「まっすぐな道」を訪ねて カラー版(その6) -1972年7月15日-


さて年を越した今回も前回・前々回からの続きで、1972年7月15日の昼以降白老-社台間で撮影したカット全部出しシリーズの第3回、モノクロシリーズから通算すると第6回。いよいよ今回でこの区間で撮影したカットも出し尽くしです。カラーポジで見ると、曇りがちの部分と青空の部分と空のコントラストがくっきりと出ています。陽射しそのものはかなり来ていたので、エクタクロームの色が残っていたということなのでしょう。その分、トップライトが来ていて逆光気味のカットはかなりはっきりとした逆光になっています。まあ、それも思い出ですね。まあ、平地・直線と本当にバッタ撮りしかできない線区ですが、それも行ってみたという熱い記憶です。とにかく札幌(すなわち北海道)対本州という貨物の幹線中の幹線、まさにこの春札幌オリンピックが開催され経済が圧倒的に発展した北海道のライフライン。それを蒸気機関車が支えていた姿を見れたというだけでもいい思い出といえるでしょう。



今回は当時の北海道国鉄線の女王ともいうべき、キハ82系特急のカットからはじまります。函館-釧路間というまさに北海道を横断して走る特急、堂々の食堂車入り10連で走る下りの「おおぞら」です。当時は、まだ石勝線が開通していませんから札幌折り返し・旭川経由で根室本線を釧路まで走っていました。それでも充分お客さんが集まっていたというところに、当時の北海道の道路事情の悪さ、ひるがえって鉄道依存度の高さがうかがわれます。この列車はモノクロでは撮影していません(上りの「おおぞら」は撮影している)。ディーゼル特急はある意味「華」でしたし、カラーで撮って映える列車なので、けっこう撮れるところではカットを押さえていたりします。まあ、模型やっている人は優等列車も好きですからね。


次のカットも、これまた二つの長い直線区間の間のカーブというほぼ同じ場所です。やってきたのは下りの貨物列車。牽引するのは岩見沢第一機関区のD5153号機です。この列車をメイン35oカメラで捉えたカットは<「まっすぐな道」を訪ねて(その2) -1972年7月15日->で公開しています。インカーブという関係か、望遠のサブカメラでは撮影していません。モノクロの方が一呼吸後にシャッターを切っていますが、モノクロはいかにも曇天のように見えるのに、カラーでは雲の間から青空が垣間見えていて、全然天気が違う感じなのが面白いです。53号機はこの時点でも皿付きの火粉止、いわゆるクルパーを付けていたことがわかります。



続けてほぼ同じ場所で代わり映えしませんが、小樽築港機関区のD51756号機が牽引する下りのフレートライナー・コンテナ特急。コンテナフル積載で、青函連絡船の有効長一杯の17輛のコキ5500を連ねた列車を、D51形式が単機で牽引する姿は、北海道で見た蒸機牽引列車の中でも一際印象深いモノがあります。なんとか模型でも再現したかったのですが、16番ながら軽いプラ製のコキを使って貸しレイアウトで17輛+ヨを牽き切れたのは嬉しかったです。この列車のメイン35oカメラで捉えた標準レンズのカットは<「まっすぐな道」を訪ねて(その3) -1972年7月15日->でで公開しています。これも同様の理由から望遠では撮影していません


次いで今度は、同じカーブながら社台よりの直線区間側に寄って撮影してみました。やってきた列車は追分機関区のC5744号機の牽引する、下りの旅客列車。62系4輛にスハフ32が1輛、さらに最後尾にはマニ60が連結されています。普通列車への荷物車の連結というのは、これまた登場したて宅急便が北海道ではサービス開始していなかったこの頃にはmライフラインとして小荷物が多かった北海道らしい姿でしょう。模型としても好適な編成です。この列車のメイン35oカメラの標準のカットは<「まっすぐな道」を訪ねて(その2) -1972年7月15日->でサブ35oカメラの望遠のカットは<無意味に望遠 その3 -1972年7月15日->で公開しています。カーブ部分で望遠を、直線部分に入ってまずカラー、引き寄せてモノクロと撮り分けています。


ここからの2カットは、蒸機時代にしてはちょっと珍しいカット。上りの特急「おおとり」と下りのDD51形式が牽引する貨物列車のすれちがいのシーンです。もう見えている白老駅へ戻る途中に、複線の線路の中間の部分を歩いていったので、お駄賃的に手持ちで撮ったカットですが、今となっては珍しい情景かもしれません。「おおとり」号はさきほどの「おおぞら」号と並ぶ北海道横断特急で、こちらは石北本線経由で函館-網走間をロングランしました。側面には寄せる年季が感じられますが、それでも整備には北海道の華を維持しようという国鉄マンの矜持が感じられます。対するDD51はまだこの区間では珍しい存在でしたが、ここに登場してくるのには理由があります。


今度は下り貨物を牽引するDD51形式がアップになるカット。何とこのDD51は初期型の45号機。酷寒地型がいない初期型は、そもそも北海道への配属はありません。調べてみると、この当時の45号機は秋田機関区の所属です。試作の1号機が配属されていたことからもわかるように、秋田機関区は早い時期にDD51形式が投入された機関区です。秋田-青森間を手始めに奥羽本線で幅広く使われていました。北海道は夏季の列車需要が高く、いろいろな地域から夏季のみ余剰車輛を借り入れ、臨時列車等に使用することが広く行われていました。奥羽北線が電化して以降比較的運用に余裕ができたDD51を、夏季のみすでにDD51の配属があった鷲別機関区に貸し出したものと思われます。この時期に、標識灯の周りの赤い標識円盤が残っていたというのも驚きます。ぼくも今回初めて、半世紀前のこの事実に気がつきました。




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