Tokyo In and Out '92

(その4)



その4.知恵で勝てワザで勝て、判定勝ちでも勝ちは勝ちだ

14.あなどれない正統派の強み、正攻法の正面突破は永遠の勝ちパターン
シェア確保が至上課題のマスマーケットにおいては、他社製品とどう差別化するかに明けくれていた。このため、どうしても姑息な「カラメ手」に走り、目先の面白さにを追及しがちになった。しかしそんなときでも、ユーザの目は厳しく、姑息なワザは決して通用してはいなかった。ましてや、商品の個性で勝負する必要が高まった今となっては、二度とハマってはいけないおとし穴だ。
しかしどう個性化するかという、ユーザの気持ちをつかむカギを見つけることはなかなか難しい。そんなときには原点にたちかえって正攻法でゆくのが、けっきょくは一番強かったりすることも多い。ちょっと考えると、正攻法で作ったものでは個性がでにくい気もするが、さにあらず。考えオチのような個性化よりも、自然に作り手の個性があらわれるのもまた正攻法の魅力だ。正攻法は、決してあなどってはいけないのだ。
こうやって作り、ヒットに持ち込んだ商品はふところが深く、使えば使うほどユーザが味わいを発見する。こうなると、ロングセラー商品として定着する可能性も高いだけに、正攻法で勝ったメリットは大きいのだ。

○和菓子の原点「赤福」
伊勢名物「赤福」は、一見なんのヘンテツもない餅菓子にみえる。しかし、和菓子がスキなヒトはもちろん、あまり和菓子を食べないヒトにも忘れられないおいしさなのだ。一度食べるときまってとりこになる、奥の深さが魅力になっている。特に女性に人気が高い。
じっさい特別なコトはなにもやっていない。和菓子のテオリー通りにきちんと作られているいるだけである。ただ、いい材料を使い、丹精こめてつくる。このように正攻法でつくられたものは、特徴がないようにみえても、じつは奇をてらったモノより圧倒的に強い。
この赤福、店舗展開を広げず、伊勢を中心に、西は大阪から東は名古屋までの限られたエリアにしか出店していない。このエリアの限定が、逆に首都圏での希少価値を支えている。それだけに、各界の有名人のなかにも、「東京へのお土産は赤福と決めている」というヒトも多い。まさにロングセラーの条件をすべて備えているではないか。

○「脱差別化」で、見事にシェアを確保したasahiウーロン茶
飲料業界というと、差別化の激戦区。パッケージデザインや、ネーミングの目新しさ、素材や組み合せのユニークさなど、次々と気をてらった商品が現れては消えてゆく。しかし、こういった小手先のイメージやパッケージの違いでは、最初に手にとらせるときの一回しか勝負ができない。これではあまりにムダが多いではないか。それなら、広告キャンペーンに金をかけたほうがまだリスクがすくない。しかし、中身の勝負なら、ユーザが気に入りさえすれば、それから何度も手にとらせるコトができる。
この、本来の「商品力の勝負」というところに注目してヒットとなったのが、asahiウーロン茶だ。あとから見ればコロンブスの卵なのだが、「質がよくておいしい」ところを個性化のポイントとしたのである。これは、まさに商品作りの原点。これを忘れて小ワザに終始していたのではおハナシにならない。しかし、みんなそれを忘れていた。かくして、ヒットにつながる。やはり突き押しは相撲の原点。大ワザより、けっきょくは強いのだ。

○ドイツが本気で恐れたはじめての日本車、プリメーラ
日本の自動車メーカーほど、フルライン戦略の束縛に自らハマってしまった者はないだろう。どこまでいっても、「車格」がクルマの基本コンセプトを縛る。そのなかで「差別化」が求められる。かくして、日本車においては、差別化とは商品の根本的なコンセプトの違いで作るものではなく、目先の変化で作るものとなってしまった。
大きいサイズの高級車は、問題なくしっかり作ってあるものだが、小さいサイズのクルマは、いろいろハイテク装備こそ多いものの、根本的なところがなにかチャチい。しっかり、きちんと作っていないのである。日本のメーカーがこういう戦略をとっている間は、世界の大衆車市場は日本車が制覇しても、小さくて高級な車は作れないと、欧州のメーカーはタカをくくっていたのだ。
しかし日本車のなかからも、ついに「車格」とは関係なく、手ごろなサイズながらマジメに作った味わいを売物にするクルマがはじめて生まれた。日産のプリメーラである。クルマに求められるものを、原点にたち戻ってカタチにした。だから、ハデさはないものの、どんなユーザのニーズにもこたえられる。これはこのクラスの日本車も、ドイツメーカーと本気で競合するクルマとして、あなどれない存在になったことを示しているのだ。

○やすくてワクワクする、当らないワケがなかったエスニック料理
目の玉の飛び出るぐらい高いお金を払えば、間違いなくおいしいものが食べられるのは世間の常識。しかし、いくらおいしくても、フトコロを寒くしてまで食べる気がしないというのも人情。どんなにおいしくても、どんなに奥が深くても、高くちゃ誰も手がでないのだ。
飲食店が大当りするウラには、かならず「手軽な値頃感」がなくてはならない。最近のエスニック料理のブームには、この手頃さが大きく効いている。エスニック料理は概して安いのだ。海外の留学生を使うとか、材料の仕入とか、いろいろ理由はあるのだろうが、同じエリアのフランス料理とかイタリア料理とかとくらべても、なん割か安くあがる。
それと、格好をつけなくていいのもヒットのポイントだ。ヨーロッパ系の料理だと、ワインの知識とか、材料の知識とか、妙な作法ばかり多くて疲れてしまうが、エスニック系なら心配ご無用。女のコを連れていても、「これは一体なんなんだろう、どうやって食べるのだろう」と一緒になってワクワクしてればそれでいい。これだけとっつきやすければ、ヒットしないわけがない。ひとびとは肩肘張るのに疲れてしまっていたのだ。

○ウマい、安い、速い、の原点回帰が生んだ、吉野屋の企業更正
牛ドンチェーンの吉野屋は、一度倒産し、会社更生法の適用を受けた。倒産の理由は、チェーン店に対する管理がおろそかになり、利益が低下した分を、使う材料の質をおとすことでカバーしようとした姑息な経営にある。「ウマい、安い、速い」が「マズい、安い、速い」になってしまった。こんな利用者無視の戦略では、お客さんは離れて当然だ。
この吉野屋を管財人として傘下に収めたセゾングループは、この姑息な経営をやめ、材料の質に対する管理や、各店での味の管理を強化し、手軽においしいものを提供するという吉野屋の原点を取り戻すコトで再建をはかった。この原点回帰はみごとにアタり、予定を大幅にはやまわって再建を成し遂げた。
破綻した吉野屋は、自ら生み出した永遠のヒット法則「ウマい、安い、速い」を取り戻すことで復活したのだ。

15.陳腐化した古い武器も時と場合によっては役にたつ
業界によっては、そもそもマーケティング的な努力とは縁がないというところも多い。またその業界特有のマーケティング技法が「常識」化している場合も多い。そういう業界の景気自体が踊り場にさしかかっているときは、概して構造的なものというよりも、顧客や商品に関する固定的な見かたが、伸び悩みや失敗を引き起こしているのだ。
そういう業界なら、なにも難しいことを考えなくても、対応のしかたはいくらでもある。競争の激しい先端的な業界ではもう使い古されたと思われてきた「古典的なマーケティングの手法」でも、やってみれば充分通じるのだ。
新しいワザを開発するまでもなく、昔ながらの武器だって、時と場合、そして使いかたによっては充分役にたつ。他の業界の戦略、外国での事例。もう役にはたたないと思われていた先人たちの足跡も、やりかたによってはまだまだ通用する。ほとんど役にたたなくなったと思われていた、経営学やマーケティングの「教科書」だって、まだまだ通じるほど未開拓の業界というのは、いくらでもあるのだ。

○今の日本人は、20年前のアメリカ人? -地中海クラブの歴史はくりかえす-
団体旅行というと、日本人のトレードマーク。日本の旅行代理店のオリジナルのように思われているが、実はそんなコトはない。そのルーツをたぐると、ゴールデンエージの頃のアメリカにいきつく。それまでは「世界の田舎」だったアメリカが経済力をつけ、アメリカ人がはじめて海外旅行をするようになったとき、団体旅行は発明された。
つまり、旅行に関しては、その国の経済力にあわせて行動様式がきまるモノなのだ。実際日本でも、ここ数年おしきせのパッケージツアーはあきられ、団体旅行は、海外旅行が自由化された韓国などNIES諸国の専売特許になりつつある。このセンでいくと、日本人はアメリカ人に20年ぐらい遅れて、同じコトをくりかえしている計算になる。
団体旅行がアメリカ人にあきられた時期にハヤったものといえば、地中海クラブがある。案の定、ここ数年日本でも地中海クラブが目立っているではないか。これであと10年ぐらいすると、メインの顧客はアジア諸国に広がってゆくのだろう。
このようにメインのターゲットにあきられたものでも、仕組みとしてよくできたモノなら、どこか別のところでユーザを発掘できることもあるのだ。

○リクルートコスモスのマンション作り
マンションや建売り住宅は、商品のなかではもっとも高額の部類に属する。だからこそ本当は、ターゲットをしっかりと想定して、そのニーズに合わせたものを作る必要がある。しかし不動産業界は、「ターゲットを絞りこんで個性を明確にしてしまうと、買う可能性のあるヒトが減ってしまう」と考え、このリスクを避けるために「万人好み」の間取りや、内外装を選ぶ傾向にあった。
この程度のマーケティングも、不動産業界ではやってこなかったのである。しかしこれでは、誰にとっても「ちょっと不満がある」モノしか提供できない。この流れを変えたのが、リクルートコスモスのマンション作りだ。とはいっても、単に立地に合わせて「想定ユーザ」を絞りこみ、かれらのライフスタイルや嗜好に合わせた部屋作りをしたにすぎない。この程度のことでも革命的。もちろん、こういうユーザ指向は、その後常識となった。
実際、バブルがはじけてからの不動産不況の中では、無個性な物件は売れ残るが、ユーザの嗜好に強くアピールする物件は、価格と関係なく動きがいいのである。

○トマト銀行はどこが違う
金融業界は、大蔵省の「指導」で、そのビジネスががんじがらめに規制されている。だから、基本的にはどこをとっても横並び。最近になって多少独自性を出せるようにはなったものの、それでも他の業界とくらべれば、びっくりするほどドングリのせい比べである。だからこそ、大型合併とかもさっさと行なえるのだろう。
それだけ規制が厳しくては「差別化」はまったくできないかというと、これがそうではない。これを立証したのが「トマト銀行」ブームだ。みんなが同じ発想、同じ行動なら、どこか一ヶ所が大きく違うだけで、ものスゴくイメージが変わる。柔よく剛を制すである。
というわけで、商品そのものの差別化はなんにもなくても、社名のネーミングのユニークさだけでこれだけ「差別化」できるコトを、トマト銀行はみごとに立証した。
中身はまったく同じでも、現状にあきあきしているユーザにとっては、どこかヒト味違うだけで、大きくイメージが変わり魅力的にみえるのだ。

○ソ連も解体した今、市場原理が通じないのは役人だけ
そもそも官僚が自分の存在感を感じるのは、厳しく規制し指導し、自分たちにアタマを下げない限り世の中が動かなくなる瞬間である。だから、この規制を厳しくすればするほど、自分たちのアイデンティティーは強まり、しもじもの者はへつらうようになる。かくして利権が生まれるワケだ。
ソ連邦や東欧圏の共産主義の崩壊も、イデオロギーの問題もさることながら、中央集権的な官僚制というものが本質的のもっている「非能率性」がもたらしたのではないだろうか。しかしそれらの官僚機構も解体し、市場経済に移行しつつあるいま、世界で市場原理が通じないのは日本の官庁だけになった。
本来の官庁の「規制」とは、限られた資源の有効配分にあった。しかし、経済が発展すればそれは市場原理に任せればいい。これが民営化の本質だ。まさに、官僚的に規制されていた分野へマーケティングを導入し、ユーザオリエンティッドを実現することだ。真藤氏がトップを退いて以来、王政復古してしまったNTTの民営化の限界もここにあるのだ。

○幸福の科学とオウム真理教はどこが違ったのか
話題の新宗教「幸福の科学」が短期間に信者を集めた秘密は、試験でいい点をとることにしか人生の目的を見いだせない「偏差値世代」が、社会人になって失ってしまった生きがいをうまく与えた点にある。
この発想は、多分教祖大川隆法氏の商社マン時代の実体験にもとずいているのだろうが、ユーザの求めているものを提供するという「マーケティングの発想」を宗教に持ち込んだコトが成功のカギだったといえるだろう。ビジネス界では当り前のことも、宗教界では誰もやっていなかった。「目から鱗」とはこういうコトなのだ。
このあたりは、せっかくマスコミで話題にはなったものの、宗教本来の教義やスタイルにコダわりすぎて強い神秘性から抜けきれず、けっきょく信者数の増加にはつなげることができなかったオウム真理教と好対照をなすのである。

16.みせた夢は最後までみせる
お客さんの心は浮気なもの。昨日気持よく思っていたコトを、今日も気持ちよく思ってくれる保証はない。この浮気なお客さんをどうやってつなぎ止めるか、その作戦が大事なのだ。そのために有効な武器が「夢」である。
最初に夢は思いっきり見させ、ずっと見続けさせるコト。その実現は小出しにして、欲望はちょっとづつ満足させるコト。そして決して種明しをしないコト。これを守れば、お客さんの心はずっとついてくる。
人間は「期待」するもの。だからしょせんは「かなわない」とわかっているものでも、「夢」のフルコースを用意し、これが手に入るかのように錯覚でも思わせてしまうことが、お客さんを離さない秘訣になるのだ。
これが完全なウソになってしまったら、豊田商事になってヤバいコトになる。しかし、100人の中で1人しかできないことでも、その可能性があるならその夢はウソになならない。ウソになる寸前、いわば違法ギリギリのところまでは夢をふくらましたほうがいいのだ。

○オジさんをだまして売ってるポータブルワープロ
初期のOA化のニーズを支えたワープロ専用機も、パーソナルコンピュータの登場以来、個人ユースにマトをしぼった、オールインワンのポータブルタイプが主流となった。しかしこういう商品は、そもそも市場規模に限界があるものだ。とうぜん普及率の壁がある。しかし、実際は市場規模こそ伸びなくなったものの、普及率が限界までいっても、そこそこ売れているのである。これは買い換え需要をつかんでいるからに他ならない。
現在のポータブルワープロの主なユーザは、中高年齢層の窓際族や定年退職者を中心とするいわゆるオジさんユーザである。この層にはワープロマニアが多い。しかし、当然のように能力や目的意識の問題があって、あるレベル以上使いこなすことはない。
したがってよく考えれば新しい機械はいらないのだが、目的がないがゆえに、新しい機能をマスターすることを面白がる。だから、かれらは自分のひいきにしている機種に新型が出ると、即購入するのだ。このように新しい機能を小出しにして、次々と買い換え需要をつかんでゆくのは、飛躍的な拡大こそないものの、けっこうおいしい市場になる。

○「奏けないヒト」が支えるシンセサイザーの売り上げ
ここ5年ほどは、シンセサイザーの技術もいきつくところまでいきつき、プロフェッショナルミュージシャンからすれば、最新の機種でなくとも必要とする音色は得られる状態になっている。こうなればシンセの売り上げは止まるはずだが、いぜんとして新機種は出てくる。これは、アマチュアのコンピュータミュージック愛好家が増えてきたからだ。
かれらは、基本的には音楽のセンスはあまりない。センスがあれば、なんか楽器をマスターしているハズだ。だから、いくらコンピュータを使っても、いい音楽ができるワケはないのだ。しかし、かれらはハードウェアに過剰な期待をもっているので、スゴいマシンを使えば、自分にもいい音楽ができると思っているのだ。
そこで、かれらは金にモノをいわせ最高のコンピュータと最新のシンセをそろえる。しかし、マトモな音楽はできない。当然だ。だがかれらはここで、「いい音楽ができないのは機械の機能が足りないせいだ」という根本的な勘違いをしている。だから、新しいさらにスゴい機能がついた機種が出ると、前の機種を下取りに出し、さっそく購入するのである。結果はいうまでもない。またもや期待はくじかれるだけだ。だからといってコンピュータミュージックの夢がヤブれるわけではない。次の機種が出れば、これをくりかえす。
どうせわからないヒトが買うのなら、機能に対する過剰な期待を製品に持たせて、ウマくだまして売り抜けるのも、ハイテク機器ならではのワザだ。

○宗教のごとく、我が道をゆく三貴
宝飾品やアパレルの三貴グループといえば、独特の「高付加価値」経営で知られている。この秘密は、世間のカゼと関係ないところに我が道を築き、そのなかにどっぷりと顧客をハメてしまっているところにある。
ここの商品は、流行とか、トレンドとかとあまり関係なく、独自のマーチャンタイジングを行なっている。このセンスや価値観にお客さんが染まってしまえばもうこっちのもの。いくら高かろうが、そういうイメージの商品は、他のところでは売っていない。だから、なんといおうと買ってくれるのだ。まるで、自分たちの教義でしか心の救いを得られなくしてしまう宗教のようではないか。
このように自社グループの製品だけで完結した一つの価値観の体系を作ってしまえば、あとはお客さんをその中に取り込むだけで勝負ができるのだ。

○株式会社でやっている宗教、自己啓発セミナー
一度心の支えにしてその快感を知ると、どんどんハマって抜け出せなくなる麻薬のようなものって多い。その典型が宗教だが、このノウハウはビジネスでだって使える。これを実証したのが自己啓発セミナーである。
基本的には人間の心というのは弱いものだ。くじけると、なにかに頼りたくなるもの。このときにそっと助けてくれる自己啓発セミナーは、とても「気持ちいい」ものなのだ。かくして、一度ハマった人間は、次からコトあるごとにより強い快感を求めて、セミナーを渡り歩くことになる。考えてみれば、カルチャースクールだって、エステクラブだって構図は同じ。この手のモノは、いったんハマったユーザはどんどんハマるところが、おいしいビジネスなのだ。

○ダメなモノでも売れれば正義、力で寄りきる一太郎のヒット
ジャストシステムの「一太郎」というPC-9801シリーズ用のワードプロセッサソフトが、いまだに売れている。この製品、何度かの大改良はくりかえしているものの、基本的に同じコンセプトのモノが5年以上前から売れ続けている。この進歩の速いハイテク分野で、5年前のコンセプトがいまだに通用しているとはどういうことなのだろうか。
調べてみるとすぐわかることだが、「一太郎」のユーザの8割以上は、このソフトの持っている機能のごく一部の、「できて当り前、できなきゃバカ」といわれそうな基本的な部分しか使っていない。当然こんなところは、ふつうにできればそれで満足するコトになる。ソフトのことをよく知っているヒトは、基本的な機能だけを使うなら、もっと安くてずっと使いごこちのいいソフトがあるし、同じ値段を出せば、もっと優れたソフトがいくらでもあることも知っている。だが、そうでないユーザは、「一太郎」しか知らないし、アタりまえの機能だけで「一太郎」に満足し、及第点をつけるのだ。かくして「一太郎」はいいソフトという評判が広まることになる。
どうせ使うヒトは細かいことなんてわからないのだから、それで満足した気にさせてしまうから強いのだ。元来ハイテク製品ではそうだといえばそうなのだが……。

17.定番狙いはマイペースで
もともとハデさや華やかさがない商品の場合、ヒットを狙うためには地道に「定番商品」になるほかない。へたに中途半端に売り上げを伸ばし大化けすると、そのあとには必ず大きな「揺り返し」が待っている。これで一気に商品が陳腐化してしまうコトも多い。こうなっては、けっきょく商品寿命を縮めるだけである。
このタイプの商品は、細く長く売ったほうがけっきょく儲かる。そのほうが、リスクも小さく、実入りはずっと大きくなるし、長い目でみれば大ヒットになっているのである。しかし、ここまで育てるのは、玉をおとさずに線香花火を最後まで楽しむようなモノ。そう簡単には問屋がおろさない。
目先の大儲けといったまわりの誘惑に踊らされずに、安定したお客さんをつかみ、マイペースで売り続けられるかが勝負のカギだ。このためには、長期的なビジョンを確立し、しっかりした信念を持っている必要があるのだ。

○魚久の粕漬けはなぜ売れる
グルメの間では、粕漬けといえば魚久。この名をしらないヒトはない。まさに定番商品といえる。しかし、魚久の粕漬けの売れる秘密には、これといってびっくりするようなものは一つもない。そのカギは「品質」である。刺身にしてもウマいような、鮮度も肉質もいい魚を選び、これを昔ながらの製法で丹念に漬ける。当り前といえば当り前だが、定番商品の秘密というのは、えてしてこういうモノだ。
そして、この品質を維持するために、生産量をむやみに増やさない。確実に手に入るいいネタで作れる範囲でしか作らないのだ。だから、販売チャネルも限定し、店数も、増やせばそれなりに売り上げは増すはずだが、けっして増やさないのだ。
売り上げは少なくとも、他より高く売れるので、利益率で考えれば割が合うことになる。今みんなが目指している「高付加価値経営」の原点がここにある。
拡販に走らず、品質を守る。このもっとも古典的ともいえるマーケティング手法は、決してすたれないのだ。

○日本は出稼ぎミュージシャンの天国 -古くはベンチャーズ、いまはジャズ-
定番になるというコトは、固定ファンがつくというコト。いったん固定ファンがついてくれれば、かれらは義理がたいので「昔の名前ででています」が可能になる。ビートルズからはじまったCDによる復刻版ブームもその表れだが、なによりも日本特有のロートルミュージシャンの活躍がそれを如実に示している。
アメリカでは、ビルボードのNo.1ヒットを一回でも出せば、一生喰いっぱぐれがないといわれるほどナツメロマーケットが発達している。「オンリーユー」のプラターズなど、オリジナルメンバーがそれぞれ独立して、若いメンバーを集めて「ニュープラターズ」を作っているぐらいだ。しかし、それ以上においしいのが日本のマーケットだ。
夏になると蚊とともにわいてくるベンチャーズ(冬にも関わらず紅白歌合戦にわいてきたときは驚いた)、クリスマスディナーショーのレターメンをはじめ、アメリカでは完全に引退してカタギの生活をしているにも関わらず、日本では人気があるので、日本ツアーのためだけに最結成してはやってくるグループも多い。
この傾向は新たな展開を迎えた。アメリカのライブハウスのブランドを導入したジャズクラブの設立ブームにより、数多くのジャズクラブが日本全国に生まれた。アメリカではモダンジャズは完全に下火になっており、一部の超大物以外は、ジャズでは喰えない状況になったいただけに、この日本のジャズクラブを目指して多くの「往年の名プレーヤー」がわさわさとわき出してきたのである。それで、アメリカにいるよりずっといいギャラがでるのだ。日本に移住するヒトもでてくるかもしれない。
日本人は、斯様に固定ファンになると義理がたいのである。

○大きいことはいいことだ、永遠の定番ヒットアイテム「恐竜」
定番性を持っていたにも関わらず、大穴を狙いすぎて大ブームになり燃え尽きてしまうものも多い。だからといってその「商品性」自体が完全に死んでしまったワケではない。ヒットしすぎて、なんかそんなモノにコダわるのが「気恥ずかしい」感じがするようになっただけである。
しかし、ヒトのウワサも75日。ホトボリがさめた頃にひっぱり出せば大丈夫。つきまとっていたイメージも、時間がウマく消しさってくれる。かくして同じネタがまた使えるようになるのである。
この典型的な例が「恐竜」ブームである。過去を振り返ると、何度も「恐竜博」が行なわれ、そのたびにブームになっている。また、どこかで恐竜の骨が発見されたりすると、きまって「恐竜」の本の売り上げが増え、自然博物館の入場者は増加する。
恐竜はなにせ大きいし、あのカタチだし、強力なインパクトがあり、出してくれば必ずブームになるのだ。しかし、インパクトが強すぎて一回ブームになるとスタれるのもこれまた速い特徴がある。かくして、判で押したように、何年かおきに「恐竜」ブームがやってくる。
このように、いままで何度もブームになっているものは、必ずまたヒットする。むかしを思い出してみると、宝の山がかくれてるぞ。

18.「あたり前」を崩せば市場は広がる
各社のシェアが長期安定政権になっている業界では、どの企業も自分自身がその構図に安住してしまっていることが多い。それでウマくいっている間は、なかなかこの構図自体を否定する気にもならないだろうが、だからといってそのまま肯定していたのでは、いつまでたっても変化が起きるハズもない。
しかしこういう場合には、消費者の側からみると、現状に慣らされてしまっているコトもあるが、どちらかというとこの構図に満足していない場合のほうが多い。これでは市場自体が衰退してゆくことにもなりかねない。
こういうときこそ積極的な経営が必要だ。現状を変えていこうと思えばいくらでも変えることができるし、その旗をふったモノが次の時代のイニシアチブをとれるのだ。そのポイントは消費者の不満をいかにくみ取るかというコト。ここに気づけば、動かないと思われていた消費者の指向はころりと変えることもできる。

○出るべくして出たスーパードライのヒットと、それ以降は勇み足で連敗のアサヒビール
ビール戦争は、ビール愛好者からすれば「歴史の必然」だ。ビールのヘビーユーザはグイグイ飲める、苦みのないノド越しのいいビールを求めていた。しかし、店にいくとあの苦くて後味の悪い「キリン」を飲まされる。もっと、口当りのいいビールが欲しい。あとは誰がそれを宣言するかだけだった。
前に述べたように、本当はそこへの最短距離にいたのはサッポロビールだった。しかし、現状にとらわれすぎていたのか、そのチャンスをみすみす逃し、この栄光の役割は、アサヒビールに奪われてしまった。スーパードライの登場である。スーパードライのいいところは、「ドライ」なことではなく、さわやかで苦くない口当りだから、いくらでもぐいぐい飲めるところにあったのだ。
こう目の前に事実を突き付けられると、地殻変動は速い。ハダカの王様ではないが、今まで気づかないだけで、いわれてみればなんて「キリン」のビールは口当りが悪いのだろうと思ったヒトは多かった。ここにたちまちスーパードライブームがはじまった。
しかし、これはどうやら偶然のヒットだったようだ。それ以降のアサヒは、せっかくアタったスーパードライの成功のカギを読み切れなかった。ウマくやれば「アサヒビール=口当りのいい時代にあったビール」というイメージを作れたにもかかわらず、みすみすそのチャンスを逃してしまった。かくしてそれ以降の新製品は連敗。多少は構図が変わったものの、革命に至らず終ってしまったのである。

○日本映画の盲点をついて、日本映画の王道を復活したホイチョイプロ
いつから日本映画は大作主義、芸術主義になったんだろう。日本映画の王道は、B級バラエティー映画にあったはずじゃないか。この、大手映画配給会社が忘れてしまった日本映画の盲点をついて、作るたびに大ヒットを飛ばしているのがホイチョイプロである。
時代風俗に密着した卑俗ともいえそうなテーマ。これでもかと連発する小ワザのオチ。たしかに、そこで使っている手法は、ターゲットに合わせて現代的なものになっているものの、かつての日本映画の黄金時代のそれが基本になっている。
やっぱり娯楽映画は、楽しさ面白さに徹するコト。これでなくちゃ。へんに芸術に色気を出してはいけないのだ。テレビに押されるようになって以来、なぜか映画人が忘れてしまった映画の原点。実際、最近のヒット映画というのはほとんど映画界以外の人材によって作られたものであるのは、もしかするとこのアタりに原因があるのかもしれない。

○大学だって商売さ、タレントを集めて偏差値をあげた亜細亜大学
いまや大学は「偏差値」で評価される時代。いい学生がたくさん受験してくれれば、偏差値は自動的にうなぎのぼり。だから、大学は冬の時代を前に、いかにいい学生をたくさん受験させるかに躍起になっている。
しかし大学なんか入ったって、別に大学で勉強するわけではないのは周知の事実。だから、カリキュラムや教育内容に金をかけたところで、いい学生が集まるわけではない。できるだけ楽しくて、たっぷり遊べて、イメージもいい。こういう大学こそ学生がいきたがる大学だ。
大学選びもけっきょくは「人気」が大事なのだ。ということで知恵をしぼった亜細亜大学は「一芸入試」をはじめ、タレント学生を集めだした。タレントが集まると、学生の人気があがり、偏差値もあがるのは堀越高校が証明している。かくしてみごとにイメージアップし、偏差値もあがってゆくのである。人間とは、もともとミーハーなものなのだ。

○メディアにマーケティングを持ち込んだフジサンケイグループの原点、ニッポン放送
天下の木鐸というけれど、唯我独存のジャーナリズムなんて、誰もほしくない。しかし、新聞の影響を強く受けている日本のメディアは、ひとびとが「聞きたいコト」より、自分が「言いたいコト」のほうを重要視する。新聞は、「拡販員」というプロの押売りが、お客さんを脅したりなだめすかせたり、飴と鞭で押し込んでるからそれでも商売になっている。だが、電波媒体はそうはいかない。見てくれなくちゃ、聞いてくれなくちゃ商売にならないのだ。メディアはもっとユーザをみなくちゃやっていけないのだ。
これで成功したのが、ニッポン放送である。昭和40年代のラジオ不況の時期。ラジオ各社は、ラジオ復活のためにいろいろ試行錯誤をくりかえしたが、このときすでにニッポン放送は、視聴者の声を番組作りに直接反映させることで、メディアとしてはじめてマーケティング的な視点を導入した。その結果が、首都圏AM局での独走を生んだ。
その後もこの発想は定着し、電波だけでなくイベントと組み合せることでより生活者に密着したメディアを目指すなど、新しい方法論の導入にもつながっている。ニッポン放送のラジオ番組やイベントで成功したやりかたは、その後昭和50年代の半ばにフジテレビの立て直しに取り入れられ、ここでも成功した。ぶっちぎりで独走する民放界の雄フジテレビ。その成功の原点の一つも、このマーケティングの視点の導入にあったのだ。



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