ダンス時評・「子供の国のダンス」便り [1]

「技術」の「善用」について

桜井圭介

K:前号に続いて再登場!っていうか、“勢い”で連載することになっちゃった。つーことで、よろしう。
S:ってか、何で俺がここにいるわけ?! 時評欄なのに。まさか「時事放談」する気じゃないだろうな?
K:‥‥‥‥‥‥。
S:する気なのか。
K:‥‥‥‥‥‥。
S:ま、いいけど。じゃあ、例によって最近のコンポラ・ダンスはどうなのよ?
K:はいはい、これがまた色々あるんでごぜーますよ。まずは、そうでやんすねー、KATHY※1)なんてのはいかがでげしょーか?
S:ああ、村上隆のGEISAIでデビューして、現代ビジュツ方面でブレイク中の覆面三人娘ね。あと、どうでもいいけど、フツーに喋れよ。
K:あ、さいざんすか。いやさー、彼女たち、コンポラ・ダンス界ではそれなりに知られたダンサーなんだよね、実は。でもって、異種格闘技というか、よそのジャンルのリングに上がっていきなりタイトル勝ち取っちゃう、それだけでも好もしいじゃない?
S:「アウェー」で勝負ね。その意味で評価するのはよくわかるよ。ちまちました業界に安住しない、と。で、「ダンス」として、どうなの?
K:例えば、ラウンジ系ミュージック、フレンチテイストの入ったボサ仕様の「モア」に乗って、赤青黄のカラフルなワンピースにブロンドのボブヘア、でも顔からはパンストの足がたれてる女の子3人が、ひたすらクルクルと回転し続けるというような光景は相当にくだらなくかつ美しい!
S:やっぱり「バカ系」か。繰り返すようで悪いんだけど「ダンス」的に見て、どうなんですか?
K:今挙げたシーンでも、あまりにも正確な回転が持続するので彼女たちは機械人形に、さらにはモーター駆動のオブジェにすら見えてくる。で、それを可能にしているのは彼女たちの身に付けている「技術」でしょう。シロートはそんな延々と回れない。気持ち悪くなっちゃう。彼女たち技量は幼少からのバレエの修練のたま物でしょう。その「立派」な技術をこうした「くーだらない」ことに用いる、きわめて高度な技術を身につけた「立派」な身体をもっぱら「無意味」に奉仕させる、そこが評価のポイントなんだよ。
S:ああ、やっぱり前回の話(※2)の延長なのね。ホント、読者のことを考えないなー。かいつまんで言うと、ダンスの歴史に培われた欧米の立派な身体、教育システムの充実による高度な技術水準を前提としたあちらの正統コンポラに対して、立派な身体・正統的ダンス技術を持ち合わせない我々の「コドモ身体」によるコンポラ、という基本的な構図があって、「ダンス」が骨絡みに染みついてる欧米の人は、「コドモ身体」になれない(戻れない)ので、その代わりに「バカ」になる、しかもわざわざ高度な身体技術を駆使してまでして(例として、フォーサイスや、どこから見ても立派な大人のジョン・クリーズがきわめて繊細な身体操作によってようやく獲得する「シリー・ウォーク」)、そういう話だったよね。で、優等生として育ってしまったKATHYの場合、「持てるガイジン」と立場が同じで、己の持てる技術をフル活用して「バカ」をやる、と。
K:いやー、丁寧な解説、ありがとうございます。まさにそういうことです。ところで、彼女たちのテーマ曲でもある「モア」って、例のあれですよね、「モンド」系の語源となった映画「ヤコペッッティの世界残酷物語 Mondo Cane」の主題歌。つまり、元祖「モンド・ミュージック」。で、「ラウンジ」っていうのも、要するに「50〜60年代(B級)イージーリスニング」なのであって、そもそもはモンド系のなかの一つだったはずじゃない。過剰に洗練されたストリングス・アレンジとか、過剰に甘ったるいオルガンの音色とか、過剰にフェイク・ゴージャス感を醸し出すチェンバロとか、そういう時代遅れの繊細さや職人芸を、「エグい」からイイ!っていうわけで、つまりそれは「クラシックス」の今日的「善用」でしょう。ところが、最近はヘタすると単なるボサノバとか単なるA&Mサウンドとかまでを指しちゃう、ほとんど「おシャレ系」の同義語になっちゃってる場合も多いけど、彼女たちが、その「小ジャレ」た音楽を「くーだらない」ダンスに用いることは、「ラウンジ」本来の正しい用法に則っていることになるし、それは彼女たちのダンスの「くーだらなさ」が、ある意味バレエやボールルームダンス=古典(もっと大きく言えば「技術」)の今日的「善用」ではないか、というのと重なるんだよ。
S:あー、またそんなこじつけを。かえって話を分かりにくくしてるよ、この人。とにかく、ほっとくとすぐに「主体の消滅に対するフォビアを抱く身体」の「砦」、「薄い身体(主体)」の「防護スーツ」になりかねない「技術としてのダンス」を「善用」する、ということね。
K:はい、そういうことです。毎度まとめて頂き恐縮です。
S:そういえば、アレを思い出したな、ヤン・ファーブルの“バレエ”作品(『時間のもうひとつの側』)(※3)。フランクフルト・バレエのダンサー使って作ったじゃない。そのとき、彼は全くのシロートだから、まずバレエダンサーの日常のエクササイズ、バー&フロアのレッスンを観察(昆虫観察みたいにね)することから始めたんだと思う。で、そこで興味をひいたいくつかの「パ」をモチーフにする。彼は当然ながら総体としてのバレエ、ひとつの「言語体系」としてのバレエなんか知ったこっちゃないから、もうメチャクチャなことをやらせる。トンデモな使用をする。ダンサー全員が延々とジュッテ(跳躍)しながら対角線に舞台を移動するとか、とにかくおマヌケで、本来「華麗」なバレエ・テクニックがことごとく「台なし」にされていたなー。たぶん、フォーサイスはさすがに「教養がジャマして」自分じゃそこまで「ヒドい」ことは出来ないんで、ファーブルを起用したんだと思うね。
K:もしかしたら当のバレエ・ダンサーは「何でこの私がこんなことしなきゃいけないのよ!」って怒りながら踊ってたかもだけど、KATHYはそれ的なことを自ら進んでやってるわけだよ。エラい。
S:で、ほかのネタはどうなんだろう、KATHY。「 アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(「カサブランカ」の)に乗って、バタバタと倒れるやつ、起きては倒れ起きては倒れするのを繰り返すやつとか。たしかに「ダメ身体」を表象している、けど、ほんとは彼女たちはダメ身体じゃないんだから、ウソになっちゃうんじゃない?
K:いや、じつはここでも「ダンス」の「善用」がちゃんとなされているのですよ。バレエにポアント(つま先立ち)という重要な技法がありますよね。それは「バランス」というほとんどバレエを体現すると言ってもいいくらいの本質的な性格と結び付いている。「つま先立ちをする」ということイコール「バランスを取る」ことなわけです、バレエでは。足場が不安定になるからヨロける、コケるってことにはいかないんだな、これが。それをKATHYは暴きたてる、というか「台なし」にする。コケるためにつま先だちする(足場を不安定にする)わけ。
S:それって、フォーサイスが多用してた「オフ・バランス」の、さらにドラスティックかつファンダメンタルな、っていうか「簡便」なもの、ってこと?
K:そう言えばそうだ。でもさ、「倒れる」って楽しいよ、マジで。僕もワークショップで「身体のいろんな部分の力をデタラメに抜く」っていうのを必ずやるんだけど、「わざと」「自分から」コケるのって、すごい快感なのよ。あと、子供の頃に流行らなかった? 「失神」遊び。壁に背中付けて、5人がかりで胸を押してもらう、そうすると、一瞬気を失う、で、床に頭ぶつけて意識が戻るの。
S:そりゃ危険な遊びだ。よい子のみんなはマネしないでね!ってか、そういう部分では、 KATHYもまた我々のコンポラ(コドモ身体の)の一つである、と言えるのかもね。
K:あ、今気付いたけど、「コケるダンス」って、かつての勅使川原三郎の十八番じゃん!
S:そうそう、あれはパントマイムの「ズッコケ」から来てるんだよね。いやー、僕もすっかり忘れてたよ。最近やらないよね。ま、すっかり「大人」な「世界的振付家」になっちゃったからね。
K:『青い隕石』(88)なんか、当時は「ねじ式」の少年のような(?)キャラだった勅使川原が、ガラスの破片で覆われた床の上で踊り、ガラスを蹴散らし、踏み割り、倒れ込み、嬉々として転げ回る、という今から見るとほんとにコドモ性に満ちた舞台だったなー。
S:あ、危ないから、よい子のみんなはマネしないでね!ってか、ある意味「自傷」ダンスだよ、それも。実際にはそんなにやたらにドバっとは切れないようにしてるんだけど、それでも白塗りの額に真っ赤な血が一筋、っていうのは鮮明に記憶に残ってるな。
K:今どきの「社会現象」としての「自傷」は、8割は女性らしいけど、「イメージ」としての「自傷」って、断然「男の子」って感じじゃなかったっけ、昔はさ。イギー・ポップとか、山塚アイ(現ヤマンタカEYE)。あ、パンクってことか。暴れてるうちに(勢い余ってつい?)やっちゃう、と。
S:ちょっと話を戻すと、土方巽の初期の作品に『あんま』(63)っていうのがあるでしょ。
K:あ、風倉匠が出ているやつ。この人、胸に焼きごて当てる人だよね。胸に焼きごて!痛いですよね、もの凄ーく。
S:いや、「自傷」は措いといて。あの舞台で、男2人を肩にかけてぶん回しながら「自転」する。で、しまいにゃ、回されてる2人が吹っ飛んで、自分もぶっ倒れる、というデタラメもデタラメ、しかもかなり危ないことを、「大の大人」が嬉々としてやってるわけ。当時の土方の文章(※4)にも「ぼくが舞踊と名づける無目的な肉体の使用」は「生産性社会にとっての最も憎むべき敵」でなければならない。そして、その無目的な行為としての彼のダンスは「資本主義社会の『労働の疎外』に対する、ひとつの抗議であり得るはずだ」とある。しかも、そう言ってる当人の肉体はモダンダンサーとしての訓練を経た、人並み以上によく動く「立派な」身体でしょ。それを「無目的」な行為、要するにデタラメな行為に使用する、という。
K:あ、なーるほど。つまり、それもまた「善用」だ、と。
S:うーん、何でいつも俺はキミの理論を補強する役回りになるかなー? でもさ、「大人になる」って何なんだろうね。勅使川原三郎もオペラ座バレエに振り付ける「大人」になって、もう「ズッコケ」はやらないし「危険な遊び」もやらない。舞踏にしてもその最初は「デタラメ」な子供の遊びのようなものだったのが、やっぱりある時変っていく。西洋的なものではないにせよ、非常に精密で厳しい訓練を要する「技法」を前提とした表現になっていく。何がそうさせるんだろう?
K:うわっ、いきなりどまん中突いてるよ、マジで。前回、故意に「舞踏」に関しては一切触れなかったのは、これを扱うとなると一筋縄ではいかないし、ヘタすると僕の「コドモ身体」理論が苦しいことになっちゃうからなのでした、実は。
S:じゃあ、覚悟を決めな。前号を読んでくれたある人からのお便りにも「これって、西欧対日本という意味では、暗黒舞踏に関してかつて広く論説されてきた事の現代版焼き直しではないでしょうか?わたし的にはもうこの問題は60年代からずっと連続しているような‥‥」という指摘があったぞ。要するに、これは最終的には「舞踏はコドモ身体か否か」ということだよね。
K:たしかに「西洋VS日本」というヴァーサスの構図としては、そっくりそのまま続いているとも言える。今さっきあなたが言ったように、舞踏が「西洋的なものではないにせよ」というかまさに「西洋に真っ向から対峙するような身体の在り方」で、なおかつ「非常に精密で厳しい訓練を要する技法を前提とした表現」だとするならば、それはもしかしたら斉藤孝の腰肚の構図に重なってしまうのではないか、すなわち、武道家や力士のまるでカッコ悪い、一見するとダメ身体に見える(西洋的プロポーションでない)あんこ体型、短足、猪首、あるいは鶴のような痩身体型(筋肉がない)が、じつはもの凄い身のこなしや神業をみせるスーパーボディである、そして西洋のアスリートよりもそういう東洋的、日本的身体のほうが優れているのであーる!というインチキ話につながってしまう。でも、舞踏の身体がビミョーな位置を占めるのは、それが「非常に精密で厳しい訓練を前提とする」にもかかわらず、その結果得られるものは「へっぴり腰」とか「がに股」やら「白目をひん剥く」とか「写楽のへの字に曲がった口」とか「中気の老人の手惚け」とかなわけで、例えば力士のあんこ腹や無道家の痩身といったものと比べても決して「見よ、これぞ堂々たる日本の身体!」とは言えないような身体だからなんだよね。それは、むしろ、フォーサイスの、尋常ならざる微分計算によって人為的・人工的に作られた「ダメ身体」ときわめて近いのではないかと思うんだ。
S:ははーん、少し読めてきたぞ。それで今回、「技術」の「善用」ということを持ち出して来たのか。「コドモ身体」に準ずるものとして、「善用」された技術による「ダメ身体」を位置付けたいのね。
K:いや、そう簡単には括れないんですよ、こと舞踏に関しては。たしかに土方巽は立派な身体・立派な技術を、日々の精進によって、いわば生の実践として、朽ちさせた、腐らせた、ダメにした。年月をかけた緩慢な即身成仏、というか。でも、そんなふうに徹底的にやったのは、土方だけじゃないかな。
S:まあ、普通出来ないよね、そんなこと。ところが、この方法は、徹底的にやらないと意味がない性質のもので、
K:まさにそこですよ、問題は。例えば、芦川羊子。おそらく彼女は暗黒舞踏のダンサーとしては、最高の踊り手でしょう。かつて土方が要求した奇形的身体造形、奇形的身体所作を完璧に体現出来たし、そのための訓練つまり、そのような奇形性を可能ならしめるために身体に課したであろう恐るべき「負荷」は想像を絶するものがある。ところが、そうやって出来上がった芦川羊子の身体と踊り、これがほんとに「立派」な踊りなんだよ。いや、もちろん西洋的な立派さとはまるで違う。でもひょっとすると、合気道の塩田剛三とか上方舞の吉村雄輝や先代の井上八千代の「立派さ」に近しい「立派さ」のような感じがするんだよ。3年前にわずか5分間だけ踊った(※5)のを見たのが最後なんだけど、その時、すごくそれを感じたなあ。重心がもの凄くしっかり下に降りていて、それでいてもの凄く「軽い」、そう、まるで「幽霊」みたいにふわーりふわーり踊る。正直、感動に震えて涙が出たんだよ。
S:へー、それはさぞかし「絶品」だったんだろうな。
K:そう、「絶品」。そういう形容が出てきてしまう、そこが危ういんだよ。「絶品」とか「至芸」とか、それってまさに「芸」ってことじゃないか。骨董とか陶芸品みたいな「愛で方」、通人とか見巧者の世界で「お見事です、参りました」みたいな受容にならざるを得ない。それが、何か自分的にはイヤなんだよ。第一、ぜんぜん「ダメダメ」じゃないわけで、もはや。
S:長い年月の田植え仕事や薪背負いによってどんどん彎曲して縮んでいくように身体を持っていきたいと思っていたのが、結果としてはある意味逆になっちゃう的なことなのかねー。それだとまたまた斉藤孝が出てきちゃうね。
K:「ああ、この人ももしかしたら芦川羊子的になっていきつつあるのかなー」というのが、田中泯。まさに農業やってるし。彼の踊りも、最近見る度に「さすがな踊りだなあ」って感じるのね。例えば、大きな石を背中に乗せた状態で踊る。相当な負荷が掛かってるよね。で、数十分かけて「じりじり」というより「じっくり」と踊る。そんな無理な姿勢を取らされているわけだから、地虫の踊りみたいなものになって、たしかに通常の意味では「良い姿勢」の「立派なダンス」ではない。でも、それは実に見事ですよ。「石を御する」っていう感じで。
S:そう言えば、田中泯はかなりの角度で傾斜した舞台で踊るということもしてるよね。「不安定な足場」で踊る。それと例えばさっきのKATHYのコケ続けるダンスとは、繋がらないのかな?
K:そこがビミョーなんだよ。そのどっちに転ぶかビミョーなところが、舞踏のやっかいなところでもあるな。でも、やっぱり田中泯はその不安定な足場を「御し」ちゃうんだよ、コケるために足場を悪くするというより、ギリギリのところで危うい均衡を探るための設定なんじゃないかな、あれも。そうだよ、違うんだよ、「ダメ身体」とは。例えばですよ、ボクデス(小浜正寛)があの石を背中に乗せたとしたらどうよ?
S:あー、あのヘナチョコじゃあ即ペシャンコにつぶれてしまうね(笑)、そんで、しょーがないから、とにかく掛け声だけでも上げとく、と。「ウリャー!」とか。でも身体はちっとも起こせないの。たしかに、田中泯にはそれ的な意味での「困り果てる身体」というのはないなあ。「立派」なガタイ、だわな。でも、感動しちゃうんでしょ、アンタ?
K:そうなんだよ、それが悩みのタネ。それなりに立派な身体が「己の限界に挑戦」するような負荷を設定して、その試練をくぐり抜ける、っていうのが、なんか「芸の道」なわけじゃん、結局。で、もちろん古典芸能というのはまさにそういうものだけど、「綱渡り(ネットなし)」とか「水中脱出」もそうだったりするんだな、じつに。それもまた「芸」。そして、貴賤を問わず「芸」というものは必ず「立派な身体」とか「技術」を要請する。すると、己の身体・技術を「善用」するために「無意味」なことをする、という順序があっという間に裏返って、「無意味」なことでも懸命にやってたら「立派な技術」が身に付くし、気が付けば「立派な身体」になっちゃってる、っていうふうに本末顛倒する危険が常にある、ってことだよ。
S:あー、なんか、自分が愛しているものを無理矢理に否定しようとしてるような。だって、井上八千代も吉村雄輝も好きなんでしょ?
K:好きだよ。だけど、それを今クリティカルに擁護は出来ないっていうだけさ。
S:ふーん。じゃあさ、君が以前「井上八千代あるいは吉村雄輝と一緒に語るという誘惑」※6に負けそうだ、と書いた「天才ダンサー」黒沢美香はどうなの?
K:そうでしたっけね。でもその後誘惑に負けたんだよね、半分だけ※7。でも完全に負けちゃうと、黒沢は“単なる”類い稀なるダンサーの“単なる”至芸、ってことで、片付いてしまうことになっちゃう。それはまったく違うんですね。
 たとえば、9月のソロ公演『HAWAII』※8だけど、構成としては、ハワイアン・ガールな出で立ちで登場した黒沢が「踊る→丸太を切る→踊る→丸太を切る→…」という進行で、つまり構造としては、片方に「ダンス」的な行為があり、もう片方には「非ダンス」的な行為がある、ととりあえず言うことができる。ひとしきり踊ったかと思ったらいきなり始まるので唖然するほかない「丸太切り」は、つまりまったくの「無意味」な作業で、しかもそれを的確に行う「技術」は持ちあわせていない!うわ、何てヘタクソな切り方なんだ、これじゃ日が暮れちまうよ、と。一方、「ダンス」のほうはと言えば、例によってものすごい「至芸」。で、その「芸」に舌舐めずりしてしまう自分というのもたしかに存在するんだけど、でも、やってる事じたいはすごーくバカバカしい事なんだよな。ハワイアン(でも曲は裕次郎メドレー!)に乗って、ちょっとインチキ臭いフラ(絶品だけどね)を踊る、その足運びにつれて床に敷いた青いビニールシートがガサゴソと「波音」を立てる、とか、きれいで正確なクロール掻きの手さばき(これも絶品!)をしながら、舞台の四辺を歩いていく、とか。さらに、アメリカのマーチングバンドのアトラクションにあるような旗回し(弘田三枝子『ヴァケーション』)に到っては全くもって意味不明(どこがハワイだ?)、だけど見事な「芸」になってるのよ。
S:話だけ聞いてると、子供がデタラメに空想をしながら一人遊びしてるようなものに思えるけど、そのデタラメ遊びは、どういうわけかもの凄く高度な身体操作で行われている、そこがポイントということだね。
K:うん。このお子は、例えば「旗回し」がやりたいと思ったら、何が何でもきれいに回さなきゃ気が済まない。で、出来ちゃうんだな。天才少女だから。でもコドモ。
S:たしかに、きれいに回ってるほうが、バカ度は高まるよね。ジャグリングなんか見てても、宙を飛び交うピンの数が余りにも多いんで呆れるからな。
K:あ、そうか、黒沢の「芸」も、そういう類の「芸」ってことか。顎に棒を立てて「皿回し」とか、「シャンパン・グラスのピラミッド」を頭の上に積み上げるとかの。つまり「技術」が向上すればするほど、「バカバカしさ」が増大することになるような「至芸」。これなら安心だ、っていうか健全?
S:そういえば「丸太切り」のほうは?こっちは「ダメダメ」なんでしょ。
K:ところがさ、「あーあ、いつまでやるかなー、切れるまで止めないんだろうな絶対」とか心の中で愚痴ってたら、ある瞬間、不意打ちのように「ボトッ」って落ちたんだよ。それはもう何と言ったらよいのかわからない感動がね、訪れたですよ、ホント。単に切ったから切れた、ただそれだけのことを、やってることのあまりの「無意味」さと異常なまでの「固執」(コドモは大抵そうだけどね)が、何か大変な偉業が達成されたように錯覚させる、これもある意味「芸」かも。
でね、この「丸太」、最後に使うんですよ。両端に金具付けてロープを通して天井から吊るす。で、「振り子」になるの。その振りのタイミングを狙って「振り子くぐり」をする! 仰向けになって真下に寝てみたり。けっこうな勢いのついた「振り子」が、額すれすれのところをかすめていくのは、ちょっとだけサスペンス。
S:それこそホントの「曲芸」じゃん!



※この原稿は京都造形大・舞台芸術センター発行『舞台芸術』誌第5号 2004年1月に掲載されたものを加筆・修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

※1KATHY 
2002年に結成。GEISAI2に出展し、スカウト(NADiff,Tokyo-FM,美術手帖)賞。2003年 GEISAI-3に出展し、蜷川美花賞・スカウト(NADiff, 美術手帖)賞。10/31〜11/22『魔術的芸術』展(小山登美夫ギャラリー・プロジェクトルーム)に参加。11月5日シアタープロダクツ春夏コレクションに出演。
2004年2月 NY 「アーモリー・ショー」に出品、パフォーマンスも行う。7月24日 「
吾妻橋ダンスクロッシング」に参加。
公式プロフィールによると、「KATHYという強大な力に動かされ3人は、次々に指令を受け任務を遂行しなければならない。すべてがKATHYの監視下にある」ということだ。遠隔操作されるダンス・ロボット、あるいは電波系少女といったキャラ設定か。
http://www.jotomo.com/wisp/kathyinnadiff/index.html
※2:桜井圭介『「コドモ身体」ということ─コンテンポラリー・ダンスにみる歴史と記憶(?)』(『舞台芸術』第4号)
詳しくは、本文をウェブに掲載しておきますので、御面倒ですが参照していただければ幸いです。 
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html
※3 ヤン・ファーブル振付『時間のもうひとつの側』(93)は、94年神奈川芸術フェスティバル「コンテンポラリー・アーツ・シリーズ」において、フランクフルト・バレエ団によって上演された。
※4 土方巽「刑務所へ」(『三田文学』61年1月号所収)
※5 『間─20年後の帰還』展(2000年10月3日〜11月26日 東京藝術大学美術館)における10月9日の舞台。
※6桜井圭介『ダンサー主義で行こう!/1999年ダンス回顧』
(artscape 2000年1月15日号)
http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/artscape/topics/0001/theatre/sakurai.html
※7桜井圭介『黒沢美香賛江〜黒沢美香試論』(『CUT IN』2003年3月号。)
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/mika.html
※8黒沢美香『HAWAII』
2003年9月7〜9日神楽坂ディプラッツ。
Dancing Allnight   Profile   Discographie   Dance Critcal Space (BBS)   Link   Mail to Sakura House   What's New