映画評論 PARTW

 


 

目 次

 

1.父親たちの星条旗     2006年 アメリカ

 

2.硫黄島からの手紙     2006年 アメリカ

 

3.太  陽         2005年 ロシア、イタリア、フランス、スイス

 

4.ラストサムライ       2003年 アメリカ

 

5.ダンス・ウイズ・ウルヴス  1990年 アメリカ

 

6.ブレイブハート                  1995年 アメリカ、イギリス

 

7.ホテル・ルワンダ      2004年 南アフリカ、イギリス、イタリア

 

8.ククーシュカ        2002年 ロシア

 

9.モレク神          1999年 ロシア    

 

10.コーカサスの虜       1996年 ロシア、カザフスタン

 

11.ダビンチ・コード       2005年 アメリカ

 

12.薔薇の名前                    1986年 フランス、イタリア、西ドイツ

 

 

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父親たちの星条旗

 

              Flags  Of  Our  Fathers

 

 

制作;  アメリカ

 

制作年度;2006年

 

監督;  クリント・イーストウッド

 

 

 

(1)あらすじ

 

1945年2〜3の硫黄島の戦いは、太平洋戦争で最大の激戦となった。そして、6名の海兵隊員がこの島の戦略拠点・摺鉢山の山頂に星条旗を立てる1枚の写真は、第二次世界大戦で最も有名なものとなった。

 

第7次戦時国債の不人気に頭を悩ますアメリカ財務省は、この1枚の写真を利用して国民の愛国心を喚起しようと考え、写真に写っていた6名の海兵隊員を母国に召還する。しかし、摺鉢山占領後の激闘で既に3名が戦死していたので、生き残った3名であるジェイムズ・ブラッドリー(ライアン・フィリップ)とアイラ・ヘイズ(アダム・ビーチ)、そしてレイニー・ギャグノン(ジェシー・ブラッドフォード)が、国債募集の全国行脚に狩り出されることになった。

 

ところが、有名な写真に写る星条旗は、実は、激戦の最中に立てられたものではなかった。最初に立てられた旗が降ろされた後に、安全な状況の中で立てられた代用品に過ぎなかったのだ。また、政府が認定した3名の戦死者の中に人違いがあった。

 

生き残った3人は、こういった事実を糾そうとするのだが、政府のポピュリズム的な国策によって情報は大きく歪められてしまう。そして、彼らは国民によって「英雄」と呼ばれるようになった。3人は、戦争後遺症と周囲の異常な環境によって人生を狂わされてしまう。

 

歳月は流れ、老いたブラッドリーは臨終の床で息子に語る。「戦争には、本当の英雄など存在しない」のだと。

 

 

(2)解説

 

クリント・イーストウッド監督の「硫黄島2部作」の巻頭を飾る巨編である。この2部作は、それぞれアメリカ側と日本側の双方の視点から一つの戦場を撮るという点で画期的なのだが、2作とも異なる文芸的テーマを持っている点でも特色がある。

 

『父親たちの星条旗』は、同名の原作を映像化したものである。原作者はジェイムズ・ブラッドリーの息子。そしてこの著作は、著者である息子の視点から、父の世代の戦争の実相を究明していくドキュメンタリーであった。そこに見られるのは、息子から父の世代へと捧げられる感謝と尊敬の念である。そのため、この著作は世界中の誰もが共感できる普遍性を持っていた。

 

イーストウッド監督による映像化は、著作の物語を忠実になぞっている。スピルバーグ(製作)らが長年の労苦の末に培った硬質な戦場風景や音響効果も、息を呑むほどに素晴らしい。しかしながら、「映画」が持つ固有の限界(時間枠など)に大きく左右されているため、原作を大幅に矮小化する内容になってしまったことは否めない。

 

イーストウッド監督は、「親子二世代のドラマ」より、むしろ「アメリカ政府の冷厳な政治哲学と、個々の平凡な兵士の生々しい運命とを対比すること」を映画の主題にしている。これは、単純なアメリカ政府批判ではなくて、「政治」そのものへの批判である。そして、これはもちろん「戦争批判」にも繋がるのだ。その意味では、とても真面目で良質な映画だと感じた。

 

しかし、原作本の最大のテーマである「世代間の相克」や「子の視点からの親の世代に対する尊敬」が、映像の中でほとんど出て来ない。私は、原作を読んでこういった点に非常に深く感動した人なので、映画を観て物足りなく感じた。中途半端に描くくらいだったら「老いたブラッドリーと息子の物語」を映画から排除して、1945年前後のストーリーに特化すれば良かったのに。

 

また、この映画は過去と未来を次々に切り替える手法で物語を語るのだが、説明が足りないために、画面で今何が語られているのか分かりづらい時がある。映画は、基本的に3つの時間軸から構成されている。すなわち、硫黄島の戦場(1945〜3月)、銃後の国債公募ツアー(19454月ごろ)、老いたブラッドリーとその息子(1990年代)の3つである。これらが順不同で次々に切り替わるので、物語を理解するのがたいへんである。私は事前に原作を読んでいたので大丈夫だったのだが、そうじゃない人は 、いきなり冒頭から何が何だか分からなくなったのではないだろうか?

 

スター俳優を排除したリアリズムが、個々の登場人物の印象を薄くしたのも問題であった。主役の3人はともかく、残りの兵士については顔の区別がつかず、誰が誰やら最後まで把握出来なかった観客が多かったのではないだろうか? 実を言うと、そういう私も、2回目の観賞でようやく個々の人物が区別できるようになったのである(笑)。

 

「残りの兵士」の中で、最も重要な原作上の人物は、チェコ移民のマイク・ストランク曹長である。彼は、兵士たちの精神的支柱となった尊敬に値する人物であり、本物の「英雄」だったのだが、硫黄島の戦いの最終段階で戦死してしまう。生き残った3名は、本当の英雄がマイクであることを知っていて、彼を失った悲しみを忘れ難いからこそ、アメリカ政府の冷酷さとご都合主義に苛立つのである。映画では、インディアン出身の激情家アイラを前面に出して、こういった状況をエモーショナルに語っているのではあるが、肝心のマイクに関する描写が少ないために、マイクそのものの魅力がまったく伝わって来ない。マイクを演じたバリー・ ペッパーもミス・キャストだったと思う。そういうわけで、原作を未読の人は、アイラたちの激情やストレスの理由がピンと来なかったのではないだろうか?

 

このように、『父親たちの星条旗』は全体として舌足らずで中途半端なところが多い。わずか2時間台の映画の中で、あの雄大な原作の全てを描こうとしたことに問題があったのだろう。

 

もっとも、原作自体が、イーストウッド監督の持ち味が十分に出せるようなストーリーでは無かったように思われる。自分の殻を壊して新しいことに挑戦し続けるイーストウッドの闘志は、尊敬に値する。しかしこういった冒険は、しばしば失敗も生むのである(私は、たとえば 『スペース・カウボウイ』は失敗作だったと感じている)。

 

むしろ『硫黄島からの手紙』の方が、日本人キャストによる日本側の物語でありながら、はるかに「イーストウッドの持ち味」が出ていたのが興味深い。

 

 


 

 

硫黄島からの手紙

 

                     Letters From Iwojima

 

 

制作;  アメリカ

 

制作年度;2006年

 

監督;  クリント・イーストウッド

 

 

 

(1)あらすじ

 

太平洋戦争の戦局が日増しに悪化する中、小笠原諸島の硫黄島に一人の将校が降り立った。その男、栗林忠道中将(渡辺謙)は、同僚たちから「厄介者」と白眼視されながらも、独自の戦略眼でこの重要拠点の防備を固めて行く。アメリカ駐在の豊富な海外経験を持つ彼は、頑迷固陋な官僚化した軍人たちより、はるかにアメリカ相手の戦い方を知っていたのだ。

 

1945年2月、ついにアメリカの大軍が硫黄島に上陸を開始した。栗林は、味方全軍を巨大な地下壕に立て篭もらせることで敵の艦砲射撃と空爆を空振りに終わらせ、そして、地下に巧みに隠蔽した大火力で反撃を開始したのであった。彼は、「一人十殺」を兵たちに命じ、そして一日でも長く生き延びて持久戦を戦うことを訓示した。彼らが生きる一日が、母国の妻子が生き延びる一日に繋がると信じて。

 

しかし、圧倒的物量を誇るアメリカ軍によって、守備隊はジワジワと追い込まれていく。また、陸軍と海軍の不和はこの期に及んでも解消されず、海軍の伊藤中尉(中村獅童)は陸軍の栗林の命令に背いて自殺的な反撃を行ったりする。

 

そんな中、西郷兵卒(二宮和也)は、愛する妻のために母国に生還しようと苦闘していた。栗林の本隊に合流した彼は、栗林から、将兵たちの家族宛の最後の手紙の束を地下に埋めるよう命じられる。この間、もはや弾薬も食糧も水も尽き果てた最後の守備隊は、栗林を先頭にして、アメリカ軍の陣地に最後の突撃を敢行したのだった。

 

 

(2)解説

 

イーストウッド監督の「硫黄島2部作」のうち、「日本側から見た硫黄島」がこの作品である。

 

私の知る限り、太平洋戦争の日本軍を描いた最高の映画である。アメリカ人監督にお株を奪われたという点で、日本の映画監督は恥じ入るべきなのかもしれない。もっとも、アメリカ人監督の作品ゆえに、日本国内の様々な「タブー」から自由であったという点も考慮に入れるべきであろうか。

 

キャストのほとんどが日本人俳優で、劇中の言語も日本語がそのまま使われる。それなのに、物語が完全な「イーストウッド節」なのに驚かされた。

 

イーストウッド作品が放つメッセージは、「人生は暗くて重くて辛い。死んだほうがマシかもしれない。だけど、その中で希望を捨てずに生きることこそが尊い」というものである。彼は、こういった主題を、親子(ないし擬似親子)の視点から語らせるのが得意だ。多くの場合、主人公はマイノリティであり、周囲から差別や迫害を受けている。こういった作品の代表格が、アカデミー賞に輝く 『ミリオンダラー・ベイビー』である。

 

太平洋戦争中の日本は、まさに世界のマイノリティであり、圧倒的に絶望的な状況に置かれていた。これはまさに、イーストウッドが好きなテーマである。栗林中将と西郷兵卒が一種の「擬似親子」の関係であることは、誰もが容易に気づくであろう。 『硫黄島からの手紙』は、まさにイーストウッド監督お得意の作劇術が全開された映画なのである。

 

イーストウッドはまた、アメリカ人の視点から日本の戦争をリベラルに観察している。アメリカの知識人が理解に苦しむのは、日本の兵士が「特攻」や「玉砕」のように簡単に死に急いだことである。今日でも、日本国内の自殺者の数は欧米に比べて圧倒的に多い。これはもちろん、宗教的死生観に原因があるのだが、イーストウッドはアメリカ人の立場からこれを批判する。すなわち、安易に死を選ぶのは「現実逃避」であり「卑怯」な行為であると指摘するのだ。

 

劇中の栗林は、周囲の幕僚の多くから白眼視され孤立している。彼の理解者は、同じくアメリカ滞在経験のある西竹一中佐(伊原剛志)のみ。彼らは、「死」を無責任だと感じ、「生」の責任を直視するアメリカ思想を共有する2人なのである。

 

彼らに真っ向から対立する海軍の伊藤中尉は、彼らを臆病だと考えているが、実は、死に急いで突撃を焦る彼こそが、生の重さに耐えかねた臆病者なのである。対戦車地雷を抱えて戦場を彷徨う伊藤は、結局、疲れてへたり込んでいるところをアメリカ軍の捕虜となる。

 

西郷兵卒は伊藤と違って、劇中でひたすら逃げ回っている。しかし、栗林(=イーストウッド)は、そんな西郷を暖かく慰めて励ます。「生きること」こそが尊いのだと。イーストウッドの眼には、栗林中将や西中佐が、アメリカ文化を理解しつつ日本文化に殉じるしかなかった悲劇の人物に見えたのだろう。彼らに対する視線は、とても優しく暖かい。

 

西郷ら個々の日本兵の人物像も、型破りであった。これまでのアメリカ映画では、日本兵といえば「ゾンビ」みたいな存在であった。人間らしい感情を持たず、ひたすら自殺的な突撃を繰り返すサイボーグみたいな怪生物であった。ところが、「硫黄島からの手紙」に登場する日本兵は、とても人間的で好感の持てる人々である。西郷は、映画の冒頭から愚痴を言いまくり、愛妻に文句だらけの手紙を書き綴り、なるべく仕事をサボろうとしている。地下道を逃げ回る西郷の姿は、ダンテの「神曲」のイメージである。日本兵を、このように人間的に描いてくれたことに、我々は深く感謝するべきであろう。

 

戦場の描写もユニークである。戦闘シーン自体がそれほど多くないし、英雄的な勇ましい場面も出て来ないのである。戦闘シーンでは、唯一、噴進砲(日本軍初のロケット砲)の発射シーンが印象的であった。噴進砲が映像化されたのは、これが史上初めてだったのではないだろうか?ただ、いきなり戦車に直撃弾を与えて粉砕していたのには違和感を覚えた。当時のロケット砲は命中精度が非常に低かったので、あのような用法は実際にはされなかったのではないだろうか?

 

アメリカ兵が、日本の捕虜を虐殺する場面が描かれていたのも印象的だった。これはテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』でも描かれていたことだが、実は戦争中の日本兵の捕虜が少なかった理由は、日本兵の狂信もあるが、それ以上にアメリカ兵による投降者への虐殺に原因があったことが明らかになっている。当時のアメリカ人は、日本人を「サル」扱いしていたので、捕虜虐殺にも罪悪感を覚えなかったようだ。しかし、それは日本側も同じであって、日本兵は捕虜にしたアメリカ人を容赦なく殺戮していた。この場面も、映画の中できちんと描かれる。

 

イーストウッドは、日本とアメリカのどちらかが善で、どちらかが悪という皮相的な見方ではなく、戦争そのものが悪だというリベラルな視点に立っている。これは、絶対的に正しい。

 

この映画によってアメリカ人の、いや全世界の「日本の戦争」観が、大きく修正されることを願う。

 


 

 

太 陽

 

       The Sun

 

 

制作;  ロシア、イタリア、フランス、スイス

 

制作年度;2005年

 

監督;  アレクサンドル・ソクーロフ

 

 

(1)あらすじ

 

第二次大戦末期、昭和天皇(イッセー尾形)はいつものように公務をこなしていた。

 

老僕に着替えを手伝ってもらい、侍従長(佐野史郎)にスケジュールを指示される。大臣たちと会議をして、海洋生物学の研究をする。暇な時は、家族の写真やハリウッド女優のスナップを観賞して楽しむ。そんな彼は、自分が「生きている神である」という状況を納得できずにいた。

 

やがて終戦になると、皇居はアメリカ軍の監視下に置かれた。GHQを訪れた天皇は、その飾らない人柄でマッカーサー元帥(ロバート・ドーソン)を驚かせる。ひとしきりの哲学談義の後、マッカーサーはある重大な提案を行うのだった。

 

皇居に帰った天皇は、疎開先から戻って来た皇后(桃井かおり)に重大な決心を伝えた。「神」を辞めて、明日から「人間」になるのだと。

 

 

(2)解説

 

私が、心から尊敬するソクーロフ監督の一本。

 

おそらく日本での公開は無理だろうと考えて諦めていたけれど、昨年(2006年)ミニシアターで公開されたのだった。私は、これを横浜のムービルで見た。

 

ロシア映画は、伝統的に哲学的で芸術的なものが多いのだが、その中で特に異彩を放つのがソクーロフの才能だ。彼は、「20世紀の独裁者」をテーマに3部作を制作した。 すなわち、ヒトラーを描いた『モレク神』、レーニンを描いた『牡牛座』、そして昭和天皇を描いた『太陽』である。いずれも、独裁者の「私生活の姿」を描いて本質を抽出するというユニークなアプローチを採っている。

 

キリスト教世界では、「生きている人間が神である」ことは有り得ない。また、「神」が「人間」に戻ることも有り得ない。この有り得ないことの連続が昭和天皇の生涯だったわけで、外国の知識人の視点から見たこういった不思議さも、映画の主題になっている 。

 

俳優のほとんどが日本人で、みんなきちんとした日本語を話す。その点で、『硫黄島からの手紙』と同様に、日本文化がリスペクトされていると感じた。イッセー尾形の演技も見事である。「あっそ」という口調など、本物の昭和天皇のようだった。

 

しかし、この映画での昭和天皇の描き方には、賛否両論あることだろう。おそらく、右翼の人も左翼の人も納得しないのではないだろうか?右翼から見れば「天皇陛下をバカにしている!」という事になるだろうし、左翼から見れば「天皇を美化している!」という事になるからだ。もしも日本人の作家がこういうのを制作したなら、たいへんな騒動になるだろう。ロシア人のソクーロフだから、良かったのである。

 

私はリベラルな立場の人なので、この映画における天皇の描き方には心から納得している。ただ、なんとなく「美化しているのかな?」と感じることはあった。

 

実際、ソクーロフは、明らかに昭和天皇をリスペクトしている。映画の中の天皇は、広い心を持ち道徳的で優しくユーモラスで、「可愛らしさ」すら感じさせる人柄だ。劇中のマッカーサーは、天皇の「愛らしさ」に深く心を動かされるのだ。

 

その理由は、監督の個人的な思い入れによるらしい。彼の父親は、第二次大戦末期に千島列島で戦っていた。もしも日本があのタイミングで降伏しなければ、彼の父は戦死していたかもしれなかった。だからソクーロフは、本土決戦を避けて終戦を決意した昭和天皇の勇気に心から感謝し恩を感じているのだった。 監督のこういった暖かい感情が、映画の中にストレートに反映されている。

 

この映画が世界に広く認知され、この映画の昭和天皇の姿が「歴史の通説」になれば、今後の日本のアジア外交にとっても有益なのではないか?私は、そんな思いも抱いたのであった。

 

なお、この映画では一箇所だけCGが使われるシーンがある。天皇が午睡中に見る夢の中で、巨大な魚の群れが空中を泳ぎまわって次々に卵を産む。その卵が爆弾と化して地上に降り注ぎ、多くの市民を殺戮するシーンである。銀色の体をうねらせながら卵(爆弾)を落としていく魚(もちろんB29のモチーフ)の幻想的な美しさと不気味さに息を呑み、ソクーロフの天才性を痛感した。

 

私が思うに、「CGの最も効果的な使い方」はこれである。

 

CGは、ようするにアニメだから、どうしても映像が薄っぺらで嘘っぽくなる。だから、CGを用いてリアリティを表現するのは、愚か者のやることである。

 

ハリウッド映画は、ちゃんとこういうことを考慮していて、まともな映画ではCGを使わない(もちろん、低予算のB級映画は論外)。使う場合は、なるべくファンタジーやSF映画で用いる。どうしても現実的な映画で使う場合は、巨額の資金を投じてCG自体の質を高めた上で、画質を工夫してCGの欠点を消そうと努力する。たとえば「硫黄島2部作」では、画面をセピア色に統一することで、CGの欠点が目立たないように工夫していた。

 

ソクーロフが用いたCGは、はっきり言ってハリウッドに比べ安っぽい。しかし「天皇の夢の中」で用いることで、かえってCGの持つ固有の弱点である薄っぺらさと嘘っぽさを、幻想的な不気味さに転化して前向きに用いたのである。そういう意味で、彼の知性はハリウッドの知恵と技術を凌駕したと言えよう。

 

翻って日本映画を見ると、安っぽいCGを「リアリティの創出」に用いているから愚かである。「ALWAYS三丁目の夕日」の遠景のCGの薄っぺらさは、映画そのものを破滅させていた。「DEATH NOTE」の死神のCGも、あまりにも人形っぽくて、死神の怖さや不気味さがまったく表現出来ていなかった。 「ALWAYS」も「DEATH NOTE」も、日本映画にしては良い出来だったので、とても残念に感じた。CGの持つ固有の弱点を、弱点のまま用いているからそうなるのである。これは、「竹やりを用いてB29を撃墜しようとする」のと同レベルの愚行である。

 

やはり、日本人の知性はロシア人にもアメリカ人にも劣るのであろうか?

 

 


 

 

ラストサムライ

 

             The Last Samurai

 

 

制作; アメリカ、日本

 

制作年度; 2003年

 

監督; エドワード・ズゥイック

 

 

(1)あらすじ

 

南北戦争の英雄ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は、インディアン虐殺に心を蝕まれ、酒びたりの日々を送っていた。そんな彼に、日本の軍制を近代化するという仕事がやって来る。莫大な謝礼に惹かれた彼は、海を渡った。

 

明治維新直後の日本は、近代化(欧化)を推進する勢力と、伝統的な武士道を墨守しようとする勢力とに引き裂かれていた。保守派の首魁・勝元(渡辺謙)が鉄道を襲ったと聞いたネイサンは、訓練未了の近代軍を連れて討伐に向かうが、あえなく敵の捕虜となってしまう。

 

しかし、勝元の村で伝統的な日本文化や信仰に触れたネイサンは、次第に「武士道」に惹かれるようになり、勝元やその片腕・氏尾(真田広之)、村の女性たか(小雪)と友愛を深めて行った。

 

明治政府と勝元の和平は不調に終わり、勝元はついに全軍を率いて最終決戦に臨んだ。ネイサンも、勝元と共に戦う。しかし皮肉なことに、反乱軍を鎮圧したのはネイサンが鍛えた近代軍であった。ネイサンは、敗将となった勝元の介錯を行い、そしてただ一人の生存者となる。

 

ネイサンは明治天皇(中村七之助)に、大切な日本独自の文化を守るように訴えた。明治天皇は、ついに強欲な外国の武器商人の要求に向かって「No」を突きつけるのだった。

 

 

(2)解説

 

「武士道ブーム」の火付け役となった一本。トム・クルーズが日本文化をリスペクトするこの映画は、日本全国に感動と興奮を巻き起こした。

 

この作品は、日本文化が本来持つ美しさを、アメリカ人の視点から称揚すると同時に、独自の文化を捨てて安易に欧米化する日本の現状に警鐘を発している。

 

私は、会計士の仕事をして行く上で、安易にアメリカの制度の猿真似をするこの国の風潮に辟易している。訪れた方ならすぐに分かることだが、アメリカは日本とは随分と違う。社会の沿革や構造や成り立ちはもちろん、国民の物の見方、考え方も段違いである。こういった状況を考慮せずに、アメリカの仕組みをそのまま取り入れたって上手く行くわけがない。特定の既得権者に歪められて悪用されるか、死文と化すのが関の山である。リース会計も税効果会計も退職給付会計も、みんなそうなった。裁判員制度も日本版SOX(内部統制)も、きっとそうなることだろう。

 

そういうわけなので、明治天皇が、ラストで外国人たちに「No」を告げる場面は心底から嬉しかった。本来は、こうあるべきである。

 

どうして現実の日本人が「No」を言えないかというと、それは今の日本人にとって、唯一最強の「権威」がアメリカだからである。とりあえず会議の場で「アメリカがやっているから真似しよう」と言えば、水戸黄門に印籠を出されたみたいに話がすっきり纏まるのである。内容の可否なんて、どうでもいいのである。宗教に近い狂信なのである。

 

日本人が、アメリカの映画人から「もっとNoを言うべきだ」と指摘されたのは、ある意味とても恥ずかしいことである。私は、映画を観て嬉しくなると同時に、非常な居心地の悪さも感じたのであった。

 

ただ、この映画には問題点も多い。欧米人に、日本文化を誤解させかねないのだ。

 

そもそも「武士道」の説明が薄っぺらである。素直に映画を観ると、「武士道=銃よりも刀を用いること」と、ただそれだけのように思えてしまう。たとえば、最後の戦いでの勝元軍は、南北朝時代の鎧を着て(笑)、刀を振りながら、鉄砲と大砲で重武装する新政府軍に突撃して全滅するのだが、武士道とは時代錯誤の行為をして死に急ぐことなのだろうか?映画を観る限り、残念ながらそうとしか思えない。

 

念のために言うが、勝元軍のモデルとなった西南戦争の薩摩軍は、ちゃんと鉄砲で武装していた。白刃で切り込む場合もあったようだが、それは田原坂のように地形が険阻で銃が使いにくいとか、弾薬が尽きた場合に限られていた。そもそも、日本の武士は、戦国時代から鉄砲を用いて戦っていたのである。

 

映画は、冒頭から「日本刀」に拘りすぎているようだ。日本刀と武士道を、同じものとして扱っている。つまり、ものすごく物質的で皮相的なのである。武士道の道徳面については、ほとんど何の説明もない。この映画の製作者は、実は、東洋思想についてあまり突っ込んだ勉強をしていないのだろう。

 

意外に思う読者が多いだろうが、私が知る限り、ハリウッド製で最も東洋思想の本質を掘り下げて描いた映画は『スターウォーズ新3部作』である。これは、ジェダイ騎士団(東洋思想)とアナキン・スカイウォーカー(西洋思想)の対立を描いた映画である。ジョージ・ルーカス監督は、実に奥深くまで東洋思想を研究していると感じた。しかも、東洋思想を正義とし、西洋思想を悪と断じて非難しているのである。さすが ルーカスは、黒澤明フリークである。

 

これに対して、残念ながら『ラストサムライ』は、何か東洋思想(武士道)を勘違いしている映画なのである。これは、トム・クルーズが入信している新興宗教サイエントロジーの影響だろうか?

 

劇中の言語も、ほとんど英語が使われる。どうして、南北朝時代の鎧を着て日本刀を振り回す勝元(=欧米大嫌い!)が、英語ペラペラなのだろう?なんか、矛盾してないか?

 

また、武装した忍者が大群で攻めて来る場面には違和感を覚えた。時代錯誤もいいところだ。

 

それでも、日本文化が外国からリスペクトされるのは、嬉しいことに変わりない。

 

 


 

 

ダンス・ウイズ・ウルヴス

 

                      Dances With Wolves

 

制作;アメリカ

 

制作年度;1990年

 

監督;ケヴィン・コスナー

 

 

(1)あらすじ

 

アメリカ北軍のジョン・ダンバー中尉(ケヴィン・コスナー)は、奇策で味方を勝利に導き、南北戦争の英雄となった。上官から新たな任地の希望を聞かれた彼は、「失われつつあるフロンティア」への赴任を求めた。

 

彼が赴任した西部の砦は、長いこと放置され無人となっていた。愚直なダンバーは、それでも一人でこの廃墟に腰を落ち着ける。

 

孤独な生活の中、やがて付近のスー族との交友関係が生まれた。

 

白人たちが「盗人」「殺人鬼」と罵るインディアンは、実際には礼儀正しく大らかで、大地と調和しながら人間らしく生きる高潔な人々だった。ダンバーはスー族とともにバッファーローを追い、敵対部族と戦い、ついにはスー族に育てられた白人女性「拳を握って立つ女」(メアリー・マクドウェル)と結婚して部族の一員となる。いつしかダンバーは、部族の仲間たちから「狼と踊る男」と呼ばれるようになっていた。

 

しかし、そんな生活に白人の魔手が迫った。砦に戻ったダンバーはアメリカ軍に捕らえられ、かつての同胞たちから「裏切り者」と呼ばれて残酷な仕打ちを受け、ついに処刑のために後方の司令部に移送されることになる。

 

彼の危機を救ったのはスー族であった。彼らと共にに逃走したダンバーは、しかし自分の存在がスー族全体を危険にさらすことを恐れ、妻を連れて新たな大地を目指すのだった。

 

 

(2)解説

 

弟が大ファンだったので、弟が買ってきたビデオで見た。そして、ケヴィン・コスナーという人物の才能を大いに見直した。

 

また、『ラストサムライ』を映画館で見た時に最初に思い出したのがこの作品であった。『ラストサムライ』は、いろんな点でこの映画をパクっているように思う。

 

『ダンス・ウイズ・ウルヴス 』は、西部劇の概念を覆した革命的傑作である。

 

従来の西部劇では、インディアンは野蛮で残忍な殺人者であり略奪者であった。彼らと戦うアメリカの騎兵隊は、ジョン・ウェインの雄姿とともに「正義」の象徴に他ならなかった。しかし、こういったステレオタイプの図式を180度ひっくり返したのが 『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』なのである。

 

この映画に登場する白人は、主人公以外はみんな冷酷残忍で無知蒙昧で野蛮で、見ているだけで不愉快になるほどの悪党である。これに対して、インディアンはみな高潔で文化的で人間的である。そして、白人こそが強欲な略奪者に他ならない。まさに、革命的な解釈である。

 

もちろん、こういった極端な描き方には批判もあるようだが、この映画はあくまでもダンバーの視点で描かれており、ダンバーは常にインディアンにシンパシーを感じている人物なのだから、この描き方で正しいのである。

 

こういった解釈論を抜きにしても、映像と音楽の美しさだけで魅力満開の映画である。大草原でのバッファロー狩りのシーンなどは、何度見てもため息が出るほどの美しさだ。映画は本来、こういう画を見せるために存在するのだと感嘆してしまう。

 

この映画はまた、「異文化交流」も重要なテーマにしている。ダンバーと「蹴る鳥」(スー族の聖者)は、好奇心を梃子に、互いを理解して友情を深めていく。好奇心の次に大切なのは、偏見を捨てて心を開き、そして互いの良い部分を尊敬しあい学びあうことである。ダンバーと「蹴る鳥」は、こういった条件を互いに十分に満たしていたから親友になれたのだ。

 

もっとも、ダンバーはかなりの変人である。映画の中では、彼の生い立ちなどの背景はまったく語られないのだが、妻子はもちろん、恋人どころか友人もいなかったようだ。また、自己の帰属する組織にまったく縛られないメンタリティの持ち主でもある。だからこそ、インディアンの一員になれたのだ。

 

このような変人でなければ、真の異文化交流が出来ないのだとすれば、それはとても哀しいことである。実際、連綿と続く差別と戦争の血塗られた人類史が、そのことを証明しているように思われる。

 

 


 

 

ブレイブハート

 

                        Brave heart

 

 

制作;アメリカ、イギリス

 

制作年度;1995年

 

監督;メル・ギブソン

 

 

(1)あらすじ

 

13世紀のスコットランドは、イングランドの過酷な支配と略奪に苦しんでいた。

 

青年ウイリアム・ウォレス(メル・ギブソン)は、妻をイングランド兵に殺害されたことをきっかけに、独立戦争の指揮官となる。

 

彼は、卓抜な戦術で攻め寄せたイングランド軍を次々に打ち破るのだが、イングランドと利害関係を持つスコットランド貴族たちの足並みが揃わない。ついに、貴族たちの裏切りにあってスコットランド独立革命軍は敗れ去る。

 

しかし、捕虜となってロンドンに引き出されたウォレスは、処刑台の上でも屈することなく「自由」を叫ぶのだった。

 

やがて、ブルース卿に率いられたスコットランドの勇士たちは、ウォレスの思い出を胸にして、イングランドからの独立を達成した。

 

 

(2)解説

 

おそらくは『ダンス・ウイズ・ウルヴス』の成功が契機となったのだろうが、1990年代は、これまでの映画で描かれてきた歴史の通説を覆すような史劇が数多く作られるようになった。中世スコットランドの独立革命を描いた大作映画など、一昔前は想像すら出来なかっただろう。

 

監督兼主演のメル・ギブソンはオーストラリア出身なのだが、遠い先祖はスコットランド人だったという。そういった背景があるからこそ、このような大胆な挑戦が可能になったのだ。

 

映画は、終始一貫してスコットランド側の視点に立っていて、劇中に登場するイングランドの王侯諸侯は、みな奸智に満ちた邪悪な人間に描かれている。そういえば、国王エドワード1世を演じたパトリック・マクガーハンは、 『刑事コロンボ』に犯人役でよく登場していた(笑)。従来のシェークスピア劇などでは常に大義として描かれるイギリス王朝の人々を、ここまで貶めただけでも凄い快挙である。

 

実際、歴史上の真実などというものは、論じる側の立場によって180度違うものである。プランタジネット朝やノルマン朝の栄光は、支配され搾取される側の人々から見れば邪悪な暴力でしかない。我々は、シェークスピアなどの高名な表現者がイギリス側の立場で本や劇を書いたものだから、なんとなく華麗で立派なようにイメージしているだけである。そういった「歴史の相対性」を気づかせてくれるだけでも、この映画は非常に大きな価値がある。

 

物語の組み立て方も、実に上手であった。主人公は妻の仇を討つために挙兵し、最後までその面影を忘れない。その割には、イギリス王太子の后(ソフィー・マルソー)とアバンチュールしちゃうわけだが、これも重要な伏線になっている。過酷な史劇でありながら、全体的にロマンティックなテイストなのが良い。

 

スコットランド貴族の描き方も見事であった。最重要人物であるブルース卿の心の葛藤を、彼の父親との意見対立という図式に置き換えることで、実に分かりやすく、しかもドラマティックに説明していた。 彼の最後の裏切りも、ブルース自身はウォレスの味方だったのに、父親が勝手に裏切ったという説明になっていた。ギブソン監督は、ブルースの、いやスコットランド貴族たちの複雑な心理を、こういう技法で分かりやすく表現したのである。ブルースの父親(ブルースの悪い心の象徴)の容貌が、ハンセン氏病を病んで醜く崩れている設定など、実に見事なモンタージュ技法だと感じた。「なるほど、こういう方法もあるんだなあ」と、劇場で素直に感心した。

 

戦闘シーンの大迫力も見事であった。『プライベートライアン』以前の映画で、あそこまでリアルで凄惨な戦闘シーンを表現できたのは、この映画だけである。『ブレイブハート」 』の戦闘シーンのイメージは、拙著『ボヘミア物語』にも非常に大きな影響を与えている。

 

それにしても、ウォレスをはじめとするスコットランドの戦士たちが、みんな民族衣装のスカートを履いているのには、しばしば失笑しそうになった。スカートの下から毛むくじゃらの足が覗いていて、それが凄惨な死闘を演じるのだから、ある種のブラックユーモアを感じた。まあ、スコットランドの伝統文化がそうなのだから、これは仕方ない。

 

ただ、ウォレスが拷問を受けて処刑される場面を延々と描いたのには閉口した。製作者の意図も分からないではないが、もう少しスマートに纏めて欲しかった。それだけが残念である。

 

 


 

 

 

ホテル・ルワンダ

 

               Hotel Rwanda

 

 

制作;  南アフリカ、イギリス、イタリア

 

制作年度;2004年

 

監督;  テリー・ジョージ

 

 

(1)あらすじ

 

1994年4月、ルワンダではフツ族とツチ族の長い争いがようやく終結しようとしていた。支配民族であるフツ族の大統領は、ツチ族と3年間の和平協定を結ぼうとしていた。

 

そんな中、首都キガリの「ミル・コリン・ホテル」は、ベルギー系の優良ホテルとして、多くの外国人や政府関係者で賑わっている。総支配人ポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)は、有能なホテルマンとして幸せな日々を送っていた。

 

しかし、大統領が暗殺されたことで和平は崩壊。フツ族の民兵は、ツチ族を「裏切り者」と呼んで大殺戮を開始した(実際には、フツ族の過激派による暗殺だったらしいが)。ポールは、彼自身はフツ族であったのだが、最初はツチ族である妻を守るため、やがては迫害される多くの人々を救うために、自分のホテルに多くの避難民を受け入れる。

 

彼は、ホテルマンとしての才覚とコネを用いて、なんとか避難民の安全を確保するのだが、応援に来てくれた外国の軍隊は、自国民を救出してさっさと撤退してしまった。こうして、ルワンダに残されたのは、オリバー大佐(ニック・ノルティ)率いるわずか300名の国連軍兵士のみ。

 

ポールの、知恵と勇気を振り絞る必死のサバイバルが開始された。ベルギーの本店から外交的外圧をかけてもらったり、賄賂を政府軍人に渡したり。

 

その間、ホテルの外では、わずか100日間の間に100万人以上のツチ族と穏健派フツ族が虐殺されていた。ポールは、結局、1268名もの避難民をホテルに受け入れる。

 

いよいよホテルも危なくなった時、コンゴからのツチ族の反撃が開始された。劣勢になったフツ族は、和平の条件として「ミル・コリン・ホテル」の避難民を解放する。

 

ポールは、多くの避難民とともに海外の新天地への道を辿るのであった。

 

 

(2)解説

 

いわゆる「アフリカブーム」の火付け役となった1本。

 

日本ではなかなか映画配給会社がつかず(儲からないと思ったのだろう)、市民団体の活動でようやく封切られたという曰くつきの映画である。日本の大手企業の臆病さと保守性は、私も良く知っていることだから、それを聞いても別に驚かない。せこいカネ儲けのためなら、文化も教育も平気で否定する。これが、今の日本の本当の姿である。

 

物語は、一見すると良くあるサバイバル物であるが、全てが実際にあった出来事なのだから恐ろしい。フツ族はツチ族を劣等民族と呼び、老若男女の区別無く皆殺しにしようとする。劇中では、ひたすら無抵抗の人々が虐殺される。このような狂った状況の中では、ポールやオリバー大佐の善意は嵐の中の小枝にしか過ぎない。そして世界は、そんな彼らを 無責任にも見捨てようとする。

 

フツ族とツチ族という区別は、かつてルワンダを植民地にしたベルギーが、統治の都合上で便宜的につけたものである。ベルギー政府は、ルワンダ人全員にフツ族かツチ族かを区別するためのIDカードを配布し、その携帯を義務付けた。この国は、独立国となった後でもそれを根拠にして差別して殺し合っていたのである。その恐ろしさと愚かさは、言語に絶するほどである。だが、それがこの世界の本当の姿なのだ。そして、こうなった責任はヨーロッパ人にある。

 

脚本は実に良く出来ているし、人物の描き方も上手い。最初は家族のことしか考えていなかったポールが、次第に隣人愛や社会愛に目覚めていく様子が見事に表現されていた。また、ジャン・レノやホアキン・フェニックスといった有名俳優を、チョイ役で効果的に用いる技法も楽しい。

 

このような陰惨な事件の映画化は、採算性を考える製作者としては非常にリスキーであったろう。だが、結果的にこの映画は「アフリカブーム」の火付け役として、映画界ひいては全世界の文化に革命を起こしたのである。

 

創作には、リスクが付き物である。リスクを恐れていては何も出来やしない。日本の映画人は、人気漫画や小説の焼き直しばかりじゃなく、もっと積極的にリスクを採って創造的破壊を挑むべきではないだろうか?・・・ まあ、カネもないし気骨も無いからダメか( 苦笑)。

 

 


 

 

ククーシュカ  ラップランドの妖精

 

                              Kukushka

 

制作; ロシア

 

制作年度; 2002年

 

監督; アレクサンドル・ロゴシュキン

 

 

(1)あらすじ

 

第二次大戦下のラップランド(フィンランド北部)は、フィンランド軍(=ナチスドイツの同盟軍)とソ連軍との戦場と化していた。

 

フィンランド軍の若き狙撃兵(=ククーシュカ)ヴェイッコ(ヴィル・ハーパサロ)は、平和主義者であったため、敵前逃亡を試みて味方から処罰されることになった。彼は、ドイツ軍の軍服を着せられ、鉄鎖で最前線の大岩に拘束される。フィンランド軍は、敵であるソ連軍の手で逃亡兵を処刑させようとしたのだ。しかし、忍耐強いヴェイッコは、伊達めがねと狙撃銃の弾薬と日光を利用して岩を砕き、鉄鎖を引きずりながらも脱出に成功するのだった。

 

同じころソ連軍の前線では、仲間から裏切りを告発されたイワン兵卒(ヴィクトル・ヴィチコフ)が、軍法会議のためにジープで後送されていた。しかし、友軍機の誤爆によってジープは大破。かろうじて生き延びたイワンは、付近に住むサーミ族の女性アンニ(クリスチーナ・ユーソ)に救われる。

 

アンニは、戦場に送られた夫の帰りを待ちながら、大河のほとりでたった一人、サーミ族の原始的な暮らしを送っている女性だった。やがて彼女の家にヴェイッコも迷い込み、互いの言葉がまったく分からない3人の奇妙な生活が始まった。

 

3人は、互いのカルチャーギャップに戸惑い、しばしば憎しみをぶつけ合う。イワンは、ヴェイッコをファシストのドイツ人だと思い込み、しかも、彼がアンニと良い仲になったことから嫉妬がらみの殺意も抱く。しかしヴェイッコは、若者ゆえの楽天主義ゆえ、イワンの悪意に気づくこともなく、マイペースに生活を築いていく。

 

そんな二人を精神的に抱擁するのは、アンニの深い母性であった。

 

戦争が終わり、やがて心からの和解をしたヴェイッコとイワンは、互いの友情を称えながらアンニの家を去る。

 

歳月が流れ、アンニは二人の金髪の息子たちに、彼らの「2人の」父親の思い出話をするのだった。

 

 

(2)解説

 

DVDを買って見た。

 

噂にたがわず、ものすごく奇妙な後味を残す寓話作品である。

 

「反戦映画」と紹介されることが多いようだが、私はもっと深いメッセージを感じた。この映画は、戦争どころか、我々の「文明そのもの」を批判し否定している作品なのである。

 

まず、「言語」が否定される。

 

通常の異文化交流ものの映画では、言語や文化のコミュニケーションギャップが克服される過程が感動を呼ぶ。 『コーリャ愛のプラハ』も『少女ヘジャル』も『ダンス・ウイズ・ウルヴス』もそうであった。

 

ところが、『ククーシュカ』の3人の登場人物は、最後までお互いの言葉が分からないのである。驚いたことに、彼らは互いの言葉を学ぼうとすらしない。だから、最後まで3人の会話は噛みあわないままである。噛みあわない会話と噛みあわない行動がが延々と1時間半続く映画は、おそらく史上空前絶後であろう。

 

いちおう、各人の文化ギャップも語られる。ヴェイッコはフィンランド人だけに即席のサウナを造って入浴し、イワンはロシア人だけにキノコを採って料理を作る。しかし、サーミ族のアンニは「体を清潔にするのは、かえって黴菌が入りやすくなる」としてサウナを否定し、「キノコは毒だ」と考えてイワンの料理を否定し、挙句の果てにはイワンに下剤を飲ませたりするのである。しかし、互いの言葉が通じないものだから、お互いの行動の意味がまったく理解できず誤解の連続となる。

 

それでも、なんとか生活出来てしまうのである。

 

次に、「名前」が否定される。

 

登場人物の中で、ちゃんと本名で出て来るのはヴェイッコだけである。しかし彼は、イワンからは「ファシスト」と呼ばれ続ける。彼自身はファシストどころかドイツ人ですら無いというのに。

 

イワンは、名前を聞かれたときに「糞食らえ(パショールティ)」と応えたため、ヴェイッコもアンニも彼の名前をショルティだと思い込んで、作中でずっとその名で呼ぶ。

 

また、アンニというのも本名ではない。サーミ族は、名前を他人に知られると悪霊に憑かれやすくなると考えて、仮の名を他者に告げる習慣がある。これは、日本や中国にも似たような習慣(忌み名とか)があるので興味深い。やはり、フィンランド人の先祖は、東洋から来たのであろうか。

 

ともあれ、言葉の通じない3人は、互いの名前も出鱈目に呼び合っていたというわけである。それでも、生活が出来てしまうのだ。

 

次に、「恋愛」や「結婚」が否定される。

 

アンニは夫の帰りを長い間待っていたために欲求不満である。イワンを救出したのも、単なる人助けではなく、そういう目的があったのだ。彼に加えて、若くて活きの良いヴェイッコもやって来た。彼女は結局、ヴェイッコと同衾してイワンを嫉妬で悩ませるのだが、最終的にはイワンとも同衾する。ラストに出てくる2人の子供は、結局、どちらの子なのか分からないのである。

 

最後に、「科学」が否定される。

 

ラスト近く、ヴェイッコはイワンとの争いで瀕死の重傷を負う。後悔して絶望するイワンを尻目に、アンニは「太鼓の音と山犬の鳴き真似の力」で、すなわち「まじない」の力で若者の命を救おうとする。そして、見事にそれに成功してしまうのである!

 

以上、我々が「当然」とか「常識」とか思っている出来事が次々に否定されていく快感は、なかなか他では味わえない。

 

アレクサンドル・ロゴシュキン監督、恐るべし!!

 

そういえば、タルコフスキーもソクーロフも、ファーストネームはアレクサンドルだ。ロシア人のアレクサンドルさんには、天才映画監督のDNAが流れているのであろうか?

 

 


 

 

モレク神

 

            MOLOCH

 

 

制作;ロシア

 

制作年度;1999年

 

監督;アレクサンドル・ソクーロフ

 

 

(1)あらすじ

 

1942年の南ドイツ。

 

女主人エヴァ・ブラウン(エレーナ・ルファーノヴァ)が管理しているベルヒテスガーデンの山荘に、ヒトラー(レオニード・マズガヴォン)が一時休暇にやって来た。

 

ヒトラーは、いつものように無邪気に気ままに振舞った。側近たちと時事評論や映画鑑賞やピクニックを楽しむ合間に、枢機卿と政治上の密談を行い、将軍たちと軍事作戦を立案したりする。親切になったかと思えば、いきなり冷淡になったりする。高尚な哲学をぶったかと思えば、いきなり猥談を始める。

 

ヒトラーの愛人でもあるエヴァは、彼を愛すれば愛するほど、二人の心の距離が遠くなるような喪失感に打たれて深く苦しむのだった。

 

ヒトラーもエヴァを愛しているが、それは普通の男性の愛情とはまったく異質のものだった。なぜなら、彼は孤高の独裁者なのだから。

 

愛し合う奇妙な二人は、何事もなかったかのように別れ去って行く。

 

 

(2)解説

 

天才ソクーロフ監督の至上の一本!

 

「ラピュタ阿佐ヶ谷」単館での短期上映だったので、見に行く時間を確保するのに本当に苦労した。なんとか、平日の夕方の仕事の隙間を活用して、映画館に滑り込んだのであった。

 

ヒトラーを描いた映画は、数限りなくあるのだが、これは別格である。なぜならこの映画は、ヒトラーの人生や思想を描くのでもなく、彼の生き様や仕事を論評するのでもなく、戦争を描くわけでも彼の最期の姿を描くわけでもない。彼の、わずか数日間の平和な私生活を切り取った映画だからである。

 

この映画の素晴らしさについて語るとキリがないのだが、特に痛烈な印象を受けたのは「男女の愛とは何か?」という普遍的なテーマである。

 

ヒトラーとエヴァ・ブラウンは、愛し合う男女である。しかし、どこか心が通わない。何かがいつも大きくすれ違っている。それが何故かは、最初から自明である。「男がヒトラーだから」である。世界の支配者であり恐怖の独裁者モレク神(=破壊の神)である男が、女性と平凡な恋愛をしていてはいけないからである。そしてエヴァは、そのことを良く知っていて必死に耐えようとしているけれども、だからこそ深く傷つき苦しむのである。ヒトラーは、そんなエヴァを理解するけれど、何もしてやれない。なぜなら、彼がヒトラーだからである。ヒトラーは、いつだってヒトラーでなければならないからである。

 

これは私の持論なのだが、恋愛や友情というのは、実は「妄想」によって成り立っている。

 

人間同士の親近感というものは、たとえば「同郷出身」とか「母校が同じ」とか「同じ会社」とか「趣味が一緒」とか、そういったことから生まれる。しかし、故郷が同じだろうが、同じ会社にいようが、しょせんは本質的に違う人間なのである。どうして「同じ」と思えるのだろうか?それこそが「妄想」の所産に他ならない。

 

男女の恋愛は、「お互いに愛し合っている」という「妄想」がお互いの中にに宿っているから成立する。この「妄想」が破れたとき、失恋や離婚になるのである。友情だって同じである。だから、恋愛も友情も、しばしば簡単に壊れ去る。これをテーマにした物語や映画は、それこそ枚挙の暇もないほどにある。

 

ところが、『モレク神』の素晴らしいところは、まったく新しい形の悲恋を描いたことだ。ヒトラーとエヴァは、互いに愛し合っており、当人同士もまったくそれを疑っていない。ここでは、「妄想」は少しも壊れていない。ところが、ヒトラーがヒトラーであるがゆえ、どうしても完全な愛に昇華できないのである。これは、どうしようもない。

 

「妄想」は、壊れても修復できることがある。仲直りや再婚の可能性は、どんな失恋カップルにだって存在するだろう。しかし、ヒトラーがヒトラーを止めることは絶対にありえない。「妄想」の力でモレク神を否定することは絶対に出来ない。だから本当の愛は掴めない。

 

ラストシーン近く。いつも気丈に笑顔で振舞うエヴァが、エレベーターの中で狂乱状態になって泣き崩れ暴れる。しかし、ヒトラーを見送るためにエレベーターを出た彼女は、いつものエヴァに戻っている。このシーンは、いつまでも忘れがたい印象を私の心に残した。

 

「恋愛とはいったい何か?」。重大な答えがこの映画の中に眠っていると感じた。

 

ところで、「ヒトラーが林の中で野糞している場面」を見られるのは、私の知る限りではこの映画だけである。ヒトラーマニアは必見(?)である(笑)。

 

 


 

 

コーカサスの虜

 

            Prisoners of the mountains

 

 

制作; ロシア、カザフスタン

 

制作年度; 1996年

 

監督; セルゲイ・ボドロフ

 

 

(1)あらすじ

 

舞台は、 チェチェン紛争下のロシア。

 

チェチェンゲリラの奇襲によってロシア軍の隊列が襲われ、2人の新兵ワーニャ(セルゲイ・ボドロフ・ジュニア)とサーシャ(オレーグ・メンシコフ)が捕虜となった。

 

捕虜2人は、アブドル(ドジェマール・シハルリジェ)というチェチェンの村長に引き取られる。村長は、ロシア軍の捕虜となった一人息子と交換するための人質として彼らを買ったのだった。

 

足かせをつけられ村に連行された二人だったが、人質要員ということもあってか、村での待遇はなかなか良かった。ワーニャと村長の娘ジーナ(スザンナ・マフラリエワ)の間には、淡い慕情さえ生まれる。

 

その一方、アブドル村長はロシア軍司令部と連絡を取るのだが、捕虜交換の話はなかなか進展しない。じれた村長は、捕虜たちに母親宛ての手紙を書かせる。手紙を受け取ったワーニャの母親は、大いに心配して奔走するのだが、官僚機構の壁に阻まれて事態はなかなか進展しない。

 

その間、隙を見て脱走した2人だったが、あえなく村人に露見し、サーシャは射殺されてしまうのだった。再び捕らえられたワーニャは、不潔な穴倉に押し込められてしまう。

 

やがて、ロシア軍兵営で不慮の事件が起こり、捕虜であった村長の息子は、流れ弾を受けて死んでしまった。

 

激怒した村長は、ワーニャを射殺しようとする。しかし、情けにほだされた彼は結局、山の中に捕虜を連れて行き解放するのだった。

 

自由の身となり、歩いて自陣に向かうワーニャの頭上を反対方向に飛んで行くのは、ロシア空軍の爆装ヘリ部隊。「やめてくれ!」と叫ぶワーニャの声は、爆音にかき消されるのだった。

 

 

2)解説

 

アカデミー外国語賞の候補にもなった逸品。

 

文豪トルストイの同名の原作を、現代のチェチェン紛争を舞台にアレンジしなおした良作である。トルストイやドストエフスキーの作品には、時代を超えた普遍性が宿っているので、しばしば現代に舞台を移して映画化される傾向がある。そして、この作品が訴えているのは普遍的な「反戦」である。トルストイは、生涯にわたって反戦を訴えた人であるが、そのエッセンスが良く表現できていると感じた。

 

作中に登場するチェチェン人は、トルコ風の風貌をした山岳民族である。我々日本人が誤解し勝ちなのは、ロシアは基本的に多民族国家だという点である。プーチンやシャラポワのような白人は、いわゆるヨーロッパロシアに住む少数派なのである。そもそもロシアという国家は、モスクワやキエフといった内陸の都市から発展したのであるが、その勃興期の大部分をモンゴルの植民地として過ごして来た。17世紀のピョートル大帝のころからようやく対外征服に打って出たのだが、その獲得した領土の大半にはトルコ系やモンゴル系の人々が住んでいる。そういうわけで、ロシア国内では今でもチェチェン紛争のような民族紛争が絶えないのである。

 

ロシア軍司令官とチェチェン人村長の交渉は、最初から平行線を辿る。話は通じているのに、心が通わないからである。最初から、相手をまったく信頼していないのだ。人種的偏見もあるし、互いに傷つけあったことによる憎しみもある。心が通じない相手とは、何を話しても無駄だ。だから、捕虜交換の話は当然のように進まない。戦争は、こうして生まれ拡大する。

 

その一方で、村人と捕虜たちの間には奇妙な交歓と友愛が生まれる。これは、肌の色が違っても習俗が違っても、人間の本質は変わらないというメッセージであろう。

 

また、子を思う親の愛情は、民族や立場を超えて共通である。チェチェン人の村長もワーニャの母親も、息子のことを心から愛している。ラストで、村長がワーニャを処刑しなかったのは、彼の母親の辛い心境を思いやったからだろう。

 

しかし、そんなワーニャの頭上を、ハインド攻撃ヘリ(『ランボー2』などでの最後の敵役)の編隊が攻撃態勢で飛び去っていくシーンは圧巻である。戦争という非情な現実は、個々人の優しい思いなど全て吹き飛ばしてしまうのである。

 

原作が古典文学だけに、反戦の主張にややベタなところがあるが、全体的に良質の反戦映画であった。

 

 


 

 

ダビンチコード

 

               The Davinci Code

 

 

制作; アメリカ

 

制作年度; 2005年

 

監督; ロン・ハワード

 

 

(1)あらすじ

 

アメリカの高名な言語学者ラングドン教授(トム・ハンクス)は、パリでの講演直後、現地警察に参考人として拘置される。ルーブル美術館で起きた猟奇的な殺人事件に、彼が絡んでいる可能性があると言うのだ。殺害された ソニエール館長が、ラングドンの名を床に書き記していたという。

 

状況証拠から 容疑者と思われて追い込まれたラングドンだったが、女性捜査官ソフィー(オドレイ・トトゥ)によって救出される。ソニエールの孫娘であった彼女は、祖父は過激な宗教結社オプス・デイによって殺害されたのだと語った。

 

館長は、実はシオン修道会のリーダーで、人類史の根幹にかかわる重要な謎を握っていた。そして、その謎の封印を目論むオプス・デイによって、同志たちごと暗殺されたのだった。

 

ソフィーは、祖父が死んでも守ろうとした暗号の鍵を握っていた。彼女は、ラングドンに暗号解読の協力を依頼する。

 

警察とオプス・デイの双方に追われる2人は、イギリス人好事家のティービング卿(イアン・マッケラン)の助けを借りてロンドンへと逃げる。そんな逃避行の中、彼らは館長が遺した暗号を解読し、世界史の謎に迫っていく。

 

全ての謎が解けたとき、彼らは本当の敵の正体を知る。そして、ソフィーが本当は何者なのか、そしてルーブル美術館に眠る秘宝の謎を知るのだった。

 

 

(2)解説

 

2006年度で、最も話題となった映画である。

 

が、駄作であった。

 

私は、最初にダン・ブラウンの原作小説を読んでから映画を観たのだが、小説は安っぽい冒険ファンタジーだったし、映画は三流だった。一緒に観た友人も、ボロクソに酷評していた。

 

第一に、『ダビンチコード』というタイトルがダメである。なぜなら、物語の中心に座る暗号は、あくまでも殺害されたソニエール館長のものであり、ダビンチの暗号なんて話のツマにもなっていないのだ。だったら、タイトルはむしろ「館長コード」とすべきであろう(笑)。これはおそらく、『ダビンチコード』という題名のほうが売れる、という出版社の営業戦略だったのだろうけど。

 

また、登場人物の描き方も下手である。敵方の暗殺者であるシラスの描写は良かったが、それ以外の人物はほとんどまったく描けていない。私は、主人公のラングドンとヒロインのソフィーがどういう人間なのか、最後までまったく掴めなかった(頭が良いことだけは分かった)。

 

ラングドンとソフィーは、独身でフリーの美男美女である。それが、ずっと一緒に生活していてロマンスが芽生えなかったのはどうしてだろう?冒険をする2人の男女が恋愛するのは、『ロマンシングストーン』でも『インディジョーンズ』でも『ハムラプトラ』でもお約束の定石である。『ダビンチコード』だけが、あえてその定石を外した意味が分からない。ただ単に、ダン・ブラウンという作家が下手糞だっただけなのだろうか?

 

もっと言えば、物語世界そのものが無理やりである。

 

シオン修道会(この組織自体は架空である)は世界史の中で連綿と続く秘密結社という設定でありながら、たった一人の暗殺者(シラス)によって、ほんの数日で壊滅させられた。彼らが守ろうとした最後の暗号だって、修道会長のたった一人の孫娘が頑張らなければ、あっという間に失われていただろう。

 

だが、世界史に冠たる秘密結社が、そんなに脆弱であるはずがないのである。たとえば、国連などの国際的な機関の中に強力な勢力を保持していないはずがない。たった一人の暗殺者によって、一瞬で滅びるようなことは 絶対に有り得ない。

 

また、物語の中心テーマである「キリストの謎」も、まったく目新しいものではなかった。私は、マグダラのマリアの正体についても、ダビンチの『最後の晩餐』の解釈についても、何年も前から別の書籍で知っていた。だから、物語が結論に至ったときも、「なんだ!結局、あの話をしたかっただけなのか!」と拍子抜けしたものである。あの話って、もはや定説じゃなかったのか? そっちのほうが驚きである。

 

それでも、ロン・ハワード監督の映画版は、原作小説よりマシだったと思う。少なくとも、ラングドンとソフィーの感情表現がきちんと描かれていただけマシであった。だけど、世間の評価はこれと逆で 、「原作のほうが面白かった」が多数意見らしい。ううむ、訳が分からない。

 

でも、まあ、物語の随所に出てくる「暗号」は楽しかった。そのお陰で、退屈しないで最後まで読む(観る)ことは出来た。 その点では、日本映画の駄作よりは随分とマシである。私は、最近の日本映画を観ると、それがレンタルDVDであっても「カネと時間を返せ!」と叫びたくなるのだ。そういう意味では、『ダビンチコード』は「カネ返せ」と私に思わせなかった分、傑作である。

 

しかし、 この作品があれほど国際的に話題になったのは、要するに「広告宣伝」の威力である。ふんだんにカネをかければ、多数の顧客を動員することが出来るのだ。しかし、それに見合うだけの興行収入があったかといえば、かなり微妙らしい。

 

宣伝と興収の関係は、本当に難しいと思う。

 

プロデューサーの卓抜な宣伝によって、無名の素晴らしい才能や作品が全世界に紹介されるケースだってある。「宮崎アニメ」や「ガンダム」だって、徳間書店やバンダイのプロデュースがあれほど優秀でなければ、メジャーには成りえなかったかもしれないのだ。私は、無名時代の宮崎駿作品の低い扱われ方を知っているので、特にそう感じる。

 

逆に、駄作が無理やりにスターダムにされることも有りうるのだが、『ダビンチコード』はまさに後者のケースだったのだと思う。

 

我々は、そういうのに騙されない程度には賢くなるべきなのかもしれない。

 

 

 


 

 

薔薇の名前

 

             The Name Of Rose

 

 

制作; フランス、イタリア、西ドイツ

 

制作年度; 1986年

 

監督; ジャン・ジャック・アノー

 

 

 

(1)あらすじ

 

1327年末の北イタリア。とあるベネディクト派修道院を、フランシスコ派の修道士バスカヴィルのウイリアム(ショーン・コネリー)とその従者アドソ(クリスチャン・スレーター)が訪れた。

 

彼らは、修道院長からある仕事を依頼される。それは、この修道院で起きている修道士の謎の連続死の解決であった。

 

次々に発見される修道士たちの死体は、共通の特徴を持っていた。利き手の指と舌が、黒いインキで汚れていたのだ。また、被害者はみな、図書関係の仕事をしていた。これらのことから、ウイリアムは、事件の中心に修道院の図書室があると看破する。

 

やがて訪れた異端審問官ベルナール・ギー(マーリー・エイブラハム)との確執を孕みながら、ウイリアムたちは一歩一歩真相に近づいていく。

 

修道院の塔の上階に隠された秘密の図書館の中で、ウイリアムたちはついに最後の敵と対決し、真相を解き明かすのだった。

 

 

(2)解説

 

イタリアの記号論学者ウンベルコ・エーコの同名小説の映画化である。

 

私は、この映画を「新宿ミラノ座」で弟と見た。当時は、だいたい休日は弟を連れて映画を見に行ったものである。

 

私は、もともとミステリーに眼が無いほうだし、しかも当時から歴史マニアだったのだから、中世ヨーロッパの修道院を舞台にした推理物に気を惹かれないわけがない。そして、「007俳優」のレッテルから脱却したばかりのショーン・コネリーの渋い演技にも大満足だった。

 

石造りの冬の修道院が放つ薄暗い雰囲気の中、気味の悪い風貌の修道士たちが徘徊する中(よく、あんな異相の俳優ばかり集めたもんだ)で、次々と謎の事件が起きて行く。これはまさに、ゴシックホラーの世界である。ある意味、日本の「金田一耕助シリーズ」に似たテイストもある。

 

その中で展開される推理は、なかなかロジカルでオーソドックスである。主人公ウイリアムの推理の立て方は、シャーロック・ホームズのそれに似ているようだ。彼の出身地がバスカヴィルという設定なのは、一種のオマージュなのだろう(シャーロック・ホームズ物語の名作に『バスカヴィルの犬』というのがある)。従者の名前アドソも、ワトソン(ホームズの相棒)に語感が似ているような気がする。

 

映画を観た後で、原作小説も読んだのだが、その面白さに圧倒された。特にラストの迷宮の謎解きは、知的興奮に全身を浸されて夜も眠れなくなる有り様だった。さすがは原作者が記号論の高名な学者だけに、普通のミステリーとは一味も二味も違うのだった。

 

さて、原作を読んだ後で映画を考察すると、映画はやはり原作には及ばないことが分かる。活字を映像化する過程で、いろんな知的要素をカットしているからだ。特に、原作で私が圧倒された迷宮を、ディズニーランドのアトラクションみたいな形で見せたのはイマイチだ。

 

また、アドソが村娘と恋(っていうかエッチ)する話は、映画オリジナルである。もちろん映画なのだから恋愛の要素も入れて結構なのだが、あの描き方は下品だろう。『スターリングラード』の評論でも似たようなことを書いたが、アノー監督はフランス人だからなのか、性愛の描き方が露骨過ぎて下品である。これは、原作の持つ知的な香気を台無しにしているので、どうにかして欲しかった。

 

また、悪名高き異端審問官ベルナールが、村人に襲われて惨死する場面も映画オリジナルである。これは、観客向けに「勧善懲悪」的なものを狙ったのだろうが、史実に反している上に(ベルナールは実在の人物である)、ちょっとご都合主義だったように思う。

 

そういうわけなので、映画『薔薇の名前』のファンの方には、ぜひ原作小説を一読されることをお勧めします。