dance diary [ 11月のダンス時評 ]
※これは、観た中で発見したこと、考えた事をとりあえずメモしておこうというもので、
充分に推敲したものではありません。「雑記」といったところです。
その点、ご了承の上、お読みください。


「dance diary 」
 11月9日〜12月10日


12月10日(木) 『さんすくみ』(井手茂太/飯島永美/野村誠)浅草アサヒスクエアA イデビアン・クルーの振付家、井手茂太がついに踊った! 井手の踊りを「かいま見た」時は、本当に驚いた。実は井手君と僕は 神田うの主演の『不思議の国のアリス』の仕事で(作曲家と振付家として) 一緒になった。役者たちにダンス・シーンを振付けて、稽古している場で、 「それ」を目撃したのだ。チラチラっと手本で踊ってみせるのだが、 その山下清というかパタリロ体型(?)の身体は驚異的にしなやかで、 グルーヴに満ちている。それは確かに「いいかげん」なのだ。 「だらしない」のだ。脱力したダンスなのだ。しかし信じられない精度で。 即座にダンサーとしてのピナ・バウシュとグルーチョ・マルクスが思い出さ れた。井手はこの二人の天才的身体に匹敵するのではないかと。 かねてから僕はイデビアンのダンスには否定的で、彼の振付もラッキイ池田と どこが違うの?という評価であった。いかにも「どう、面白いでしょ?」的な 「記号としての振り」でしかないような。ところが、その同じ振りを井手本人 が踊ると全然別物になってしまう!どういう事だろうか?恐らくその振り自体 の構造はやはり、カウントに対応した「記号」なのだ。で、井手以外のダンサー も役者も、そういうものとしてしか踊れない。カウントとカウントの「間」、 グルーヴを生む場所を取り逃がしてしまう。ところが、井手は天才的なダンサーで、 しかも作者である。いくらでも「間」をつくることが出来、そこに自在なフレージング を這わせる。こうした例は「ピナ・バウシュとブパタールのダンサーたち」([ダンス]対ダンス) 「グルーチョ・マルクスとバックで踊るプロのダンサー達」(『ダンシング・ オールナイト』)との間にある「絶対的な差」によく似ている。 しかし何故、彼は振付家を選択するのだろう?人に振りを与えるとき何故 あのような「普通のダンサーが踊ったら誰でも単なる記号にしかならない ような振り」を付けるのだろうか?それがまったくわからないのだ。 当日の「即興によるパフォーマンス」は、飯島のライブ・ペインティングと、 野村率いるミュージシャン(というより単に楽器を持った子供たち)の集団即興、 井手茂太のダンス。 とりあえず、井手は現在、振付家に専念しているので、めったに踊らないわけで、 彼のダンサーとしての天才を一般の人が見ることの出来る貴重な一夜という意味は あった。 こうした居心地の悪い、不毛な時間のポジティブな消費を強いられるような場では、 井手の真価がいかんなく発揮というわけにはいかなかった。 しかし、それでも何気ない一瞬にも、驚異的なダンス身体が見えたはず。 ただ、やはりイデビアンと区別しようとするのか、たしかに自分用の振りであった。 それはある種「コンテンポラリー・ダンス」ちっくなもので、とりわけフォーサイス に似ていなくもないものだ。そんな「おしゃれ」な振りでも踊るのが山下清だから それなりにいいのだけれど、イデビアンのあの「ラッキイ池田」、「お約束」な 「ダサダサのクサい振り」を、徹底的に微分し、グニャグニャの「草書体」に変容 させる井手のほうが、じつは凄いんだけどなあ。 12月9日(水) 『直下型疾風怒涛ダンス』(コンドルズ、ゴールデン・ヘアーズ)こまばアゴラ劇場。 コンドルズは近藤良平のグループ。笑えるダンスを目指しているそうだ。 そういうことを臆面もなく評謗されると、こちらとしても、どうしても「ほほう、 笑わせてもらおうじゃねえか!」というふうになってしまう。こうなると、余程の ことがない限り「笑いは取れない」のである。でも、しょっぱな思わず笑ってしま ったよ。あんまりくだらないから。だって、ガクランきてアフロのズラかぶったのが 床下からゾロゾロ這い出てくるんだもん。で、いきなり猛烈に踊り出す。つまり 「野猿」的なものですね。ヘタすると大川興業か。総じて「笑い」の質は古い。 不条理マンガ系のヤツ。コントまでやっていやがる。身体でつくる笑いではない。 つまりダンスはふつうのダンス踊ってたな。それはまあイデビアンの「ラッキイ池田」 的なのよりは好感が持てるが、じゃあ笑える「ダンス」じゃねえじゃん? これも「コウモリ」的な態度だ。ダンスとして評価されるのか、お笑い(ギャグ)集団 として評価されるのか、どちらとも取れる曖昧な場所に身を置いているな。 それをボーダー表現とか言うのは間違っている。 コンドルズで一番可笑しかったのは何かと言えば、ほとんどダンサーとしてはシロート であろう2、3人の踊り。凄くヘタなんだもん。 そして、彼等の身体は「ダンスという型」にまだはめられていない自然な身体であり、 そういう身体には近藤良平ほかの「踊れるダンサー」のダンスは完全に負けている。 ゴールデン・ヘアーズは山崎広太の別ユニット。こちらは「お笑い」ではない。 でも、roosy.co. と同じコンセプトなので呆れた。別ユニットの意味ないじゃん。 12月4日(金) DV8フィジカルシアター『エンター・アキレス』神奈川県青少年会館 “毎夜パブでくだまくイギリスの中産階級の男たちのマッチョイズム、同性愛差別 に対する痛烈な批判”といった前宣伝からは予想できなかったが、かなりいいカンジに 「抜けてる」舞台。笑えるダンスとはこういうもののことだ。そうか、モンティパイソン、 Mr.ビーン、そして『トレイン・スポッティング』や『フル・モンティ』の国のカンパニー であったのだ。 「アキレス」は、マッチョぶる男のアキレス腱だ。「女々しさ」つまりある意味で 「繊細さ」。それは舞台に登場する「恋人同然のダッチワイフ」に集約されている だろう。パブを舞台に、皆が隠し持つアキレス腱「女々しさ」=「繊細さ」を見ら れまいと、ことさらにワイルドに振る舞う男たち。そこへストレンジャーとして 「オカマ野郎」が登場する。男達は、そいつに様々な「いやがらせ」を加えるが、 彼はスルリと身をかわす。そしてついに真実の姿を見せる。一瞬のうちに、じゃなくて ダラダラと服を脱ぐと、彼は「スーパーマン」であった。でもオカマ。 彼の存在と行動によって、次第と男達に「繊細さ」が伝播していく。 クライマックスはオカマのスーパーマンがいきなり「ステン・アライヴ」 (サタデーナイト・フィーヴァー!)でギンギン(クネクネだけど)に踊り出し、 つられた全員が裸になって踊りまくるシーン。 しかし、事あるごとに集団の掟=マチョイズムがそれを許さず最後には、ある事件が 起こってしまう。ひとりの男の「愛するダッチワイフ」が皆の「笑いもの」 「さらしもの」にされ、ナイフでメッタ切りにされてしまうのだった。 というような内容が演劇的にでもなく、さりとてダンス的なデフォルメ、抽象化を 施されることもなく、ごく自然に表現される。これは凄いことだ。何故だろう。恐らく 、白人の日常的な身体のありようが本来的に「オーヴァー・アクション」(日本人から 見て)だからではないか?これと似たようなことを我々が試みるとして、 例えばパブならぬ居酒屋を舞台にサラリーマンのオヤジたちの話を舞台化したと 想像してみよ。同じように「自然」には見えないだろう。 下品な話しで盛り上がっている日本のオヤジはそもそも座って飲んでるし、 ほとんど動かない。ただ声がバカでかいだけだ。そこに無理に「アクション」を 付けようとすれば、ダサダサの「芝居」感が増すだけだろう。事件や身の上相談の 「再現ドラマの演技」みたいな。しかし、それでも、そのような我々の日常の身体の リアリズムは、とりわけダンサーや演劇人が発見しなければならないはずだ。 まあ、「舞踏」というのも最初はある意味で「動かない日本の身体」の発見だった んだろう。それが、次第と「何がなんでも動かない」という逆の無理、不自然に すり替ってしまったのだ。ちょっとは動くんだよ、日本人だって。 さて、その差別主義者のマチョイズムの「いい歳した大人の男のどうしようもなく おバカな子供っぽさ」がダンサー一人一人の身体、動きに余りにもクッキリと出て いるので、思わず「馬鹿…でも可愛いじゃん」と感じてしまう自分の反動性に 悩まされもする。これは作品の意図を逸脱する受容であろうか? つくりがわかりやすいメッセージ劇、告発劇に堕することのないかわりに、 見事に笑いのセンスにコーティングされていることによって、メッセージは 両義的な場に宙吊りにされる。どちらに転ぶかは観客の資質によって決まるのだ。 ヘタすると、イギリスのマチョ野郎が見て、感情移入してしまうかもしれない。 しかし、それが芸術表現の宿命である。それがいやな者はさっさとプロパガンダや、 「運動」に走ればいいのである。 11月25日 ミルバ&スターダンサーズ・バレエ団『七つの大罪』 (振付:ヤン・リンケンス、テキスト:Bブレヒト、音楽:K・ワイル) 完全にミルバの一人舞台の感あり。今まで僕はミルバについて(ブレヒト=ワイルも、 ピアソラもカンツォーネも)全く評価していなかったのだが、さすが芸人である。 好き嫌いを超えた「説得力」がある。もちろん僕の趣味から言えば、ロッテ・レーニャや ギゼラ・マイのほうがいいけど。 さて、この作品はそもそものオリジナル・ヴァージョン(1933年、バランシン作品) 自体、無理が色々あり、そこをクリアしないと今ニュー・ヴァージョンをつくる意味が ないはず。まず第一には「ダンス」という形式がブレヒトとは相容れない特性すなわち 「曖昧さ」を持っているということ。恐らくブレヒトの意図を汲むとダンスは「説明」 「記号」として扱うことになるはず。案の定、今回も結果としてそうなってしまった。 大体、演出家とダンスの振付家と二人もアタマがいること自体間違っている。すべての 演出は振付家がするべきだった。ヤン・リンケンスがそれをやるにふさわしい才能かは 別問題だが。一体、誰が企画、コーディネートをしたのか責任者が不明なのが気に入 らない。恐らく、企画者はこれが「ダンス作品」だということが分からず、ダンス付きの 演劇、ダンス付きのオペラと勘違いしているのだ。 リンケンスの振付は、おもしろい動きも随所にあるのだが、ブレヒト向きでない。 かなり細かく、時に「うるさい」のだ。思うに、もっとシンプルで、省略的、象徴的に 圧縮された身振り言語が必要なのだ。もちろん初演のバランシンもブレヒト向きでは ないが、そもそもこれはバレエ作家バランシンがブレヒトに台本を委嘱して作った バランシンの作品だから仕方ない(これは通常、人が言うところの「ブレヒト=ワイル の作品」ではない)。ただし、当時のバランシンなら、例えば『放蕩息子』にみられる ような「表現主義」的なセンスを持っていたはずだから、リンケンスよりはよかったか もしれない。いずれにしても、これが「ソング付きバレエ」であるということが「欠陥」 なのであり、歌われていればどうしたって歌手に目がいく。ダンスは邪魔にさえなって しまう。まずそのことが理解出来ない者には、この作品を手がける資格はないのである。 11月15日 元藤曄子『昭和というかげろう〜土方巽とともに』 世田谷パブリック・シアター はっきりさせておくべきだが、元藤の表現は「舞踏」ではない。 これはふるめかしい「舞踊劇」である。スノビスム。 唯一、みるに耐える身体はアスベスト館の研究生(?)たちの「愚直」な身体。 ラストでみせた背中背中背中、それが身体じたいとしてのダンス、「舞踏」である。 11月13日 牧阿佐美バレエ団『ノートルダム・ド・パリ』 タイトルロールの志賀美佐枝は、技術的には申し分ないが、「キャラ」的にどうかな? と思ったが、まったくそれは杞憂であった。プティのバレエはダンサーの雰囲気 (セクシーさ等)に頼って成立しているのではない。振付のなかに精密に「雰囲気」 が書き込まれているのだ。それを100パーセント踊り切ればいいのだ。但しそれも 容易ではないが。 プティの言葉「ベラルビはいいダンサーだが、彼はカジモドを“表現”し過ぎる。 “演技”し過ぎる。それは間違いだ。」 しかし、牧バレエの選択は、何故『ノートルダム』であったのか?例えば『コッペリア』 ではなく。このバレエは、世間ではプティの代表作とされているが、じつは、プティ作品 としては、一番「取っ付きにくい」部類である。いわゆる「プティらしさ」を出すのが容易 ではないのだ。とにかく音楽がよくない。M・ジャールのオーケストレーションはその編成 の大きさに比べて、まったく「鳴らない」書法だ。ハリウッドの映画音楽のスコアは、 大抵専門の職人がオーケストレーテョンを受け持つので、プティはジャール本人の手腕と 見誤ったのではないか?また、メロディ・メーカーとしても「ロレンス」や「ドクトル・ ジバゴ」のテーマに比べて、ここでの彼の仕事は手抜きである。あまりにも通俗的過ぎる。 唯一評価出来るのは、「多様なリズム」という側面だ。なにしろ彼はもともと打楽器奏者 なのだから。 ◆その「多様なリズム」と結び付いて、「多様な身体(身振り)」が展開される。 これほど身体の多様性がしめされる「バレエ」はないだろう。ねじれ、よじれ、もつれ、 たわみ、ひきつり、震え、屈み、蹴り、跳ね、絡まり合う。 ◆これは作品全体がカジモドの身体に呼応したこだまとなっているということだ。 カジモドのせむし、腕の硬直と弛緩は「ハンディキャップ」ではあるが、 「拡張される身体の可能性」の礎でもある。そしてそれは『カルメン』以来のプティの 「アン・ドゥダン」の帰結である。「人間の身体はこうも動ける、また、こうも動ける、 動きたいように動けるのだ!」というプティのポリシー。 これを「舞踏」と並べることも出来る。つまらないけど。 ◆「多様性」とはいいかえれば「ポリフォニー」(バフチン)である。この作品が 真に「カーニバル」的なのはその意味においてだ。もちろん、「68年」を間近に、 その予告を告げる「熱に浮かされた作品」でもある。しかも『ヘアー』や、 ベジャールの『現代のためのミサ』に先がけて! 11月12日 イデビアン・クルー『ウソツキ』 ダンサー(と呼ぶべきか?)の身体の置場所、居所、足場があいまいだ。 そのダンス(と呼ぶべきか?)の居場所、自己定義、自己認識があいまいだ。 つまり踊っている(人)とみなすべきなのか?、お笑い(芸人)とみなすべきなのか? がわからない。 あるいは、どこをダンス(の部分)とみなすべきなのか?、どこをお笑い(の部分)と みなすべきなのか?がわからない。 つまり、どちらとも取れ、どちらでもないような「場所」に身を置くという ズルいスタンス、それで「ウソツキ」というわけか。 そこで、とりあえず… ◆「確かな事柄」その1 身体(の行為)が記号的である。 彼等の「ダンサー」的訓練の度合は中級過程。 つまり、完全なしろうとの身体でもなく、普通にヘタクソ。 そのような身体に対する井手の振付は非常にダンス的(形式)であり、かつ、 テクニックも非常に難しい、「上級過程」用である。 そこで唯一考えられることは、そのような「ダンス的」な「高度」な動きを 「ヘタに踊る」ことによって生まれる「何か」がめざされている、という解釈だ。 (それは「できる身体」が「いいかげんに踊る」のとは違う。) その「何か」とは「笑いを取る」ことのように思えるのだが。 とりあえず、「笑いを取る」と仮定してみる。 ◆「確かな事柄」その2 「お笑い」(ギャグ)の構造が記号的である。(「お約束」なオチ、ハズシ) 彼等の「芸人」的レベルは初級程度。 井手の「コント」のレベルは初級程度。 そこで唯一考えられることは、そのようなヘタな芸人が「並」の「ネタ」を 演じることによって生まれる「何か」がめざされている、という解釈だ。 (それは「できる芸人」が「わざと」お約束なギャグをかます、というものとは違う。) その「何か」とは「スノッブな笑いを取る」こと、あるいは「ナンセンス即ち意味がない」 ということ、あるいは「コンセプチュアル・アート」あるいは「メタ・コミック」? 11月11日 大野一雄『天道地道』世田谷パブリックシアター その舞台の大野一雄は「なる」とか「なった」ということを越えて、 「ただ在る」人であった。まさに「生きて在ることそのもの」(守山美花さん) の歓びにうち震えていただけ。それは何かに似ている。 まず、「犬」という言葉が頭に浮かぶ。 続いて「サイナラ、サイナラ、サイナラ」(ああ、淀長さんが 亡くなったのだった!)。 それから、「笑う赤ん坊」。そして「大好きな曲で踊っている自分」。 そうか、それらは皆「生きて在ることそのもの」の歓びにうち震えて いるだけの「ただ在る」身体だ。そしてダンスする身体とは すべからくそういう「無為」の身体なのだ。 秋山登の書いた朝日の淀長さん追悼記事で、 淀長さんは「満月の夜に裸で部屋を踊り回る」と語ったことがある、 と書いてあった。 僕はこういうものが「何もない」(アトム氏)ということだと思う。 そこに「何もない」から語る言葉が出ないのだ。 11月9日 ローラン・プティにインタヴュー。記事はダンスアートに掲載するが、 オフレコ話を少々。 「カニングハムをこの前パリで見たんだけど、席につくなり、もう見てられない! 唖然としたね。私が一生かけてやってきた仕事を見たまえと言って立ち去ったよ。 日本の新聞で見たけど「今世紀最大のアメリカ人振付家」として名前をいくつか挙げていた。 バランシン、いいだろう。マーサ・グラハム、いいだろう。それから、カニングハム?! なんてことだ。何が天才なんだ!ただ手足を動かしてるだけだ。同意するだろ? 真っ白な背景や、逆行の照明とか、お腹やお尻に詰め物をした衣裳とか、流行の先端を いくような舞台を作ってるけど、誰一人として踊っていないじゃないか。ダンスじゃない。 私のインプレサリオがイタリアにいるんだが、私は賭けてもいいといった 。 10人のダンス未経験者を使って2ヶ月稽古場で稽古すれば、誰だって少なくとも カニングハム以上のものが作れるとね。 今言ったことは、絶対に記事にしないでくれよ。私は批評家じゃないからね。」 「東京でクラシック・バレエの舞台を見たが、ひどかった。まるで機関銃だ。」 「日本で上演される古いバレエはどうしようもないね。『ジゼル』『白鳥の湖』・・・ もうたくさんだね。」 この日はジジとも12年振りに再会。歴史的にも重要な発言 「私に歌うように薦めた最初の人はボリス(・ヴィアン)なの。」 いっぽう、以前プティに聞いた話では「ヴィアンはジジに惚れていて追いかけ まわしてたんだ。でも全然相手にされなくて、あきらめて、かわりにバレエ団の 女の子とつきあうようになった。それが、ウルシュラ・キュブレーだよ。」
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