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1996,1997 ラオス旅行記
ビエンチャン |
![]() 注1●この辺りの事情は年々変化しているようで,最近見た雑誌の記事では,タイからのバスでそのまま渡ると紹介されていた。 |
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すぐにホテルに着いた。街外れの寂しいところだと思ったら,「首都」全体があまり人通りのない,ひっそりとした街だった。しかも外れとかなんとか言っても,もともと10分も歩けば中心と言えるような場所は歩き切ってしまうような街なのだ。中国のあの人間だらけの光景とは随分違う。 夕食まで時間があったので散歩に出た。すぐ近くに独立記念塔:アヌサワリーがある。パリの凱旋門を模したというその建築物の足元に土産物屋があった。ラオス文字をあしらったTシャツ,絵葉書,切手,ガイドブックなどを売っていた。ラオス語と英語の辞書,英訳付会話集,ラオスの通貨キープ紙幣のセットを購入。そういえばまだ両替をしていないが,タイのバーツが流通している。もっと「高級な」土産物屋ではドルも使え▼ |
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▲た。売り手は皆慣れたもので,ぶつぶつと口の中で計算し,バーツ紙幣や細かい額にはキープも混ぜて,さっとおつりを出してくれる。こっちは訳がわからないが,ごまかそうという気は全くなさそうだ。 夕食は,伝統舞踊を見ながらのものだった。この晩と翌日の観光までは,サラリーマン風40代男性の二人連れと一緒になった。あちこち行っているらしいが,しかし,ポロシャツにゴルフパンツ,そろって小脇にクラッチバッグを抱えたいでたちが,この街にはいかにも不似合いであった。旅行を楽しんでいるのかどうかもよくわからない。翌日は,仏塔:タートルアン,革命博物館,市場そして土産物屋と,おきまりの観光コースを回った。何故か寺や黒塔には行かなかったので,後から自分で行った。 |
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この時期ラオスは雨季で,ビエンチャンにいるあいだじゅうどんより雲が垂れ,時折雨がぱらついた。かなり蒸し暑い。1991年発行のガイドブックにビエンチャン一の繁華街とあるチャオ・アヌ通りに行ってみた。なるほどしゃれた雰囲気の喫茶店が数軒あるが,歩道に並べられたテーブルに西洋人のグループが休んでいるばかりで人影はまばら。この辺りに2,3軒ある映画館はいずれも閉まっており,アールデコ調の建物の中が取り壊されていた。97年にもその状況は変わりなかった●注2。 もっと賑やかなところがあってもいいのでは,と歩くうち書店をみつけた。国営書店とある。薄暗い店内にしかしそれほど本はなく,小中学校の教科書と,後はホコリまみれのソビエトの古本が積まれていた●注3。▼ |
注2●この頃があるいは時代の転換点で,再生のための破壊だったのかもしれない。
注3●97年にはシャッターを降ろしていたが,改装中だったのか,先日テレビで垣間見た様子ではかなり充実した様子だった。
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▲それでもロシア語とラオ語の辞典,中国語とラオ語の辞典,会話集を見つけ出した。後者はラオスの出版物だが,一見して紙質が悪く,印刷もガリ版刷りのような出来だ。わたしは北京外国語大学の図書館のラオス語書籍の棚を思い出した。目立つのは「毛沢東語録」ラオス語版などの真っ赤な本,色の美しいのはソ連で印刷された,物語と絵は完全ソ連風,文字だけラオス文字の絵本で,自前のものはごくわずかに粗末なものがあるばかりだった。まだまだ他のことで手一杯の国なのだ。街のほぼ中央,噴水広場に面した国立図書館は,もっと悲惨な状況だった。もっともここの2階には鍵のかかった貝葉文書の部屋があり,貴重な古文書を収集している。 | |||||||
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ビエンチャンではもう1軒Raintree Bookstoreという書店をみつけた。こちらはアメリカ,ヨーロッパ,タイの出版物を扱っていた。もちろん値段は桁が違う。この店は翌年には支店を作り,また新しくオープンしたホテルのアーケードにも進出していた。 ここにラオス文字のフォントの広告が出ていた。店主に尋ねると電話で問い合わせをしてくれ,そちらのほうにちょうど用があるから連れて行ってくれると言う。思いがけず三輪自動車,つまりタイでいうトゥクトゥクに乗ることが出来た。連れて行かれたところはそのフォントの開発者Hongkad博士の建築事務所で,博士は留守だったが,応対に出た人がフロッピーを1枚55ドルで売ってくれた。 |
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97年には,ラオス語の先生ウィリップが,6年間の北京留学を終えて帰っていたので,その家を訪ねた。本人が書いてくれた住所らしきものを見せながら近くまで来たが,はっきりした番地もなくなかなかみつからない。よろずやのおばさんがあちこち聞きまわって見つけ出してくれた。そのおばさんが,「なんだ,あの中国に行った子じゃない,先にそう言ってくれればすぐわかったのに。」と言う。後で本人に聞いたら,彼女が出発した時,近所中よく知りもしない人まで見送りに来て,大変な騒ぎだったらしい。家は伝統的高床式木造家屋。どんな造りか興味があったが,ここは親戚の家だそうで,遠慮しているのか,テラスに座って話しただけで中はあまり見せてくれなかった。近くの店で米粉の麺をごちそうになった。 | |||||||
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96年に泊まったホテルは台湾資本だった。97年,中国語を学んで帰国したウィリップはそこに就職していた。97年に泊まった新築ホテルのアーケードには,ラオス特産の織物を売る店があったが,そこの女性店長と店員が中国語でやりとりしていた。台湾から単身やってきて店を開いたのだそうだ。社会主義国ラオスと「反共の国」台湾の取り合わせが意外だが,政治は政治,ビジネスはビジネスなのだろうか。ちなみに日本人は"LANGUAGE INTERNATIONAL SCHOOL LAOS-JAPAN"というところに1人いた。 寂しいくらいに静かなたたずまいの中に,変化の兆しか,どこか落ち着きのなさを感じさせる街であった。 |
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