His Diary

 

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「カンボジアからやってきたワンディ」
新潮社刊 1,400円

  

Sail Up Time
時を遡る旅

カンボジアで生まれたワンディは、
混乱の大地から家族とともに、
日本に逃れてきた。
そして20年の歳月が流れ、
彼はさまざまな思いが残る故郷へと旅立つ。
日本で知り合った私と一緒に。
タイ、カンボジア、ベトナム・・・。
20年前、時代に翻弄されながら刻まれた
ワンディと家族の軌跡。
その軌跡を辿る旅は、
ワンディにとっても、そして私にとっても、
時を遡っていくことになった。
源へ向かって
ゆったりと流れるあの川のように。


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2003年3月17日(月)        炎が地球を巡る

 

 

雨に濡れた路面。
そこに揺らめく暖色がうつっている。
いくつも、いくつも。

16日の19時。
日曜日の夜、世界中である試みが行なわれた。
『Global Candlelight Vigil for Peace』
日付変更線のある南太平洋の島に、
16日の19時は訪れる。
人びとは蝋燭に炎を灯し、
戦争に抗議して、平和を願う。
世界には時差がある。
次々とその時は地上にやってくる。
そして、その炎は、地球の自転とともに、
世界を駆け巡る。

この試みを池澤さんの15日に届いたメールマガジン「新世紀へようこそ」で読んだとき、
とっさに宇宙から見下ろした地球に繋がっていく炎の輪を想い描いた。
そして、心が動いた。
連日届けられるマスコミの報道などを見ていて、
世界の流れていく方向に危機感や怒りや哀しみを抱いていたのは確かだ。
でも、その流れがあまりにも巨大すぎて、
日常の中で、実際にどうしていいのかわからず、
ただ傍観しているしかなかった。
しかし、蝋燭を灯して、平和を祈る。
それが物言わぬ抗議行動になるということを知った時、
僕は参加したいと思った。

明治神宮の入り口の原宿の駅の横の橋の上。
この場所は海外の観光客にも知られている場所。
いつもは、先鋭的なファッションでおどろおどろしい格好をした若者たちの集まる場所だ。
小雨が降っていたため、
僕が18時半過ぎに着いた時は、
そういう若者はいなくて、
傘をさして、静かに佇む人たちがいた。
グループで来ている人、カップルで来ている人、
でも、結構、僕のようにひとりで来ている人も多かった。
雨の中、傘をさして、黙ってその時を待つ。
見知らぬもの同士だけれど、
なんとなく、安らぐ感じ。
15分ほど前から、誰からともなく蝋燭を灯しだした。
ひとりが灯しだすと、まわりの人びとが次々と自分が持参した蝋燭を灯しだす。
僕も持参した蜜蝋を灯した。
グラスに水を入れて蝋燭を浮かべている人、
大きな蝋燭でそのまま手に持つ人。
色彩豊かな蝋燭を抱える少女。
サイトの助言のように、
紙コップの中に蝋燭を入れて風よけにしている人が多かった。
外国の人の姿も多かった。

そして迎えた19時。
黙したままじっと炎を見る。
その時を早く迎えた南太平洋やニュージーランドやオーストラリアから届けられた炎の想いを、
今、引き継いだ。
幻想的な光の中で、
イラクの人びとのことを考え、
繋いでいく世界の人たちのことを想像する。
揺らめく炎は、雨で凍える手にぬくもりをあたえてくれる。
いい時間だった。
どこからともなく、静かなメロディーが聞こえてくる。
まるで賛美歌のよう。
くりかえされるフレーズ。
♪All we are saying is give peace a chance
ジョンレノンの『Give Peace a Chance』の一節だ。
炎とともにそのフレーズが心に沁みてくる。

300人くらいは集まっただろうか。
傘をさしていたので、
その傘が光を反射して、
あたりをさらに幻想的な空間にしていた。
小一時間くらい、その場所に蝋燭を持って佇み、
最後に表参道を20分くらい蝋燭を持って行進した。
再び同じ場所に戻って、
最後に「イマジン」を静かに合唱した。
そして、ひとつの場所に集まった炎は次第に散っていった。

声高ではない、静かな抗議。
そして、その想いは、炎の輪とともに、次の場所へと伝わっていったことだろう。
今ごろは、地球のどのあたりを炎は渡っているのだろう。
そんなことを想像するだけで、
あの炎の揺らめきのように心がホッとあたたくなるのだ。

Global Candlelight Vigil for Peaceのサイトで、
世界中の16日19時の模様が写真で見られます。
登録されているだけで、140の国で行なわれたようです。
明治神宮の模様もアップされています。

http://www.moveon.org/vigil/

 


 

 

 

2003年3月10日(月)        ああ、春だなぁ

 

 

花粉お見舞い申し上げます。

 

まぁ、自分が花粉症なもんだから、
最近、メールの冒頭などによく使う挨拶。
時節の挨拶というものは、
時とともに変化していくものだろうか。
たとえば20年前だったら、
花粉症もそんなに一般化していなかったから、
そんなこと挨拶されても、
チンプンカンプンの人が多かったことだろう。
とはいっても、30数年来、花粉症を患っている身としては、
世間に認知されても、症状が軽くなるわけではないので、
どっちでもいいのだが……。
それでも、なんとなく花粉症の人が増えてくると、
仲間意識が芽生えるものである。
花粉症持ちでちょっと話題の
立体型のマスクをしている人を見ると、
『辛いですよねぇ』と声をかけたくなるものだ。
(この立体型のマスクを作っている会社がユニ・チャームだというから、
その優れ度は、花粉症に無縁の人にも想像できるだろう)

僕の場合、最初に春を感じるのは、
目と鼻と喉の器官が集まる頭の内部のあたり。
なんとなく痛痒く重い感じ。
『ああ、春だなぁ』
というこの呟きのトーンは、
明るく華やいだ『あぁ! 春だなぁ!!』ではない。
それでもやはり僕も人間という動物。
生命維持機能としての本能はあるようで、
辛い花粉の季節でも、
やっぱり温もってくる春は嬉しいものなのだ。

『あぁ! 春だなぁ!!』の方のトーンで、
最近、感じた春とは……。
スーパーのイチゴの1パックの値段が398円という表示を見た時だ。
悲しいかな300円台に突入すると、
躊躇なく購入意欲がわくのである。
ここで問題がひとつ。
本来のイチゴの味を楽しむのならば、
ビタミン豊富で健康的なのだが、
1パックに練乳チューブを半分も使ってしまうという、
僕流の春の使者の楽しみ方は、
どんなもんだろう。
でも……。
やめられない。

甘党にはたまらない春である。

 


 

 

2003年2月12日(水)        飛梅

 

 

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 
あるじなしとて 春な忘れそ

20数年ぶりで太宰府の天満宮へ行ってきた。
心字池にかかる3つの赤い橋を渡りながら、
ふと古い歌を思い出した。
太宰府天満宮に訪れた若いカップルの
仄かな恋心を歌った、なつかしい歌。
不思議なもので、歌詞とメロディーが次々と蘇ってくる。
その歌詞の中に出てくるように、
おみくじを引いたら……なんと「大吉」
しかも第1番のおみくじ。
菅原道真公の、あの有名な歌が書かれている究極の大吉だった。

道真公を慕って飛んできたという飛梅は、
折しも満開の時期だった。
その白い可憐な風情を楽しみながら、
再びあのメロディーが浮かんでくる。
飛梅のようにあなたのもとへと飛んで行くと誓ったのに、
恋はやがて終りを告げる。
そんなせつない歌詞だった。
まったく忘れていた歌詞が、
堰を切ったように、頭の中に溢れてくる。
なつかしさとともに、その曲を聞いていた頃の日々も蘇ってくる。

東京に戻って、九州に行く前に泊まった長野県の宿から連絡が入っていた。
眼鏡をお忘れではありませんか……と。
実は、数日前から眼鏡がなくなって困っていた。
普段はコンタクトをしているが、夜は外す。
僕の視力は0.1ない。
裸眼では、視力計測表の一番上が見えないのだ。
だから僕にとってその眼鏡は必需品なのだが、
コンタクトを外してそのまま寝てしまうこともあるので、
どこで眼鏡をなくしたのかわからない状態だった。
長野県の取材の時に泊まった宿に置き忘れていたのである。

失せ物……「近くにあり 出る」

この究極の大吉の威力は、
かなり効き目があるらしい。
今、宝くじを買ったら、当たるかも!
そんな不謹慎なことを考えながら、
もう一度、運勢を読んでみる。

運勢……「華やかなる運気です…(略)…すべてが好調になってきます」
わわわ。誉めすぎって感じ。
しかしながら、最後の一行。

「……はしゃぎ過ぎては、運勢を損なうことにもなりません」
トホホ。
やっぱり。
本厄の今年。
おとなしくしているのが無難なようである。


 

 

2003年1月24日(木)        いつもの風景が

 

 

ここ数日、安曇野でのスピティ展が終り、
撤収のために帰省してた。
北アルプスの峰々もそして地上も、
白銀の世界で、それは幻想的な眺めであった。

東京に戻る「特急あずさ」でのこと。
地球規模の温暖化のためか、
すっかり姿を消していた
諏訪湖の御神渡り(おみわたり)が、
5年ぶりに出現したというので、
諏訪湖の見える側に陣取り、
松本盆地から峠をひとつ越えるためにトンネルを抜けて、
諏訪盆地に入るあたりから、
ずっと湖面を気にしつつ、
車窓の風景に見入っていた。
御神渡りとは、
湖面に張った氷が、寒暖差で収縮、膨張して起こる自然現象で、
鞍状にひとつの道のように盛り上がる現象。
諏訪湖では「神の通り道」と言い伝えられているものだ。
車窓からは、集落の先に結氷した諏訪湖の姿が見え隠れする。
しかし、湖面を凝視しても、見えるのは真っ白い湖面だけ。
それもそのはず、盛り上がっているのは50センチほどだという。
電車の中から確認できるわけが、ない。

とその時、湖面の先に馴染みのある山のシルエットが。
前衛の山で完璧には裾野の方までは見えないが、
すり鉢を逆さまにしたような、
形のよい……。
そう、富士山に似ている。
でも、諏訪湖と富士山の間には、鳳凰三山や甲斐駒ケ岳などの南アルプスが立ちはだかっているはず。
諏訪湖から見えるわけがないから、
よく日本各地で「●●富士」とか地元で呼ばれている、富士山に似ている山に違いないと思った。
諏訪盆地を過ぎ、八ヶ岳と南アルプスの間を抜ける峠をひとつ越えると
そこは山梨県。
すると……。
富士山が見えてくる。
これはいつものことである。
長野県側の県境の町の名前も「富士見」だから、
ここから富士山が見えるのは、前から知っていた。
でも、そこからの富士の形、
諏訪湖の先に見えた富士山もどきに、そっくりなのだ。
そこではじめて、
もしかしたら諏訪湖から富士山が見えるのでは、
という気がしてきたのだ。

東京に戻って、さっそくインターネット検索で調べる。
すると、やっぱりありました。
諏訪湖から、富士山が見えるのである。
証拠写真は以下のサイト。
http://www.gochomuseum.net/photo/fuji/fuji1.html
冬のわずかな日にしか見えないようだ。

「あずさ2号」の歌が流行った時は、確か中学生。
それ以前から、東京へ行くときは、ほとんど「特急あずさ」を利用していた。
東京で住みはじめてからも、帰省するたびに、乗っている。
数えきれないほど諏訪湖の同じ風景を通過しているはずなのだが、
富士山を見たのは、はじめてだったということになる。
ささやかではあるが、
新しい発見。
いつもの風景が違って見える。
なんだか得をしたような気分である。

 


 

 

 

2003年1月6日(月)        儚き

 

・・・・・

この度、八ヶ岳山麓にログハウスをつくり、
移住することにいたしました。

・・・・・

実は、こんな案内を今年は出そうかと、
密かにたくらんでいたのだが、
案の定、儚き夢は、あっけなく破れた。
そう、はじめて買った『年末ドリームジャンボ』は、みごとにかすりもしなかった。
そりゃ、たったの3000円ぽっちで、しかも連番10枚では、
当たらないのがあたりまえだ。
頭では、わかっている。
だからこそ、40歳になるこの年まで、
1度も宝くじというものを買ったことがなかった。
しかし今年は、『買わなきゃ、当たらない』と悪友に言われ、
試しに連番10枚だけを買ってみたのだ。

ところがである。
買ってからの数週間。
ふわっとした夢の形がじわじわと現実を帯びてくるから不思議だ。
しかも、その夢は、3億円が当たったということしか想像しないのだ。
10万円どころか、5000万円だって、端た金のように思えてくる。
『まぁ、2等の1億円だったら許すか』・・・てな具合。
普段、お金に縁がないせいか、
金額が大きすぎて、意識の外にその数字はあるらしい。
馬鹿である。
どうしようもない。

結局当たったのは、必ず10枚買えば当たる5等の300円のみ。
(この300円、みんなちゃんと換金しているのだろうか)
3億円が一挙に、300円である。
飽きれて、ただ笑うしかない。
でも、ものは考えようだ。
3000円で夢を数週間も見られたと思えば、
それも良し。
地道にこつこつ。
う〜む。
強がりに聞こえるなぁ。

宝くじをすすめた悪友曰く、
『夢を先延ばしにしたと思えば、いいんだ』
なるほど。
そうやって、みんな宝くじにはまっていくのだろうなぁ。
ハズレ券とともに、
いろんな夢が、そこらじゅうに転がって、
はじけて消える。
お金に左右されない夢を育んでいきたいもんである。


 

 

2002年12月17日(火)        アリバイ

 

本日、15時過ぎに原稿をひとつ書き終えて、
メールで送ったので、
ご褒美にと、駒沢公園までロングランに行った。
家から裏道をずっと通って、下北沢をかすめて
三軒茶屋を突っ切って、246号を駒沢公園まで行き、
公園内を2周して、今度は、駒沢通りを中目黒まで行って、
目黒川沿いを通り、池尻大橋から裏道を抜け、
駒場野公園を突っ切って、
僕が名付けた花水木通りを抜け、家に戻ってくるという
馴染みの23キロのコース。
快晴であったが、風が強く、結構寒かった。
駒沢公園に着いた頃が、まさに空が焼けている頃で、
寒さも忘れて気持ちよく走った。

キロ5分くらいの負担のないペースなので、
走ることに次第に無意識なり、
いろんなことを考えながら足を前に出していた。
駒沢公園を周回している時に、
考えていたことといえば、
「今、この瞬間に、僕のアリバイって、誰か証明してくれるかなぁ」
っていうへんなもの。
実は、今年に入ってから、結構、『宮部みゆき』にはまっていた。
元来、直木賞作家ものとか、ベストセラーものとかは、
敢えて読もうとしないのだが、
ある友人にすすめられて、宮部みゆきを一冊、読んだら、
これがまた面白い。
人物描写や情景描写が、いい。
推理小説だけでなくホラーや江戸モノまで、
すっかりはまってしまい、
この1年で、出ている本はすべて読破してしまったほど。
まぁ、そんなわけで、『アリバイ』なんて物騒な言葉が頭に浮かんだわけだ。

フリーで仕事をしていると、
毎日会社に行くわけでもないし、
どこで何をやっているかわからない。
おまけに携帯電話も持たず、
唯一の連絡手段である電話が留守電だった場合、
誰も僕が、この瞬間にどこにいるかを証明できないということになる。

2時間ほどで、家に戻ってから悪友の一人にそのことを電話で話したら、
「ははは。大丈夫、おまえは、なんていったって『チョビヒゲ地蔵』だからな!」
トホホ。
チョビヒゲ地蔵とは・・・・
先日の安曇野の時に、はじめてお会いした読者の方から感想のメールの中で、
「謝さんって、チョビヒゲ地蔵様のようですね!」
という一文があったのだぁ。
そのことを悪友たちに話したら、オオウケ。
そんなへんな時間に、色の真っ黒なチョビヒゲ地蔵が汗をかきかき走っていたら、
きっと誰かが覚えているはずだと、彼は言うのであります。
まぁ、確かにそうかなぁ。

この『チョビヒゲ地蔵』。
自分の気持ちを正直に分析してみると、
結構、気に入っているかもしれない。
ワンディの次は、『チョビヒゲ地蔵』が主人公の童話を書いたりして……。

 


 

 

2002年12月1日(日)        まっさらな手帳

 

師走になるとやることがある。
それは、システム手帳の中身を来年度版にするのだ。
なぜ、新年になってからやらないのかと言うと、
フリーランスの仕事なので、
3ヶ月先くらいの予定が、突然知りたくなるのだ。
来年度版は、前年度の12月分も必ずあるので、
12月になったら、入れ替えるようにしているというわけ。

学生時代にはじめて手に入れたシステム手帳は、
そういえば大型だった。
その1代目から、ミニ六穴の2代目になって、
現在は、同じミニ六穴の3代目。
肌触りがすごく気に入っていて、
かれこれ3年近く使っている。
1代目がSAZABYだったので、
それ以来、中身はずっとSAZABYを使っている。
入れ替えるのは、見開きでひと月分になっているマンスリー手帳と、
片ページで1週間の、ウイークリー手帳。
もう20年近く、入れ替えた手帳は1年ごとに保存してある。
とはいっても、どこにあるかは定かではないのだが・・・。  
捨てていないのだから、きっとどこかにあるはず。

入れ替える時は、今年の書き込んだ文字が飛び込んでくる。
自然と今年のことを振り返る機会になるというわけだ。
それにしても、今年のことでさえ、
あまり覚えていないとは、
どういうことだろうか。
歳を重ねるごとに、時間が早く過ぎるとよく言うが、
過去を忘れることにも加速がついているような気がする。
きっと頭が飽和状態なんだろうなぁ。
脳細胞がどんどん死んでいく。
トホホ。

手帳を見返していると、
今年は、海外に行く機会がグッと減ったのに気がついた。
そのかわりに、国内はあっちこっち飛び回った。
歳とともに、次第に国内が面白くなってきているのも事実。
とはいっても、海外へ行きたくないわけではないのだが。
実は、今週もタイに仕事へ行くかもしれなかった。
あるイベントの取材だったのだが、
テロの関係で、人の多く集まるイベントは危険が伴うので、
編集部とも相談して、無理をする必要もないと判断。
それで日本にいるというわけだ。
世界の大きな流れは、知らず知らずのうちに、
押し寄せてくるものだ。

タイにいるはずだった本日は、
ポッカリ時間が空いたので、
来年度の年賀状でも考えるかと、
いろいろと思案した。
ここ数年、スピティがらみの年賀状で、
カメラマンの丸山さんや三原さんの写真を使わせてもらった。
強い味方の2人のお陰で、
あまり考えあぐねるということはなかった。
しかし今年は、かなり迷った。
なかなか思いつかないものだ。
ビジュアル的な素材がないのだ。
そこが物書き稼業のつらいところ。

デジカメであるモノを撮影することを思いついた。
(安曇野の展示会のお陰です)
何パターンか自己流で撮ってみた後、
その写真を丸山さんにメールで添付して送って、
ご指導をいただいた。
持つべきものは、近しい物撮りの大御所。
役得。役得。
てんで機械系は苦手なくせに、
やっていると、結構はまる性格らしい。 
本日、ほぼ一日つぶして、
やっとのことで素材確保。
明日、印刷屋に行くつもり。

去年の手帳によると、
12月1日は、那覇マラソン前夜、僕は沖縄にいたらしい。
そして今日、
まっさらな手帳に、
年賀状の制作・・・と書き込んだ。
来年の12月1日には、何をしているのやら。

 


 

 

2002年11月6日(水)        生まれた場所

 

 

先日の連休は、長野県に行っていた。
ちょうど紅葉が真っ盛り。
とはいっても、初雪が早く降ったり、
急に冷え込んだためか、
例年よりも葉が紅く色づいていないとか。
そのかわり、カラマツの黄葉はそれはすばらしかった。
山ごと黄色に染まっている。
そのカラマツの林の中を、
早朝ひとりで歩く機会があった。
『サラサラ、サラサラ』
風が吹くたびに、
カラマツの細い葉が落ちてくる音だ。
しんとした森の中に、響いてくる。
風が人格を持っていて、
わざとカラマツの葉を落とすのを楽しんでいるかのようだ。
さらに登っていくと、一瞬にして景色が変わった。
同じカラマツ林なのに、
見上げると、真っ白。
霧氷がついているのだ。
朝の光で、清冽に輝いている。
霧氷の林を抜け、ちょっと登ると里山の頂上に出た。
誰もいないその頂上からは、飛び交う雲海が見えた。
雲の下には北アルプスの秀峰が隠れているはずだ。
反対側を見下ろせば、山間に広がる盆地が広がっていた。
そこだけ晴れているので、日の光が当たって、
靄の薄衣が大地にふんわりとのっかっているように、
幻想的な空間を創りだしている。 
僕の生まれた場所。
なんだか誇らしい気分になった。

前の日記の『ピン留め』には、思わぬ反響がありました。
メールをありがとうございました。
どうも、『ピン留め』というのは、正確な名称ではなく、
『パッチン留め』というのが正しいようです。
最近では、銀色だけでなく、ファッションセンス豊かにさまざまな色が楽しめるとか。
『今、パソコンを使っている時に留めています』・・・・
というようなご意見、多数。
イケテナイなどと、書いたこと深くお詫びいたす次第でございます(笑)。

 


 

 

 

2002年10月29日(火)        ・・・のような

 

 

最近、なつかしい言葉が頭の中を過った。
・・・『ピン留め』。
銀色のもので、髪の毛を挟んでパチンと留めるやつ。
正式な名前はわからないが、
僕の記憶の中では、『ピン留め』って呼んでいたように思う。
幼稚園とか小学生の頃、
その『ピン留め』をつけている女の子が、
やけに可愛らしく思えたものである。
最近見かけなくなったが、
今も使うことがあるのだろうか。
少なくとも、街を歩いている限りでは、
銀色の『ピン留め』をつけている女性は見かけない。
今、あれをつけて街を歩いているとしたら、
ヘヤカラーを巻いたオバサンに匹敵するほど、イケテナイカ、
かなり先鋭的なファッションということになるのだろうか。

女性の流行ファッションが気になって、
『ピン留め』のことを思い出したならば、いいのだが・・・。
実は、全然関係ないところで、僕はこの『ピン留め』を思い起こしたのだ。
最近、寝ていて寝返りなんかをうつ時に、
腰が、コリコリって、鳴って、
そのあたりの筋肉だとかが、片一方にひっつくような、
そんな感じがする。
うまく説明できないのだが、
その時に、感じたのが、
「僕の腰って、『ピン留め』のようだ」と思ったのだ。
パチンって、まんなかで折れて、反対側にくっつく。
これって、ギックリ腰の予兆だろうか。

あるカメラマンと、海外に取材にいった時のこと。
お互いに腰痛持ちだということがわかり、
仕事が終ると毎夜のように、いつの間にか腰痛談義になっていた。
(これって、病気自慢するオヤジ化現象の一種です)
カメラマンからは、『ギックリ腰』になった時の体験談を
その時にさんざん聞かされた。
どうも、1度ギックリ腰になると、
線のようなものがついてしまうため、
そこが癖になって、再発しやすいようだ。
そのカメラマンの場合は重症のようで、
幾度となくギックリ腰になり、
1週間も身動きがとれなくなるという。

その時の話の印象が、僕の頭の中に残っているのだろう。
『・・・のような』という喩えは、
万人に理解されてこそ意味があるのかもしれないが、
今の僕の腰の状態は、
『ピン留めのような』以上にぴったりくる喩えはないのである。

どうか、ギックリ腰にはなりませんように。

 


 

 

2002年10月7日(月)        ろうそくの炎

 

 

9月いっぱいで隣の人が引っ越した。
ただ今、隣は改装工事中なのだが、
業者の人が来ているついでにと、
僕の部屋まで、くたびれたところを直してくれている。
思えばこの場所に引っ越してきて7年半。
壁紙も破れてきたし、ガラスにもヒビが入ってしまっていた。
築10年くらいだと思うが、
少しずつガタが来ているのだ。
僕だって同じ。
引っ越した時の歳は、33歳だったということになる。
そうとうガタが来ているはずだ。
それにしても親切な大家さんで、ありがたい。

思えばこんなに長く住むつもりではなかった。
それだけこの場所が居心地がいいということもある。
もちろん莫大な家賃を払えば、
居心地の良い空間は、都内には無数にあるだろう。
でも、とても合理的な家賃のくせに、
すばらしい展望が開けているこの部屋は、
本当にめっけもののような気がする。
(その分、狭いとか収納が少ないとか難点はいろいろあるが)
大家さんも良い方だし、
それでなかなか引っ越せないのだ。

ところがである。
ここ数年、少しずつ遠くの視界の中に高層マンションが建ってきた。
外苑の花火も半分しか見えなくなった。
そして今・・・嫌な予感がしている。
実は、自慢の東京タワーの手前に赤いクレーンがみえているのだ。
そう、あのビル工事の時にビルの上に置かれているクレーン。
すでに東京タワーの腰の部分(第1展望台?)のところまで建設中のビルがきている。

冬になると、ろうそくの炎のように
寒々とした都会の夜を温めてくれていた東京タワーの光。
今年の冬は、この部屋からは見ることができないのかもしれない。

来年の2月で4回めの更新時期が来る。
ろうそくの炎が灯らない空をみながら、
僕は、どんな結論を出すのかなぁ。

・・・・・・・・

駄々について、引き続きたくさんのメールをありがとうございました。
やはりこの駄という字が気になるので、
図書館いくつかの漢和辞典で調べました。

 ダ 
解字 太が音を表し、かさねくわえる意の語源(多)からきている。馬に荷を負わせる意。
字意 1  のせる。おわせる。馬に荷を背負わせる。
   2 馬の背に負った荷物。
   3 馬の背におわせた荷物の数をかぞえる言葉。
   4 はきもの。 (下駄。雪駄。足駄)
   5 名詞の上につけて、そまつで劣っている意味を表す。

 

結局、駄々ってなんなんだろうという疑問は、
明確な結論が出ないまま、
迷宮入りに、なりそうです。

 


 

 

2002年9月13日(金)        もどかしい光

 

 

昨晩は、下北沢で飯を食った。
小田急線で僕の家まで、2駅半なのだが、
なんだか歩きたい気分で、
薄暗い住宅街を抜けて、
ゆっくりでも足早でもない速度で歩いた。

もう秋の予感。
不安定な天候のせいか、
時折、強い風が吹く。
その風が涼しくて、心地よい。
月が雲の奥に隠れているのだろう。
空はボーと薄明るくて、
ちょっと幻想的。
月とは反対側の空の雲は、
どうも雷雲みたいで、
稲光が時折して、
とはいっても音がするような強烈なものではなくって、
稲妻自体が雲の中に温存して、
外にエネルギーが放出できなくて、
篭った光を放っている。
思いきり外に飛び出せないモヤモヤの塊。
内含するエネルギーをどこに持っていっていいかわからないような、
そんなもどかしさ。

釜石から戻ってきたら、
『駄々』に関するメールがたくさん届いていました。
ありがとうございます。

『駄々』はどうも擬声語とか、当て字とかのようだ。
なにか特別に限定するようなモノとかをあらわす名詞では、ないらしい。

他には、こんな説もあるという。
●「じだんだ(地団駄)」の音変化。
●『地団駄』の『駄』を二つ重ねて、だだ(駄駄)になった。
●「嫌だ嫌だ」の略

う〜む。
当て字といってしまえばそれまでだが、
イマイチ納得がいかないのは、なぜだろう?
確かに『地団駄』の『駄』っていうのも、
とってもあやしい。
そこで、再び取り出す広辞苑。

じだんだ【地団駄・地団太】
ジタタラの転 タタラに同じ

タタラって、
もしかしたらフイゴ(鞴)のこと?
またまた広辞苑。

たたら【踏鞴】
足で踏んで空気を吹き送る大きなふいご。地踏鞴。

やっぱり。
そんでもって、
その【踏鞴】の隣にまた目がいっちゃったんだよなぁ。

だだらあそび【駄駄羅遊】
遊里で金銭を浪費する遊興。転じて無意味な遊び。

またまたでてきた、『駄』がふたつ。
あああ、もう、わかんな〜い。

そういえば、無駄の『駄』は、この『駄』だった。
当て字ならば、この文字を使った人は、すごい。

こんなことに悩んでいる僕は、
かなり無駄な時間を浪費したのかもしれない。

 


 

 

2002年9月5日(木)        またまたのお騒がせ

 

 

何気なく使っている言葉に、
突然ひっかかることがある。
とある友人と3歳児になる彼の息子の話になった。
「最近、だだをこねることを覚えてね」
「自己主張するようになった証拠じゃないか?」
な〜んて無責任な発言をして、
別の話題に展開していったのだが、
ぬぬぬ。
この『だだをこねる』の『だだ』ってなんだ?
気になりだすと、ひっかかってしまう性格らしい。
西京焼きの時も、キューピーの時もそうだった。
(過去の日記を参照してください)
この手の知っていそうで知らない常識の蘊蓄は、
マクドナルドのコーヒーの底に書いてあるに違いない。
でも、『だだ』が出てくるまでマックに通い、
コーヒーを飲み続けるわけにもいかないので、
さっそく広辞苑を調べてみる。

・・・・・・・・・・・・

だだ【駄々】

子供が甘えてわがままを言うこと。むずかること。すねること。

・・・・・・・・・・・・

 

これじゃ、意味がまんま、じゃん。
僕の予想では、何かこねにくい固いもの(食材とか、建築用材とか)、
そういう『だだ』という物質があるのかと思った。

どうもピンとこないので、
次の項目に目をずらす。

.・・・・・・・・・・・・・

ダダ【Dada】

ダダイズム。第1次世界大戦の終り頃スイス・ドイツ・フランスに起こった芸術上の主張。
伝統的審美観に対して極端な反抗を試み、絵画・音楽・舞踊・詩歌などの限界を意識的に破壊しようとした。

・・・・・・・・・・・・・

うむ。
これ、あやしいかも。
『だだ』ってここから来た言葉なのかなぁ。
通っている広尾図書館で百科事典を調べてみた。
そうしたら、【Dada】は、フランス語の幼児語で、『お馬』という意味なんだそうだ。
その運動を興した芸術家が、たまたま辞書を見ていて、その言葉を使ったのだそうだ。
広辞苑にあった【駄々】も馬偏だ。
ますますあやしい。

もしそうなら、第1次大戦前は、『だだをこねる』という表現はなかったことになる。
ホントかなぁ。

みなさん、どう思います?
誰が、ご存知の方、メールください。
またまたお騒がせで、すいません。


 

 

2002年8月19日(月)        同じ名前

 

 

いつの間にか盛夏から立秋を過ぎ、
あれほど暑かった東京も、
朝晩は、だいぶ涼しくなっている。
今は、台風が近づいているから、
さらに過ごしやすいようだ。

北海道と大阪へ、
一泊ずつの日帰りに近い地方取材はあったけれど、
ひと夏、ほぼずっと東京にいるのは、
何年ぶりのことだろうか。
・・・と改めて過去を辿ってみると。
学生の頃は、帰省しているか、探検部で海外遠征に行っていたし、
卒業後は、放浪の旅の途中か、
必ず添乗の仕事で海外だったし、
ここ数年は、スピティへ行っていたり、
去年は、ワンディとカンボジアへ行っていた。
となると、なんと生まれてはじめてかもしれない。

じっとしているだけで汗が吹き出てくる、東京の夏。
東南アジアとかの暑さとも、ひと味違う感じがする。
まったりとした暑さとでもいえばいいのだろうか。
人工的な暑さは、逃げ場がない。

そんな暑さの中、僕は何をしていたかというと。
ずっと仕事だった。
それもかなり原稿が詰まっていた。
今日やっとメドがついて、
この日記を書いている。
東京にいる間は、いつものごとく広尾図書館に通ったりしていた。
その忙しさの中でも、外苑の半分しか見えない花火はみたし、
スイカも食べたし、かき氷も食べたし、プールにも行った(これは冬でもか)。
それなりに夏を満喫した。

最近、ある若い女性のインタビュー記事を書く仕事があった。
ウインド・サーフィンをする女性で、
大会にも出ているという。
インタビュー記事は、その時の質問の善し悪しで決まる。
だから前もって、その人のことをどれくらい知っているかということが
結構、重要なポイントになる。
しかし、よっぽど有名人でないかぎり、
その人の資料がばっちり揃っていることは少ない。
最近は、インターネットというものがあるので、
そういう場合は、YAHOOで検索してみる。
彼女の名前をインプットすると。
でるわ、でるわ、100件近い。

トップにヒットしたのが、唐十郎の劇団の劇団員の女優。
その後が、テニスの選手、バトミントンの選手……。
そして、やっとお目当てのウインド・サーフィンの彼女を見つけた。
さらに、その下を見ると……。
なんとAV女優。
でも、こんな同姓同名さんもいた。
広島の小学1年生。代表に選ばれてリレーに出たんだって。

 

僕なんか、珍しい名前なので、同じ名前を探すのは難しいけれど、
もし、この世に存在していらっしゃる(やはり敬語を使うのか)としたら、
1度お目にかかってみたいと思う。
なんとなく他人じゃない親しい気分になるんじゃないだろうか。
同姓同名でしかもそれぞれ同じ職業のライターとカメラマンをひと組ずつ知っている。
僕の知り合いは、それぞれ一方のライターとカメラマンだが、
彼らに聞いてみると、やはり他人から間違えられることもあるようで、
親近感を覚えているようだ。

それにしても、
AV男優の謝孝浩がいたら、結構、すごいかも。

 

 


 

 

 

2002年7月28日(日)        光の舞い

 

 

先週の今ごろ、秋田県の象潟という町にいた。
象潟……この字を『きさかた』と読める人は、
出身が秋田県か、トライアスリートか、もしくは芭蕉通だろう。
松尾芭蕉は、313年前、この土地を訪ねている。
あの『おくのほそ道』の旅の時だ。
しかも象潟に行くことが、芭蕉にとって、
旅の大きなひとつの目的にもなっている。
当時は、松島と並ぶ日本でも指折りの風光明媚な場所だった。
海と砂嘴によって隔てられた潟には、100余りの小島が点在し、
それは美しい入り江だったのだ。
能因法師や西行など数々の文人が訪れ、歌枕にもなっている象潟。
それが、なぜ今は名前も読めないくらい知られていないのか。
芭蕉が訪れてから115年後の1804年、
象潟大地震で、地面が隆起し、潟の部分が地上にむき出しになってしまった。
一夜にして、美しい入り江は、ただの陸地になってしまったのだ。

雪渓の残る鳥海山の麓にある象潟では、
田んぼの中にある山間の民家に泊めさせてもらっていた。
その重厚な家の前で、バーベキューの温かいもてなしを受けた。
地元の海の幸と山の幸の食材が並ぶ。
この時期にしか食べられない岩牡蛎、サザエ、アワビ、名前も知らない山菜やキノコ。
自分の仕事をみつけてせっせと動くおばあちゃん。
どんどん食べなさいとすすめてくれるご主人。
甲斐甲斐しく台所を行き来する奥さん。
そして、母親の手伝いをする中学生の娘たち。
な〜んか、いいのだ。
故郷の実家にいるような、
インドヒマラヤのスピティの知人の家にいるような、
温かくてなつかしい気分でいっぱいになった。

満腹になって、地べたに敷いたビニールシートに座って空を見ていた。
バーベキューをはじめた頃は、曇っていたのだが、
いつの間にか星が出ていた。
ボーっと星を見ていたら、ふっと、光の粒が視界に入ってきた。
流れ星、って瞬間的に思ったけど、
その光は、一直線ではなく、ふわふわと弧を描くように舞っているようだった。
そう、蛍。

豊かさとは、こういうところにあるんじゃ、ないかな。
光の舞いを見ながら、そんなことを考えていた。

・・・・・

象潟や 雨に西施が ねぶの花  (芭蕉)

・・・・・

僕が象潟を訪れたのは、
奇しくも芭蕉が訪れた季節と同じ頃だという。
可憐な薄紅色のねぶの花が、ちょうど満開だった。

 


 

 

2002年7月10日(水)        最下位決定戦

 

 

あっという間に時間は流れる。
新作が出版されバタバタしていた上に、
取材や原稿締め切りが重なり、
アップアップの状態が続いていた。

その間に、ワールドカップが終わり、
また世の中も落ち着きを取り戻しつつある。
テレビがないので、サッカー観戦に興じることもできず、
世の中から取り残されたようになっていたが、
スポーツの真剣勝負のすばらしいプレイを見るのは、
清々しさに包まれ、気持ちの良いものだろう……と想像するしかない。
ワールドカップといえば、
決勝戦の同じ日に、
最下位決定戦が行われたのをご存知の方も多いだろう。
国際サッカー連盟(FIFA)に加盟している中で、
ランキングが最下位(203位)と202位のチームが戦ったのだ。
英領モントセラト(203位)VS ブータン(202位)
ブータンは、僕としては馴染みのある国だが、
英領モントセラトって、どこにあるんだぁ?
とインターネットで調べてみると、
http://www.glin.org/buterfly/monserat/monserat.html
へえ〜。
西インド諸島にあるんだ。

そんでもって結果は、
●ブータン 4−0 英領モントセラト●
ブータンの首都ティンプーで試合はやったみたいなんだけど、
標高が2500mもあるから、
どうも英領モントセラトの選手達は高山病になっちゃったんだな。
彼らは、自分の島か、せめて平地でリベンジしたいんじゃ、ないかな。
地の利を活かして、ブータンが勝ったわけだけれど、
勝負がどうこうよりも、
なんだかほのぼのと温かくなるような話。
『ザ・カップ』というブータン映画を思い出した。
サッカーを通じて、知らない国や地域の人びとが触れ合う。
いいなぁ。

国際サッカー連盟は、ごく最近、
最新の世界ランキングを発表したようだ。
「最下位決定戦」で勝ったブータンは、199位になったという。
敗れた英領モントセラトは最下位の203位のまま。
わぁ、これじゃ、もう1度、平地でリベンジする機会がなくなっちゃったなぁ。
ちなみに202位は、英領タークスカイコス諸島になったそうだ。
わわわ。また場所がわからない。
http://www.kyodo.co.jp/sekainenkan/2001/3/003_f/f037.htm
ハイチの上の方だって。

それにしても、英領って、世界中のいろんな場所に散りばまっているんだなぁ。

 

 


 

 

2002年6月15日(土)        ツボミが5つ

 

 

数週間前に、リュウゼツランの鉢植えにツボミがついた。
(花の詳しい人に聞いたら、もしかしたらリュウゼツランではなく、シンビジュウムかもしれない)
白っぽいツボミが5つ。
この奇遇。
なんだか嘘のような話。

実は、このリュウゼツラン。
6年前に僕の一作目の単行本「風の足跡」が出版された時、
知りあいの方から贈られたものだ。
一度花が落ちてしまってから、
次に花をつけたのが、昨年の5月。
2作目の「スピティの谷へ」が出版された時なのだ。
そして、今。
まるですべてを知っているかのように、
ツボミが開いた。
そう、3作目がいよいよ発売されたのだ。

昨年、花が咲いたとき、
植え替えをしてあげようかなんて、
この日記に書いたのだが、
結局、そのまま。
夏の炎天下でも、
水を丹念にやったわけでもなく、
寒い冬もベランダにほったらかし。
なんとひどいやつだろうか。
それにもめげず、しっかりと花をつけたリュウゼツラン。
僕のこの一年を、じっと見守ってきたのだ。

今度こそ、植え替えをしてあげよう。


 

 

 

2002年6月3日(月)        馴染み

 

 

「今月いっぱいで、やめることになりました」
ゆうパックの兄ちゃんが、宅配の荷物とともに、
先月の終わりに挨拶に来た。
そんなに親しくしていたわけではないけれど、
不在なのに何度も足を運んでくれて、
ホントに一生懸命やってくれる兄ちゃんだった。
馴染みの顔が変わるというのは、
なんとなく淋しいものである。
 

あわただしく5月が過ぎた。
取材で東京にいないことが多かった。
ライター稼業のつらいところは、
取材が終わってからが勝負なのだ。
自然と東京にいる間は、
締め切りに追われるという毎日だった。
最近の仕事場である広尾図書館に通い詰めになる。

去年から広尾図書館を利用しているので、
広尾の街もだいぶ慣れ親しんできた。
それだけ出没する日が多いわけだから、
自然と顔馴染みも多くなる。
毎朝カプチーノを飲むイタリアン・カフェの長身の兄ちゃんは、
僕が砂糖を入れることを知っていて、
黙って砂糖を差し出してくれるし、
昼飯を食っている美味しい魚を出す定食屋さんでは、
この間、魚をこっそり一品サービスしてくれた。
ほんのちょっぴりの優しさが、
とっても温かく感じられる。
馴染みっていいもんだ。
全くの他人で、
しかも恋愛感情やさほどのメリットが互いにあるわけでなく、
日々の積み重ねが生み出す、この馴染み。
肩書きもなんにも知らない。
ただの客。
思えば不思議なものである。
人間関係の基本のような気もする。
少しずつ少しずつ接近していく。
星の王子さまとキツネのように。

人の顔が思い浮かべられる街。
そんな広尾に、今週も通うのであ〜る。

 


 

 

2002年5月14日(火)        会えなくても

 

 

日本へと帰国する直行便をフィジーの国際空港で待っていた時のこと。
出発ロビーのゲートのそばで座っていると、
ひとりの体格の良い青年が隣に座った。
ラグビーの選手かアメフトの選手という感じだ。
いや、寺尾くらいの体型のお相撲さんといった方がしっくりくるか。
というのも、その青年はマワシのようなものをつけている。
今年のはじめにトンガに行ったばかりだったので、
そのマワシがトンガの民俗衣装であることはすぐに察しがついた。
「トンガの方ですね」
と英語で話しかけると、目を細めた。
日本行きの便が出る30分前に飛び立つトンガ行きの便に乗るという。
僕がトンガに行ったことがあるのがわかると、
その青年は嬉しそうに微笑んだ。

それでしばらくトンガの話題で盛り上がったのだが、
そのうちに、彼の着ている服の色が気になってきた。
最初は気にもとめていなかったのだが、
上のシャツもズボンも黒色なのである。
トンガの人びとは敬虔なキリスト教徒。
身内が亡くなると、黒い服を喪服として着る。
中には、一年以上もずっと着ている人もいると聞いた。
僕の視線に気がついたのか、
「アメリカに住んでいる母親が、1週間前に亡くなったんだ」
と表情をゆがめた。
とタガがはずれたように、なぜフィジーに来ることになったのかを、
機関銃のように語りはじめた。
彼の家族は、自分以外はアメリカに住んでいるという。
トンガには、アメリカの領事館のようなものがなくて、
フィジーでアメリカのビザを取得して、
フィジーからアメリカ行きの便に乗って、
母親の葬式に出席しようと思っていた。
詳しいことはわからないが、
必要書類の不備かなにかで、
ビザがおりなかったらしい。
何度も事情を担当官に説明したが、
どうしてもオッケイが出なかったのだという。
それで母親の葬式にも出ることも叶わず、
トンガに戻るところだったのだ。

その話を聞いて、
僕には返す言葉が見つからなかった。
彼の心の内を思うと、
なぐさめの言葉は空々しいように思えたのだ。
ただ相槌を打って、頷きながら、
話している彼の瞳を見つめることぐらいしかできない僕。
僕が返答に困っているのを察したのか、
「でも大丈夫。会えなくても、ここにいるから」
と大きな分厚い手で胸のあたりをポンとたたいて、
目尻を下げた。

ちょっぴり微笑んだその目は、
昨晩、眠れなかったのだろうか、
赤く染まっていた。

 


 

 

2002年5月6日(月)        キンイロ週間

 

 

清々しい日が続く。
みなさんは、GWは、どのように過ごしているのだろうか?
そもそも、『Golden Week』という言葉を名付けたのは、
誰なのだろうか。

ひと頃よりは、休みの取り方も柔軟になって、
混雑ぶりも緩和されているようだが、
それでも、『渋滞○○キロ!』な〜んて、
ラジオから流れてくると。
「ご苦労さま」
と思ってしまう。
まぁ、ちょっと羨ましくて
やっかみもあるのだが……。

僕の方は、今日からの海外取材などもあって、
ほとんど仕事のGWだった。
それでも4日までに仕事がほぼ完了したので、
昨日は、高尾山にランに行った。
新緑が眩しいだろうなぁ、と楽しみに行ったのだが、
高尾山口の駅に着いた途端、
その人の多さに愕然とした。
道を歩けないほどの人の波なのだ。
どうも、ごく最近、テレビで高尾山の魅力について放映したらしい。
この波の中を、歩くのもたいへんなのに、
とてもじゃないが走ることなどできそうもない。
大顰蹙間違いなしだ。

しかたがないので、高尾山へのいつものランコースをあきらめて、
ラン仲間と高尾山と対峙している反対側の裏山に登ることにした。
そんなに期待はしていなかったのだが、
これが……穴場。
新緑はキレイだし、なによりほとんど人がいなくて、
静かなのがいい。
いつもの陣馬までの尾根道よりも結構アップダウンがきつく、
ハードなコースではあったが、
クロカンコースとしてはグッド。
津久井湖に抜けて、帰りはバスと電車で高尾山口まで戻った。

高尾山口に再び戻ると、またあの喧騒。
なんだか、得をした気分。
あいかわらず、観光地でないなんでもない場所が好きなようである。

 

 


 

 

2002年4月23日(火)        過程

 

 

この数カ月、またまた密かに目標にしていたことがある。
トライアスロンをはじめて、2年足らず。
トライアスリートなら誰もが憧れる宮古島のトライアスロンのレースに出場する機会を得た。
スイム3キロ、バイク(自転車)155キロ、ラン42.195キロ。
僕にとってははじめてのロングのレースだ。
昨年、JTA(日本トランスオーシャン航空)の機内誌の仕事で、
レースを支えるボランティアの人びとを取材した。
さまざまな島の人びとが、
大会を盛り上げようと裏方に徹し、頑張っている姿に出会った。
その時から、いつかはぜひ参加してみたいという気持ちになった。
それがまさか今年挑戦することになろうとは……。

出たいという強い気持ちが通じたのだろうか、
なぜだか自然と仕事へと結びついていった。
レースに完走するための合宿が、
レース2カ月前の宮古島で開催されていて、
ある雑誌で、その合宿に体験取材することになったのだ。
(詳しくは、『SWITCH』5月号にて)
おまけにレース本番では、トライアスロンの専門誌に体験レポートを書くことになった。
ありがたいことである。
しかしながら、体験レポートを書くということは、
すなわち完走しなければならないというプレッシャーも抱えることになる。
アワワ。

詳しくは、その体験レポートに書くことにするが、
スイムは波が高く前に進まなかったものの、
1400人近い参加者の中で、
なぜか600番台という思いのほかいい順位で終えることができた。
でもそれからがたいへんだった。
バイクは、三つの競技の中で最も苦手。
結構、練習もしていたのだが、
制限時間内に漕ぎきれるか、全く自信なし。
風も強く、さらに腰痛持ちのため、早くも50キロ過ぎから、
腰が痛くてたまらなくなる。
何度も、自転車から下りて、
ストレッチを繰り返し、腰を伸ばす。
そうすると10キロくらいは進める。
そんでもって、またストレッチ。
……そんな繰り返しだった。
バイクでは、後続車にバンバン抜かれ、
バイクだけの記録では1200番台まで落ちる。
トップの選手がランを終えてフィニッシュする頃も、
僕は、まだバイクを漕いでいるというテイタラク。
バイク制限時間の1時間前にやっとバイクを終える。
オヨヨ。
そしてやっとのことでラン。
しかもこれからフルマラソンなのだ。
ランは馴染みのある競技だが、
苦手なバイクの後だと足どりも重い。
それでも少しずつ前の選手を抜いていく。
25キロ地点まではキロ6分ぐらいのペースで淡々と走り、
200人近く抜くことができた。
でもそう簡単にゴールへとは行けなかった。
坂が立ちはだかり、酷使した足にダメージがかかってくる。
確実にペースダウン。
ひとり抜いては、ひとり抜かされという感じ。
それでもヘロヘロになりながらも、なんとか走り通す。
ゴール前5キロのあたりでは、
街中に入ってきたため、ものすごい応援。
その応援に励まされるように最後の力を振り絞る。
そしてフィニッシュ。
徐々に、なんともいえない感動が襲ってきた。
結局、制限時間の50分前にゴールゲートをくぐることができた。
『STRONGMAN』の称号を完走したものにはあたえられる。
挑戦することのできる健康と
支えてくれたたくさんの人びとに感謝せずにはいられなかった。
・・・・・・・・・
スイム 1:06:59(624位)
バイク 6:59:10(1213位)
ラン  5:05:37(647位)
総合  13:11:46(907位)
・・・・・・・・・
(詳しくは『トライアスロン・ジャパン』7月号で 6/1発売)

ゴールで待っていてくれた編集部の人から、
スイム競技の最中に溺れ、
その後、搬送された病院で亡くなった方が出たということを聞いた。
しかも、その方は、タイムも早く、ベテランのトライアスリートだという。
返す言葉がないほどショックを受けた。
また、昨年ボランティアの取材をしているだけに、
会を重ねるごとにさらに医療体制を改良していて、
『世界一安全なレース』だと誇りにしていた島の人びとの気持ちを考えると、
完走の喜びも半減してしまった。

ここ数カ月の目標は達成した。
その目標に向かっていく過程が、
僕はどうも好きなような気がする。
しばらく放心状態になりそうだが、
そうも言っていられない。
メッチャ忙しい、5月がやってくる。


 

 

 

2002年4月10日(水)        再生

 

 

今年は春が早い。
もう花水木の季節になった。
それにしても、やっぱり東京近郊は
花水木が多い。
花が咲き誇る今は特にそれがわかりやすい。
街路樹にも使われているし、
庭先にもよく植えられている。
外来種にしては、
あまりいやらしい派手さはないし、
花の色もほどほどで、いとおかし。 

本日、肺のガン検診の結果が出た。
・・・現在のところ異常ありません・・・
という結果だった。
これで3月中にやっていた健康診断の結果がすべてクリアー。
どこも悪いところがなかったというわけだ。
なんだかそうわかっただけで、
生まれ変わったような気分になるから不思議だ。
40歳になると渋谷区では、誕生月から2カ月以内であれば、
無料で健康診断やガン検診をしてくれることは前に書いたと思う。
3月に入って、お茶の水にある「ガン検診センター」で胃・大腸・肺の検診をした。
そのあと、区が指定した近くの病院で健康診断もやってもらった。
血液検査、心電図、などなど。
フリーライターなんて稼業は、
自営業だから企業みたいに毎年健康診断なんかできない。
こういうシステムはすごく助かる。
思えば健康診断なんて30歳代で一度もしていなかったような気がする。
別に具合は悪くなく、すこぶる健康だったのではあるが、
やはり不安はどこかにくすぶっているもので、
人間ドックにでも行きたいが、
結構、費用もかかるし面倒だし……。
忙しさにかまけて、のびのび。
自覚症状もなく、突然、発病することもあるのだから、
自分の健康を知るということに関しては綱渡りの30代だったわけだ。
とはいっても、結局、大病もせず40歳を迎えられたことは、
なにより感謝しなければならないと……最近、思う。

花水木通りは、きっと白やうすピンクの花で彩られていることだろう。
今年はまだ見には行っていない。
ふと冬枯れの花水木の通りを思いだした。 
冷気の中で凛としていた木々。
次の再生のためにじっと力をためていたのだなぁ。

 


メール 待ってます

sha@t3.rim.or.jp


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