいだった。
と同時に背筋が伸びるような気がした。
「頑張らないと」というような感じ。

で、それからは、お礼状なんかは書いていたのだけれど、面識なんかもちろんなくて。
だから今日、そのお電話をいただいた時は、もうただただ緊張するばかり。
書評のお礼もいうのを忘れてしまった。
それが、また、その話の内容がすごいんだなぁ。
僕にとっては、ほんとに夢のような話。
本当にありがたいハナシ。
本決まりしたら、また日記で報告します。

心を震わせてくれる人と仕事ができるなんて、
そうあるもんじゃないよね。


1997年12月14日(日) チベットの空気感

 

あっという間に師走。
すげ〜、さぼってしまった。
HPも全然更新できなかった。
ヒマラヤへ行っていて、2カ月もいなかったんで、
11月は、ヒクヒク忙しくしてた。

 

とはいってもしっかり
東京湾にかかる橋アクアラインを走る
マラソンレースにも出たんだし、
結構、好きなことはやっている。
そのくせHP更新は、どうしても後になってしまうなぁ。
は・ん・せ・い!
見捨てないでね。

 

今日、更新のやり方をしっかり新吾さんからレクチャーをうけるので、
せめて、日記だけでもバンバン更新していくつもり。
意気込みだけはいつもすごいんだけどねー。
あとが続かない。

 

昨日、「セブン・イヤーズ・イン・チベット」をみてきた。
内容も、グッとくるものあったけど、
何よりビックリしたのが、セット。
アルゼンチンで撮影したとは思えないほど、
チベットの雰囲気がでていて。
あぁいう風景、アルゼンチンにもあるんだなぁ。
まあ、CGも使ってるとは思うけど、
チベットの空気感が伝わってきたなぁ。
ポタラ宮殿はCGだと思うけど、ダライラマの部屋の中の
雰囲気だとか、チョカンの前にある木だとか、
忠実に再現してあってビックリ。

 

ピット人気もあって、
かなり若いギャルも映画館にはいた。
これで、チベットのこと少し問題意識をもって
くれる若者がふえるといいのだけど。
・・とおじさんは思うのであります。


1997年11月24日(月) 海の下を走る

 

秋晴れ。気持ちのいい日だった。
今日は、東京湾にかかる橋アクアラインを走った。
開通前のハーフマラソンの大会があったのだ。
車が走り出したら、こんなことできない。
まさに一回限り。

とはいっても、川崎側から走ったので
ほとんどトンネル。
ものすごい人で、スタート時は
芋洗い状態!
空気もムンムンして、息苦しい・・・。

でも、折り返し地点の少し前で
地上にでた。
すごくいい眺め。
海風が心地よい。
「海ほたる」という人口の島に出たのだ。
ここからは対岸の木更津まで
橋がかかっている。

やっぱ人間は太陽の光の下にいないとダメだなぁ。
なんて思っていると、
すぐ折り返し地点がやってきて、
再びトンネルに逆戻り。
ショック、ショック。

あぁ、それからは、死んだ。
なかなか距離がかせげない。
特にあと2キロからがきつかった。
トンネルだから最後は登り。
ゲ・ゲ・ゲ!
最初からわかっていたことだけど、
かなりこたえた。

ヘロヘロになってやっとゴール。
ベストタイムより10分近く遅れたゴールだった。

まぁ、でも二度と走れないコースだから
よしとしよう。


1997年10月30日(木) もうひとつの風景

 

すっかり晩秋だなぁ。
日本の一番イイ季節にいなかったのは、ちょっと残念だ。
昨日、インドヒマラヤより帰国した。
2カ月近くもいないと、
浦島状態。
チューブの前田と飯島直子が結婚したって!?
ムムム、古いハナシらしい。
まだまだ、知らないことがたくさんあるようだ。

 

今回の取材は、結構、今までとは違う視点でやった。
通り過ぎる旅人の視点ではなく、
スピディという谷の中で、ある村に滞在して、
密着取材というか。
ちょうど、大麦が刈り入れの時で、
金色に輝いて美しかった。
一緒にいったカメラマンもさすが
山岳部出身。
高山病にもならず、元気いっぱいで取材ができた。
でも、最後の方では、かなり食べ物が飽きたようだけれど。
テントの中でも、話すのは、
焼き肉が食べたいとか、寿司くいたい、とか・・・。
そこで女のハナシがでないのが、みそ。
やっぱり、色気より食い気なのだ。

 

長くひとつの村にいると、
いろんな人たちと親しくなってくる。
やぁ、すごい高僧とも仲良くなっちゃって。
恐縮するばかり。

 

村を離れるとき、遠くから村がみえる場所で
振り返ってみたんだけど、
最初に来たときの風景とは
まったく違ってみえた。
季節も移り変わって、
刈り取りもすんで枯れた感じに
なっていただけじゃなくって、
その段々畑の風景の中に
出会った人の顔が浮かぶんだなぁ、これが。

 

また、1月下旬にいく予定。


1997年9月10日(水) 季節感がバラバラ

 

今日は、久々に晴れた。夏の余韻がほんのちょっぴりあった。
原稿がやっとすべて終わり、ご褒美に屋外プールで泳ぐことにした。
といっても、区のやつだけど。
そのプールも今日で終わり。
本当に夏は行ってしまうのだ。
でも、往生際の悪い僕としては、
最後の余韻を二時間もプールで楽しんでしまった。

 

9月の中旬からインドヒマラヤに1カ月半ほど取材で
行くことになっていたので、またまたバタバタだった。
一ヶ月以上留守にするということは、連載がきつい。
先週は、長野へ行って、関係者の方々に無理をしてもらって、
シンラの撮影を撮りだめした。
(もう冬ものの撮影だから、コートなんか着てしまった!!!)
ということは、原稿も書きだめしなければならない。
これがまた、クーラーをつけながら、
冬のことを考えて・・・。すごいギャップ。
でも、なんとか原稿アップ。

 

そんでもって、プールへと直行したわけ。
けっこうキツイ日差しで、ジリジリ肌にきた。
あっという間に、夏に逆戻り。
なんか頭のなかも、身体も季節感がバラバラの一週間だった。

 

出発まであと三日。
まだ、何も準備していなーい。
まぁ、いつものことだけど、ちょっと今回はながーいから。
でも、なんとかなるか。

 

今回の取材は久しぶりに自分の企画で動ける。
その分、予算は限られているのだが、
まぁ、「猿岩石」とまではいかないまでも、
かなり、ドタバタの旅になりそうな感じだ。

 

山岳部出身のカメラマンも一緒だし。
ゆっくり歩いてくるつもりです。
では、行ってきます。


1997年9月1日(月) 九〇年後の日常

 

毎年8月はバタバタしているのだけれど、
その割に、ここ3年続けて運良く外苑の花火だけは、
何故か見ることができる。これも縁か。
今年も日本にいたのは、たったの6日。
そのわずかな間に、外苑の花火はあった。
なぜ、外苑の花火にこだわっているかというと、
この部屋からみえるんだなぁ、これが。
狭いけれど、これだけがウリ。

 

チベットから帰ってきたら、もう9月。
花火なんて、もう時期はずれになってしまった。
また今年も夏を満喫する暇がなかったなぁ。

 

でも、チベットはかなり面白かった。
チベットが鎖国時代、大谷光瑞によって
ダライラマ13世のもとに派遣された留学生
青木文教が滞在していた家を探しにいったのだ。

 

ラサの旧市街の迷路のような路地を入っていくと
3階建ての白壁の建物にぶつかった。
いかにも古びているが、あたりの建物と比べて
重厚な造りにみえるのは、かつてダライラマ11世の一族が住んでいた
貴族の館だと聞いたからだろうか。
そんな歴史とは、無関係に館はいくつにものしきられ
庶民のアパートになっていた。

 

突然の客人に驚いていた住民のひとりらしい老婦人が
自分の部屋に招き入れた。
薄暗い八畳ほどの部屋。
すすけた壁や柱にわずかに残る彫刻の文様が往時をしのばせる。

 

90年の歳月は、ゆっくりと流れていた。
文教に思いを馳せ、そこに人びとの日常が今もあることが、
なんとなく嬉しく思えた。

 

あすから、長野。


1997年8月16日(土) 風で火を消す?

 

キリマンジャロより帰国して、はや4日。
お盆だというのに、18日からのチベット行きまでの
わずかな東京での生活のため、バタバタの毎日。
毎年、夏はこんなもんだけど、
今年は、せっかくHPを立ち上げたのだから、
アップデイトしないと、もうアクセスしてもらえなく
なっちゃうだろうなぁ・・・。
でも、時間がない。
とりあえず、日記更新で許してたもれ。

キリマンジャロは、5度めの登頂だったが、
それでも新しい発見があった。
標高3,500M付近のキリマンジャロの中腹一帯でのこと。
このあたりは、もう限界樹林帯の上なので、
低木が群生しているのだけれど、
腰の高さほどのその低木がすべて黒く炭素化して
朽ち果てていた。
今年のはじめに山火事があったためだ。
2カ月にわたりくすぶり続けた火を消したのは、
なんと山から吹き下る「風」だったという。
火事の起きている少し上に火を放ち、
風の勢いで火と火をぶつかりあわせ、
自然鎮火させたらしい。
そんなことって、あるもんなんだ。
焼けた斜面には、花弁が下を向いて
蓑傘みたいな花が一斉に咲いていた。
火事の前には、見ることのできなかった
そのだいだい色の絨毯が黒い低木の下に広がっていた。
自然は、不思議だ。

では、チベットへ行ってきます。

 


1997年8月1日(金)  同じ匂いがする!?

 

西表のジャングルより無事帰還して、はや一週間!
キリマンジャロに行かねばならず、
締め切りに追われる毎日だった。
迷走台風のため天気もイマイチだし。
でも、出発直前のさっき最後の原稿を上げて、
締め切りはなんとかすべてクリアした。
本当の締め切りは、
どの原稿も来週末なのだが、
僕は、東京にいることができないのだ。
8月は毎年こんな感じでバタバタするのは、しかたがないか。
なんで、こう忙しい時ってかさなるんでしょうねぇ。
暇な時は、暇なのに・・・。

西表の取材は、思っていた通り、すげぇー、面白かった。
指南役になってくれたイリオモテヤマネコの生態を撮り続けている
カメラマンの横塚氏が、とてもすごい人で、
ジャングルの中でいろんな動植物を
あっという間にみつけて説明してくれる。
さすが自然写真家。西表に十年こだわって生活し、
最近では、ボルネオやアマゾンのジャングルにも入っているので、
横塚氏の5感はかなり野性に近いような気がした。
ちょっとジャングルに入ったぐらいじゃぁ、
そんな感覚みにつかない気がした。
それでも、打ち上げの時、横塚さんから
「森の中で謝さんは、僕と同じ匂いがしたよ」
といってもらった時は、かなり嬉しかった。

明日から、キリマンジャロ。
もう五度目の登頂になるけれど、油断せず、
謙虚な気持ちで、気合いを入れて、事故のないように
頑張ろうっと。よっしゃ、ビシ。(老体に鞭打つ音)

せっかく同じ匂いだといってもらったのだから
野性の感覚を磨かなくっちゃね。


 

1997年7月14日(月) つらいもんです。

昨晩ボルネオより帰国し、
明日の一便で沖縄取材に飛ぶという、狭間の一日。
前もってわかっていたので、思ったより時間があった。
結構、予定がつまっているほうが、
緊張しているせいか、事がうまく進むらしい。

取材用の荷物は、ボルネオに飛ぶ前に、宅急便で西表に送ってしまったし、
準備といえば、虫さされの薬を買うぐらいですんだ。
それにしても、宅急便は便利だ。
日本の端っこまで届けてくれる。
船も含めて、4日でつくそうだ。

今回の西表島の取材は、ちょっとおもしろそう。
イリオモテヤマネコを撮影するために、
10年近くも西表に住みついていた
カメラマンと同行して、
ジャングルの中でキャンプする。
ハブやサソリ、ムカデにヒル・・・。
なんかすごいものに囲まれて寝るらしい。
スリリングではあるが、なんとなくウキウキする。
どうなることやら。

ボルネオは、4回めだったのだけれど、
行くたびにスゴイと思うのは、
バジャウという海洋民族の生活ぶりだ。
彼らは、フィリピンとマレーシアの間の海で生活していて、
国境なんかおかまいなしに、生きている。
浅瀬があれば、海の珊瑚の上に杭をたて、
それを支柱にして、水上の小屋をつくっちゃうんだから。
海の上で生まれて、波とともに生き、
わずかばかりの魚を糧として、
そこで一生を終える。
気ままでうらやましい気もするが、
相手は、どでかい自然で、臆病な自分では、
きっとすぐに逃げ出してしまうだろうと思う。

そういえば、ボルネオから帰国したら、
去年もバジャウの人たちのことを書かせてもらった
集英社の「Tepee 」という雑誌の編集長から速達で手紙が届いていた。
すごいショックな知らせ。
この雑誌は、アウトドア雑誌で、創刊当初は、
かなり「歩く」ことにこだわっていた雑誌だった。
フィールド・エリア・ガイドなんか充実していて、
編集長の編集方針がしみじみ伝わってきて。
だから、僕なんかもかなりかわいがってもらって、
本を出した時も、本の紹介だけじゃなくて、
人物紹介までしてもらちゃって。
本当にお世話になっている雑誌。
なのに・・・
売れなかったみたい。

「廃刊決定!」

最近は、グッズよりの方針に変わりつつあって、
かなり頑張っていたと思ったのに。
いい雑誌がなくなるのは、残念だ。
手紙の文面からも、こだわって作っていた編集長の無念さが
滲みでていて・・・。つらいもんです。

沖縄の空は、きっと晴れやかに輝いているだろうなぁ。
ちょっと、気持ちが軽くなるかも。
ジャングル探検に、いざ、出発!


1997年7月1日(火) 奇しくも・・・

 

 香港が中国に返還される・・・! 
この歴史的瞬間をライブで味わおうと、
僕は、悪友の家に泊まりこんだ。
なぜなら、僕の部屋にはテレビがないからだ。
根っからグータラな僕は、テレビがあるとつい面白くなくてもつけてしまう。
締め切り間近だというのについ昼メロなんかも見てしまう。
図書館なんかにいって書いたこともあるけど、
最近はパソコンで原稿を書くようになったので、
このオフィス兼住居の部屋にテレビがあると、仕事にならない。
だから3年前に、捨てた。なければないで、
なんとかなるもので、それほど不自由を感じなくなった。
ただ、177の天気予報は、よくダイヤルするようになったけれど。

 でも、今日は特別だ。
やはりライブでその瞬間を体験しようと思いたったのは、
自分が華僑で、中国人の端くれだからだろうか。
といっても帰化してるし、
中国語も全くといっていいほど話せない三世なのだが。
いつもは、自分の血が中国人であることを全く意識していない。
日本を離れてアジアや世界中のチャイナタウンに行くと、
中国人の血が騒ぐことはあるけれど。
だから今日、深夜1時にカウントダウンを映像を通してみても、
中国人のアイデンティティをことさら感じて、興奮したわけではない。
もうちょっと、冷ややかな目で成りゆきを見守っていた感じだ。
少しは高揚するかと思ったけれど、自分でも不思議だった。
二世の親父は、僕とは違った感慨があるのだろうか。
あとで田舎に電話してみようっと。

 で、この歴史的に意味のある1ページが刻まれた同じ日に、
くしくも、この「歩くネット」は開始することになった。
全くの偶然で、意味はないのだけれど。
新しいスタートには、ふさわしい日であることは、違いない。
とにかく、この日を迎えることができて謝々。

 それにしても、だいぶ寝不足だ。


 

1997年6月27日(金)のり弁を食うの図

 週刊アスキーの取材がきた。
とはいっても、ダイビング仲間で
いつもお世話になっている南方写真師垂見氏がライターの吉村氏と組んで、
自分たちの好きな人に会うというコンセプトのページなので、
取材される僕の方としても、気が楽だった。
「ヤポネシアちゃんぷるー」という3ページの連載で、
週刊アスキーの縦書き側にある。
(この新雑誌は、ひとつの雑誌で両側から読める面白い新雑誌)
今までの連載を読むと、ハワイアンのギターリストでありながら、
こんにゃくを作っている人や、ブラジルから沖縄に渡ってきた家族とか、
ブルースを唱っている黒人米兵とのハーフの方とか、
人生経験豊かな方ばかりなので、
僕のようなもので取材可能なのか心配だった。
特に、山でもないこの都会で、しかも、この狭い部屋で
写真的に3ページもつカットがとれるのだろうか。
そんな心配をよそに、垂見氏は、

「大丈夫さー」

といつものうちなんちゅの言葉でゆったり話す。
カメラマンが大丈夫と言っているのだから、
まぁ、いいか。

 幸いなことに、梅雨の晴れ間は、今日も続いていて、
うだるような暑い日だったので、
代々木公園で、撮影することになった。
やっぱり僕の晴れ男のパワーはすごいらしい。

 最初に、部屋で話をした。ちょうどこの
「歩くネット」がほぼ完成していたので、
それを最初にみてもらう。
アドレスを載せてくれるというので、なんともありがたい。
インド・ヒマラヤのザンスカールの写真集や、チベット医学のタンカ、
ブータンでもらった砂曼陀羅なんかを見せながら話をしているうちに、
あっという間に2時間以上たってしまった。

 そして、いよいよ代々木公園で撮影開始。
ちょうど、昼どきだったので、
のり弁を買っていった。垂見氏曰く、

「のんびり弁当食うところを写真にとるさー」

そんなんで、いいんでしょうか。と思いつつ、
もう夏の日差しの中、草に寝ころんで、
裸足になって、のり弁を食う。

 その横で、垂見氏がパシャパシャ。

「終わったさー」

 あっという間に、撮影終了。なんとも、すごい。

 どんな写真や記事ができるのかは、
8月中旬〜9月上旬の号に出るので、
見てみてください。ジャンジャン。

 


1997年6月24日(火)紅い月

今、夜の10時。
部屋からオレンジの東京タワーと蛍光灯の色の窓が並ぶ
NHKのビルがみえるのだけれど、
ちょうど、その間に紅い月がでている。
少し欠けていて、大きい。
なんともいえなく神秘的な感じ。
電気を消して、ベランダに出て、ちょっと月光浴。
すると、J−WAVEのナビゲーターのクリス・ペプラー氏も
紅い月がON AIR している部屋から見えると言った。
同じ月をみていたのが、なんとなく不思議だ。
この都会で、幾人の人がこの月に気づくのだろうか。
十分もすると、次第に色がオレンジに変わり、
いつもの白い月になっていった。

 


1997年6月23日(月)晴れ男のパワー

今日は、八ヶ岳にSHINRAの撮影でいくことになっていたので、
朝4時に目が覚めた。
まだ薄暗かったが、なんとなく、少し走りたくなったので、
代々木公園にジョギングへ行った。
公園の中は、終電に乗り遅れたカップルや、
プーの人たちがたむろしていて、少し異様な光景。
とはいっても、こんな薄暗いうちからジョグをしている
僕自体もだいぶ異様だと思うけど。
そのあとNHKのまわりを走っていたら、
向こうからきた中年のご婦人ランナーに
「おはよう」と挨拶された。
お互い、ちょっとへんな時間に走っていたから妙な親近感を覚え、
顔をちらっとみて互いに笑った。
そんなことをしてたので、そんなに早く起きたのに、
撮影の集合時刻「渋谷に5時30分」に5分遅れてしまった。
天気は、まずまずだった。
今日は、ロケ場所が近いということで、
2本分をとることになっていた。
それで、1本めは、ピリカンではない曇り希望、

2本めは、ゴアテックスのレインウエアなので、しとしと雨希望という、
脅威的なスケジュールを運を天にまかせ、
一日でこなすことになっていた。
幸いにも、スタート時点の天気は希望通り「曇り」。
うまいうまいと思って中央高速に入って、
しばらく行ったら、雨、雨、雨。
山梨に入ったら、雨足がさらに強くなる。
こりゃ、ダメかな。
と思って、八ヶ岳のふもとにきたら、雨がピタとやんだ。
それで、白樺の林の中で一本めの撮影開始。
うまい具合に白樺の樹皮の表情がよくとれたようだ。
そんでもって、2本目をとろうと、
メルヘン街道というとんだ名前がついている山道を
くねくねと登っていくと、雨が降り出した。
こりゃぴったし、希望通り。と思っていたら、
すごい雨足になってきた。
「しとしと」をとおに越えて、「ザーサー」。
これじゃ、物撮りが難しい。
おまけに霧まで出てきて、
視界が悪いほど濃くなったら撮影自体もダメかな。
とスタッフみな意気消沈。
「腹が減っては」と、とりあえず、メシを食うことになった。

メシが食い終わる頃、少し小降りになったので、
苔むした森に入っていく。
つるつる滑る山道を20分ほど入ると、
コロボックルかニングルがでてきそうな、
神秘的なしっとりとした森が現れた。
ちょうど、霧が出てきて、いい感じだ。
雨もしとしと。こりゃ、ばっちり。まず物撮り・・・。
そして、いよいよ撮影というときになって、
なんと、日が照ってきてしまった。
いつの間にか雨はやみ、霧は消え、青空が。ヒェ・・・! 
スタッフのみんなは、僕が晴れ男だからいけないといいだす。
いつもは晴れ男さまさまなのに。
まぁ、どんな、作品が仕上がったか乞うご期待! 

 


1997年6月20日(金)嵐の黒い雲のスピード

 すごい台風。風が強く横殴りに雨が降っている。
午前中に、今日締め切りの原稿があがったのfaxで送ったあと、
返事待ちで、しばらくこの事務所
(とはいっても、住居兼)から空を眺めていた。
狭いワンルームなんだけど、眺めだけが取り柄。
黒い雲がかなりのスピードでずんずん飛んでいく。
壮観という感じ。
交通機関が至るところで麻痺している情報が、
J−waveから流れてくる。
こういう嵐の日は、閉鎖された感じで、
なんとなくうきうきするから不思議だ。
今、台風の目は前橋にいるんだって。
一度台風の目とやらをみてみたいものだ。

新吾さんから、僕のWebの数ページが送られてくる。
思ったよりかなり、いい感じ。
できあがりが、楽しみだ。残りのテキスト
(あとリンク集)をやってしまおうっと。
・・・ちょっと熱中してやっていたら、夜の7時30分。
知らぬ間の青空。満月まで出ていやがる。
都庁方面のビル群の上にかすかに黒い雲がたなびいていた。
ほのかに夕焼けの紅色が残っていて幻想的な風景だ。
雲は自由でいいなぁ。

 


1997年6月15日(日) オタクっぽい方が魅力?

 土曜の夜から、伊豆の富戸へダイビングへいった。
2ダイブしかしなかったけど、久しぶりだったので、
水の中では、リラックスできた。
というのは嘘で、寒い寒い。赤潮はもうなくて、
透明度はまあまあだったけど、
アオリイカの産卵を見るんで、じっと底の方で待っていたら、
冷えること冷えること。
ドライスーツがやっぱ欲しいなぁ。 

 ホームページ作ろうと思いたって一週間。
先週は、仕事が詰まっていなかったので
かなりテキスト作りはすすんだ。
なるべく、オタクっぽいページにしたくないなぁと
漠然と考えて内容を考えていたら、
悪友の国広がそれは違うという。

「ホームページってのは、個人で作るページなのだから、
オタクっぽいほど、魅力があるんじゃない。
僕なんか、日記フリークだから、
見知らぬ人のなんでもない出来事の日記を覗き見るのがいい感じなんだ」

 へぇーって感じ。そういう考え方もあるかと、
ちょっと考えさせられた。
明日は、新吾さんに、
スキャンする写真とかを渡しにいく予定。

 


1997年6月8日(日) 決断の時

 もう半年も前から、ホームページ作ろう作ろうと思っていたが、
なかなか思い腰があがらない。素材は結構あるのだが、
なんといっても製作ができるかどうかが問題だ。
ついこの間まで、「ペースト」という言葉も知らず、
Yahoo!を「ヤッホー」と平気で読んでいた若輩ものなのだ。
幼少の頃より、理数系がまったくダメで、
足し算も1上がるとガタガタになるありさま。

 そんな僕の背中を後ろから押してくれたのが、新吾さんだ。
彼は、編集者で、少ない間だったが、
同じ会社で働いたことがある。
「僕らは、編集のプロなんだから、
雑誌を作る感覚で作ればいいんだから、大丈夫。
全面協力するよ」

という温かいお言葉。そんでもって、
今日の日曜日、川口でテニスをしたあと、
新吾さんの自宅におしかけたのだ。
僕のために、鳥越神社の祭りにも行かないで待っていてくれた。
申し訳ない。

 新吾さんは、趣味の音楽関係の自分のホームページ
(これが、画期的なページで、
ギターバージョンのカラオケができる)を作っていて、
マックの前で、ホームページ作りの楽しさを語ってくれた。
簡単そうにみえても、実際は(特に僕にとっては)
かなり四苦八苦しそうだ。
入力やデザインの部分は新吾さんに
手伝ってもらうことにして、
とりあえず、ページ構成を考えることにした。

これが本当に、雑誌のページ構成と同じだ。
なんとなく面白くなってきた。

「頑張ります」

 僕の言葉に新吾さんは、笑いながらひとこと。
「いや、仕事じゃないんだから、
もっと肩の力を抜いて楽しんでやろうよ」
そのとうりだな。楽しんでやろうっと。
とりあえず、来週中に、テキスト関係を打ち込もうっと。 

 

 

 


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