dance diary [ 10月のダンス時評 ]
※これは、観た中で発見したこと、考えた事をとりあえずメモしておこうというもので、
充分に推敲したものではありません。「雑記」といったところです。
その点、ご了承の上、お読みください。


「dance diary 」
 10月13〜11月6日


10月13日(火) 『完全自殺マニュアル』の鶴見済の新刊『檻の中のダンス』(大田出版)を読む。 これはすごい本だ。画期的な「ダンス」書だ。負けた。1600円。 『ダンシング・オールナイト』(1900円)を読んで「ケッ!オヤジが重箱の隅つ つくみたいに、グルーヴがあるだのないだのとグチグチ並べたてやがって!」と 思った人はこの本をよむべし。 10月16日(金)  小林嵯峨の舞台も会場のテレプシコールもかなり久しぶりであった。出来はいま いちよくわからないが、やはり小林嵯峨はよい。何故だろう?  この人は暗黒舞踏のもっとも中核にいたにもかかわらず、普通に考えられるよう な暗黒舞踏的なものからは、ずれているのかも。つまり、芦川羊子ではないという ことだが、それはあのように顔を「クシャおじさん」しない、あのように白目を むきださない、という点に顕著だ。まるきりそれをしないというわけではなく、 なんというかあっさりしているのだ。  さらに彼女の視線が不思議。「チラッ」という視線を度々(客席の方向に、 客に?)向ける。あれはなんだろう。でもそれがすこぶるいいのだけれど。 暗黒舞踏でなくとも普通パフォーマーは自分のダンス行為に専心しているため、 あまり「視線」というものがない。では彼女はダンスに集中出来ていないのか? これは想像だが、彼女は何か「気(気合い)」を入れたり出したりを往復して いるように見える。「気」とは、暗黒舞踏的に「幽霊体」であるといってもいい。 「幽体離脱」では離脱した精神が再び戻って来た瞬間、つまり正気に戻った時、 あのように視線が発せられるのではないか。自分の立っている場所を確認する ためにも。小林嵯峨は有名な「アウラ・ヒステリカ」というヒステリー患者の 写真集に魅せられて以来「アウラ」という総タイトルで踊っているわけだが、 他者のヒステリー身体をわが身に出し入れしているのかもしれない。無理やり 型にはめ込んで、すっかり固まってしまうような「暗黒舞踏」の身体ではない。 スキゾである。→田中泯(『征服』) 10月18日(日)  スターダンサーズバレエによる『ステップテクスト』。一年振りの再演。 たしかにダンサーの身体は前よりもよく動けるようになっていた。前回のとき にあった「重さ」「きしみ」はない。かといって「軽さ」「しなやかさ」 というわけでもない。印象は「粗さ」「乱暴」に変わった。これはどう いうことなのだろう。「軽さ」「しなやかさ」に「堕す」ことから免れる ために、あえて別の「枷(かせ)」を課した、ということか。にしても、 何か違うような気がする。 バランシン『セレナーデ』を併演。これはフォーサイスにひきずられたのか、 「スポーティ」過ぎる気がした。この作品はバランシンの一番難しいところ がある。つまりフォーキンの『レ・シルフィード』のようにロマンティック に徹してもまずいし、かといって「バランシンのモダニズム」を強調しすぎ ると「体操」に見えてしまうのだ。 10月22日(木)  カニンガム・カンパンニー公演。期待などしていなかった。 プログラム二つめの作品までは、やっぱりねえという感じ。  ボーっとみながら考えたことは、鶴見済の言う「曲芸」(『檻の中の ダンス』)という言葉であった。片足で立って何分間もジッとしているとか、 テクニックとしては難しいかもしれないが、そんなことして何が楽しいの? 的なダンス。不自然なことばかり「やらされている」。  カニンガムのテクニックはバレエから来ていて、それをねじ曲げている わけだが、バレエ本来の人工性、不自然さがむきだしになっているともいえる。 バレエであればその不自然さ(人間手旗信号)を何とかして自然に見えるよう に努力する。実際、一握りの天才ダンサーだけはそれが出来る。本当に一握りだ。 バレエは初心者のヘタな踊りほどバレエの持つ本来的な気持ち悪さを理解させる。 カニンガムはそれと似ている。それなりの訓練を受けたプロのダンサーなのに ものすご−くヘタクソにしかみえない。なまじテクニックがあっても全然意味が ないのだ。  ところが川久保玲の衣裳による「シナリオ」でビックリ。カニンガムのダンス が「自然」に見えるのだ。  もちろん振り自体は例によって例の「カニンガム」。別にダンスが違うわけ ではない。川久保の衣裳はコブが様々なところに付けられたもので、人体 (のイメージ)を「不自然」にするものだ。  きわめて不自然な衣裳できわめて不自然な動きをすると、全体としてきわめて 自然になるということか。なんだかダンサーたちも楽しそうだよ。おそらく、 いつもは自分が今なぜこのような(不自然な)動きのために身体を酷使して いるのか、その理由がわからないまま苦行のように舞台に立っているのだろう。 ところが、コブ・ドレスは、言ってみれば「着ぐるみ」だよ。こんなもん着せら れちゃったらもう変な動きするっきゃないだろう。ここではじめて自分が日頃 やっていること「意味もなくヘンな動き」に実感的な根拠が与えられた、と いうことだ。しかし、じゃあいつものあれは一体?ってことだけど。  カニンガム本人はカーテンコールに登場。足が悪いらしい。それでもう踊らな いのか。カニンガム・ダンスを「自然に」踊れるのは彼だけなのに。それにして も、この日は初日で、いわゆる「招待日」でもあったので、有名人が一杯客席に。 僕の前の席に某フランス人女性で、ファッション・コーディネーター的なことを している有名人が座っていたのだが、香水がきつい。臭くて舞台に集中出来ない のだよ。帽子を脱がないヤツ。髪の毛が逆立っているヤツ。レザー(新品)を 着てるヤツ。マナーとは一体何だろうか? (このメモをもとに12月売りの『太陽』にレヴューを書いたので参照されたい。 新連載の第一回である。) 10月23日(金)  いとうせいこう君と待ち合わせ有楽町の東京国際フォーラムへ。 金梅子&チャンム・ダンスカンパニーを観る。といっても、これは在日韓国人 婦人会の創立50周年式典のアトラクション。大阪弁のオバチャンたちがホー ルを出たり入ったり、オシャベリしたりのいささか落ち着きのない中でのパフ ォーマンスでした。しかし、一年振りに観たその至芸に感動。 そう、僕といとうせいこう君、押切伸一君は昨年「ダンシング・オールナイト」 の取材で韓国に行きチャンムの舞台、金梅子さんの踊りを拝見したりしたのだ った。(くわしくは「ダンシング・オールナイト」&「韓国グルーヴ行脚」参照)  今回の発見は韓国舞踊は「終わりのない」構造であるということ。生成と消滅を 繰り返す「振動」=「ダンス」。クレッシェンド⇔デミニエンド、緩⇔急。 ムーダンの「クッ」は24時間延々行われるが、それも実は「きりがない」もの なのだろう。でも在日のオバチャンは「オコメといで来るの忘れてた」から(?) 何度も「エ、まだ終わらないの。」と言ってたけどね。  上演後、楽屋へ。山田せつ子、黒沢美香(彼女は日韓ダンスフェスでまもなく 韓国で踊る)、詩人の八木忠栄夫妻、など行き交う。ダンサーたちとも旧交を 暖める。 10月25日(日) 神楽坂セッションハウスにて「神楽坂ダンス教室」。50数名の受講者。感謝。 10月29日(木) さいたま芸術劇場でラララ・ヒューマンステップスの『ソルト』。 今回は、トウ・シューズを履いた「ポワント」による動きの探究が中心。 というか、ダンス・クラシックのパ・ド・ドゥの「アダージュ」の足捌き、 回転、リフティング、をどのように拡張、変容、解体するか、ということ。 もっとも基本的な要素は「スピード」だ。とりわけトウ・シューズを履いて いる者にとってはかなり酷なスピードが課せられている。微妙な表現までを コントロール出来ないスピードに耐えること。この振り付けの難易度、スピ ードは、たとえばシルヴィ・ギエムなら、もっと「丁寧に、細部にも神経を 行き渡らせて」踊れるだろう。しかし、それでは振付家の意図を逃してしま う。 そこで、このあいだのスターダンサーズ・バレエによるフォーサイス『ステ ップテクスト』の「粗さ」「乱暴」が、すぐに思い出された。『ステップテ クスト』にも「スピード」が要求されていれば、あの振付じたいの「重さ」 と合わさって相当の強度を持ったはずだ。きっと僕はそれが欲しかったのだ。 おそらく、ダンサー達が初演から再演までの一年の間にレベルアップした この段階では、スピードは「スムーズさ」に利してしまう危険がある。 そこで指導に当たったA・リッツィは、あえてスピードを要求しなかったの かもしれない。この作品は既にスターダンサーズの重要な財産である。 次回はもうワンランク上になるだろう。 さて、『ソルト』に戻ろう。スターダンサーズの場合と逆に、ここに欠けて いるのは「重さ」だ。「情動」力、と言い換えてもいい。つまりダンサーの 自ら「動きを起こす意志」、「自転」性。端的に、ポワントの女性は男性に よって駆動させられている。スピードはおもに「加速」による。 「起きてしまった運動の力の渦に身を任せる意志」はあるのだ。急激な気圧 の変動、「空気の薄さ」には耐えている。ダンサーの思わず発してしまう気勢、 あえぎ、うめきにも似た呼吸。だが、さらに、それに抗して泳いでいくために は、もうひとつパワーが必要で、それは意志的に作られなければ出来ない。 ひとり(トウ・シューズを履かない)L・ルカヴァリエだけが、その駆動する 意志を持っている。ただし、今回はバレリーナたちの歯を食いしばって耐える 姿に比べ、危なげのなさ、軽さが出てしまったかもしれない。彼女はもっと ギリギリまでやってくれないと。 しかし、「死ぬまで踊る」的なロックの「ムーヴメント主義」に対する固執は やはりすごい。このダンスは終わらないないのだ。前回の『2』が 「夜になっても踊り続けろ」だとすれば、これはいわば、死後。始まりも終わり もない場所である。ならばこの「退屈さ」は当然か? 音楽悪し。チェロ、ピアノのベタベタした叙情(W・メルテン的なミニマル) が邪魔。 11月1日(日)  カニンガム『オーシャン』を観に新潟へ。遠い。実際の距離的には近い会場 までのアクセスの悪さはバカにしている。バスを3路線乗り継がねばならない のだ。そこで、タクシーで行く。すぐに建物が見えて来る。だが、そこからが 大変だ。道が螺旋になっているのだ。そして渋滞。いつまでも目の前の建物に たどり着かない。カフカだ。ま、車降りて歩けばいいんだけどね。 ■「自然(じねん)」(=惰性)に抵抗する「不自然」は「自然(しぜん)」 へ到達するだろうか? ■「叙景」(海)はリアリズムや心理主義、象徴主義とは関係ないのか? ■ 易による64個(人体の各部の位置の組み合わせ方による)×2=128 のパターンとその変形、といっても「見た目」にはたいして変化にならない。 ひとつにはそれがポーズ、スチールであり、フレーズ、「動き」ではないから か。知覚の習慣性。 11月2日(月) ローラン・プティ記者会見。4年振りに再会す。相変わらずの「落ち着きのなさ」 だ。どんどん勝手に喋るし、仕切りまくってました。ピナ・バウシュとオペラ座 の廊下でばったり出くわした話。新版『西麻布』、『ダンシング・オールナイト』 を手渡す。彼は旧『西麻布』第4章「ローラン・プティとグルーヴィな奴ら」の 英訳を読んでくれている。来週インタヴューの約束。掲載は「ダンスアート」誌。 11月5日(木) ロマンチカ『フローティング・バー/コケティッシュ』に。 銀座の東京ガスのイベント・スペース。ガラス張りの中でのストリップ・ショウ。 当然、外は通りを行くサラリーマンなどが立ち止まって黒山。テーブルと階段を 使って60〜70'sライク、ステレオタイプなショウイング。ポイントはドラグ・ クイーンの露悪的、過剰にデコラティブなキャンプ趣味は取らないというところ。 もっとプラスチックな、まあ言ってみれば今どきのレズビアン、「ガーリー」な センス。この選択は悪くない。欲を言えばもっとメイクやお肌の加工において プラスチックに決めてくれたら、と。 11月6日(金) ヌーボー・シルクのひとつ「シルク・バロック」のサーカス劇『カンディード』 を世田谷パブリック・シアターで。 サーカス芸のいろいろを芝居仕立てでみせるのというのは、あまり面白いと思え ないのだが、久しぶりにサーカスを観れて満足。 そう、サーカス芸のことこそを「曲芸」というのであった。もちろんこれは カニングハムのような鶴見済の言う意味での「曲芸」ではない。カニングハムの 「ご苦労さん」な努力は「統一体としての身体」、西欧近代の概念としての 「人間」をいかに超えるか、だということなのだろうが、サーカスじゃ、 ゴム紐一本、バネ一個で易々とそれを実現しているではないか。 (このことについては『ダンシング・オールナイト』で詳しく論じている。)
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