ダンス時評・「子供の国のダンス」便り [3]

マッチョメマッチョメ!!」(by 梅図かずお)

桜井圭介

:で、どうなの、最近のコンポラ・ダンスは?
K:いや、今日は演劇の話題から始めたいんだな。
S:へえー。もしかして、演劇における「コドモ身体」「ダメ身体」とか? あ、分かった、アレでしょ、「チェルフィッチュ」(※1)!
K:当たり。前号の内野儀さんの時評でも取り上げていたので、基本情報はそっちを参照してもらうとして、とにかく俳優の身体が驚異的に「だらしない」!「落ち着きがない」!んだよ。「セリフ回し」も「立ち居振るまい」も。
S:筋道立てた話し方が出来ない、すぐ話が跳ぶ、既に言ったことを何度も繰り返す、一向に要領を得ない。あるいは、ちょっとの間でもじっとしていられない、まっすぐ立っていられない、話してる間ずっと片腕をブラブラさせてるとか、片足をちょっと前に出した立ち方で重心を頻繁に交互に移動し続ける(見え方としては話しながらずっと肩を揺すってるように見える)とか、そういう「今どきの若いヤツ」の喋り方&立ち方そのものだよね。よくぞここまで「リアル」な「演技」を!っていう感じでしょ。
K:もちろん「ダメ」キャラ、「ヘンな奴」キャラ、もっと古い言葉で言えば「個性派」俳優というのはこれまでにもいっぱいいたわけで‥‥
S:神戸浩とか温水洋一とか荒川良々とか、前にここでも話題にしたクボヅカとか五月女ケイ子(『男子はだまってなさいよ!』の)、古くは殿山泰司とか大泉混とか、あと『タケちゃんマン』の「吉田君のお父さん」とかね(笑)。
K:そういう「ダメ身体」をうまい具合に舞台に乗っけることで成立する演劇というものは、これまでもあった。あ、今かなり乱暴に図式的な言い方してますけど。ところが、チェルフィッチュの場合、俳優の「特殊」性を「活かす」、言い方を変えれば役者の「特殊」性に「依拠」するのでなく、意識的に「ダメ身体」を我々の今の身体の「フツー」「常態」として捉え、演技の「標準」にしているんですよ。
S:ちょっと待って、少し整理させてよ。えーと、これまでの演劇で言うと、新劇やアングラ演劇〜小劇場演劇に対する批判として90年代に行われた実践がまずあるよね。つまり、新劇の「立派な身体」「立派な立ち居振る舞い」、アングラ演劇の「大袈裟=ネガティヴ方向の立派」に対して「それ、リアルじゃないよ」という。平田オリザの「現代口語演技」は「普通、そんなに大きな声で会話しない」「普通、そんなに背筋を伸ばしてくつろがない」っていうように「フツー」ってことを「リアル」の謂いとして持って来たわけでしょ。一方、大人計画なんかは役者の揃え方とか使い方から見てもアングラに連なる系譜に位置付けられるかもしれないけど、彼等がアングラから引きついだものは、新劇批判だけじゃなくて、平田オリザ批判でもあり得るような「フツーっていうけどやっぱ嘘じゃん」という視点で、それは、標準語という実体的な言語(リアル・トークン)はない的なというか、「その普通はいくらそれらしく見えようとも所詮は近似値的な普通、抽象化された普通に過ぎない」ということだよね。
K:実際、荒川良々は実体として存在してるんだから、胸を張って「こっちのほうがリアルだぜぃ」って言える。
S:内野さんが例えば『現代詩手帳』に書いてた整理の仕方(※2)でいくと、一方に、「フツー」をもって「リアル」とする平田オリザが、もう一方には、平均的(近似値的)な「普通」の俳優や演技ではなく「特殊」俳優のレアな身体の提示をもって「リアル」とする松尾スズキがいた、その二つの流れの合わさる地点にチェルフィッチュ=岡田利規が出るべくして出てきた、ということになるわけだね。つまり、岡田は平田的方法でもって松尾的身体を立ち上げる、と言えるのかもしれない。
K:それもこれも我々のこの場所の「普通」が様変りして、今や「ヘンなヤツ=フツー」状態になっちゃった、ってことが大きいよね。内野氏も言うように、平田オリザ的「(自称)普通の人」はたかだか「中産階級」つまり「オヤジ」という「特殊」になり、この今の状態を「先取り」してきた松尾スズキは「停滞を強いられている」と。
S:でもさ、「ダメ身体」を「方法」で、って言ったときに、それはダメ身体の立ち居振るまいを「演技」として「造形」するってことなのかな? もしそうだとすれば、それも「近似値」でしかないってことにならない?つまり、鴻上的な、「技術」でダメ身体も作れる実はスーパーボディ、っていうアレにさ。
K:ならない。ここでは、スーパーボディであろうが、立派な身体であろうが、有無を言わさずダメ身体にさせられてしまうんだよ。チェルフィッチュの俳優は、筋道立ってない、一向に要領を得ない、とにかく甚だしく錯綜したセリフを喋んなきゃならないわけだけど、それを、例えば、熟練した俳優であれば、完璧にこなせるかもしれない。でも、やっぱりそれは近似値的なものになるだけ、所詮はリアルを装った「演技」だよね。ところが、そのしちめんどくさい台詞を喋りながら、同時に、片腕をブラブラさせてるとか、片足をちょっと前に出した立ち方で重心を頻繁に交互に移動し続ける、という身体行為をかなり厳密に指定されるわけ。すると、セリフ回しを完璧にコントロールしようとする意識の集中が邪魔される。逆に、動作を完璧に遂行しようしても、複雑怪奇に行きつ戻りつするセリフを喋りながらやらなきゃいけない。ということで、動きとセリフの関係は無関係だしその上、一方が一方の完遂を阻害するように作用する。
S:つまり、それらしい「演技」で、技術的なコントロールで「だらしないフリ」をしようとしてもできない、ていうか、フリ=演技モードから強制解除させられるというわけか。
K:これって、ニブロールで、ダンサーが与えられた振りの一つ一つを丁寧に正確に踊ろうとするのを「100倍速く動け!」っていう指示によって封殺するのと同じなんじゃないかと思うんだよね。岡田さん本人に聞いたんだけど、この「何か無関係な行為をしながらセリフを言う」という方法は、台詞やアクションにおける「(コントロールしようという)意識の張り付き」をいかに解除するか、っていうすごく基本的な問題から出てきてるんだよ。
S:何かアレを思い出すね、マチャアキの『チューボーですよ』。いちおう基本はトーク番組なんだけど、ゲストは包丁で野菜切ったりしながら受け答えしなきゃないんないから、狙った「演技」はなかなか出来ないようになっている。
K:あ、ということはさ、もしかしたら「理路整然」とした「立派なセリフ」とかに対しても、これって有効なのかな?ギリシャ悲劇とかを格調高く抑揚付けてやろうとしても、背中掻きながらとか、何ならキャベツの千切りしながらやらなきゃいけないとなったら、調子狂っちゃうじゃん(笑)
S:その「有効」っていう意味がわからない(笑)
K:で、チェルフィッチュ、何と、いきなり「ダンス」作品を発表したね、『クーラー』(※3)。っていうかいつかこの日が来るだろうと思ってたわけだけど。結論から言えば、そこには、いつものチェルフィッチュの「芝居」であると同時に最高にグルーヴィな「ダンス」があった。
S:男女2人が向かいあって立っている。会社でクーラーの設定温度が気がつくとすぐ23℃になっていて、信じられない、寒くて仕事にならない、犯人は誰か分かっている、という女。それに対して、それはヒドイ、女性の場合よけいツライですよね、今すぐ警察に通報しましょう、などどテキトーな応答をしていたかと思えば、TVの討論番組の出演者は言うことを全部決めてきていて相手の意見などおかまいなしに何が何でも言い切る、そういうのは自分的にはある意味勉強になる、と無関係な話を始める男。そして、お互いの話にまったく反射的に返す「ええ」「ええ」という頷き。だいたいこんな感じで、あっと言う間に説明出来ちゃった。
K:基本となるセリフは量としたらごくわずかで、この基本形の反復、部分的使用によって全編が構成されていく。かなりはやい時期にセリフが一通り出尽くすし、同じセリフが2,3回登場すればもう見てる我々は覚えちゃう。すると、もう、意識は筋を追うとか意味内容を把握しようとすることから解放されて、「音楽」を、“歌モノ”ダンス・ミュージックを聴いているような状態になるんだよ。
S:さらにそこには、寒くてじっとしてられない女のモジモジと、普段から落ち着きのないヘラヘラ男の、体を揺すったり、足をブラブラさせたりするとった動作が例によって付随している。それで、もうそこにあるのは、まぎれもなく「ダンス」である、と。
K:単純にその動作がダンスだ、っていうんじゃなくて、セリフ込みでグルーヴが出てくるんだよね。最初はフツーの芝居と同じように見てたんだけど、気がつくと、自分の身体が舞台上の身体とお喋りにものすごい勢いで同期していく、つまり一緒になって「踊ってる」という事態に。「ええ」「ええ」っていう頷きとか一緒になってやっちゃう。ほとんどヒップホップ聴いててリズム取ってる時の上下動(笑)。こんなにカラダに「来る」台詞劇(いちおう形式としては)はないよ。
S:しかも、そのどうでもいい会話のバックに流れているのはマーラーの第九シンフォニー!
K:よもやマーラーで踊れるとは思わなかったよ、俺も。そういえば、『クーラー』って、絵としては「アベック歌合戦」みたいだな。向かい合って「踊りながら会話する」わけだから。
S:といっても、若者には通じないよ。60年代のテレビ番組で、要はアベック(カップルのことね)単位で出場する「素人のど自慢」番組なんだけど、参加者が出てきて、歌う前に司会のトニー谷となぜかツイスト踊りながら掛合いで自己紹介するわけ。「♪あなたのお名前なんてーの?」「♪山田太郎と申しますー」って。それが一世風靡してね、子供たちの間でもよくやってたよね。なんでもかんでも踊りながら歌で会話するの。
K:それを、大の大人が嬉々としてやってた、あれこそ「コドモ身体」以外の何ものでもないね。
S:ホント、「さいざんす」(by トニー谷)よ。

K:じゃあ、これはどうかな。いかにダンス的な所作であっても、考え事をしながらの歯ミガキやテレビを気にしながらの皿洗い、鼻歌でも歌いながらの洗濯もの干しのような感じで「踊る」、そういうダンス。
S:例えば?
K:「砂連尾理+寺田みさこ」(※4)とか。彼らの身体のありかたは、強く輝かしい雄弁な(マチョな)身体ではなく、ちょっと頼りなさげな「フツー」の身体、あえて言えば弱い身体・言い淀む身体、というか。だから、それを「日常性」のダンスと言ってもいいかもしれない。でも、実は、彼らは、非ダンス的=日常的動作をダンスとして踊るのではなく、むしろきわめてダンス的身体運動を語彙としている。ただし、それを日常の動作をするように行う。つまり身体の状態、いわば身体の「たたずまい」が「フツー」。これも、ニブロールなんかとはまた別のしかし「もう一つのコドモ身体」なんじゃないか。
S:なるほどね。たしかに、ダンス的なフォルムを踊っているんだけど、通常ダンスがきれいなラインをくっきり描こうとして消してしまう線の縒れやかすれのような、あいまいだがビミョーな表情をたたえた身体だよね。決して「がさつ」「ルーズ」な身体ではない。気張らずテンパらず、低めのテンションをキープする。
K:寺田さんなんて、れっきとした現役のバレリーナなのに(笑)「あー、もうシンドイわー」って深夜の茶の間で一人ため息つく芸者、みたいな踊りするからスゴイ!
S:あるいは、女の子2人のユニット「ほうほう堂」(※5)なんかもそうだな。彼女たちも、「カワイイ&カジュアル」で、「珍しいキノコ」の妹、っていう感じに何となく受け取られているけど、実はかなりダンス的な「フォルム」を備えている。たしかに動きの端緒は日常動作というか少女の仕草なんだけど、シークエンスの転がし方は幾何学的なラインを引くことで展開していくでしょ。
K:例えば、後ろからポンポンって肩を叩く。相手が振り向きざま、逆側から回りこんで前に来る、それを交互に繰り返すことでラインが前方に引かれていく、とか。貫成人氏が、ほうほう堂とジョージ・バランシンとの間に「遠いところでの共鳴」が見られる(※6)、って。この指摘はまったくその通りだよ。バレエのパ・ド・ドゥの場合のように、ウエストを背後から支えられて弓なりに反って前方へオフ・バランスしていくとか、腕を頭上で掴んでもらってシェネみたいに回るとか、
S:バランシンの専売特許の「輪くぐり」もある!
K:で、肝心なポイントは、そういう幾何学的運動を、ロー・テンション、日常的な身体のたたずまいでやる、と。ほうほう堂を見てると、かつてバランシンに感じた「眼の喜び」と、今の自分にとってのもの足りなさが何なのか解ってくる。それは、アール・デコの壁紙のような幾何学的ラインの精緻な連なりの織りなす快であり、でも、それに目が慣れてくると、線の均一さ、ドローの正確さが単調に思えて来る。
S:そこから必然としてフォーサイスが出て来たわけだ。もっと複雑な幾何図形、どんなグニャグニャした立体もコンピュータの3Dソフトで描けます的な。
K:でも、ほうほう堂は、逆方向に行く。つまり、パターンそのものはシンプルなんだけど、フリーハンドで描く幾何図形みたいなことなんだな。しかも、製図用ペン&インクじゃなくて、クレヨンとか筆ペンで。筆圧、筆勢が均一でないから、線がよじれたりかすれたりしぼんだり。あと、彼女たちの場合「鼻歌うたうように」っていうより、実際に鼻歌歌ってるんじゃないかと思うんだ。新作のタイトル『るる ざざ』(※7)っていうんだけど、動き=筆致のニュアンスが全部「擬音語」的なんだな。つまり、普通のまっすぐな線でも「でゅるでゅるでゅるでゅる」って歌いながら引くのと「スパーーーッ!」って歌いながら引くのとでは違ってくる、そういうところがあるね。
S:そう言えば、アンタ、かつて本人たちに向かってイジワルにも言ったことがあったよね。「君たちのダンスは“ゲンブ”ちっく(※)なただのモダン・ダンスを、テクニカル・リハーサルの時とかにやるように、流してダラーっとやってるような「だらしなさ」でしかなくて、カンチガイ、間違っただらしなさだ」と。つまり、それは脱力とかフツーっぽさを装ってるだけだ、と。
S:何がどう変わったんだろう?
K:うーん、何だろう。例えば、クラシックの難曲を風呂場で無意識裡に鼻歌うたうというような場合を考えてみる。これが可能なのは、まず曲が身体化される程度には把握(記憶)されているからでしょう。つまり、それは、うろ覚えの口ずさみとは決定的に違う。あるいは、定規使おうがフリーハンドであろうが、一個の建築物の図面を今ここで引けと言われたとして、長年住んでいる自分の家なら、まず誰でも可能だよね。
S:要するに、テキトーに、雑に把握するんじゃなくて、身体化されるまで丁寧に踊り込むという過程を経てのだらしなさ、ということか。
K:ということはさ、この「ほうほう堂」や「砂連尾理+寺田みさこ」の「きわめてダンス的なムーヴメントを日常的な身体のたたずまいで行う」というのも、「技術」の「誤用」=「善用」と言えるわけだ。とにかく、こんなアプローチは絶対この場所にしかないよ。
S:すぐそういう言い方をする。この場所の特殊性に何でも還元するのはあんまりよくないんじゃないか。万国の「コドモ身体」と連帯する的な発想にいかないの?
K:ダンスにもマイケル・ムーア的なのがいればね。あ、ロバート・ラウシェンバーグ! こないだ彼の60年代のパフォーマンスの映像を色々見たんだけど、あれはまさに「ダメ身体」だよ。有名な『ペリカン』(63)のパラシュート付けてスケートするとか、ゴムタイヤの溝に両足入れて無理矢理回転させて前進するとか、ベッドのマットに2つ穴あけてそこから両足入れて歩くとか。とんでもなくバカな(笑)ものばっかり。
S:わざわざ「動きにくくする」というのが彼の一貫したコンセプトだね。ダメ身体のための逆矯正具っていうか。彼の担当したM・カニンガムのカンパニーの美術・衣装も、やはりダンサーの動きに対して干渉するとか邪魔するように機能している。
K:ていうか、もっとバカに見えるようにさらにアホに見えるように、っていう感じ? カニンガムのダンス自体も、高度なテクニックでかつヘタに見えるような動きかたで振付されてるけど、さらに、ラウシェンバーグの衣装が加わると、例えば、両足に空き缶がいっぱいぶらさげてあって、足の上げ下げの度にガラガラと音を立てるとか、袖やスカートのプリーツがジャバラになっていて、手や足を動かすたんびにくエリマキトカゲみたいに開くとか、とにかくダンサーが何をしてもマヌケにしか見えないようにって、イジワルしてるとしか思えない(笑)。
S:こないだの室伏鴻の真鍮板とかハイヒールと同じだね。ほら、こうやって考えていけば、我々のコドモ身体も欧米のダンス&パフォーマンス・アートの文脈に接続可能じゃないか。ラウシェンバーグとか、カニングハム〜ジャドソン・チャーチ・グループ(いわゆるポスト・モダンダンス)とかって、要するにダンスのデモクラシー化、ダンス・リベラリリズムだったわけでしょ。
K:ところが、現在のダンス状況から遡行したいわば「コンテンポラリーダンス史観」だと、あの辺りの仕事が甚だしく過小評価、っていうかまったくネグられちゃうんだよ。僕もかつてはそうだったから、あまり人のことは言えないけど。基本的にはそれらを「アンチ・ダンス」と規定するわけ。既存のダンスに対して単に異を唱えるためだけにわざとやった「無味乾燥」な「実験」とか「スノビズム」とか言うのよ。あと、「あれは本来ダンスじゃなくて美術の一種だった」みたいな逃げ方とか。で、とにかく自業自得の袋小路に陥って雲散霧消して、その後ようやく正しいダンスの歴史が再開されコンテンポラリーダンスが花開きました、めでたし、ってか。
S:そう言えば、カニンガムだってそうだね。「巨匠」とか言われて、ダンサーたちもカニンガム・テクニックとか一応習ったりはしてるんだろうけど、今のダンス界で彼の影響なんてどこにもないよね。それこそフォーサイスくらいでしょう。ラウシェンバーグ的なものはどうなんだろう?
K:すごくイヤーなんだけどさ、アブグレイブ刑務所の虐待写真の「人間ピラミッド」。たまたまラウシェンバーグをめぐって岡崎乾二郎さんと対談(※9)する機会があって、その時話題に上ったんだけどね。
S:うわっ、たしかに。つまり、かつては嬉々として自らやっていたところの「バカ」を、「辱め」として他者に強いている、それって、どういうことなんだろう。
K:岡崎さんが言うには、あれは、どうしようもない心理学者かなんかが拷問のプログラム作成に関わっていて、囚人の人格を崩壊させるためにやらせたという説があって、ところが、囚人に目隠しをしているけど、それはアメリカ兵がイラク人から見つめられないようにするためで、アメリカ兵のほうが逆に、自らの恥ずべき行為によって人格が崩壊するのを恐れていたからだ、と。つまり、ラウシェンバーグのパフォーマンスにおいては、かつてアメリカ人も、統一された人格、主体なんていうものはいらないんだ、そんなものを仮構するから争いがなくならないんだ、だから俺はバカになる、っていうことだったのが、今や戦時体制下のアメリカ人は主体の統一の崩壊を恐れ、ブッシュを支持せざるを得ない、ということだね。困ったことだ。この号が出るころにはもう大統領選は終わっているはずだけど、ブッシュが落ちてることを祈るしかないね。
S:あー、やっぱりそこに行くわけね、マチョ批判に。ところで、前回の「宿題」はどうなった? マチョ批判に随伴して「ダンス」と「エロス」の結びつきをも断ち切るというのは、どうなんだ?っていう問題。
K:いやー、それなんですけどね、いまだに答えが出ないんだけど。でも「非エロス」的身体としてダンスを措定する、っていうのはやはりジャドスン・チャーチが最初にやったことなんだな。身体の輝かしさを誇示する、つまりはセックス・アピールする行為としてのダンスをやめたのは。もちろん、セックスを否定するわけじゃないのよ、それを商品として売らない、人に見せびらかすより自分で楽しむ、と。
S:それ、なんとなく分かるんだけど、ダンスに戻して言い直してくれないかな。
K:ダンスはそもそも見せるものである前に自分で踊って楽しむものだったハズでしょ。その踊る快楽を、見る側も踊るほうも、そこに居合わせた全員で共有しよう、そういう意識があったんじゃないかな。ジャドソニアンたちのワークには、当時の「ロック・ダンス」(ツイスト〜ゴーゴー)からの影響も事実あったわけで。あのさ、ゴーゴーでもツイストでも反復運動でしょ。つまり、「ミニマル・ダンス」って、アートとしてこっそりとゴーゴー踊る的な発想もあったんじゃないかな。
で、日本のコンポラ状況に話を進めると、最近の黒田育世の快進撃っていうのが、かなり示唆的だったりすると思うんだよ。これまで、黒田については「隠微なエロス」とか「フェティッシュな肌触り」とかダンス批評家=オヤジに書かれちゃうような、どうしてもセクシャリティの表現として受容される(つまりは性的対象として評価されるという)側面があったと言わざるを得ないんだけど、ここに来て完全にそういった誤解は払拭されたんじゃないかな。要するに「コドモ」ってことなんだよ、あれは。例えば、唾液を口の中で溜めてから、ツーっと糸引くように垂らすとか、自分のパンツの中に手突っ込んだり懐中電灯入れてつけたり消したりするとか、そういうのもすべて生理的だけどまったく性的なものはないってこと。もちろんリビドーがないわけじゃないけど、それは「口唇期的」なものだということ。「エログロ」じゃなくって「えんがちょ」なんだよ。
S:でも、3月の『花は流れて、時間は止まる』(※10)の時はまだ、そのあたりの見え方がビミョーだった。なんか『紅い花』(つげ義春)とか連想させるシーンあったよね。つまりそれだと見え方として「コドモ」というよりは「少女」っていう感じで、そうするとやっぱり「エロス」が付随するよね。ロリとか呼び込んじゃうし。
K:たしかにそうだった。思うに、ここ数ヶ月の間に、近藤良平とデュオ(※11)やったり、吾妻橋ダンスクロッシング(※12)で身体表現サークルに飛び入り参加して、男3匹のフンドシを手綱みたいに引っ張ったりとか、そんなことしてるうちに何か変わってきたんだよ。やってることは変わらないんだけど、心身の状態が、明るい、突き抜けたものになっている。
S:近藤良平とやったデュオは痛快だったね。まさにタイトル通り、僕の恋人は「暇さえあれば体当たり」。そんな男女の情景が綴られるんだけど、近藤クンめがけて体当たり、後ろからしつこく頭突きをかます。で、いきなり頭で板を割る!するとなぜか口から血がダラーリ。横で呆気にとられてる近藤クンめがけて口の中の血を吹きかける。何なんだぁー、このアマは一体!? って感じでさ。
K:黒田は「自作とは真逆の方向」と言っているけど、じつは「黒田育世的なるもの」がぐるっと反転しただけなのかもしれない(こっちがポジでいつもがネガ?)。これまでの黒田作品でも、延々と頭を叩かれたり、自分の肌をパチパチ叩いたりしてたわけで、それを「マジ」に提示するから、見てるほうは「痛い!」(→でも、よーく分かる/怖過ぎて正視できないよー)って反応になる。 「行為」じたいは同じで見え方が違うだけ。例えていうなら「レザボア・ドッグ」と「キル・ビル」の違い、というか。
S:じゃあ、単に我々の見方が変わっただけなのかな?
K:両方だと思うな。8月の『SHOKU 』完全版(※13)のなかで、パンプスを床にガンガン叩き付けるのとか前からあったシーンだよね。あれ、前は「ヒステリー」的なもの(に見えた)だったけど、今や明らかに「嬉々として」やってるもの。コドモはああいう遊び、発見したら最後、飽きるまで止めないよね。で、そうとなると見てるほうもコドモになって「もっとやれ、もっとやれー!」ってなるでしょ。
S:前見たときはあんなに怖いシーンだったのにね。
K:そうか、わかった、黒田育世は「梅図かずお」なんだ。よく言われるとおり『おろち』とかの恐怖まんがと『まことちゃん』とは表裏一体だから。ていうか、育世ちゃん、まことちゃんに似てなくない?
S:ギャハハハ、似てるのらー(笑)。
K:で、ここで僕ちゃんたちも「ギャース、ギャース」って言いながらスリッパ叩く、とかする?



(2004年10月)


※この原稿は京都造形大・舞台芸術センター発行『舞台芸術』誌第7号 に掲載されたものを加筆・修正したものです。

copyright (C) by Keisuke Sakurai

「前回までのあらすじ」
『舞台芸術』4、5、6号もしくは下記ページに掲載の本文をお読みください。
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomobody.html
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomonokuni.html
http://www.t3.rim.or.jp/~sakurah/kodomonokuni02.html
※1 チェルフィッチュ
作・演出の岡田利規のソロ・ユニット。2004年ガーディアンガーデン演劇フェスティヴァル出場。『3月の5日間』にて第47回岸田国士戯曲賞受賞。その他の作品に『マンション』『労苦の終わり』など。
http://chelfitsch.exblog.jp/

内野儀『松尾スズキからチェルフィッチュへ──<9.11>以後の演劇の言葉』(現代詩手帳2004年4月号)
3『クーラー』
2004年 We Love Dance フェスティヴァル委嘱作品
振付:岡田利規/出演:山崎ルキノ/山縣太一 
2004年8月 京都アートコンプレックス1928および新宿パークタワーホールにて初演。
2005年7月トヨタコレオグラフィーアワード本選会「Nexstage」にて上演予定。
4「砂連尾理+寺田みさこ」
2002年3月「第一回TORII AWARD」大賞受賞。2002年第一回トヨタ・コレオグラフィーアワードにてグランプリ「明日を担う振付家賞」および「オーディエンス賞」受賞。作品に『明日はきっと晴れるでしょ』『ユラフ』『男時・女時』など。
http://www4.airnet.ne.jp/jaremisa/
5ほうほう堂(新舗美佳・福留麻里)
03年・04年「ソロ×デュオコンペティション」、04年「トヨタ・コレオグラフィーアワード」にノミネート。02年STスポット「ラボ20」#13にてラボ・アワード受賞、東京コンペ(2004.9.20@丸ビルホール)ダンスバザール大賞にてケラリーノ・サンドロヴィッチ賞受賞。
貫成人「舞踊の場所 9 」(『Plan B 通信』2004年10月号)
7「るる ざざ」
04年10月 STスポット「ラボ・セレクション2004」にて初演。
「ゲンブ」=「社団法人 現代舞踊協会」。「ゲンブ系の」という形容はしばしば「ほとんど化石化した、未だにやっていることが信じられないような古いスタイルの」という意味を含意して用いられる。もちろん、協会所属のすべてのカンパニー、ダンサーがそうだというわけではない。ある意味「家元制的」なシステムで全国に根を張る協会系団体の「流派」は、大別すると戦前からのドイツ(ノイエ・タンツ)系と戦後に広まったアメリカ(マーサ・グラハム)系がある。もちろん、60年代以降のテクニック(リリース、コンタクト・インプロヴィセーション、ジャズ・ダンス、ヒップホップ等)を折衷的・表層的に用いたりもするが、基本的には、歴史的様式であるに過ぎない「モダン・ダンス」を今日的(コンテンポラリー!)表現として疑わない傾向が強い。
9 2004年5月15日 GALLERY OBJECTIVE CORRELATIVE(近畿大学国際人文科学研究所・四谷アートステュディウム)にて。
10 黒田育世+BATIK『花は流れて時は止まる』
2004年3月新宿パークタワーホールにて上演。
※11 『私の恋人〜暇さえあれば体当たり』(原案・黒田育世/振付・近藤良平)04年6月 神楽坂セッションハウス
※12 『吾妻橋ダンスクロッシング〜ザッツ・コンポラダンス・ショー!』(企画・構成:桜井圭介&紫牟田伸子/出演:APE、風間るり子、KATHY、身体表現サークル、たかぎまゆ、ニブロール、ボクデス、康本雅子)浅草アサヒスクエアAにて開催。
※13 黒田育世+BATIK『SHOKU full version』04年8月世田谷シアタートラムにて上演。
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