ダンス時評・「子供の国のダンス」便り [2]

≠〃ャ儿文字」的 !!

桜井圭介

:で、どうなの最近のコンポラ・ダンスは?
:皆±ω⊃冫ニ千ヮ★∋ぅ⊇ξ孑`⊂〃м○σ国∧!
:えっ?何?
:ジャジャーン!これは文字化けではありません。女子高生の間でブレイク中の、「≠〃ャ儿文字」τ〃→£★(=「ギャル文字」でーす。)
:あー、またこのオヤジ、若ぶってるよ。そんな嬉しそうにしちゃってさ(笑)。ケータイ・メールで、絵文字とかがフツーになってきたんで昨年の12月ぐらいから登場したっていう例のアレだろ。しっかし、すごい無茶苦茶な「当てはめ」だな、コレ。ところどころ漢字が無変換なのがマヌケだけど。
:「へん」と「つくり」になってる字はバラしちゃうんだけどね。これ、完璧にケータイのディスプレイの横書き仕様なのよ。縦書きだったら「かんむり」をバラせるわけだ。
これまでは記号(絵文字)という表意文字的なものと、あと、表音的には当て字(漢字の誤変換)だったのが、ひらがな、カタカナ、漢字ぜんぶひっくるめて「フォント」を「変造」するというのは、新しい発想だよ。
:たしかに面白いよ、面白けどさ、ダンス時評はどうするのさ?
:まあまあ。そう慌てないで。だって、スゴくない? コレ。「フォント」を「変造」といったけど、既に全部あるわけじゃん。それを、わざわざ半角カナやらギリシャ文字やら数記号やらを持ってきてさ。何のために? さすがにオジサンには理解不能だよ。でも、その「効果」「結果」は一目瞭然だ。文字がヨレヨレガクガク、「ヘタ」ってる!「ダメ文字」化してるんだよ。そもそも「フォント」つまり「活字」っていうのは、「効果」としては「読みやすい」とか「きれい」とかなわけでしょ。
:単にフォントで「手書き」のニュアンスを出したい、ってことなんじゃないの? ケータイ・メールは若者の一番身近なコミュニケーション・ツールだから。絵文字だって少しでも微妙な空気を文章に付加したいってことだったし。
:あ、そうか、わざわざ「活字」で「書き文字」を、しかも実際自分が書く以上に「ヘタ」にする方向で、ってことだ。
:それ、ちょうどリバイバル中の「ヤマンバ」(※1)(今は「マンバ」っていうらしいけど)と同じだよ。わざとブス&バカになるように、もっともっと!って特殊メイク追求していくアレらと同じ。嫌いじゃないよ。唇からはみ出さないようにじっと鏡を見て正確になぞる、じゃなくて、わざわざ厚底履いて友達とダベって歩きながら塗るとかして、蹴躓いてグギッとか口紅を暴走させて「ギャハハハハ、超ヤバくない?」っておっしゃるような感性は。その点、「センターGUY」は何か「ホスト」入ってるっていうかビミョーに「ヴィジュアル系」な感じがするんだけど。せっかくの「ヤマンバメイク」なのにキレイにまとめたがる、ダメだよあれは、って関係ないけど。
K
:そうだよ、「ギャル文字」も「マンバ」同様、強力なレトロ・ウィルス=「バカ・ウィルス」なんだよ。いかに立派な(大人な・男らしい)言説でもひとたび「ギャル文字」で表記されたが最後、その漢意(からごごろ)=ロゴファロサントリズム=マッチョを自動的にダメダメにしてしまう!
例えば、って急に出てこないけど、C・ヘストンの「我々は死んでも銃は渡さない!」(だっけ?)もホレ、この通り。「手戈々レ」歹ヒωτ〃м○金充レ」三度アナょレヽ!」どうです? 皆さんもブッシュやシャロンやあと自己責任とか言い出すバカのひとり悦に入ってる「暴言」を拾って来て、生ゴミ処理器にかけちゃいませんか。ギャル文字変換フォームのあるページは http://mizz.lolipop.jp/galmoji/ ね。
あるいは逆に「反日分子」とかだってギャル文字で書けば「レ£ωレニち┐〃冫シ」だ。こう見るとなんかカワイイじゃん。つまり、マチョな言説はバカに、逆に、反「帝国」的なるものはコワモテが取れてカワイイものになる。素晴らしい!「おんな(こども)」の「かな文字」の発明の再来だね。
:OK。よーく、わかったから、ここは僕にまとめさせてくれ(いつまでたっても先へ行けないからね)。
目下我々が扱っているところの身体、立派な身体&優れた技術を使ってわざわざバカになるコンポラ・ダンスの身体と同様に、きれいなフォントをわざわざヘタ字にして、威張った(マチョ)言説をダメダメにする「ダメ文字」=「ギャル文字」は「ダメ身体」である、と。いずれにおいても敵は「マチズム」「帝国」、ということでよろしいか?
:いかにも。って、どうもつい漢意しちゃうね俺たち。イカンイカン。

:じゃあ、そろそろ行こうか。どうなの、最近のコンポラ・ダンスは?
K:いやね、我々の「コドモ身体」「ダメ身体」的なるものは、だんだんと表に出てきてるよ。ようやく世間(っていうかダンス「業界」ってことだけど)が追い付いてきたというか。
例の長い名前のヤツ、ランコントル・コレグラフィックなんとか(※2)って、要するに旧バニョレ賞コンクールだけど、今年の横浜プラットフォーム、ラインナップ見た瞬間、笑っちゃったね。言ってみれば「これが今の日本を代表する新しい才能たちです」っていうことのハズじゃない、あれは。そこに「ボクデス」小浜とか、普通入るか?
:確かに(笑)。まあ、もしかしたら「噛ませ犬」っていうことだったのかも知れないけど、一番観客に受けてたのはボクデスだったよね。さすがにフランス人は「ニホンノダンス、クルクルパーデス、ヨクワカリマセンネ」だったかもだけど、赤レンガ倉庫にカニ汁・カニ味噌・カニ脚・カニ臭が飛び散ったのは痛快だったね。フランスでもそれをやって欲しかった。
K:結局フランス行きは該当者ナシだったけど、ナショナル協議員賞だって又割き状態でしょう。片方には「正当派コンポラ」の伊東郁女を、もう片方には康本雅子(3)だからね。
:彼女の上演作品『脱心講座〜昆虫編』は、「洗脳ビデオ教材」(さあ、今から本当のあなたに戻りましょう、本当のあなた、それは昆虫です)で昆虫になっちゃうなどというフザケタもので、これもバカ・ウイルスとしては相当強力でしたね。
:康本は見た目はボサーっとしてて、その辺を歩いてる今どきのフツーのネーチャンだけど、じつはダンサーとしては相当なテクニシャンでしょ。ところが、その持てる才能、しなやかさ、繊細な身体コントロールをわざわざ駆使して「バカ」「くーだらない」「キテレツ」方向に向かうんだな、なぜかこれが。
:例によって、技術の「誤用」による今日的善用、って言いたいわけね。
:はい。毎度フォローして頂き恐縮です。で、話を「ランコントル横浜」に戻すと、とにかくバカ路線、要するに「ダメ身体」系「コドモ身体」系も、もはや無視出来ない程度の「勢力」にはなってるんだな、と。
S:うーん、でもカウンターなものが反転してメインストリーム化する、っていうのは何だかなー。
K:いや、僕はそういう論理はオカシイと思う。この国ではこっちのほうが主流なんです、ってことでいいと思うね。それを認めたくない既成勢力の人々がいるというだけです。路線闘争だよ。で、こっちには大衆の支持がある!ビバ!



S:きょうはやたら吼えるな(笑)。ひとまずその話は置いといて、最近のヒットは?
K:何と言っても、広島の「身体表現サークル」(※4)だね。これには驚いた。写真を見れば男2人がフンドシ一丁で、「何だよ、色モノかよ!」と思うだろうけど、実際「色モノ」でさ(笑)。「男どうしのSMプレイ」や「体育会ノリの大バカ」をネタにした、要は「宴会芸」というか。基本は肌をピシャピシャと叩き合うことで‥‥、
:あー、まるっきり農大ダイコン踊りやワハハ本舗とかの類じゃん。 それ、ちょっとサムくない?
K:まあ、ちょっと待って。例えば、腕を水平に広げ体を左右交互に四分の一回転する、ちょうど振り子状に。もう一人が前に立つ。と、それは自動平手打ち機と化す。
:くだらねー!
K:いや、まあ、下らないですけど(笑)。 あるいは、平手打ちされた一人が反動で一回転して戻ったときにもう一人を叩く、これが交互に繰り返され永久運動機関となる、とかね。彼ら美大で彫刻専攻と聞いてなるほどと思ったけど、これ、つまり「モビール」としてのダンスなんだよ。ある意味、広島から一気に東京・今どきを通り越して、バウハウスのオスカー・シュレンマーや60年代ミニマルといった、いわば欧米のダンスの「オルタナティブ」に接続している、とも言える。
:つまり、こういうことかな。欧米や東京のトレンドに情報としてすら接する機会の乏しい場所では、ほとんど妄想としてダンスが想像され創造される。「コンテンポラリー・ダンス」ってこんな感じスか?ってね。劣悪な(?)環境のなか、各自ありあわせの材料をやり繰りして「想像」で「ダンスらしきもの」をデッチあげるのだから、いきおいデタラメ度というか革新性は高まるというわけか。そこではもはやダンスとは「麒麟」や「鵺(ぬえ)」の域だ(笑)。
:でもさ、「宴会芸」というものがそもそも、おのれの「バンカラ=マチョ=ホモソーシャル」性に対する批評行為(笑ってやって下さいバカな俺らを、という「自己ツッコミ」ね)即ち「アート」なんだよ。彼らの「宴会芸=アート」は、体を単なるオブジェとして扱うことによって「男の裸体」と結び付くマチズムを挫き、「もろ肌を叩く」といった行為が帯びやすい情念やらエロスを、機械的な反復によって萎えさせる!ほら、ここにも「バカ・マッチョ=ブッシュ」「帝国」に抗う身体、コドモ身体がある!ってことだよ。ガルルル!
:はいはい、落ち着いて落ち着いて。ダンス固有の問題から言えば、ダンスというジャンルが「肉体」の表現であることから生じる美のヒエラルキー(立派な体の目ざましい躍動)をなし崩しにする、そうした破壊力がこの「鵺」=「ダンスらしきもの」(宴会芸とも言うけど)にはある。少なくともそのことだけは言えるね。


:この意味においては、室伏鴻が若い男の子たちと始めた「Ko & Edge」の作業も共通しているんじゃないかな。いや、「身体表現サークル」のフンドシ一丁に対してこっちは黒の海パン一丁、っていう見た目の近さっていうのもあるけど(笑)。
:昨年末の「土方メモリアル」という企画の委嘱作品『美貌の青空』だね。あれに登場した真鍮板は土方の『肉体の叛乱』からの引用でしょ。
:真鍮板の出典はそうなんだけど、室伏はここで『肉体の叛乱』(68)の土方つまり「猛り狂うマチョ身体の最後の叛乱」を踏襲すると見せかけて、むしろ、前回ここで話題になった最初期の『あんま』(63)をやろうとしたんじゃないかな。若者たち、舞台に登場した時は意外と筋肉ムキムキの「立派な身体」で、さすがに舞踏の身体、今どきの若者とはいえ、生っ白い「身体表現サークル」やボクデス小浜のヘナチョコ身体とは違うな、と思うわけ。ところが、その立派なガタイを使ってやることといえば、重さ18キロの真鍮板を背負ってぶん回す!
:ああ、それは確かに『あんま』の男2人を首に引っ掛けてぶん回す「大車輪」的なものだね。立派な身体を大変な努力を傾けて無意味な、デタラメな行為にのみ使用する、ということね。
:でしょ?ここではいくらマチョ身体でもただの「木偶の坊」にしか振る舞えないんだな。18キロの真鍮版だよ。担ぐだけで精一杯だよ。ここで目論まれているのは、男=マチョによるギリギリの(毒をもって毒を制する式の)マチョ批判=フェミニズムではないか。原理的にファロスとして屹立せざるを得ない男の男性性=暴力性を全開にさせながらも、それをまったくのデタラメ=無意味や虚空(美貌の青空!)に放擲すること、によって「マチズム」との結びつきを挫く、という。
:つまり、『肉体の叛乱』の読み変え、暴力=死の欲動を「ヒューモア」へと誤読する的なことか。でも、その方法は両刃の剣だよね。一歩間違うと、これまた前回問題になった、大きな石を背負って踊る田中岷の「立派な身体が己の限界に挑戦するような負荷を設定して、その試練をくぐり抜ける」的なものに接近しちゃったりする危険性はない?
:うん、そこが一番大事なポイントでしょうね。ところが、先日上演された『Heels 』は、『美貌の青空』の改訂版というか、基本的な構成はだいたい同じだったんだけど、はやくも「新兵器」が投入された。12センチの「ピン・ヒール」! もちろん全員がヒールを履くのは生れて初めてという。当然、足元はグラグラ、ガクガク。その上で18キロの真鍮板だからね。
:うわっ!そりゃまさに「拷問具」だ。しかも相当に「間抜け」な(笑)。
K:そう。いくらカッコつけたダンスを踊ろうとしても、足首から上がどんなに立派なボディでも、赤いハイヒールなど履いた日にゃ「間抜け」にしか見えないよ。つまり、マチョは二重に「封殺」されることになるわけだ。だいたい、「ハイヒール」っていうのは、ともすると「女性」性や「倒錯」性さもなければ「おかま」性(お笑い)の「記号」となりがちなものだよね。
:ピエール・モリニエ的なというか笠井叡的なというか梅ちゃん的なというか…ね。とにかくそういういろんなバイアスがかかったアイテムではある。代表的なフェチ対象だし。
K:そういうアブノーマル/ノーマルを問わずエロティシズムを喚びこむような装身具、「舞踏」においてもクリシェとなった衣裳を、「意匠」としてではなく、物理的な枷を課すための単なる「器具」として用いる。
:マチョ封殺のみならず、というかそれに随伴してどうしてもダンスとエロスの結びつきをも断ち切るという話になってくるね、君の場合。それがいいんだか悪いんだか、微妙だけど。
:あ、そうか。「非エロス」的身体としてダンスを措定する、ということか。それって、じつに「コドモ身体」のもうひとつの身上かも。今初めて気付いたけど。「カジュアリイティ」ってつまりは「お水」っぽくない、ってことじゃん。今どきのこの場所のコンポラ・ダンスが、歴史的にも世界的にも「画期的」なのは、その身体にフツーの意味での「売淫」性が希薄であるから、と。フロイトの言う超自我=文化っていうのは、普通に考えると理性=「大人」ってことなのに、「コドモ」身体がそのような働きをするということは‥‥‥、
S:あー、また大風呂敷広げはじめたよ、この人。絶対自分の首絞めることになるね。だいたいさ、アンタこれまで10年以上「ダンスはグルーヴだ!」とか「自分で踊るそのときの快楽をすべてのダンスを見る基準とする」とか「ダンスとはカラダのエクボ」とか、さんざん言ってたよね。ダンスとエロスの関係を完全に切り捨てちゃうと、そういうのをことごとく裏切ってしまうことになるけど、分かってる? ブッシュ&シャロンが許せないのはわかるけど、マッチョ憎くけりゃなんとやらで、「去勢願望」というか「自己処罰」傾向に走ってない?
K:うーん。そのことについては、ここ最近ずっと悩んでるんだよね。とにかく、ご忠告ありがとう。この件は次回までの宿題ということにさせてください。なにしろ、たった今、思い付いたばっかりだから。熟考してから出直します。で、今言えるのは、やっぱ室伏鴻は「身体表現サークル」的なことを「わざわざ」やってくれてるんだ、と。あの手この手を使って、ものすごい努力でもって「ダメ身体」を作る、フォーサイスと同じだよ。「持てる者」「エリート」であるにもかかわらず、っていう、ね。


:フォーサイスもこないだ久し振りに来たね。5年振りの来日公演(※6)だったけど、「肩透かしを食った」という向きが多かったような。
:だって、「バカ・パワー」全開だったもん。例によって「超絶技巧」や「高性能」を期待して来る客層にとっては当然「?」でしょう。特に、最新作『Wear』(04)はいい意味で「肩透かし」「オヤジ、見事にハズしてくれたよ」という感じ。とにかくショボいというか情けないというか。「凍死寸前のホームレスの男女がウロウロする、ただそれだけ。」みたいな作品でさ。不条理コント?
:フォーサイス的にはロバート・スコットの話らしいよ。ノルウェーのアムンゼンとの南極点初到達レースで、勝ったと思ったら計測間違えてて、あげくの果てに吹雪で遭難しちゃったイギリスのスコット隊の話。ま、それも見方によれば「トホホ」な間抜け話だわな。
:「人生‥‥意味ナシ!」ってか。で、タイトルが『Wear』っていうくらいで、ダンサーがみんなものすごい重ね着で着膨れしててさ、ほとんど「着ぐるみ」状態。安藤洋子なんか巨大なアフロのカツラまでかぶって登場してさ、ちょっと動くたびにアフロヘアがユッサユッサ(笑)。「振り」はフォーサイスのいつものアレでほんとは微細な表情に満ちているはずなんだけど、ディズニーランドの「着ぐるみ」ショーみたいに見えちゃうんだな。
S:つまり、服の下でいかにすごいダンスが踊られていようが「間抜け」にしか見えない、と。室伏鴻のハイヒールと同じような効果がある、と。
:そう、あと「ギャル文字」もね。スコットさんの話だとしたら、本人は必死の思いで偉業を成就せんと行為しても、端から見れば、結局のとこ「ぬか喜び」してコケちゃった「間抜け」に過ぎない、ってことでいちおうは整合性があるな(※7)。
:今回のプログラムのなかでは、『N.N.N.N 』(02)に人気が集中してたかな。フォーサイス流の「コンタクト・インプロヴィゼーション」というか、4人の男性ダンサーが相手からの働きかけを受けてムーヴメントの連鎖を展開する、そんな作品だったよね。ムーヴメントの「尻取り」という感じで、客席から結構笑い声も聞こえたよ。
K:これがさー、コンセプト的には「身体表現サークル」と同じ!なんですよ、じつに。で、「身体〜」のほうが面白かったりして。いや、もちろんフォーサイスのほうは、ものすごい速さだし、複雑なことやってるんだけどね。
:だから、それはさっきから君が言ってるところの「立派な身体」「高度な技術」を持てるエリートが、にもかかわらず、わざわざそれを駆使して「デタラメ」「無意味」「バカ」をする、ってことでいいんじゃないの?
:こりゃ、ごもっとも。今、欧米で(しかもエスタブリッシュされたダンス作家として)かほど「バカ」をカマしてくれるのは、フォーサイスぐらいかもしれないからね。
S:しかし、こうしてみると、プログラム中『クインテット』(93)だけ、フォーサイスとしてもいささか古い表現に見えてくるな。96年の日本初演の時は、これを見て泣いたんだよ、ワシ。「噫、無情」ってね。消滅の美学ってヤツにさ。
:もしかして『Wear』って、『クインテット』のパロディになってるんじゃないか?かつては「審美的」に描かれた「ポスト・ヒストリー」世界を、2004年にふさわしく、ジャンキーなホームレスの不条理コントに仕立て直したというか。ちょうど『クインテット』でダンサーが出たり入ったりする穴(墓穴?)がある辺りが、「Wear」では簡易シェルター(?)の位置だったし。
でもさ、『クインテット』自体も、今回の上演は奇妙だったよ。もともとダナ・カスパーゼンの踊ってたパートを今回、安藤洋子が踊ったわけだけど、これをまったくの安藤のキャラで押切ったところに、ある意味面白さはある。バカがつくほど明るい(能天気)な安藤キャラ全開の「はしゃいだ」「キュート」な踊りによって、もともとの終末感というか、「黄昏」感は後退して、白痴的なイノセントの遊戯、といったニュアンスに染めあげられてしまった。で、それはそれでいいのかしもしれない。つまり、2004年の『クインテット』のほうも、自己パロディの色調を帯びてる、ってこと。
S:あ、ひょっとして批判されてるのは俺? つい「美」とかいうものにコロっといってしまう性向を自戒しろ、と。さっき「ダンスとエロスの紐帯までも切ってしまうのはいかがなものか」と言ったアレの仕返ししてるわけ?
:そこまで考えてなかったけど、確かにそうかも。いや君のことじゃなくてさ(笑)。1996年の『クインテット』の時点では、「男根的ダイナミクスをまったくふくまない作品」(※8)を作ること、つまり非=マッチョであるというところまでで止まっていたのが、今やフォーサイスのこの自己パロディの方向性は、非=エロス、非=美学(非=否定神学)としてのコドモ身体のほうに向かっているよ。ニブロールを「コドモのフォーサイス」とするなら当然フォーサイスは「大人のニブロール」ってことだろ、と思ってたけど、今や「どっちもどっち」になってきた?
:うーん。やっぱり、それがいいんだか悪いんだか微妙なところだ、とおじさんは言っておくよ。


(2004年6月)


※この原稿は京都造形大・舞台芸術センター発行『舞台芸術』誌第6号 に掲載されたものを加筆・修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

「前回までのあらすじ」
『舞台芸術』4、5号もしくは下記ページに掲載の本文をお読みください。
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html

http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomonokuni.html
ギャル文字 50音表
http://members.jcom.home.ne.jp/cmx/tx/gal.html
※1ヤマンバ・マンバ
基本的にはかつてのヤマンバをコピーしているが、目の回りにハートや星のネイル・シールを貼りまくる、毛糸の細かな三つ編みの付け毛、などいくつか新しいポイントはある。旧ヤマンバに好意的なS氏には気の毒だが、マンバは厚底は履いていないし、ガングロは日焼けサロン肌ではなくファンデーションである。いまいち根性入ってないのだった。詳しくはコンビニで『エッグ』誌(大洋図書)をチェックのこと。「センターGUY」は渋谷センター街に登場した男性のヤマンバで、一説によると「センターGUY」に刺激された女子が「マンバ」として登場したともいわれる。ほぼ女子のマンバ同様のメイク、ファッション(もちろん女もの着用)だが、前髪をトサカ状に立てるなど、微妙にヴィジュアル系のセンスが加味されている。
なお、かつてのヤマンバがそのピークを迎え消滅する直前に書かれた拙稿『無根拠な身体〜かくも過剰
で希薄なリアルについて』(美術手帖2001年4月号初出)を参照されたい。掲載は以下URL
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/superflatbody.html
※2 ランコントル・コレグラフィック・アンテルナショナル・ド・セーヌ・サン=ドニ。

2004年1月10,11日横浜赤レンガ倉庫1号館で行われた横浜プラットフォーム出場者は、伊藤郁女、岩淵多喜子、岡登志子、岡本真理子、小浜正寛、高野美和子、康本雅子。
※3康本雅子
以前より松尾スズキの舞台作品の振付を手掛け『業音』では自身も出演。最近ではニブロール『ドライフラワー』(04年2月)に出演。2004年7月トヨタ・コレオグラフィー・アワード本選に出場。振付作品に『脱心講座』『夜泣き指ゅ』など。
4 身体表現サークル
2003年のJCDN『踊りに行くぜ!』に出演、話題となる。2004年トヨタ・コレオグラフィー・アワード本選に出場、オーディエンス賞受賞。2005年「誰でもピカソ」アート・バトルにて村上隆より「審査員特別賞」。「横浜トリエンナーレ2005」招待作家に選出される。
http://gakitai.web.infoseek.co.jp/
5「Ko & Edge」。
2003年12月JADE フェスティバル「土方メモリアル」において、『美貌の青空』、2004年4月神楽坂ディプラッツにて『Heels』を上演。いずれも構成・演出・振付=室伏鴻、出演=鈴木ユキオ・目黒大路・林貞之・室伏鴻。
6 「安藤洋子×W・フォーサイス」 
2004年2月世田谷パブリックシアターにて公演。
※7 安藤洋子をフィーチャーした「情熱大陸」の監修の仕事をした関係で、前月に行われた初演のビデオを見ていたのだけれど、はやくも「中程度」の変更が加えられていた。特に、ラスト。今回は帯状のリノリウムで作ったパオのような簡易ハウスを男2人がロープで引っ張るとグシャっとつぶれていく、というものだったが、初演では、パンツ一丁になった男2人が、まず、自分のブリーフの股と股の間にロープを通し、安藤を引っ掛ける。そのまま男2人に引っ張られるように正面を向いた安藤が引きつったようなダンスを踊りながら後ずさって行く、という終わりかただった。このことが典型的だが、初演から比べると、全体に「マヌケ度」が落ちて(抑えられて?)いる。にしても、今、欧米でここまでやってくれれば評価しなければならないということは言える。
※8 浅田彰によるフォーサイスへの電話インタヴュー『テクノロジー(としての)身体』(97年『インターコミュニケーション』誌11号掲載)よりフォーサイスのコメント。直接的には『失われた委曲』もしくは『アズ・ア・ガーデン・イン・ジス・セッティング』についての言及と思われる。
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