スティル/ムーヴィ

土方巽の「ダンス」について

桜井圭介

お話を始める前に、まず私自身のポジションを明確にしておきたいと思います。
私は(日本の)舞踏の専門家ではなく、むしろ西洋起源のダンスの批評家です。したがって舞踏を一貫してダンスのなかの1つとして見てきたわけです。もちろん舞踏は非常にユニークなダンスであることは間違いない。そこで、どうしても自分のなかで、ダンス一般と舞踏との関係をクリアにせざるを得ない。
かつて1994年に私は『西麻布ダンス教室』[註1]という「ダンス概説」の本を書きましたが、その中の舞踏に関する章(これは英訳され、舞踏家の和栗由起夫氏のCD-ROM『舞踏花伝』の中にも収録され、インターネットの私のウェブページにもアップされています)において、欧米のダンスと舞踏と、それぞれの抱くダンス概念の違いを考えました。そして、それはマラルメのダンス論とサルトルの『想像力の問題』に依拠しています。
今ここでくわしく述べる余裕はありませんので、かいつまんで申し上げます。
欧米において、ダンスとは「イメージ」すなわち「身体運動が空間に描く軌跡」であり、そのイメージを見るためには、ダンサーの身体という物質的なものが観客の目から消えなければならない。一方、舞踏は「身体」そのものをダンスとみなす。だから舞踏家はほとんど動かない。逆に欧米のダンスは、とりわけバレエなどは大きく動き回る。動かなければ身体の物質性は消えずイメージは出現しないから。この、ダンスにおける「身体の前景化」は舞踏以前にはイサドラ・ダンカンやルース・セント・デニスに萌芽が見られ、ニジンスキーにおおきな可能性があったが、彼はその途上で発狂した。そしてかなりの時を経て80年代ピナ・バウシュにおいて再び浮上した。しかしいずれにせよ、ついぞ欧米のダンスのメインストリームにはならなかったのである。
以上がその論旨です。この考え方はある程度は今でも有効なものだと思っていますが、いくつか大きな間違いを犯しています。その時の結論は、『舞踏、それはダンスというものの“運動から身体へ”の「コペルニクス的転回」である』といういささかおおげさなものでしたが、そこで言う「運動」とは、いうまでもなく「イメージとしての」という限定が必要でしょう。それに舞踏の「身体の物質性」を強調するあまり、舞踏が、あたかもまったく動かないダンス、あるいは「アンチダンス」であるかのようにみなされる危険を顧みませんでした。舞踏の動きは小さいのではなく微細なのである、というのが真実です。運動が大きい、運動の範囲が広い、ということは運動の量、密度が高いこととイコールではありません。逆に微細な運動のほうが運動性が高いのではないか、と。そして一番の問題は、そこでいう運動には「時間」という観点が欠落していたということです。
これからお話することはこうした自己反省にもとずいています。何故、かつての私はダンスにおける時間についての問題意識を欠いていたのか?それはひとつには、歴史的にみて、西洋近代のダンス芸術が一貫して視覚芸術ばかりをモデルとしてやってきたからかもしれない。音楽ではなく絵画、彫刻、建築をモデルとして、です。ダンスは空間芸術であるばかりではなく、時間芸術でもあるというのに。
そのもっとも端的な例がジョージ・バランシンのいわゆる「抽象バレエ」でしょう。バレエから意味や物語を取り去り、装飾的な動きを棄却したバランシンのダンスは、きわめて造形的であり「純粋な身体運動による空間デザイン」ということが出来るでしょう。彼の作品における「時間」とは、その幾何図形の線を順次引いていくためにあるかのようです。われわれが、数十分かけて踊られる舞台上の運動を継起的にたどっていくと、バランシン「デザイン」による精緻な壁紙を獲得できるというわけです。ここでは時間は展開図としての空間なのです。20世紀、ダンスにおいて、「19世紀的なるもの」即ち「バレエ」の乗り越えという一点を共有する様々なスタイル間の、ヘゲモニー闘争に勝利したのがバランシンであったのも、その「デザイン主義」ゆえでしょう。
しかし彼が幾何学的抽象をそれなりにモダンに、スマートにデザイン出来たのは、そもそもバレエというシステムがきわめて幾何学的法則によってできているからに他なりません。バランシンのダンスは、構造的な部分とりわけ空間と身体の関係はそっくりそのままバレエなのです。
バレエにおいて、舞台(床面)は8方位に分割され、各々に番号が付けられている。これは「便宜上」に止まらず、バレエという幾何学的システムの総体を規定する基本フレームです。バレエのポーズとパ、つまり8分割された床に直立する身体の運動は、身体の各部位の向き(8分角=45度単位)の組み合わせで作られます。つまり空間は見事なまでに身体運動を制御しているのです。ちょうど、遠近法が一枚のタブローの全てを規定しているように。逆に、身体運動の法則性が空間の様態を生むと考えても同じことです。「身体」も「運動」も「空間」も、方形と対角線そして内接する円(ピルエットの軌跡やジャンプの軌跡の放物線)に重ね合わすことが出来ます。このシステム内では、身体と空間はどこまで行ってもトートロジーなのです。遠近法が世界認識のひとつの方法であり、同時に世界観でもあるように、バレエのこの法則も、身体が空間を、すなわち主体が世界を、いかに分節化し、認識するかという命題の「解」であると考えられますが、同時に、そのような空間に在る身体、すなわちそうのような世界にある主体は、その「身のこなし」も厳格な礼節、規範に則ってなされなければならないのです。45度角未満の微妙な姿勢、曖昧な態度は許されない、ということです。
バレエ=バランシンのこうした幾何学的な空間デザイン(身体運動による空間トレース)は、建築におけるモダニズム、ル・コルビジェやM・F・ローエの箱型建築の、「均質な空間」「人体比例によるプロポーション」とアナロジカルに考えられるものです。
そしてバランシン以降、必ず語られるのは、バランシンの弟子とも言うべきマース・カニンガムの革新ですが、彼のいわゆる「非焦点化」つまり「空間の均質化」とはまさに空間デザイン的なイシュ−であり、いっぽう「時間」面ではどうかといえば、音楽への依存の拒否、偶然性の導入によって、時間的継起、展開が完全に廃棄されるに到った。つまりフラットにされた時間というのは、ほとんど「空間化された時間」ということを意味するのではないでしょうか?
さて、バラシンシンを経てカニンガムによって徹底されたバレエ的特性が、空間性、造型性、視覚性であるからには、ここでふたたびバレエに遡ってその本来的な非=運動性を見る必要があるでしょう。
バレエの一曲はパとポーズで出来ている。「パ」の起点や終点に使われる「ポーズ」(アラベスクとかアティテュードとか)はまさに静止状態ですが、よく考えるとひとつの「パ」というのもある意味ポーズの連結で出来ているのではないでしょうか?教則本のパの解説などをみても写真1と写真2と3・4とが示されている。つまりひとつのパとは、4つの姿勢へ順次移動することだとも言えます。その数も4個しかない。つまり音楽でいえばフレーズの長さが短い。というかフレーズを形成するために充分な長さがない。見る者にとってもひとつながりのフレーズという運動性より、ひとつひとつの形つまり「絵」が印象としては強く残る。
だからダメな振付ほど「ポーズをただ並べただけ」のものになるし、よく出来た振付(プティパなど)も「ポーズをうまく並べたもの」ということなのかもしれない。もちろん実際に踊られる場合には、写真1と2の間をどんなふうに繊細に踊るかによって優劣が決まる。すぐれたバレリーナによって舞台上で踊られるバレエは、たしかにいきいきした運動になっているが、それはバレエというシステムの素晴しさというより、バレリーナの天才によるものなのかもしれない。なぜなら教則本の写真に1と2の間がないということは、システムとしての「バレエ」には1と2の間はないということなのです。もしかしたら、これは単なる楽譜だから、便宜上の記述に過ぎないというかもしれない。ある意味ではそうだが、人がバレエをポーズに分解して理解できるということは、そもそも最初からひとはバレエを「ポーズ」単位でしか把握しないからなのではないかとも思うわけです。運動を静止した瞬間(ポーズ)の束と考えるからではないか?例えていえば、パラパラ・マンガのような。
もちろん、バレエからカニングハムにまでつらなる抽象ダンスの系譜以外にも、きわめて重要な流れがありました。それはドイツのM・ウイグマンやK・ヨースのノイエタンツ、マーサ・グラハムのアメリカン・モダン・ダンスなど、大雑把に言えば「ナラティヴ」なダンス、「表出的」なダンスです。しかし、それらは、目に見えない内面の感情や衝動を、形にして視覚化しなければならない。だから観客の目にもはっきりと見えるようにと、ことさらに造型的であろうと努めることになる。
つまりナラティヴと幾何学的抽象というふたつの潮流両者の関係も、ヴィジュアル・アートのモダニズムにおける抽象か具象かの対立同様に「みかけ上の対立」であったと言えます。いずれにおいても第一に留意されるのは空間における造型性、ヴィジュアリティである、ということです。そして、最も重要なポイントは、そのように時間のなかで造型性を強調する結果、運動に含まれるノイズ、ブレを可能な限り(四捨五入するように)消去して、クリアに、クリーンにしようとする傾向があるのではないか、ということです。しかし、そもそもわれわれの現実の時間において、運動はブレ(ノイズ)だらけです。つまり、ブレ、ノイズこそが、運動が運動であることの徴、「リアル」の徴なのではないでしょうか。
では舞踏の造型性を同じような仕方つまり時間の中で見てみましょう。なるほどたしかに舞踏の写真を見るとたいていは舞踏に特徴的なフォルムが写されています。それらは、胎児とか獣、歌舞伎の見得や写楽の浮世絵のような誇張されゆがめられた顔、といったイコノロジー的に読まれやすい絵かもしれない。しかし、それはいわゆる報道写真でいう「決定的瞬間」なのです。あえて、単なる「決定的瞬間」に過ぎない、といいましょう。たとえば、ふつうの顔の状態から非常にゆっくりとすこしずつ顔をゆがめて写楽の顔にもっていく。それをバレエのパのように考えると、解説写真は起点と終点の2枚だけということになりますが、それでは何の役にも立たないでしょう。
次にたとえば、舞踏のあるシークエンスをパラパラマンガで作る、あるいはアニメーションで作ると想像して下さい。きわめて短いシークエンスでも物凄く膨大なコマ数が必要になるはずです。1コマと次のコマの差はほんのすこしです。にもかかわらず間引きはできないのです。こう言ってもよい。ここではあらゆる瞬間が決定的瞬間なのだ、と。ここでわかるのは、ダンスはどこにあるのか、ということです。先の例でいえば真顔と写楽の顔という二つの瞬間の間全体、そのプロセス、その一瞬一瞬の総体なのです。それが時間、運動ということです。
もちろん舞台空間内の運動の軌跡もバランシンのように何か認識しうるはっきりとした形態にはなりません。バランシンのよくやるように、ある一定時間のなかでダンスが図形を、たとえば「渦巻き」を描くとしたらその軌跡にはひとつのディレクション(方向)があります。ところが、舞踏の場合は立ちすくんでいるかに見えて、一瞬ごとに「行きつ戻りつ」が、1ミリ単位で右往左往する「線」が描かれているはずです。そんなものは造型として図として認識できません。
ちなみに「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という土方の有名な言葉は、シンボリックに考えるとゾンビのような陳腐なイメージに堕してしまう危険がありますが、リテラルに考えれば、「立ちながら倒れる」ということ、二つ以上のディレクションへと向かう意識を同時に行使せよ、というような運動法則を言っているのだと思います。実際に土方の教えを受けたダンサー、彼のカンパニーの主要なダンサーであった小林嵯峨は、1つ1つの舞踏の型を踊る際に、上へ引っ張られる意識と重力に身を委ねる下への意識、前へ進む意識と後ろに引っ張られる意識を重ねて用いていることを語っています。相反する方向へ向かおうとする運動は相殺されて静止してしまうわけではなく、そこでは火花が散るような熾烈な「運動の闘争」が繰り広げられるのです。もっと簡単な例を言いますと、土方は「中気の老人の手ぼけ(手ぶれ)」というようなものを彼の語彙に取り入れました。これもあまりシンボリックに考えると、醜悪の美学とか、衰弱の美学といったクリシェに陥りますが、それは、すっと前へ手をだそうとするとき、テーブルのコップを掴もうとするとき、それに逆らう力を抱えた身体の運動に注目したわけです。
以上のような理由から、舞踏はそれを構造体として全体(=デザイン)を見渡すことは出来ません。それは認識すること、反省的意識でとらえることはできません、残されているのは瞬間瞬間をともに生きることだけです。
かくして、舞踏においてダンスとは、もはやその運動の軌跡をたどって再把握し得るような「イメージ」ではありません。アプリオリに措定されたイデアルな空間における、その空間の様態に規定された「イメージ」の表象再現(トレース)ではありません。舞踏においてダンスとは、見る者も共にそこに起る運動そのものつまり「出来事」を生きる場である、というまさにコペルニクス的転回がなされるのです。今回はこの言葉を使うことにためらいはありません。その転回は、イメージから非=イメージへ、デザインから非デザインへ、レトリックからエクリチュールへ、その全てを換言して「スティル(静止)からムーヴィ(運動)へ」の転回です。また、既に提出されていた「イメージから身体へ」を補強するために、「イメージからリアルへ」の展開という言い方も出来ます。
ここであらためて問うべきでしょう。西洋近代の芸術ダンスが、なぜ運動性を犠牲にしてまで造型性、視覚性を追求したのか?を。おそらくわれわれの近代とはあらゆる事象を“視覚的に”認識する時代だったのでしょう。「イメージ」からただちに「シンボル」が、シンボル的把握が形成されてしまう。つまり「見ること」から、「見えるもの」を「アイコン」として把握することから、ただちに読むこと=解釈することが形成されてしまう病といってもいいかもしれない。
ところが、我々が舞踏に接する時、舞踏というひとつの時間、ひとつの運動を生きる時、このやっかいな連鎖もきわめて自然に断たれるはずです。それでも、われわれの頑固な「習い性」が頭をもたげ、それを読もうとして、解釈しようとして、明確な一枚のイメージを得ようとすれば、プレイの最中にビデオをポーズしなければならない。もちろん運動は死にます。このダンス、この運動を、十全に感受するためには我々観客のほうも、視覚における「非=知」の貫徹が必要なのです。

さて、今日のテーマについていうべきことはこれでだいたい終っているのですが、最後に1つ。論点をクリアにするために、ことさらに図式的にあつかいましたが、この「舞踏とバレエやモダンダンスの比較」を「東洋と西洋の対立、そして東洋の優位」というふうには理解しないでいただきたいのです。これはひとつの「近代批判」なのです。我々自身の近代への批判です。
ここで、皆さんに告白しなければならないことがあります。今日の私の舞踏に関する分析は、実を言えばそのかなりの部分がW・フォーサイスに関する記述としてすでに発表したものを転用したものです。80年代後半から90年代にかけてフォーサイスが展開した仕事は、1970年代前半に土方が提示したものときわめて近い身体運動を舞台上に出現させたのです、しかも、まったく影響関係がないところで、まったく違うアプローチで。それは、そう、「運動性」の回復です。発見ではなく回復です。
もっとも、それは西洋近代においても、実はいたるところに存在していたとも言えます。ただ、それは劇場で踊られるのではなく、街なかで踊られていた。ダンスホールや体育館のパーティ、ディスコ、ストリートで。大衆のダンス、見せるためではなく自分自身の楽しみのためのダンス。すべてのダンスという行為に本来的、潜在的にそなわっているはずの運動性に対する私の認識は、舞踏やフォーサイスによって明確になっていったのですが、直感としては、そのはるか以前に、自分がディスコで踊ることから得ていたのです。長い間ハイ・アートとしてのダンスがロウ・カルチャーのもっているそれを抑圧していたことは間違いありません。造型性の優位も、本来ダンスは自らが踊るものであるはずなのに、人に見せることを目的としたことに起因するわけです。そして芸術としてのダンスが、いかに運動性を奪還するか、それをやったのが土方とフォーサイスなのです。
ここまでくれば今はもうこう言ってもいいかもしれません−−土方のあの痙攣するようなダンスは、まさに、私がディスコで踊る自己流のダンスが、他人から見れば形をなしていない、ということと同じ意味で、形になっていない。視覚はそれをフォームとして認めたがらない。しかしそれこそが純粋な運動性のなかに身をおいていることの証しなのだ、と。

(本稿は2001年 10月にローマ大学で行われたシンポジウム「Return to HIJIKATA」における発表原稿に若干の修正を加えたものです。)

copyright (C) by Keisuke Sakurai


[1]『西麻布ダンス教室』(白水社刊)第三章「ブトーと日本の身体たち」
和栗由起夫『舞踏花伝』(アスキー刊)
"The Body as Dance --an introduction to the study of butoh-ology"("Dance Seminer at nishiazabu" chapter 3)

[2] 「デザイン主義批判(序)」(『PT』第7号/れんが書房刊)
また、「Mr.Bean 最高!」(『早稲田文学』98年5月号)の土方に関する記述も転用した。
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