ある日の筑前山家 -1970年8月1日-


わずか2時間程度の筑前垣生での撮影を2カ月間引っぱりましたが、さて今月はどうしましょうか。別ネタを出してもいいのですが、この日1970年8月1日のネタはまだまだあります。ということで、ここは一つ時間を逆に回して振り返っていくという新しい(笑)手法で、ぎりぎりまで引っ張りましょう。筑前垣生に向かう前は、冷水峠の筑前山家側で撮影していました。フィルムシーケンスで筑前垣生の一歩前となると、峠の上から筑前山家の駅に戻ってきてから駅で撮影したカットということになります。午前中が冷水峠、午後が筑前垣生という展開でしたので、丁度お昼過ぎの撮影という感じでしょうか。昭和40年代の、ローカル線の駅の昼下がり。いわゆる鉄道写真とはちょっと違うかもしれませんが、模型好きの少年ならではのカメラアイは、こうやってみるとけっこう貴重な記録ですね。


まず最初のカットは、南の庫から 筑豊本線の沿線で(その2) -1970年〜71年-に掲載した写真の一コマ前のカット。直方機関区のD6026号機を先頭にする、重連牽引の下り貨物列車。こちらはホームに進入前なので、周りの雰囲気がより良くわかります。一般貨物用の貨物側線にはトキ25000を連結した貨車移動機がスタンバイしているので、かなりの貨物扱い量があったことがわかります。出発信号機は、3灯色灯式。当時の筑豊本線は、この区間も単線自動閉塞だったんですね。今や、桂川-原田間で一閉塞。単行の気動車が行ったり来たりするだけの超過疎区間になってしまっていますが、「本線」だった名残りがまだあった時代です。


昭和の鉄道風景といえばおなじみの木製駅名票と、留置中のトラ35000型無蓋車との組合せ。駅名票にも時代によっていろいろなタイプがありますが、これは昭和30年代の様式で、毛筆体ではなく丸ゴジっぽい字体(これ自体、国鉄標準字体ですが、っておやじギャグですねこれじゃ)になってからのものです。とはいえ、これは九州総局独特のアレンジが入っている様式ですね。まず両隣の駅名の間に、駅が所属する地方自治体(県と市または郡)が入ります。さらに旧国名は小さく表記されますが、これはひらがなの駅名だけでなく、ローマ字も漢字も全ての表記を合わせて小さい国名表記です。一方青いホーローの駅名看板は、古いタイプの毛筆体のヤツが残っています。


本屋側から見た下りホーム。ホーム上には、当時としてもかなり立派な待合室が建てられています。左右対称に、中央寄りに開き戸、外寄りにベンチという配置ですが、通常の待合室はこの半分のサイズですね。貨物関係の側線はかなり賑やかですが、旅客ホームは対抗式の二面二線のみ。それほど乗客があったとは思えませんが、施設は立派です。その脇には中継信号機が立っています。上り場内の中継ですが、当時筑豊本線には特急・急行も走っていたほか、鳥栖着発で入換なしの貨物列車も設定されており、これらは筑前山家駅は通過扱いだったので、全体がカーブしていて出発信号を目視しにくい構造から中継信号機が立てられたものと思われます。


駅舎本屋のホーム側。こちらの駅名票は、アクリル行燈になった初期のタイプ。ローマ字の部分がグレーバックになったタイプの方をよく見ました。九州でこのタイプは珍しいのですが、九州らしく「ちくぜん」の部分がちょっと小さい文字になっています。改札口からチラリと見えるトラックは、いすゞライトエルフ(KA20)。1968年のエルフのモデルチェンジで登場した、ディーゼルではなくガソリンエンジンバージョンの1.5tトラック。この時は登場から2年後という、比較的新しいモデル。取引先の車なのか、トラックに向かって深々と90°も頭を下げてお辞儀をするオジさんが印象的です。でも、こういう駅の日常を捉えたカットって、なかなか無いんですよ。ジオラマの資料としては貴重です。

駅の原田寄りにはアミノ飼料の「味えさ」のデリバリー拠点となる飼料用サイロがあり、そこに専用側線が敷かれています。工場から「味えさ」を運んできたと思しきホキ2200が3輌側線に留置されています。かなり大仕掛けな仕組みですが、ここからサイロに吸い上げて、粒体ホッパのトラックに積み替えで各畜産農家に届けていました。それ以外にも、袋詰めの飼料の倉庫もあるらしく、側線にはワラ1と思しき有蓋車も留置されています。よく見ると入換用の貨車移動機がこちらにも常駐しており、筑前山家着の貨物はかなりの量があったものと思われます。色灯3灯式の下り本線出発信号機が、右端にチラリと見えます。


これから乗車しようと思っている上り旅客列車が、1番線に進入してきました。牽引機は若松機関区のC5553号機。まずはホームの原田寄り、先程の「味えさ」のサイロが見えるところで撮影します。この時の若松機関区には、19、46、51、52、53、57と6輌のC55が所属していました。この中でも50番台の機関車は小工デフを装備した九州生え抜きのカマが揃い壮観でした。当時はまだこの区間は旅客列車も蒸気機関車牽引のものが多く、駅撮りを含めてスケジュールを組まないと移動できない状況でした。しかしその分、蒸気牽引の列車への乗車を堪能できたともいえるわけで、いまとなっては貴重な思い出です。


同列車が列車交換のために停車中のカット。まだ山に囲まれているところをみると、筑前内野駅でしょうか。待ち合わせ時間があったためか、機関士・機関助士はキャブから降りて煙草を一服して交換列車がやってくるのを待っていたという風情です。当時はけっこう余裕のあるダイヤを組んでましたので、けっこうこういう息抜きタイムがあったし、それがないと夏場の蒸気機関車の乗務など過酷過ぎて耐えられないというところでしょう。向こう側のホームにキハ17を先頭に下り列車が入ってきました。「さあ、行くか」とばかりに機関士が乗車。機関助士も続いて乗り込もうというところです。ところで1輌目は、いわゆる「キノコ妻」の、戦後製オハフ33のようですね。


そして列車は直方を通過します。停車しているのは、後藤寺機関区の29651号機。九州の9600らしく、製造時からの型式入りナンバープレートはテンダに装着しています。なぜか九州ではテンダに型式入りを付けているカマが多く、特に9600では型式入りナンバーはほぼテンダにしかつけられていません。かなり顕著な傾向なので、意識的に行われた(戦時中も供出せず、テンダ後面のみは残しておいたのか)と思われます。ということで、これはまさにある日の筑前垣生(その1) -1970年8月1日-
の最初の写真の1コマ前のカットだったりします。ということで、ぐるりと回ってシーンが繋がりました。



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