「コドモ身体」ということ

コンテンポラリー・ダンスにみる「歴史と記憶」(?)

桜井圭介

「困り果てる身体がダンス」ってか?

S:どうなのよ、最近のコンテンポラリー・ダンスは?
K:秋葉原の一軒家でやった「メクラんラクメ」っていうイベント(※1)のボクデス(小浜正寛)は「壊」れてたなー。いきなり手提げの紙袋(宅八郎かよ!)の中からゴソゴソ取り出したキュウリ切って、何かと思ったらカッパ巻きを作る!最初、妙な変装してるなーっと思ったんだけど、頭のてっぺんに紙の「皿」乗っけてロングのカツラで「カッパ」ってことなのよ。
S:は? それってダンスなの?
K:だだそれだけのことをものすごい慌てふためいて汗だくになってやる、あせりまくりの挙動不審(オロオロ)感あふれる身体が「ダンス」ってことかな。次のシーンでは、「あ、こんなところにラジウムが」とか言いながらキュウリにスカートはかせて「キュリー夫人」。さらに白いテープでグルグル巻きにして「タマちゃんを守れ」とか。
:ダジャレかよ。イタいな。
:イタ過ぎて笑っちゃった。ネタじたいはダンスじゃないんだけど、それを、「マジほんとにつまらないものですが」って申し訳なさそうにやる、その時の「冷汗かいてる」身体がダンスかも、って思ったんだよね。
:あー、それって「男子はだまってなさいよ!」的なものかも。五月女ケイ子とか細川徹、佐伯新の「挙動不審」に通じる。あれも端から見ると「そこのお前!ちょっと落ち付け。何でそんなにビクビク・オロオロしてるんだ、何か変なものでも見えるのか?」とかって大竹まことのツッコミが入る。でもさ、そういう「ダメダメ」な「完璧壊れてまーす」なものって、結局「ボクたち、表現することとか、もう何もないですから」的な居直りであって、マズいんじゃない? 退行だよ。
:たしかにね。流れとしては90年代ずっとあったポストヒストリカルな(主体なき)主体の表現の完成形ともいえるかもだけど、でもこの意味なく「困り果てる」身体、何か意見を言わなきゃいけないのに言うべきことがないから「あー、エー、」とかシドロモドロになって仕方なくダジャレを発する身体は、9.11以降のこの場所の新状況と関係してるんじゃないかな。長いこと歴史の外に追いやられて暮らしていた、だから主体(性)など必要もなかった、そこにいきなり「主体的に歴史に応答せよ」とか言われて困ってる。
:『池袋ウエストゲートパーク』のころ、浅田彰が窪塚洋介について言ってたよね。「ここまでヘナヘナな人間というのは、世界的に見て新しいのではないかとすら思わせる」(※2)とか。
:それが今や『凶気の桜』で、頭を坊主にして、反米ネオ右翼だからね。アブナイアブナイ。
:でも、あの映画でも、ハーゲンダッツのアイスが好きで「ウマイもんはウマイっす」とか言ってるからさ。カミさんもレゲエ系のダンサーだし。
:ヘナヘナな主体ほど脆弱なものはない、一番先にコロっとやられる、「転向」「動員」のターゲットとして。っていう危惧はあるんだよ。存在の耐えられない軽さに耐えられないから。で、その時そっちのほうに転ばないためにとりあえず「困ってまーす」っていうのはあるんじゃないか、応急措置だとしても。

世界標準=立派な身体

K:ダンスの話に戻すと、世界標準の「ダンス」ってあるじゃない。日本以外の国では共通理解として。それこそ、継続した歴史を持った「概念」として、「芸術」として。「マーケット」と言ってもいい。そこでは、いかに「ポストモダン」ですと言っても、前提として「立派な身体」というか、完璧に制御可能な「チューンナップされた身体」があるよね。その上で、主体=身体をデジタルに分割して「リゾーム」化するわけでしょ、フォーサイスとか。いっぽう、日本はと言えば「この国では最初からポストモダンだった」とか開き直りで(笑)、そのままでいるだけで「グニャグニャ」だから「OKっしょ?」っていうところはあったよね。この10年。僕なんかはそういう煽り方をしてきたから戦犯モノですが、「今は堪え時」だと思うね。まず、「マーケット」の問題はたしかにやっかいで、世界のダンス業界はフォーサイスですら例外的であって基本的にはいまだに「モダン」状況が続いているみたいだよ。つまり、「マトモに身体が出来ていないヤツがダンスとは笑止」みたいな「エリート」主義がある。それで、こっちも「そうか、あいつらに対等にモノを言うには、まず身体を鍛えろってことか、正論かも」って思うじゃん、みんな。で、「標準フォーマット」のダンステクニックのあれこれを身につける(※3)。でも、よくよく考えれば、それはガイジンの身体に「訓育」されてるだけじゃないのか、って思わない? モダニズムとしての、つまり表現としての「ダンス」は、西欧的身体という歴史と地理を持った実体(決してそれ以外ではありえない)を抽象して成立したわけでしょ。この起源は、それをある種のインターナショナル・スタイルと看做し、何人であろうとアクセス可能な「透明」なツールとして用いる限りにおいては問われることがない。つまり、そのシステムに参入しちゃったら最後、起源は見えなくなっちゃうってことだよ。
:何? よくわかんないよ。
K:じゃあ、こういうことはない? ひょとしたらフォーサイスでさえも、ほんとうの意味ではポストモダン身体ではない、何故ならいかにヘロヘロなムーヴメントを出現させてもそれはダンサーの主体的な操作によるものだから、インチキだとも言える。その証拠に運動ーダンスの手前にある身体が「立派過ぎる」もん。お侍が町人のフリをしてもバレバレだぜ、っていうかさ。
:ああ、もしかして「身体そのもの」のローカリティを問題にしたいわけ? それこそクボヅカ的な「世界に類を見ないかくもヘナヘナな身体」を消去すべきではない、キープせよと。やっぱ居直りじゃん?
K うーん、そうかもしんないけどさー、さもないと斉藤孝が登場しちゃうんだよ。ローカリティも維持しつつ世界に、歴史に参入しようとすると、民族の誇るべき伝統的身体、「腰肚」を鍛えてダメさを矯正しなきゃならない、って話になってくる。
:その斉藤孝的な演劇版として鴻上尚史の『発声と身体のレッスン』(白水社)というのがあるよね。そこではボソボソっとした声ー身体、いわば「柄本明」的なるものもうまくキープされてるよ。つまり、柄本さんのよさはあの「ダメ」な声だけど、問題は「すぐ嗄れる」(笑)という点である。これまでの演技メソッドで柄本さんが声を鍛えると、朗々とした声になってしまう、「柄本さん」じゃなく「平幹」になってしまう。しかるに「腰肚」を鍛えれば、どんな声でも出せるようになるから大丈夫なんだ、って。
:ですからですね、そこがかなり危ないと思うんだよ。たぶん、ほぼ「柄本さん」的な「発声」の「演技」は出来るようになると思うよ。鴻上も言ってるように「楽器」としての俳優には便利だよね。でも、「ほぼ」ですよ、絶対。それは「柄本明」そのものではない。その小さくても絶対的な差異、とか言うとそれって「主体=アイデンティティ」を守れってことじゃん、って言われるかもしれないけど、そのダメ演技も出来ますという「楽器」の「本性」は実は「立派な身体=立派な主体」なんだよ、それこそ。むしろ逆に、柄本さんが「立派な役柄」をあの声ー身体でやる、前に「ガリレオ」やったよね、するとそこに「役柄」の新たな可能性も出てくるじゃない。そういう意味で、さっき言ったフォーサイス的な「超絶技巧としてのグニャグニャ」みたいなのも同じでしょ。フォーサイスの「ダメ身体も作れます的な高性能マシン」と「マジでダメダメな身体」との差異というダンスの問題が繋がってるんですよ、僕的には。
:でもさ、例えば「ニブロール」なんかでも、実際はそれなりに踊れるダンサーなわけでしょ、そこを敢えて、意識的に、ガキガキというかギクシャクしたダンスを踊らせているじゃない。
:そうとも言えるけど、そうじゃない。矢内原美邦が演出家としてちゃんとわかってるなと思うのは、ダンサーの「習い性」で、与えられたあるひとつの「振り」を丁寧に完璧にトレースしようとする、制御しようとするところを、単純に「超スピードでやれ」と要求するわけ。そうすると丁寧にトレースする暇はないので、自動的にグシャっとした動きになる。あと、あそこのダンサーたちはまだ「ダメ身体の記憶」を完全に消去されるほどには「訓育」されていないんだよ、さいわいなことに(笑)。で、そんなダンスを踊らされてると、記憶がだんだん戻ってきて(ていうか日常の自分の身体とうまく接続できてきて)、「デプログラム」されるわけだ。

日本人の「正体」

:そういえば、ニブロール、こないだ「ガイジンと共演!」(チラシのキャッチ)したよね(※4)。それこそ、いわゆるなダンス・テクを拒否し、ダンサーの「素」の身体・存在のリアルを運動として組織化するという反則技(?)な方法が売りのニブロール@東京、対してバリバリにダンスなテクニックを駆使し、正攻法で押すアタックシアター@ピッツバーグ。いわば、アメリカ=モダンダンス=グローバル・スタンダードとあまりにも東京な表現の対決!って感じだったけど。
:まあ、そもそもが「水と油」なんだけど、とにかくお互いの「ダンス」を交換してみるというまっとうなアプローチを採ったわけだ。で、アタック・シアター側の(ごくオーソドックスな)テクニックもニブロールのダンサーによって踊られると、例えば「リフティング」は、足下フラフラで頭上に掲げた人が今にも落っこちそうだし、「コンタクト」は、教科書通りに、受けとめてくれる相手をいちおう信頼して重力に身を任せたら案の定ハズされました、といった具合に「ダメダメな表現」にすり変わってしまう。これはまあ意識的にやってる、敵に心理的ダメージ与える攻撃だね。
 逆に、ニブロール特有の語彙、やみくもに腕を振り続けるとか「スライディング」とかの非ダンス的所作も、アメリカ人ダンサーにかかると、きわめて「スムース」に「踊」られてしまう。本来、突発的・暴力的なナマな動きも、必ずダンス的に解釈され「ダイナミックなムーヴメント」といったものに置き換えられる。あるいは端的に「コケる」といった時でも、無意識のうちにバランスを取って、どうやってもなめらかに動いてしまうのよ。
:さすがに「訓育」され切った身体は手強いな。ニブロールの「負け」ってことかな?
:いやいや、これは「訓育」の度合いの差ということじゃないんだよ。それで言ったら、逆にアタックシアターのほうが「いくらやってもガキガキした動きが出来ない」ダメな「楽器」だという言い方だってできるから。結局、「楽器」じゃないんだよ、身体は。ダンサーでなくてシロート同士で比較してみようよ。外人は「歩く」とかの日常動作を見ればわかるよるに「どうやってもスムースに動いてしまう」身体だと思うんだよ。日本人は「遠くから歩いて来るヤツでもすぐ日本人だとわかる」っていうじゃん。歩くのがギクシャクしてるんだよ。
:もとから「器用」な身体と「不器用」な身体だ、っていいたいの?なんか自虐的だな。
:じゃあ、これはどうかな。「大人」と「子供」っていうのは? 子供はまっすぐに歩かない、左右の足を切り替える度に肩がガックンする、すぐコケる、要するに重心移動とかバランスとかの身体コントロールが「ユルい」。で、これ、日本人の大人の「不器用さ」を欧米人に比べる際にもよく言われることでもある。つまり…
:我々はコドモだったのか?!ってか。
:そう。これ、僕的には「目からウロコ」の大発見なんだけどね。あまりにも単純明解なんで、自分でも「ほんとにそんな簡単なことなのか?」とつい疑いたくなるけど。「この国のカルチャーは子供っぽい」という批判(アニメやゲーム、さらに村上隆について)をよく聞くけど、そこに含意されてるのは、チャイルディッシュな表現を生む「精神構造」が子供、「オツム」が子供(精神年齢10才)ってことでしょ。でも、そもそも「身体」からしてコドモだとしたら、しょーがないじゃん? とりわけ「ダンス」は、身体そのものをメディアにする表現なわけだし(※5)。

「カワイイ!」=「子供な!」

:そうか、「珍しいキノコ舞踊団」なんかも、これまではそれを評するに「カワイイ系」とはいうけど、「直截」に、「端的」に言ったら、まさに「コドモ」のダンス、ってことだよな。なんかみんな忘れたフリしてるけど、彼女たちのお歳、は言わなくても結成から数えて10年は経ってるわけで、少なくともティーンの少女たちではない。でもやっぱり「カワイイ!」としかいいようのない身体がそこにはある。それを僕たちは「コドモな!」というふうには意識してないふしがある。
:ところが、さすがに外人の目は見逃さない。NYタイムズのダンス欄で、例のアンナ・キセルゴフ女史は「よちよち歩き waddling」の「コドモ女 child-women」だって(※6)。ものすごい奇異なものに映ってるわけ。
:ちなみに美術のほうでは、ムラカミ、ナラだけじゃなくて、ピピロッティ・リストとかカレン・キリムニクとか、日本人だけど西海岸にいる曾根裕とか、いちおう「芸術」のコンテクストでも「不器用さ」が身上の「コドモ」がイシューたりえている。「帝国」に抗するアートとして、この場所に閉じないで接続する可能性はある。
K:ところが、現代美術と違ってダンスは依然としてサブカルと明確に峻別されたハイアートだってことになってるからね、世界マーケットでは。そこに困難がある。なんで身体表現になると大人なんだよ、外人は?
:そう言えば、「珍しいキノコ」ってデヴュー(91年)したとき、ちょっと「和製ローザス登場!」って感じじゃなかった? 今じゃ信じられないかもだけどさ。89年に初来日したときのローザスって、みんなボブヘアで、お揃いの黒のワンピースに白ソックスの「ガーリー」で、バルトークの弦楽四重奏に乗って、白いパンティがまるみえになるのも何のその、こけつまろびつ石蹴り遊びのようなダンスに興じる、そんなダンスだったよね。
:しかしその少女たちは、ある日ハイヒールにタイトスカートのワーキング・ウーマンになり、さらに退社して独立、今では起業家としての風格すらただよう「大人のいい女」になりました的な遍歴を辿ることになる。
:要するに現在のローザスを見ればわかる通り、精緻なムーヴメントを追求する幾何学的抽象のダンスというきわめて高度で洗練された正統的表現に成長、成熟した、と。それに対して「キノコ」はと言えば、本質的に変らない「少女」いやさらに「子供」に退化(進化)している。この「差」はどういうことなんだろう? 君としては「まさに身体じたいがコドモだから」と言いたいんだろうけど。
:少なくとも、「欧米」で「ダンス芸術」をするということがいかに成熟・深化・洗練そして(ダンスの、芸術の)歴史的文脈への参入を余儀無くされるか、ということだけは言えるね。いくら「主体の消滅」といったって、身体レベルではきちんと象徴界への参入が行われてしまう、と。だから、彼等から見たら、いつまでも成熟しないでいられるっていうことが不可解なんだろうな。そう考えるとやっぱりフォーサイスはエラいよ。計算で身体がバカになる方法を実践してるわけだから。そうか! 彼等は「コドモ身体」じゃないからその代わりに「バカ」になるんじゃないか。『モンティ・パイソン』の「シリー・ウォーク」だって、あのどこから見ても「立派」な「大人」のジョン・クリーズが、すごく繊細に身体をコントロールしてやってるんだな(※7)。まあ、「向こう」にも「コドモ身体」に近い身体はないわけじゃないんだよ。あと、そうだな、ダニー・デヒートとかスティーブ・ブシェミとか。ただ、それってコメディアンとかインディペンデント系でさ。
:サブカル系だ。でもダンスは依然ハイアートだからな。
:そこがねぇ。あと、マイケル・ムーア。例の「Shame on You Bush!」のスピーチしてるときの腕(短い!)の振り回し方は「コドモ」身体だったよ。カッコ悪いんだけどカッコいい。やっぱ、「帝国」に抗う身体は「コドモ」身体だよ!

老人と死体≒コドモ?

:なるほどね(苦笑)。ところで、この『舞台芸術』の特集は「歴史と記憶」なんだよ。帝国に抗する戦略としてのね。君の意見としてはコンポラダンスに限らず、今のところ日本は歴史も記憶も健忘している空間ってことなんだろうけど、じゃあ、海外のダンスは今どうなの?
:鴻氏の「カンプナーゲル・ラオコン・フェス」で、ピナ・バウシュが65才以上の老人で『コンタクトホーフ』(78年初演)を上演したんでしょ。そのことが象徴的なわけですよ。その舞台はまさに身体ー歴史によってかろうじて成立する「帝国」への抵抗だと思うな、見てないでアレですが。今のバウシュのカンパニーの若いダンサーたちの身体を見ると、なるほどこれじゃかつてのように「踊らない」という方法によって実存的(歴史)身体であることは出来なくなってるんだろうな、と思わざるを得ない。かつてのように精神分析的に「ダンス」といういわば「言語」=「意識」をダンサーの身体から剥がしてみても、その下には古層=深層がない(泣笑)。内野儀の言う通り、彼等の身体の存在感は「薄い」(※8)。歴史性を欠いた身体ですね。多彩な国籍にもかかわらず、均質な「薄い」身体である。それがグローバリゼイションということですから。
:その希薄な主体−身体は、そうであるならば目下の対象である我々の希薄な身体つまり「ダメ身体」「コドモ身体」と接続できるんじゃないかと思うんだけど?
K:そうはならない。何故なら彼等には我々と違ってまがりなりにも「ダンスという歴史」があるからです。彼等はそのような「薄さ」に耐えられないゆえに、「踊」らざるを得ない。「ダンス」に依存せざるを得ない。「ダンス」という歴史性に依拠すること、つまり踊ることでかろうじて存在が保証されるという事態になっている。前に書いたことだけど、主体の消滅に対するフォビアとして、自己の身体といういわば主体の「砦」ともいえる場所の防護スーツに使われてしまう。しかし、その「ダンス」は、かつてバウシュの手で息の根を止められたかに見えたその「ダンス」は、じつはもはや、というよりもともと「マクドナルド=国際標準」でしかない。ただ、かつてと違うのは彼等の身体じたいが薄いー透明なので、ダンス=既成服との微妙な齟齬感もなくなっているということです。それゆえ、結局、踊ろうが踊るまいが「薄さ」は変らないということになる。その点、ダンス(史)の部外者たる日本人にとっては、希薄さをカバーする足場にならない。帰るべき場所とはならない、幸か不幸か(笑)。
:いっぽうで、依然にもましてバカ騒ぎというか悪ふざけというか、それこそ子供の「お遊戯」が溢れかえっているよね。そっちに関しては可能性があるんじゃないの?
:うーん、僕も去年の来日公演(※9)のレヴューでは、そこは擁護しちゃったんですね(しかも「ダンス」部分に関しては完全ネグった上で)。主要モチーフである「水浴」と「喫煙」、それはエコロジーと反グローバリズムの謂いなのだ、とかなんとかって(※10)。「バカ騒ぎ」、「コドモ」じみた「お遊戯」もかつては、アイロニカルに、「大人」が絶望でバカに身を投げる感じだったのが、今や嬉々としてバカを演じるてるでしょ。屈託がない。躊躇も臆面もなく。それ、逃避じゃん、単なる退行=デカダンじゃん。っていわなきゃいけないような気がするんだよね。つまり、「コドモ身体」じゃなくて「子供オツム」ってこと。しかも手のひらを返すように次のシーンではスマートに高度な「大人」の「ダンス」、っていうんじゃね。
:じゃあ、新しいところでドイツでバウシュ以来の才能と言われるサッシャ・ヴァルツはどう? 『no Body』(02)。「死における身体」を考察したということで、主体としての身体ではなく、精神を持った身体、脳−意識に統括された身体ではなくなった、そういう身体が描かれているわけだ。コドモ身体の「ユルいコントロール」と似てるようにも思うけど?
:ああ、言われてみれば。これもビデオでしか見てないんだけど、ロボトミー手術された人間の身体ってこんなかなー、という感じの身体になっていたな。ほんとうは死=全機能停止だから動かない身体なんだけど、それじゃダンスにならないから、仮構として「霊魂だけになった身体」というものを設定しているんだね。すると、もはや制御されていないのに物理的に器官はある、骨格だけはあるという身体が、やはり物理的な環境因子によって駆動される。風に流されて移動する、誰かにぶつかる、こける、相手は突かれた玉になって後ずさる、かなりの大人数の間でそういう意思なきアクション連鎖が瞬間的にさまざまなブロックを形成しながら展開する。で、身体のマッスとしての物質性、重量感は死体と同じだし、まずは、スゲーもの見ちゃった感は相当あるね。動きの運びかたのシナリオ=振付から見れば、ニブロールのダンスをガタイのでかい物理的に身長体重の大きいダンサーがそのぶんだけ鈍重につまりスローモーに踊ってる、そんなふうにも見えるかな。大きな違いとしては、やっぱりもとの身体そのものは「立派」な代物で、だから、自分からは絶対コケない、石が落ちてない限り延々前に進んでっちゃうんだよ。とにかく、彼の地では、ここまでしないと人間(成人)を消去出来ないのか、厳しいなー、そう思いました。

表現としての自傷行為

:おそらく、『nobody』も老人版『コンタクトホーフ』も、9.11以降の状況によって出てきたものだよね。翻って、我々のこの場所では、最初に言ってた9.11以降の新展開(?)とコドモ身体はどういう繋がりあるいは切断があるのかな?
:まず、話をしているうちに確認できたことだけど、欧米の大人身体のほうでも、一生懸命に血の滲むような努力を払ってバカになるとか、がんばってる人はいる、と。で、こちらとしては今やこれまでのように「へらへら」で行こうとしても、「大人になれ」とか「主体性を持て」とか色々うるさいこと言われるようになってきたから、キノコだってニブロールだって、じつは相当に強い意志でもって「コドモ」を維持するための努力は払っていると思う。冒頭で挙げたボクデスのパフォーマンスの「目も当てられないほどのダメさ」のポイントは、ネタ(コンセプト)のしょーもなさじゃなくて、もはやそういうしょーもないネタをやるしかない状態に置かれた「身体」の所在なさのほうにある。
:まあ普通のコンセプチャルアートのやりかただと、そのしょーもない行為をさも大層なもののように扱う、っていうか「淡々」とやるわな。不条理ギャクとかもそうだね。でも、これはそうじゃないんだ、と。
:「ただいるだけ」で存在ー身体がダメ(コドモ)という段階から、「行為」のほうも率先してダメさを加速していかなくちゃならない段階、「ダメじゃなきゃダメなんです!」っていうぐらい「クドい」意思表示しないきゃならない段階に来てる、そんな感じがするんだけどな。ま、あくまでも「緊急避難」だと思うけど。
:自分で自分の身体を骨折させてるみたいだな。「本当にケガ人なんです、ホントに大変なんスから」って。脱臼(コケる)という段階から骨折へ、か。そりゃ痛いわ。
:いや、更に言うならば「解体社」とも違うわけですよ。吉本の「パチパチパッチン」みたいなやつも、たしかに痛いとは思うけど、歴代天皇の名前とかとセットでやられるから、「意味」が出て来る、有意義な行為として、パフォーマーの痛みの代償は確保されてしまう、その痛みのリアルさもそれでは台なしだと思うんだけど。やるんだったら潔く「すんません、こんな芸しか持ち合わせがないんで、ほな」ってやったほうがいいのにって思わない? ボクデスのほうは、ほんとの身体の損壊はないけど、自己の人格破壊の度合いは相当甚だしい(笑)。芸人生命にも拘る、っていうくらい。
:それで、その、少々無理矢理に言えば「表現としての自傷行為」的なものは、果たして「兆候」と言える程度には症例として存在してるのかな?
:例えば、黒田育世の『Shoku 』(※11)。黒田が向かい合わせの女の子に延々と頭をはたかれてるシーンがあったけど、その黒田の抵抗することも出来ずに立ち尽くす身体の所在なさはちょっと恐かった。あれは、「きのう夢で知らない女の子に叩かれ続けました」的な作りになっていて、たたかれ続ける理由・根拠を欠いているんだよね。だから所在ない。
 手塚夏子(※12)とかも不可解だよね。「身体のごく小さな部位を強く意識すると全然別の場所が動き出してしまう」という「念力」みたいな身体操作をダンスと称して行うんだけど、それって統御された身体−主体を意識的に(小さく)暴走させる、ってことでしょ。操作不能を招来せんがための操作、これもある意味「自傷」っぽい。リストカットにおいて「手首を切ると血が出るのか、不思議だなー」って、行為(操作)と結果(生理的反応)の因果関係が形成されないケースと似てるよ。
:にもかかわらず「ナっちゃん、カワイイ!」っていう向きが意外と多いのは、いったいぜんたい(笑)。
:いや、だから奈良さんの「ギロリのデコッパチ」を今どき誰も「恐い」とは言わないわけでさ。大きな括りでは手塚夏子も「コドモ身体」の一つだよ。アウト・オブ・オーダーなんだから。
コンドルズとかはどうなのかな。彼等も「生涯高校生、永遠の部活動」みたいなものじゃない?「ガキ帝国」っていうか。
:いやー、コンドルズすか。これ自分の身を切ることになるから言わないでおこうと思ってたんだけど、いかんせん「マチョ」なんだよね。基本的な部分で。もちろんおのれのマチョ性の自覚はすごくあるんだよ。で、どういう形でやればマチョ性を無効にできるかという戦略としての「ダサさ」「馬鹿さ」「過剰さ」だと思うのね。でも、偽装を施してようやく思いきり「あー汗かくのは気持ちいいよー、やっぱ!」という場所を確保するってことになっちゃうとさ、どうもね、辛いんだけどね、違うんじゃないかな、って。親近感は大なんだけどさ。
:注意深く峻別するべきは「コドモ」と「マチョ(の幼児性)」の決定的な差異である、と。
:うん。コンドルズはさておくとして、一般論として「マチョ」ってアタマはガキ(想像界?)なのにツリー的な「身体=自己」の支配に対する欲望が過度にあるんだよ。昔ならボディービル。今だったらガンダム操縦ってことだな。どちらも首(アタマ)から下が肥大してる。つまり、アンバランスな身体ではあるんだけどね、じつは。
 あと、可能性としてすごくいい線いけそうなのに、という感じで「発条ト」の白井剛(※13)。歯痒いんだよ、オジサン的には。いわゆる「優男」でしょ、彼。で、身体のほうも今どきの「背ばっかり伸びちゃって」タイプで、つまり「優柔不断」なユルい主体ー身体。で、「ダメ」であるという意識はある。あるんだけど、何故ダメではいけないの?と思ってるんだな、きっと彼は。ここで、身体を鍛える方向にいかないのはよいとして、「自分らしさ=長所」的ナイーヴさがちょっとね。いや、もちろん「長所」でいいんだけど、イロニーとして、というか客観的な自己分析として、というのがないんだよ。
:いいじゃない。君の今までの論理でいけば「自意識がない」ことこそ肯定すべきじゃないの? おかしいよ。やっぱ君「マチョ」だね。
:しまった。深く反省します。
:じゃ、校庭10周。夕日に向かって走ってこい。

付記:執筆にあたって、ここ数カ月日課として読んでいた宮沢章夫氏のウェブ日記「富士日記」http://U-ench.com/fuji/index.htmlに多く啓発されました。深く感謝申し上げます。
また本稿に関連して、過去に筆者が書いた以下の原稿を参照いただければ幸いです。
「リアルの条件−ミライクルクル、さもなくばニブロール」
「ニブロール『駐車禁止』」
「ニブロール『コーヒー』」
「明るいオブセッション」
「無根拠な身体〜かくも過剰で希薄なリアルについて」



※この原稿は京都造形大・舞台芸術センター発行『舞台芸術』誌第5号 2003年9月に掲載されたものを加筆・修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

※1『メクラんラクメ』
03年
5月25日、於ツキジマンソン。出演:康本雅子、たかぎまゆ、小野寺修二、重森一、ボクデス(小浜正寛)。俳優として「遊園地再生事業団」公演に数多く出演、またダンサーとしてニブロールに随時参加する小浜はボクデス名義でソロ・パフォーマンス活動を展開、2001年「キリン・アワード」にて奨励賞、「芸術道場グランプリ」(村上隆主催)にてスカウト(誰でもピカソ)賞、STスポット「ラボ20」#9においてラボ・アワードを受賞。
※2:浅田彰『堤幸彦の「溺れる魚」』
( iモードのサイト「The END」のコラム「i-critique」2001年2月13日付 )
※3 特に「ダンサーさん」は日本にはマーケットすらないゆえ、外に出て職を得るためにみんなそうせざるを得ない。
※4ニブロール『ノート』
03年
3月2〜3日 新宿パークタワー・ホール。
※5 このことに関連して、ニブロール『ノート』公演のアフタートークで宮沢章夫の述べた「外人は滑舌がいい」(裏返せば、滑舌の悪い=舌たらずな=子供のように不器用な日本人)という指摘はきわめて示唆的ではないか。演劇においても「コドモ身体」ということが妥当するのかどうか。
※6 Anna Kisselgoff, " Female Choreographers Letting Off Steam " New York Times, January 13, 2003, Monday
※7 エリック・アイドルが新しいシリー・ウォークを考案して役所(シリー・ウォーク省!)に特許の申請に行き、J・クリーズに披露するというスキットがあったが、彼は、どちらかというとチビの不器用タイプだから、チマチマしたショボい馬鹿歩きになる。しかし、今見るとそっちのほうが情けなくてよかったりする。
※8 内野儀「想像力を奪還する」(「舞台芸術」第4号)
※9 2002年5〜6月 ヴッパタール舞踊団日本公演。近年の作品として『炎のマズルカ』(98)『緑の大地』(00)および初期の作品『七つの大罪/怖がらないで』(76)が上演された。
※10 桜井圭介『「ため息と嬌声」あるいは「喫煙と水遊び」』(初出『バレエ』2002年9月号、音楽の友社)。
※11 黒田育世『SHOKU』
『ネクストネクスト』2002年12月 於森下スタジオで初演、03年2月横浜ダンスコレクション 於赤レンガ倉庫にて改訂再演。黒田育世は2002年度「ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ドゥ・セーヌ・サン・ドニ」の「ヨコハマプラットフォーム」においてナショナル協議員賞を受賞(ニブロールの矢内原美邦と同時受賞)、2003年度SPAC振付コンクール大賞を受賞。
※12 シリーズ作品『私的解剖実験』。ニブロールにも随時参加する手塚夏子は『私的解剖実験2』で2002年度「トヨタ・コレオグラフィー・アワード」にノミネートされ、7月シアタートラムにおける本選会に出場した。下記URLで、手塚のパフォーマンスの動画(QT)が公開されている。www.tenpari.tv/
※13:2000年度バニョレ国際振付賞を受賞、ビデオを駆使した「マルチメディア」系グループとして認知された「発条ト」だが、最近、白井剛の関心は身体にシフトしつつあるようだ。とりわけそうした傾向が顕著なものとしてソロ作品『衝動とミディアム・スロー』(2002)。