ダンシン1 [ CRITIQUE ]

ダンシング・オールナイト-これはダンス論ではない
いとうせいこう+押切伸一+桜井圭介


(※この文章は『インターコミュニケーション』誌(NTT出版)に発表したものに若干、
 手を加えたものです。その後、大幅に加筆訂正された単行本『ダンシング・オールナイト
 〜グルーヴィな奴らを探せ!』(NTT出版)に所収のものとはかなり異なります。)

第1回 言葉にすれば嘘にそまる

    桜井――最近非常に思っているのは,「ダンスはこわばっている」
    ということです.それは「シーン」が硬直しているということだけでなく,
    ダンスの体は結局それが「ダンス」であるから硬い,というか“「ダンス」
    であろう”とするからこわばる,そんな感じがするわけです.見るもの見る
    ものみんなそう.なんでかって思うんだけど,恐らくまず第一に,そこに
    自己=ダンスを記そうとか,ダンスという「表現」をしようとか,そういう
    「意志」ばかりがあって,それで体が固くなっていく.勿論このことはいつ
    でもあった問題だけど,今,特に甚だしい.それは今日,「主体」(の概念)
    の消滅に対して,とりわけダンスのように「自己の身体」といういわば主体の
    「砦」ともいえる場所では「反動」というか,過剰な防御反応がみられる,
    ということかも知れません.さらに問題なのは,ダンスだって既にポストモ
    ダンを経ているわけで,そうすると単にダンスじゃないと思われるものを持
    ってきて「これがダンスだ」って言えばいいことになっている訳でしょ? 
    ヌーヴェル・ダンスとか,「ピナ・バウシュの勘違い」のヤツは.何で
    「ダンス」って言うのかなー.それって「これが芸術だあ」っていうアレ
    でしょ,「ノミナリズム」.「制度」にもろ固執してるだけ.いまは何や
    ったって,(蓮實センセの言うところの)“どう転んでも”「ダンス」に
    ならざるを得ない的状況なんだから,「これはダンスではない」って言わ
    ないと.その辺にころがってる動きは「ダンス」よりおもしろいよ,確か
    に.だけどそれを世の中の「ポストモダン的寛容」に乗じてわざわざ
    「作品」に仕立てるのはね.その「転がってる動き」に出会っても,それ
    に見とれるんじゃなくて「あ,これは舞台で使える」っていうんじゃな.
    もうその段階でそいつの「ダンス」=「作品」,「ダンス」としての動
    き(=振り)がこわばったものにしかならないのは目に見えてるよ.
    「フリをする者」の挙動はこわばるに決まってる.それを「吃音性」とか
    いうバカがいるからまた困るんで,「不自然」(作為的な)と「不自由」
    (自然な)は違う,って.
    さてこれからこの連載であらゆる場における「ダンス」(いわば大文字の
    ダンス)を,しなやかさを装うこわばり,自由を装う不自然を批判し,
    あらゆる場における「これはダンスではない」もの,つまりは
    “ダンス的なるもの”の擁護をしていきたい,と思っているわけです.
    で,今回は,ちょっと「お約束」なアレですが「オウム」から始めてみた
    いんです.
    だけどさ,それにしても麻原さんてのは,ホントにヨガの相当のレベル
    まで修行した人なの?
    押切――そんなことはないと思う.誰もそんなの実証してないと思うけど.
    いとう――ぴょんぴょん飛びだろ? あんなに顔しかめたりして.
    押切――もっと飛ぶ奴いっぱいいるもんね.滝本弁護士とかさ.大川興業
    の江頭なんかもう20cmぐらい高く飛べるんじゃない? 痩せてる方が飛べ
    るもんね.
    いとう――あれってどうやって飛ぶの?
    押切――ヒザの裏とか背中の筋肉を意識して,斜め前方に飛ぶ! 
    みんな1カ月もやりゃ,結構飛べるって.あんな事やるかどうかだけど.
    桜井――本当はヨガの体は柔らかいよね.
    押切――柔らかいでしょ,それは.まあヨガは止まっている“印象”は
    あるんだよね.
    桜井――でも,微細な力がいっぱい働いている.
    いとう――そうじゃなければ,あんなに小さい箱の中に入ったりできない
    よね.
    桜井――そういう動かないで動いているというのはブトー系かね.でも
    たいてい単に動いてないだけだけど.固まっちゃっているだけだよね.
    押切――ビデオでみたけど,彰晃は手の動きもカタい.硬いんだよメチャ
    クチャ.全部硬いんだよ.
    いとう――空に向けて腕回してるやつね.
    押切――本当なら柔らかいと思うよ,もうちょっと.見惚れちゃうと思う
    もんその手に.それで催眠術みたいになってもおかしくないと思うもん.
    いとう――そういう事はないんだもんね,回してるだけなんだもんね.
    こわばった状態.動きが分断されてるっていうかさ,五体投地みたいなの
    を道場の中でやってた人も,もっとちゃんとやれよって感じ.
    あれじゃ体操だろう.
    押切――参議院選挙の時にオウム少女隊にあんな踊りさせてさ.この前の
    村井さんの追悼の踊りも,バレエっていうか,昔の歌謡曲のバック・ダン
    サーみたいな変な踊りさせてさ,こんな「あて振り」?
    桜井――オウムの芸能関係のものっていうのはさ,歌謡曲系のあて振り系
    的なものと,やっぱりバレエだよね.両方とも硬い振りだよね.
    押切――やっぱり,オウムは「おバレエ」的っていうか,あそこはまた
    中流家庭の子女がいてさ,青山総本部の地下の喫茶店で必ずクラシック
    弾いてるんだよ.
    桜井――音楽も全部スクエアじゃん.ニュー・エイジとはいえ.
    押切――古いんだよ.しかも彰晃数え歌だからな.
    いとう――グルーヴが全然ないじゃん.
    押切――ないんだよー.説法にグルーヴないよね.
    いとう――切れてるもんね.ブツリ,ブツリって.あれじゃトランスを
    誘えないはずだよ.なのに,それがある種の人に魅力的だったとすれば,
    新たなダンス・ミュージックの型が日本に芽生えてるのかもよ.つまり,
    グルーヴがないほうが田舎者(コンプレックスむき出しなやつ)には踊り
    やすいわけで.
    押切――もうちょっとさー,キング牧師やマルコムXとは言わんまでも.
    いとう――アメリカのTV宣教師みたいなのを見るといろんな盛り上げを
    してくれるじゃない.
    桜井――でもそのグルーヴのなさみたいものがベースにあるから,支持を
    得たって事があるんじゃないかな.「DA・YO・NE」とかがグルーヴィー
    なものとされているわけじゃない,今そこいらへんでは.そのグルーヴは
    オウムに近いグルーヴでさ.グルーヴとして見るならばだけどね.オウム
    は全然グルーヴがないけど,結構「DA・YO・NE」的な「縦ノリ」に近い
    ものがあるんじゃないかな.
    いとう――ざっく,ざっく,という.
    押切――だからヒットしたんでしょ.
    いとう――初期のものをどう壊していくんだろうって思ってラップ・シーン
    みてたけど,「やっぱりざくざくがうけるんだ」と.じゃあ俺たちがやって
    きたことは何だったのか,って思うよ.
    押切――秋田音頭みたいなこと?
    いとう――「ああそれそれ」みたいなものでしょ.
    押切――ラップって黒人ものにしては少し「縦ノリ」が入ってるんでしょ?
    いとう――バンバータ以降そうかもね.けど,それにさらに揺れが入ってい
    るわけよ.でかい範囲でうけとると揺れているわけですよ.
    押切――そういえば,オウムはドラムがないよね.
    いとう――唯一一定の繰り返しでリズムを刻んでいるというのが,あの麻原
    の繰り返しの説法くらいでしょ.全然リズミカルではないけど.
    押切――洗脳みたいなことを意識してやっているわけね.
    桜井――でも全然(笑).
    押切――ないんだよね.わからんよ.
    桜井――だからやっぱり教団全体が堅いんじゃないの.ヒステリー的なもの
    の状態っていうかさ.ヒステリー的なものはこわばってしまうわけでね.
    体が弓なりになっちゃたりするのを,ダンスをはじめ「現代の問題」表現
    というものは,表現として偉いというふうに言ってしまう.だけど,それは
    単にこわばっているんだと.むしろ分裂症とかの体,つまりスキゾだからね,
    線がいっぱい走ってあっちふらふらこっちふらふらしてるからさ,そういう
    柔らかい体ってものがあるんではないかと.今回,みんなでシルヴィ・
    ギエムのフォーサイスを見たじゃない.フォーサイスは,バレエの硬い身体
    をデコンストラクションするっていう事で,いろいろバランスを崩すような
    ふうに動かさせるとかね,戦略的に振りを付けるわけでしょ.ところが彼女
    は,そういう普通だったらバランスを失って倒れてしまうようなものも,
    なぜかバランスとれちゃって,異常な回収能力を発揮してしまう,と.全然
    危なげな感じが見えない.もちろんその体の動き自体は非常にぐにゃぐにゃ
    ですごいなーとは思うんだけども,なぜか印象としてはぐにゃぐにゃに見え
    ない.
    いとう――ダンスを途中でやめてさ,とってもいい加減なふうに歩いてって
    戻るじゃない.本当にその「いい加減さ」って今のポップなものに共通の感
    覚で,そのいい加減さがステージにあるからかっこいいわけじゃない.カジ
    ュアルなものみたいに見せちゃうっていう.そうなのはわかるんだけど,
    結構次の位置に急いで行ってるでしょ,ギエムは.わざとそのいい加減さを
    見せてる感じがする。
    桜井――「いい加減さ」を演じてどうするんだ,ってね.
    いとう――鼻白んじゃうんだよ.本当にいい加減になってくれたら気持ち
    良くて,こっちもおーおーどこ行くんだって思うんだけど,俺はがっかり
    だったんだよな.腰の振り方まで決めてるのかなって思わせちゃうよなあれ
    じゃ.
    桜井――あれほど完璧なテクニックとか体の持ち主だと,もっとボロボロ
    にぶっ壊れていかないと凄くはないよね全然.当たり前になっちゃう.
    バレエのダンサーってさ,普通の場合だけど,ガニ股でしか歩けなくなっ
    ちゃう.バレリーナ歩きしか出来なくなっちゃてる.そういう歩き方しか
    出来ない体になっちゃているんだよね.そういう事に対してフォーサイス
    は逆矯正していくっていうかね,外す事やってるんだと思うんだけど.
    バレエの体は硬い体の最たるものでしょ.もちろんそこには型で見る
    よりも実際にはグルーヴがあるわけだけどさ.
    それとオウムって,エクスタシーを昂揚させるような手段を何も
    とらないよね.
    いとう――薬飲ませるから他がいらなくなった.
    桜井――全部,作為的人為的に気持よくさせているだけじゃない.
    あのさ,『パルプ・フィクション』見た? トラボルタがさ,
    腹がこんな出ちゃって「親父」になってるんだけど,ツイスト踊るの.
    それがもう全然力が抜け切ったツイストなの.相手の女(ユマ・サー
    マン)はというと,これはもうしゃかりきに踊るわけ,ほとんどパンク
    なんだけど.「一等取ったる!」って感じでね.しかも薬でもって無理
    矢理気持良くさせて踊るわけですよ.トラボルタのほうは非常に力が抜
    けててナチュラル・ハイっていうかね.たいして技とか見せないんだけど,
    すごくグルーヴがあってかっこいいんだよ.自分がその場をどれくらい
    楽しんでいるかみたいな事がひとつ,動きの質として出てくる.
    押切――日本では踊りで「ハイ」になっていく宗教がまずない…….
    いとう――基本的にはね.空也上人とかくらいか.日本人は体質として
    踊らないのかな.で,「ええじゃないか」とか阿国歌舞伎とか出たとき
    にだけ,なんか…….
    桜井――米騒動みたいなものは,はじめはヒステリー的なものだよね.
    でもやっているうちに,なんでやっているかわからなくなってきて,
    エネルギーの方向が転換されて,楽しくなっていくわけだよね.
    無理矢理というのは,ある種日本人に必要なことかもしれないな.
    でも,キリスト教にも踊りはないな.黒人のゴスペルとか教会で皆踊っ
    たりしているのも,キリスト教とアフリカの土俗みたいなものが,
    どこかで折り合いをつけてああいうふうになっているわけだよね.
    いとう――あと踊りを使うと,その人たちを最終的にどこに持っていくか
    は踊りのセクションごとにコントロールしていないと危ういことに
    なっちゃうわけじゃん.
    押切――失神したりするわけだからね.大変だよ.
    いとう――これは俺がやったんだぞっていちいち言っていないと.
    俺のおかげだぞって言ってないと.
    押切――やあ気持よかったって言って,それで終わりだ.
    桜井――今まで柔らかい体とか言われてきたものはさ,ダンスでいえば,
    宴会のへらへら踊りというか,単に体の力を抜くとか粗雑に踊るとかの
    ことだったという感じがするよね.でもスコーンと決まった「ズッコケ」
    みればわかるように,本当はそうじゃなくて,めちゃくちゃ訓練したり
    とか,多大な努力をはらって体の動きを微細なものにしていくみたいな
    ことだと思う.勅使川原三郎なんかさすがに「ズッコケ」もそれなり
    だよね.
    あのさ,どうも一般のフォーサイス観が違うってことに,最近気付いたんだよ.
    「障害者の身体」的なやつ,みんなあれを「ひきつり」=「こわばり」
    だと認識してるらしいのよ.で,いとも平然と「型」として真似る,
    「現代思想とテクノ」もチェックしてます的な日本の若手ヌーヴェル・
    ダンス野郎なんかがさ.そいつらは例えば,肩と首をくっつけてこわばれば
    いいと思ってるんだよね.障害者の動きはその人の身体においては全然
    ひきつりでもこわばりでもないわけでしょう.彼の動きは,コップを取る
    とかいった単純な動作ひとつにも極めて微細な力線がひしめいているはずで,
    そういうのを「やわらかい」といわなければいけないんでね.やっぱりさ,
    これには勝てないなと思うのは,グルーチョ(・マルクス)とかなわけでさ.
    いとう――グルーチョか.いいかげんだもんな.
    押切――でもさリズムには微妙に合うんだよ.
    桜井――おととい,巻上公一がニューヨークの前衛芝居(R・フォアマン
    『マインド・キング』)をやってるのを見たけど,台本はユダヤ・
    ジョークなんだと思うの.オントロジカル・ヒステリック・シアター
    とかいってるけどさ.多分,向こうの人が見たら爆笑ものの芝居なんだと
    思うんだけれど,それがまず全然このモロ翻訳文体の翻訳(鴻英良訳)では
    伝わらない.こんな風に喋る奴はいないって.それをなんとか巻上先生が
    身体張って担おうとするんだけど,やっぱりグルーチョだったらよかった
    のになという感じがすごくするんだよね.そう,登場人物もちょうど三人
    だからマルクス・ブラザースがやったらスゴイものになるな,絶対.
    いとう――そんなこといったら,次回からはそういうものを求めて何か
    見に行こうということにならない?“これは「ダンス」ではない”的な
    ものを.こないだ郡司(正勝)さんに会った時にきいた話でさ,
    「にわか」ってあるじゃない? もうないって事になってたけど,
    調べてったら各地で実は隠していたのがわかったんだって.そんなの
    「芸術ではない」って思って村人とか隠してて,祭りとかで即興で勝手
    にやったりして.先月か先々月も「にわか」をどっかに見に行ったら,
    ネタはもうサリンで一色なんだって.もう民衆は凄いね.普通の村の人
    たちがいろんな役をやって,即興でネタを膨らまして,客をバンバン笑わ
    せて,前日のネタを「昨日やったからやらない」っていう,なんて潔い事
    だろうって思ったよ.昨日やったものをまたやっちゃうって事自体が,
    表現て駄目だって事じゃないの.それが郡司さんの言いたかったこと
    でもある,と.
    桜井――フィールドワークすればそういう事あるのね.
    やっぱ芸者遊びしたいなー.芸者と言ったって,花代ちゃんじゃ
    しょうがないわけで…….
    いとう――しょうがないでしょ.キッチュなだけだもん.
    今は「芸」が見たいんだよ.  

    (いとう  せいこう・作家/
    おしきり  しんいち・ライター/
    さくらい  けいすけ・ミュージシャン)
   

( 許可なく複製、転載をしないでください。)   ダンシング・オールナイト: 第4回 第5回 第6回へ行く


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