「ダンス」とは何か?という問いに対して、たとえば“真直ぐに歩けば いいところを、くねくね歩いたりするもの”と言うこともできるでしょう。 目的(地)に向かって最短距離を黙々と足を運び続ける身体とは反対に、 非効率、不合理、「道草」のような無意味な娯しみにかまける身体は笑っ ている。「笑う身体のエクボ」、それが「ダンス」です。 そこでただちに翻って、単なる「歩行」と言えども、真直ぐでないもの は「ダンス」であると言おう。 ところが、ダンサーがみずからの身体をして表現たらしめよう、ゲージ ュツたらしめようという“よこしまな”考えからダンスするとき、“意味 もなく”という「意味」で、「くねくね歩き」を選択する。ただ単に真直 ぐ歩いたのでは誰もダンスとして見てくれないのではないか?という危惧 によって、「くねくね歩き」のフリをするわけです。 フリをするものはこわばる。“ダンスのフリをする”身体、“しなやか であることをよそおう”身体ほど忌まわしい身体はありません。ダンスの 動きを「振り」つまり「型」としてなぞるときそれはダンスではない。ダ ンスのフリをしているだけです。 「パフォーマンス」という語には、「政治家のパフォーマンス」という ように否定的ニュアンスがありますが、「芸術家のパフォーマンス」も似 たようなものかもしれません。ゲンダイビジュツな自称アーティスト(あ るいは自称ダンサー、自称コレオグラファー)はたいていの場合「はった り」です。日常性や道理や快感原則には何が何でも従わないぞという「頑 是なさ」を「表現」としてわざわざ行為する=パフォ−マンスするという のは、何のつもりかと思ってしまいます。もちろん、そういうことに意味 があると思う人達がいるので「アーティスト」として通用しているのです が。しかしその場合、もうその行為は「道草」のような「無意味」な娯し みからは切れているでしょう。つまりそれは「ダンス」とはなんの関係も ない身体です。 しかしまた、「振り付け」と言い「振りをおぼえる」と言うように、 「フリ」というのはダンスの宿命でもあるわけです。じつはこの自己矛盾 こそが問題なのです。 ‥‥ということで、「いかにしてダンスから逸れつつダンスへと戻ること が出来るのか」を実験・実践しよう、というのがこのワークショップです。 僕は、今までにも演劇のワークショップで、俳優(の卵)を対象に「見た こともないダンスを発明する」という授業を試みてきました。彼等は、ま だほとんど演技や身体の訓練を積んでいないので、いわば「生(き)の身 体」の状態を持っている。そこで、ただいるだけでも「しなやかな身体」 です。それが「ぴょんぴょん飛び」をすれば、もうそれだけですごく生き きした「ダンス」になる。でもそれを「とりあえず人様に見せられるよ うに」と思って、ヘタに小細工して整えたりすると、もうその瞬間にダン ス的なものはこぼれ落ちてしまう。そこで、そのような「最初の状態」を どうやって維持しながら、「表現」に持っていけるか? が課題となるわけ です。 一方、「ダンサー」の場合はこの逆です。どうしたら、シロートの持つ 「素の身体」のしなやかさに戻れるか?そして、どうしたら、その「素の 身体」を、既に身についた技術につなげて「表現」に戻ることが出来るか? ということになるでしょう。それを僕や参加者のみんなと一緒に探ってい きましょう。自分の持っているものをいったん全部捨てる勇気、それさえ あれば大丈夫です。 (ワークショップ受講者募集のチラシより)
*「ダンス」とは何か?(世界の定説集より) *ダンス再入門〜迂回路を通って〜(ワークショップ参加者募集のチラシより) *何故批評家がワークショップを開くのか? *百メートルを三日で走る by 宮沢章夫