ダンシン4 [ CRITIQUE ]

ダンシング・オールナイト-これはダンス論ではない
いとうせいこう+押切伸一+桜井圭介


(※この文章は『インターコミュニケーション』誌(NTT出版)に発表したものに若干、
 手を加えたものです。その後、大幅に加筆訂正された単行本『ダンシング・オールナイト
 〜グルーヴィな奴らを探せ!』(NTT出版)に所収のものとはかなり異なります。)

第4回 瞳をとじて

    今回はオヤジ三人童心に帰ってシルク・ド・ソレイユの
   『アレグリア』を見に行った後でもあり、「サーカス的身体」
   について考えてみたい。ダンスやスポーツと比べとりわけ面白
   いと思ったのは、自分も含めて観客の反応が違うということだ。
   ただただ「オーッ」とうい感じ、その一語。要するにスピード、
   高さ、etc.についてあまりにもわかりやすく、あまりにも
   すごい、ということだ。「わかりやすい」のはダンスやコンマ
   幾つを問題とするスポーツのような微妙なもの、余計なものが
   ないからだし、「すごさ」はゴムやバネ、ワイヤーといった
   道具を使うからには違いない。タネはあるのだ。にもかかわら
   ず「オーッ」である。なにしろどんなにジャンプしても脚力
   では天井にはとどかないわけで、ダンスやスポーツという言わ
   ば人間的努力の表われは「ズル」をしないぶんだけ分が悪い。
   つまりサーカスとはダンス=表現とスポーツ=数字の「あいだ」
   にあるというより、「横」にあるのではないか?「横紙破り」
   だ。何故なら、例えば重力を「克服する」のではなく単に
   「無視する」というすがすがしい態度は、この世界の、この
   人間という個体の機能の制約のなかに自らの「根拠」を置い
   ていては取り得ない。人間的努力とはニュートン=デカルト的
   な近代知がなければ、さらに言えば近代的「主体」の概念が
   なければ意味をなさないだろう。この意味でサーカスはきわ
   めて今日的な身体像を提示してくれているように思える。
   (桜井)

   桜井:「サーカスのいかがわしさ」っていうけど、それは
   フリークスや人さらいとかっていうイメージのいかがわしさ
   なんじゃなくて、正道としてのダンスやスポーツに対してズル
   して道具使うことからきてるんじゃないかな。そんなの
   「邪道だ」って。
   押切:サーカスはなんのてらいもなく道具、仕掛けをつかう。
   主役にそえるぐらいの感じで使うわけだよね。
   いとう:だから動物もつかうのも当然になってくるんだろう
   ね。人間と違う平面にいているんだから。だけどもともと
   バレエよりもサーカスのほうが先でしょ。つまり精神分析学
   が催眠術から生まれ、催眠術のほうはいまだにいかがわしい
   カオスだということと同じように、サーカスも卑下されてる。
   でもアーヴィングの最新長編も『サーカスの息子』だからね。
   ラシュディに捧げてる。ともかく、サーカス再評価のきざしは
   いちじるしいよ。
   押切:目の発達ってあると思う。近代っていうか歴史がこっち
   に近づいて来れば来るほど、微妙な人の動きを見る意識が発達
   してきたのかなぁ、と。
   いとう:それはあるかもね。だって昔はさ、そんなに他人を
   みるなんて構造じたいないわけでしょ。それを楽しむなんて
   かんじはないわけでしょ。人間のからだをみることがどこから
   システマチックな娯楽になったかっていうことが、見世物の、
   サーカスの歴史の肝だよね。
   桜井:最初はひとのからだがただそこに突っ立ってるからと
   いって当然誰も驚かなかったのが、いまやピナ・バウシュみ
   たいに、ただ手をチョロチョロっと動かすだけでみんな感動
   するまでになったわけだ。
   押切:でもさ、日本だと江戸時代の踊りとかは、それ見てたん
   じゃないかな。桜井:ウーン、それでもやっぱりその「手つき」
   なりを見世物にし得るには、エロティシズムっていうか、欲望の
   対象としての側面があってはじめて、ってことかも。いい女
   (女形)のディテールを味わいたい、っていう。
   いとう:歌舞伎だって要するにフリークス的な型を見たい、
   っていうことだろうしね。それにあれ、乱暴に言えば、ホモの
   ひいきを見に行くわけだもん。でも微細なものに目がいってる
   んだよな。見世物であるにも拘わらず。
   桜井:でもやっぱ、びっくりしたい、っていうのがあるよね。
   基本には。
   いとう:『アレグリア』で思ったのは、例えばバレエみてて
   も、そんなにはからだがひっぱられないんだけど、サーカス
   みてると、上にピョーンとあがると自分のからだもピョーン
   とあがったり、空中に浮いてるとき「危ない!」って気持ち
   になると、自分も「危ない!」っていうからだになってる
   ―そういう「楽しみ」なんだろうね。押切:かなり感応する
   ものだよ。同調行為がある。
   いとう:身体表現では「表現」になっていけばいくほどシン
   クロは消えちゃうんじゃないの。
   桜井:「表現」になっていく、っていうのは動きの細やかさ
   を追求しはじめる、ってことだろうけど、ダンスの場合さら
   に「内面」の表現にハマってしまうわけだ。それは「感情移
   入」を要求してるわけでしょ。でも実は、身体表現に必要なの
   はサーカスのような「感覚移入」かもしれない。だって、
   フォーサイスなんか、あんなに微細な動きなのにというべき
   か、あれだけ微細だからというべきか、すごく「感覚移入」
   できるじゃない。サーカスとフォーサイスは極大と極小って
   いう気がする。微細なものを追求していっても「いわゆるダ
   ンス」のように(あるいはその逆に高さや速度を追求しても
   スポーツのように)、ある種「人間的」な範疇にとどまって
   やりくりすること―まあそのおかげで「表現」たり得てるん
   だろうけど―では人間としての共感つまり感情移入しか望め
   ない。その「しきい値」を超えるというのは分子の世界に
   入っていくことだし、道具を使って宇宙にいくというような
   ことになる。フォーサイスはデモクリトスとか言ってるし、
   『月世界旅行』のメリエスは、見世物小屋の座長で、言って
   みればサーカス野郎だよね。
   いとう:サーカスは、ゴムとかブランコとか道具を使っている
   がゆえに、ピョーンと跳んだらからだは弓なりとか、そういう
   からだにならざるを得ないっていうか、パターンが決まっちゃ
   うじゃない。そうするとあとは、浮いてて「落ちちゃうかも」
   っていうところに目がいっちゃうんだよね。
   ところで『アレグリア』なりF・ドゥクフレなりはサーカスの
   側からのアプローチじゃない?ダンスの側からもやったら
   もっとすごいものがでてくるんじゃない?だって例えば
   ビョーンってゴムでひっぱられてるんだけど、すごいバラバラ
   な動きになってたりしたら、
   桜井:二度おいしい。
   いとう:なんでゴムとか使わないの?やっぱり人間中心主義が
   あるの?ヨーロッパの。
   桜井:それはあるでしょう。道具使うのは「禁じ手」って
   いうか、それをやっちゃあおしまいよ、ってとこはあるんじゃ
   ないの。
   いとう:日本だったら割と平気なのにね。からだにいろんな
   もん埋め込んだりするの平気じゃん。「別に、なんか使えば、
   超オッケーでしょ」って。
   桜井:VRでもマルチ・メディアでも、ゴーグルなりなんなり
   のインターフェイスが身体の延長だ的なことをよく言うじゃ
   ない。
   いとう:そこでも依然として人間中心主義してて、逆にメディア
   の延長が身体だとは言わない。そう考えればサーカスは、より
   21世紀的身体像として正しい。
   桜井:最近のCGアニメの人間の動きの作り方って、道具使って
   るんだよね、ズルしてるの。人間の体に一杯ポイント設定して
   センサーつけて動いてもらう。でコンピュータに取り込むわけ。
   「超カンタンっす」って。
   押切:「モーション・キャプチャー」ね。
   桜井:でも見るとさ、例えばディズニーのアニメなんかと比べ
   ると全然、生き生きとしてないんだよ。
   いとう:それをするには、もっともっと細かく点をとっていく
   しかないでしょ。からだ中に何ミリ単位で点をとって解析する
   ってことになっていくわけだけど…
   桜井:動きって、ある一つの動きとある一つの動きとでは必要な
   線が毎回毎回まったく違うっていうか、結ばれる点と点が違う
   でしょ。だからちょっとやそっと細かくしてっても追っ付かない
   んじゃないか。からだの動きを皮膚とか筋肉のネット・ワーク
   と考えるとしたら。
   押切:ディズニーは過剰にしたり削除したりしてる。
   いとう:つまりディズニーは微細に点を打ったやつをゴムで
   吊ってビョーンって動かして、ゴムは描かない、っていう感じ
   だからいいんじゃない。
   桜井:ディズニーはキャラクター自体がゴム製って言えない?
   いとう:ということはサーカスのからだはゴムに同調しようと
   する、ゴムになろうとしている身体ってことになるね。つまり
   人間の身体とは違うってことに。
   桜井:ドゥクフレなんかはサーカス技使って意識的にディズニー
   ・アニメのキャラクターのゴム的弾性をみせてる。映画の
   『マスク』が「実写」で、といってもCG合成だけど、やってる
   ことをさらに三次元でやってくれてるというか。
   押切:ドゥクフレのやってるのは一種の「見立て」だよね。
   それでいうと、「欽ちゃんの仮装大賞」もそうじゃん。だけど
   なんか面白くならないんだよね。なんでかね?
   いとう:それは「見立て」のなかに入ったまんまで終わるから
   じゃないかな。「タコでした」ってことで終わるから。それが
   ドゥクフレはタコみたいに動くんだけど「このからだ面白く
   ありませんか」っていわれるから見ていられる。
   桜井:動きじたいに対する興味とか「愛」があるかどうかだね。
   いとう:「ボクってタコに見えますか?」だからな、欽ちゃん
   のは。
   押切:しかも静止したタコ。形態だけ。
   桜井:形態模写でも、今の例えば「ものまね四天王」なんかの
   発想は目尻とか鼻とか口とかセロテープ貼って…っていうもん
   でしょ、ぜんぶ。でも本来はさそんなことしないで、
   いとう:動きでみせてた。雰囲気で。そう、運動性の関係が
   「確かに森進一はこう眉を上げた時はこうなってる」とかいう
   ことが全体が似てるって思わせたよね。それが今は固定してる
   からね。
   押切:ダンスしてない!
   いとう:登場した瞬間だけだもんね、そういうのでおもしろいの
   って。
   桜井:小松政夫の淀長サンは?
   いとう:あれはダンスだね。なにしろ、まずリズムがある。
   押切:道具(付け眉毛!)に体が負けてない。サーカスもそれ
   だよね。ゴムならゴムという「跳び道具」だけ見てるってこと
   はないでしょ。やっぱりからだと道具が一体となったもの
   として見ちゃうよね。
   桜井:さっき「感覚移入」って言ってみたけど、「体感」
   というのもあるじゃない。今スポーツでもスノボーとかパラ
   グライダーとかスキューバとか「体感」型が増えてるし、
   バンジー・ジャンプもゼロGマシンもある。さらに言えば
   タトゥーとかピアッシングがひろがっていたり。それからヴァ
   ーチュアル・リアル・マシンは疑似体感マシンでしょ。ドラッグ
   は疑似といえるかもわからない体感がある。昔はサーカス見たり
   して人がやってる行為に「感覚移入」してたのが今は自分で
   やって「体感」してるってことなのかな?
   いとう:だからたしかにサーカスはつらいよ、今は。
   押切:おもしろいのは、VRが体感と感覚移入の境に位置する
   ってことだね。スポーツであれば「ちょっと危ないな」とかいう
   ことが、かなり細かく感覚にフィードバックされていくでしょう。
   それがVRではできづらい。例えば向こうから球が飛んできて
   それをよけるっていうことでも、自分なりのよけ方っていうのは
   やりずらい。ある程度のVRの法則性に則ってよけないと当たっ
   ちゃうとか。
   桜井:「感覚移入」だととりあえず身の危険はないことがわか
   ってるよね。ところがバンジーなんかだと、ゴムが切れちゃう
   かもっていう「恐怖」が伴うでしょ。ハード・ピアッシング
   なら痛いだろう。みんな恐怖感や苦痛といった刺激に飢えてる
   とこあるよね。
   押切:やっぱり自分の体の内部の感覚が摩耗のしかたが激しい
   んじゃないかって思うんだよ。自分のなかにある体の基準って
   いうか、もうちょっと微細な変化を捉えられることが出来れば、
   あんまり大きな刺激っていうのは却ってじゃまになる筈なんだ
   けど、それが相当摩耗してきてれば外側の「痛い」とかの
   「大文字の刺激」を求めざるを得なくなるっていう気がしてる
   んだけどね。それはひとつには、コツのいる道具というものが
   減ってきてるっていうことがあるんじゃないかな。
   いとう:コツっていちばん暗黙知の次元にあるものだからね。
   押切:そうすると内部の感覚がだんだんと必要とされなくなるし、
   上手なコツを持ってるひとに聞いて、ああそうだったのか、って
   いうふうに自分との身体感覚のズレを確認するようなことも
   なくなってくるからね。
   いとう:だから「アタシでも芸能人になれるのに」とか「オレ
   もDJになれるのに」って最終的には体とは関係なく思うん
   じゃないの。全員が全員、今。押切:唯一、ファミコンの裏技
   っていうのが、コツがある。
   いとう:まあヴィジュアルなものだけどね。「このへんに何か
   あるんじゃないか?」っていうような、あやしいパターン認識。
   でもそれは見て何かを当てるわけだから、山にキノコ採りに
   いっておじさんは上手にみつけるのに、っていうコツだよね。
   あとヴァーチャファイターとかは確かに指先のコツがある。
   桜井:そういう意味では「おたく」はまだいい方か。
   いとう:ピアッシングとかタトゥーはさ、身体的な境界が
   ボーダレスになってきてるからじゃないか。どこまでが自分か
   ってことがものすごくわかんなくなってるじゃん。で、アタッ
   チメントもいろいろつけるようになって、それこそ俺みたいに
   今温度がどれくらいかみれる時計つけて、その目盛り見て服着
   替えたりしてるぐらいだから。そうなると境界線が曖昧だから、
   あえて自分の皮膚に境界を置いて痛くしたいとか彫っておきたい
   とか、明確にしておきたいってことじゃないかな。
   押切:ヴィジュアルで「皮膚だよ」っていってるような気がする
   ね。「境界線」って空間に線を引いてる感じがするね。「痛み」
   っていう自分の感覚より、人に見られたときに「ハイ、ここに
   何かモノついてるでしょ、ここ、色、違ってるでしょ」っていう
   やらなくてもいいことをやってるような気がする。
   いとう:他人からみたらそうだね。
   桜井:バンジー・ジャンプは?
   いとう:あれは白人文化だっていう気がするな。白人の荒くれな
   若者の。あんまり黒人とか東洋人が好きそうって気がしない。
   スケボーもそうじゃん。転んで血だらけになってもそのまま
   その辺歩いてるっていうカジュアルなカッコ良さは。俺ダメ。
   押切:ホラー映画も白人にいちばん受けてるのかな?
   いとう:あれは道に出れば殺されるか殺されないかっていう
   日常の現実の恐怖を、違うところで解消してると思うよ。
   それで「大丈夫だった」っていう楽しさがあるからホラーも
   受けるしバンジーも好きなんだよ。身体より社会の問題かも。
   押切:まあサーカスも「危険性」だよね。そうすると見るほう
   も、ハラハラドキドキっていう、危険なものに向き合わなけれ
   ばいけないっていうことがあるわけだ。
   桜井:フォーサイスも危険を恐れなくなるために、意識をなく
   して踊るって言ってるしな。浅田彰さんが言ってたけど、フォ
   ーサイスのダンスは、振付家によってダンサーがマリオネット
   として操られるいわば「集中管理システム」でもなく、ダンサー
   が主体として動いていくことが作品となる「フリー・インプロ
   ヴィゼイション」でもなく、その両極の「あいだ」に位置する
   って。それでいくとサーカスはどうかな。
   いとう:サーカスはものすごい集中管理してないとけがしたり
   死んでしまうわけでしょ。ところが、例えば肩に板わたして、
   その上で跳ねて回転して降りてくるときには、これは偶然性が
   ともなうから、下の板を担いでるひとは偶然に合わせた位置に
   いなきゃいけないわけよ。それはアドリブにならざるを得ない。
   で「ああ、うまくひろいにいった。」って。だから、よく出来て
   るんだよ。管理できないものを同時に見せてる。「命がけ」って
   ことは多層的だよ。死ぬのは必然で、しかも偶然なんだもん。
   桜井:いいね、それ。グッっとくるな。じゃ、それを「締め」
   の一言、ということで、きょうはどうも。


( 許可なく複製、転載をしないでください。)   ダンシング・オールナイト: 第1回 第5回 第6回へ行く


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